212/無二の剣王/2
瞬間、無二は構えを変えた。
剣先をこちらに向ける中段の構えから、右脇近くまで両手を引き、剣先を天に突きつけるような形へと。
それは、アルストロメリアの騎士と兵士が使う剣術――リディアの剣の構えだ。
ぞくり、とアレックスの背筋が凍える。
それがただの猿真似であれば怒り、そして呆れるだろう。自分たちを愚弄するつもりか、と。そのような不格好な構えでどうするつもりだ、と。
だが――無二の剣王のそれは完璧過ぎた。
先程まで別の構えをしていたとは、別の剣術を使っていたとは思えない。昔からずっとこの剣術を学んでいたと言われた方がよっぽどしっくりと来る。それほどまでの完成度だ。
「観察して理解できたよ。リディアの剣――この剣技は、言わば蓋だね」
言って、彼は構えを崩した。
先程までの完璧な構えとは違う、だらりと弛緩した姿。一見、隙だらけにも見えるが、否、否、否。
あれは全身の力は抜けているものの、しかし全身を掌握している。力こそ入れていないものの、次の瞬間にも全力で疾走しこちらに斬りかかれる体勢だ。
「凡人でも分かりやすいように理論を噛み砕き、誰もが使える剣術として組み立て、そして個々人が自分の体に合わせて改良できる遊びもある。いい剣術だ、中々に完成されている」
だが、決してそれが本質ではないのだと。
そう言って彼はゆらり、ゆらり、と幽鬼めいた足取りでアレックスたちに歩み寄り――
「この剣術の本質は、もっとワガママなモノみたいだ」
――瞬間、獣と化した。
上体を不自然なほど前方に傾いだ姿で、四足歩行の獣の如く疾走する。
こちらを食い殺そうと疾走し、牙を、爪を振るっているような姿。粗野であり粗暴で、とてもではないが剣術には――技術には見えない。
だというのに――なぜだろう、その動きはどこかリディアの剣に似ていた。
「ふは――ははっ!」
無二は切っ先をアレックスに向けて更に加速した。
それは刺突の動作だ。一気に間合いを詰め、胸に剣を突き立てる技。
真正面から疾走し剣を突き立てようとする荒々しい動きは、どこか雷華に似ていた。だが、それよりも獰猛で激しく、攻撃的だ。剣術の完成度という意味では激しく劣化しているが――
「ぐっ……!?」
――非常に対処し難い。
荒々しく心臓を抉ろうとする刺突を、必死に受け流し反撃の機会を伺う。雷光の速度で駆け抜ける無二は、そのまま横を通り過ぎていく。
隙がないワケでは断じて無い。むしろ隙は多量に増えていて、そこを突ければ簡単に攻略出来るだろう。
だが、その隙に刃が届かない。相手とこちらの立ち位置が、そして攻撃を回避、防御した際に移動する場所が、尽く無二の隙を突ける場所に存在していないのだ。
(なんだこれは、本能のままに暴れ回る獣か何かか!?)
突如として行われた戦闘スタイルの変更――だが、アレックスは必死にそれに喰らいついていこうとしていた。
なるほど、確かに今の無二は先程よりも素早く攻撃的だ。けれど、あんな動きで防御が疎かにならないワケがない。隙は必ず出来るはずだ。
そう信じ、反転。通り過ぎた無二の背中を斬りつけようと剣を向け――
「ははははははッ!」
――瞬間、前方の地面が爆ぜ砕けた。襲い来る石畳の破片に全身を殴打され、アレックスは苦悶の声を漏らした。
あれは石華――いいや、それと似ているが全くの別物だ。
なぜなら、今のは地面を砕く衝撃波が強すぎる。あんな使い方をすれば、使用者も衝撃波に巻き込まれてしまうだろう。
一瞬、使い慣れない技を使ったせいで自滅したのか? と思ったが、その思考をすぐに捨て去る。
そんな希望的観測をして倒せる相手ではないだろう、と。
「アレックス、上だよ!」
そう思い直したからこそ、マリアンの叫びに対して瞬時に反応することが出来た。
上を向くと、砕けた地面を蹴って高速落下する無二がこちらに切っ先を向けているのが見えた。衝撃波に乗って上方に移動していたのだ。
アレックスは視認と同時に剣を振るう。掬い上げるような斬撃を以て迎え撃つ。
「ははっ!」
瞬間、無二の刀が鞭のようにしなった。そのように錯覚した。
細やかな手首の動きで螺旋を描くように放たれた刺突は、迎撃のために振るわれたアレックスの剣をすり抜ける動きで左胸へと――心臓へとひた走る。
もはや回避も防御も不可能。ダメージは不可避。
けれど、アレックスは上体を僅かに捻った。勢いの乗った刺突は鎧を引き裂き、胸部を抉り、肋骨を削っていく。
痛みはある、だが内臓には至っていない。必殺の刺突は滑るように左脇へと逸れていく。
「これ……でっ!」
その刀を、力任せに脇と腕で固定した。高速落下していた無二の動きが、強引に停止させられる。
今だ、とは言わなかった。言わずともこの隙を見逃すはずがないだろうと確信していたから。
ブライアンは既に剣を振りかぶり、マリアンはメイスを構えながら無二の側面に回り込んでいる。ファルコンは再装填したらしい鉄咆を構え、二人の攻撃が失敗した時のために備えていた。
「……見事」
それに対し、無二は感嘆の声と共に心からの笑みを浮かべた。
獣じみた凶相ではなく、嬉しそうな、楽しそうな笑みであり、だからこそ奇妙な笑いだ。
「ならば、おれもその全力に報いよう――!」
言って、無二は刀から手を離した。
それに対し怪訝に思うことはない。アレックスが拘束しているのは武器だけだ、ならば攻撃を凌ぐためには手を離し自由の身になるべきだ、そう考えても何もおかしいことではないだろう。
(だが、判断を誤ったな)
転移者の剣術スキルは武器を装備していなければ発動しない。
それに、仮に無二が有する無二の規格外が武器がなくとも剣士としての体捌きを使えるモノであったとしても、武器がなければ反撃が出来ない。遠からず追い詰められる。
ゆえに、彼が取りうる手段は三つ。
――考えなしに回避を続けそのままアレックスたちに倒される。
こちらとしては一番これが楽だが、さすがにそこまで考えなしの相手えはないだろう。
――転移者の身体能力に任せて逃走する。
武器を失った以上、勝利は遠のいた。ならば、撤退し体制を立て直す。
常識的な思考ではあるが、こちらにはファルコンが居る。鉄咆や火吹き蜥蜴の粘液を用いれば逃走を数秒妨げることが出来るだろう。
ならば、その隙をブライアンやマリアンが逃すはずもない。
――そして最後、アレックスの剣を奪う。
武器を失った以上、代用品が必要不可欠だ。そしてそれは、己の武器を拘束する眼の前の男が握っている。
それを奪って反撃を行えば、この窮地を乗り切ることが出来る――そう考えても不思議ではない。
だからこそ、剣を握る右手には普段以上に力が込められている。
相手は転移者だ。力比べとなればアレックスの敗北は必定ではあるものの、数秒でも持ちこたえればブライアンの斬撃が無二を切り裂くだろう。
――ゆえに、どれを選ばれてもこちらの勝利は揺るがない。
そして、無二が選んだのは三番目の選択肢であった。
アレックスの右手に向けて手を伸ばす姿を見て、勝った、と確信する。
この男さえ倒せば、連合軍の勝利は揺るぎないモノとなるだろう――そう考えた矢先、ふとした違和感に襲われた。
(狙いが――ズレている?)
右手を伸ばす無二の目標が、アレックスの剣では、掌ではないのだ。
視線の威圧感を感じるのは前腕付近。そこに向けて、無二は右手を鋭く立たせ――
「シッ――!」
――篭手の隙間に、指をねじ込んだ。抜手だ。
防刃のインナー装備の上から勢いよく突き立てられた抜手は、アレックスの腕の骨を切り裂くように叩き割った。
「が……!?」
激しい痛みに苦悶の声が漏れるが、しかし右手の力を緩めることだけはしない。
アレックスの剣を真っ直ぐ見つめる無二を前に、そのような真似が出来るはずもない。
剣に伸びる右手を最大限に警戒し――
「それじゃあ、返してもらうね」
――しかし無二は左手で、脇に固定していた刀を引き抜いた。
「しま――」
右腕をへし折ったのも、視線と右手をアレックスの剣を奪うように動かいていたのも、全てフェイク。
無二はただ、ほんの少しだけ左脇の力を抜いて貰えるだけで良かったのだ。自身の目的が剣を奪うことであり、そのために右腕を叩き折ったと思わせれば――どうしても左側が疎かになる。
「それがどうしたぁ――!」
だが、既にブライアンの斬撃は無二へと迫っていた。
後手で強引に刀を引き抜いたその体勢では、とてもではないがそれに対処は出来まい。
「ふ――!」
それに対し、無二は右拳を振るった。
如何に転移者であろうとも、技量のある剣士が振るう最高速の剣を手で受け止めることは不可能。苦し紛れか、そう思ったがすぐに否定する。
このタイミングでそのような真似をする程度の人間であれば、とっくの昔に勝負をついていた。
アレックスの思考を肯定するように、ギイン、という金属音が鳴り響きブライアンの剣が逸れた。
否、自身に迫る剣の腹を殴り飛ばし、強引に軌道を捻じ曲げたのだ。
轟音と共に地面を抉るブライアンの剣を見もせず、無二は左手を引き戻しながら側面に向けて斬撃を放つ。澄んだ金属音と共にマリアンが振り下ろしかけていたメイスが断ち切られた。切り落とされた鈍器が地面を叩くよりも早く、鉄咆が竜の咆哮めいた轟音と共に火を吹いた。迫る鉄杭に対し、刀を振り抜いた勢いのまま体を回転し柄頭を叩き込む。弾き飛ばされた鉄杭はあらぬ方向へと吹き飛んでいく。
――シン、と。
音が途絶えた。
今すぐにでも行動を起こさねばならぬというのに、そんな常識的な思考が思い浮かばぬほどの衝撃であった。
頭の中に浮かぶのは陳腐な言葉だけ。
――なんだ、あれは。
――なんだ、この男は。
獣が荒れ狂うような動きと練達の剣士の動き、それらが融合していた。
振るわれる剣も無茶苦茶な動きだというのに全てが技として成立している。
全ての動作が一撃必殺の攻撃であり、全ての動作が相手に攻撃を許さぬ防御。振るう剣の鋭さは凄まじく、一つ一つが一流派の奥義に匹敵し――しかしそれを使い捨てながらこちらに迫ってくる。
「――リックの、剣」
ぽつり、とアレックスが呟く。
そのような噂が、言い伝えがあった。
リディアの剣を極めた者が、いずれ行き着く最強剣士の剣術。リディアの剣はあくまでそこに至るまでの道筋に過ぎないのだと。
しょせん、噂である。
勇者リディアは英雄リックの動きを素人なりに模倣し、凡人でも扱える『剣技』を生み出した。だが、魔王大戦終結後から改良され続けてきたリディアの剣は、かつてのそれとはまるで別物だ。共通する部分はあるのかもしれないが、リディアの剣を学んでリックの動きを解析するなど不可能だろう。
「そうだね。リディアの剣で動きを馴染ませて、そこからは積み上げた技を全て捨てて本能のままに剣を振るう――なるほど、これが剣奴リックの戦い方か。残念だけど、おれには合わないな」
これは狂戦士の戦い方だ、と。
だが、目の前の男は淡々と、それが出来て当然だと言うように語る。
「さて、それで――どうする?」
呆然と無二を見つめるアレックスたちに対し、問いかける。
「逃げるなら、追わないよ?」
――それは、なんて酷い侮辱か。
殺す価値を認めていないと、貴様らなどそこで生き恥を晒すのがお似合いだとでも言いたいのか。
己の内から溢れ出る激情を叩きつけようと、アレックスは無二を睨み――
(――? なんだ……?)
――違う、と思った。
この男はそのような意図で喋っていないのだと。
奇妙なことなのだが――恋物語の登場人物を連想した。
それは想い人を人気のない場所に呼び寄せ、告白したその瞬間のように。己の望む答えが帰ってくるか否かを心臓の高鳴りと共に待っている、そんな珍妙な喩えが思い浮かぶ。
なぜそんな風に思ったのかは分からない。自分の頭の中で浮かんだ連想だというのに、どうしても答えと結びつかない。
だが、それでも一つだけ、理解出来ることがある。
――この男は、見逃すと言ったらきっと見逃すだろう、と。
先程の少女たちのように、興味を抱いた相手を本気にさせるため殺すことはするだろう。
だが、今この瞬間――アレックスが悲鳴を上げながら背を向け走り出しても、こちらを殺す可能性は低いと感じた。
なぜなら無二の剣王という男は、出会ってから本音でしか喋っていないように見えるから。
少女たちを脱出させて欲しいという言葉も。
その後、アレックスたちと戦うために少女たちを殺そうとした行動も。
戦いの最中の笑い声も、楽しいという言葉も。
全て全て、嘘偽りのない真実であると感じた。
ならば、逃げるのならば追わない、という言葉もまた真実なのだろうと思う。
ここに居るのがアレックスたちだけなら逃走を選択しても良かった。悪漢に背を向けることは誇りを傷つけるが、だからといって自分とその仲間の命を無駄に散らすワケにはいかない。
認めよう――無二の剣王は強い。仮に腕が万全な状態であったとしても、この人数では倒せない。ならば、逃走という選択肢は決して悪いモノではないのだ。
けれど、ここに居るのは。
レゾン・デイトルで戦っているのは、決してアレックスたちだけではないのだ。
(……この男をそのままにしておくワケにはいかない)
街門付近からは未だに戦闘の音が響いている。微かに心地よい歌声が聞こえてくるが、あれが崩落の歌なのだろうか。
どちらにせよ、この男を援軍としてあちらに向かわせるワケにはいかない。
――そんなことになれば、全滅する可能性がある。
戦って理解した。この男に勝利するには、圧倒的な力が必要だ。圧倒的な技量でなにもさせずに倒すか、もしくは圧倒的な物量で強引に押し切るか。
どちらを選ぶにしろ、今は駄目だ。
魔法を封じるという崩落の能力、それが健在な内に無二が参戦すれば、前衛が総崩れになる。無二の剣王という転移者は、他の転移者を警戒しながら戦える相手ではない。
ゆえに、ここで持ち堪える必要がある。
最低でも、崩落が無力化されるその時まで。
「……命令だ。皆、速やかに団長たちと合流しろ」
剣を左手に持ち替えながら、無二を睨めつける。
「馬鹿野郎、何を――」
「このままでは全滅だ。しかし、足止めする役は必要だろう」
防御という面ではブライアンも選択肢に上がるが――彼は騎士ではない。実力ならば近しいのだが、入団試験に落ちてばかりなので身分は兵士のままだ。
ならば、ここで前に出るべきは自分だろう。
守るべき者を置いて騎士が逃げるなど、あってはならない。
「マリアン、私の治癒は良い。他の皆のために温存しておいてくれ」
「アレック――……ッ!」
名を叫びかけたマリアンが背を向け走り出した。それに続いてファルコンが、悪態を吐きながらブライアンが続いていく。
ありがたい、心からそう思う。
これで無二の情報を伝えられる、戦力を温存出来る、友が――想い人が生き延びてくれる。
この死地において、これほど嬉しいことはない。
「……いいのかい? 利き腕は叩き折った、勝算なんてないってことは自分自身よく理解しているはずだろう」
「無論だ。貴様は強い、私がどれだけ食らいつこうとも時間稼ぎが精々だろうさ」
だが、と。
切っ先を突きつけながら叫ぶ。
「右腕が使えない程度でアルストロメリアの騎士が背を向けるモノか! 来るがいい、外道! この命尽きるまで、私は剣を振るい続けるぞ!」
騎士とは戦うための存在であり、民を守るための存在なのだから。
この状況下で生命を賭けられないのならば、騎士など辞した方が良い。
「分かった――騎士アレックス、貴方の覚悟に敬意を払おう」
その言葉と共に、無二の体から恐るべき重圧が放たれる。
それは極限まで研ぎ澄まされた殺意だ。自分の前に立ちふさがるのであれば全力で剣を振るうのみ、そんな想いが込められた刃の如き感情だ。
「それは光栄だ」
軽口を言いながら相手の動きを必死に読み取ろうと集中する。
勝利は捨てた。ならば、後は全力で時間を稼ぐのみ。
腕が斬り飛ばされようとも、脚が切り落とされようとも、腹を裂かれ内蔵をばら撒くことになろうとも――連翹たちが崩落を無力化し、マリアンたちが情報を伝えるまでの間だけ足止めできれば良い。そうすれば自分が死のうとも次に繋がる。
ゆえに、今日この瞬間に死すことに後悔は――いいや、一つだけ。
(――ああ、答えを聞きそびれてしまったな)
この戦いが終わったら、マリアンに返答してもらう約束だったというのに。
連翹が死亡フラグだのなんだのと騒いでいたのを思い出す。あの時は何を言っているのかと思っていたが――まさかその通りになるとは思わなかった。
だが、仕方あるまいと割り切る。
やりたいこと、成すべきこと、数多に存在するそれら全てを達成して死ねる人間などそう多くはあるまい。誰しも、何かしらを取りこぼして生き、そして死んでいく。
アレックス・イキシアという騎士もまた、そのように死ぬるというだけだ。
(それに、調子に乗ったガキがゴブリンに嬲り殺される――そんな結末よりはよほど恵まれている)
ならば、これ以上を求めるのは欲張りというモノだ。
じりっ、と微かに前に出る。
それに対し、無二は反応しない。最期の一撃くらいは放たせてやる、ということなのだろう。
上から目線の侮辱にも思えるその態度だが、しかしアレックスが感じたのは真逆のソレだ。
――敬意を証した相手だからこそ、その一撃を瞳に焼き付けたい、戦いぶりを味わい尽くしたい。その結果、思いがけぬ足掻きで自分が敗北したとしても。
なんとも我儘な男だ思う。
思うが――一剣士としてそれ程までに評価されるというのは、悪い気はしない。
「さあ――行くぞ、無二の剣王!」
「ああ――魅せてくれ、騎士アレックス!」
猛りながら踏み込み――
「――――悪いが、私は戦士ではないのでな。守るべき誇りなど既に亡い以上、勝算の高い手段を選ばせて貰う」
――聞きなれぬ声と共に、無二の前後左右に半透明の光壁が生みだされた。
それは、防壁の奇跡だ。敵の攻撃から身を守るために使うそれで周囲を囲った次の瞬間、燃え盛る炎が無二へ向けて放たれた。
転移者のスキルではない、現地人の魔法だ。
蛇のようにうねった炎は、蛇が壺に入るような動きで防壁内部――無二が居る場所に注ぎ込まれ、轟! と火柱を上げ内部空間を焼き尽くす。
「魔法の直撃なら転移者でも倒せるはずよね」
「――いや、直撃する前に防壁を切り裂いて脱出したようだ。あれは大型のモンスターの突進とて止められるはずなんだがな」
「ま、当然かしら。あれで終わるなら他の転移者が下克上してるはずだからね」
聞き慣れた女の声と、聞きなれぬ男の声であった。
その聞き慣れた声の主は赤いポニーテイルを揺らしながらこちらに駆け寄って来る。
「キャロル――か」
「うん、遅くなってごめん。それより、早く逃げるわよ」
「いや、私のことは構わん。それより、屋敷に残った使用人たちの護衛に戻れ」
先程キャロルと知らない男が言っていた通り、あの程度で終わるような相手であれば転移者の王として君臨し続けられるはずもない。
そして、無二は必要とあれば非戦闘員であろうと容赦なく皆殺しにする男だ。仮にアレックスが逃げ出そうとすれば、屋敷に避難している現地人を人質にすることだろう。
そうでなくても現在、レゾン・デイトルは戦闘で混乱している。火事場泥棒となった末端の転移者が屋敷を襲う可能性も高い。
「屋敷は結界の奇跡と防壁の奇跡で守っている。火事場泥棒の転移者が屋敷を攻撃しようとも、中に侵入することなど不可能だ」
かつん、という足音がアレックスの背後から響いた。
その男はどこか浮世離れした雰囲気を持っていた。
引き締まった細い体躯を覆う白い法衣は白い肌の一部のように調和しているが、唯一毒々しい程に濃い紫の長髪だけが彼の完全な調和を崩していた。
そして、右手には斧槍が一柄。スラリと細い見た目でありながらも研ぎ澄まされた見た目のそれの石突を、打ち鳴らすように地面に叩きつける。
「待っていたぞ、襲撃の時を、転移者とあの屑共全員が屋敷から出るその瞬間を。無論、時間があったからこそ準備も出来た。待つのも良し悪しではあるな」
皮肉げに笑う彼の胸には銀に輝く十字聖印――神官だ。
彼は油断なく炎を睨みながら、小さく呟いた。
「ゲイリーの部下か。貴様の奮戦、領主として感謝しよう」
「領主――ナルシスの領主、クレイスか!」
騎士団長ゲイリーの友でありながら、救出活動中に屋敷の自室に籠もっていた男。
あのゲイリーの友人だ、恐れて引きこもっているワケではないと思っていたが――領民を守るために動いていたということか。
「エルフの男と協力し、屋敷外の人間も可能な限り集めた。全てを救えないことは痛恨の極みだが、しかしこの街は無軌道に建てられた家屋も多い。戦場の近くで無ければ、隠れて生き延びられると願おう」
「……すまない、感謝する」
民を守るのは騎士の役目である。
だからこそ、己と民の命を救って貰ったことに感謝と慚愧の念を抱くのだ。
「感謝する必要はないな。なにせ、小娘を襲うと画策する屑共を『都合が良い』と見逃したような男だ」
その言葉にハッ、とする。
連翹から伝え聞いた話では、クレイスもまた賢人円卓の一員として活動していたらしい。
ならば、勘づいていたはず。
クレイスは他の者たちのように違法奴隷に性的行為を行っていなかったから誘われなかったのかもしれないが、それでも同僚が何をしようとしていたのかは気づけたはずなのだ。
つまり彼は――賢人円卓の面々が何をしようとしていたのか、その結果ノーラがどうなるのか、それを理解した上で放置した。
「実際、好都合ではあったのだ。奴らが屋敷から消えたからこそ作業を進めることが出来たからな。唯一の懸念は無二の剣王の隠形だったが――戦闘音で外に居ると確信が持てた」
ゆえに多くの領民を救えたよ、と。
その言葉に複雑な想いを抱く。
彼の行動は完全な善性とは言い難いものの、決して悪とは言えないモノ。少女を見捨てたことに関しては騎士として言いたいことはあるが、その結果多くの無辜の民を保護出来たのならば釣り合いは取れている。いいや、それどころかプラスだろう。
「……団長の友とは思えん言い草だな」
だからだろう、口からこぼれたのは皮肉げな言葉。
肯定も否定も出来ず、しかし胸に溜まった不満を吐露する子供じみた物言いであった。
「だろう? 実際、よく口と手で争ったよ」
それに対し、クレイスは口元を釣り上げた。
「奴とは友だったが、奴は私の考えが気に食わないらしくてな――騎士になって私などよりずっと多くの人を救ってみせると女王都へ旅立ったのが昨日のことのようだ」
まさか、本当に騎士になれるとは思っていなかったがな、と。
昔懐かしむように言った彼は、ハルバードを一回転させた後、槍先を燃え盛る炎に向けた。
「それよりも――黙り込んでどうした、無二よ。貴様なら炎に紛れて不意を打つくらい出来るだろうに」
「まさか――」
刹那。
炎が、煙が、一刀の元に両断された。
散り散りになって掻き消えて行く焔の向こう側で、無傷の無二は心外だとばかりに首を左右に振った。
「――そんな勿体無いこと、出来るはずがないよ」
その姿を見て、キャロルが顔を歪めた。
大したダメージが通っていないことは予測していたのだろう。だが、目の前の彼には僅かな火傷どころか着流しに掠った形跡する見受けられない。微かに付着した灰だけが、彼が炎の近くに居たことを証明している。
その姿を見て、真逆だな、とアレックスは思った。
転移者は規格外の力によって常識はずれの防御を有している。それこそ、生半可な刃ではダメージにすらならない程に。
だからこそ、多くの転移者は防御が疎かになっているのだ。王冠のような例外も居るものの、その例外たちも特別回避に秀でているワケではない。あくまでダメージや痛みを嫌っているだけだ。
それらと比べ、彼の回避能力は規格外だ。転移者の言い方は真似るのであれば、その回避能力こそ規格外と言えるだろう。
だが、そんな彼の姿など見慣れているのだろう。クレイスはさして驚いた様子もなくハルバードを構え、高らかに声を張り上げる。
「そうか――では、無二の剣王! 今こそ命を賭した戦いを行うではないか! まさか断りはしないだろう!?」
瞬間――目に見えぬ炎が燃え上がるのを感じた。
消失していく焔に照らされながら、無二は歯列を見せつけるように笑った。ギラリ、と研ぎ澄まされた白刃の如く歯が輝く。
「……ああ、もちろんだとも。神官はあまり好みじゃないが――その言葉を断れるはずがない!」
その言葉と共に、クレイスを除いた皆が総毛立った。
最初に見せつけられた殺気――それよりもずっと濃密で、そして鋭い。鍛え抜かれた刀刃めいたそれによって精神は大きく切り裂かれる。傷から溢れ出るのは恐怖の感情だ。刀傷から血が溢れ出すように、どくどくと己の心の中に溢れ、満ちていく。
(――何を情けないことを!)
だが、その傷を強引に焼いて埋めるように――アレックスは激情を糧に立ち上がった。
自分はまだ戦える、勝てずとも時間稼ぎならいくらでもしてみせよう。
「話を聞いていたのか、奴の相手はこの私だ。貴様ら騎士どもは早くゲイリーたちと合流するといい」
だというのに、愚者を見るような眼でクレイスはアレックスの覚悟に水を差した。
「何を言っている! この窮地に騎士が逃げるなど――」
「単純な理屈だ。この化物に少数で挑むなど無駄に命を散らすだけであり、勝つためには一刀で殺されない戦士が多数必要――アレと戦って生き延びられる戦士を、このような場所で遣い潰せん。実力者と認められる程なら、尚更だ」
複数人の実力者で圧殺しろ、と。
そうでなくてはこの男から勝利をもぎ取ることなど到底不可能である、と。
「なら、貴方はどうなる。その様子なら、最低限打ち合える自身はあるのだろう」
「生憎、内政に専念していてな。体が覚えてくれてはいるが、長時間戦うことは不可能だ。文字通り、時間稼ぎしか出来ん。死ぬ気で戦えば、一矢報いることも出来るかもしれんが可能性は低いだろう。ゆえに、使い潰すのは貴様ではなく私であるべきだ」
数式の答えを述べるかのように淡々と犠牲になるべきは自分だと語る。
その言葉は凍えた理屈のようでありながら、しかし声の端々に灼熱めいた激情が垣間見えた。
自分はこれが正しいと思った、ゆえに全力で実行するまで、と。
その熱を感じ、アレックスは自身の上司を、ゲイリーの姿を連想した。いつも朗らかに笑いながら、しかし
真逆なようでいて、根っこの部分は同じなのだろうと思う。自分が信じた信念を貫き、全うしようとする姿はどちらも同じであったから。
「とっとと行け。それに、だ――手負いの仲間など足手まといなのだよ」
「――では、手負いでなければ良いな」
音もなく、無二の背後へ斬撃が迫った。
声が響いた瞬間には首に迫っていたそれであるが、しかし無二は振り返りもせず腰の鞘を外し、己の首を切り落とさんとしていた木剣――否、霊樹の剣を受け流す。
「お、っと――背後からとは卑怯じゃないかな?」
「合戦に卑怯も正道もあるものか」
「なるほど、おれは好きな考え方ではないけど、それもまた正解か」
短い会話を交わしながら、奇襲を仕掛けた男は白髪を靡かせながら距離を取る。
長身痩躯でありながらも靭やかな筋肉を持ったエルフ――ノエルだ。彼はクレイスと向かい合うように、そして無二を挟撃するような位置で剣を構えた。
「エルフの戦士か――初めて見るな」
現れた援軍に対し、無二は苛立った様子を見せず、むしろ明るく弾んだ声を上げた。
相手を驚異に思っていない、興味のない雑魚だと見下している――そんな様子ではない。
楽しげに笑う無二であるが、全身に油断なく力を込めている。力んでいるワケではないが、仮に今ここで誰かが攻撃を仕掛けても、すぐさま剣を振るって対応出来るだろう。
「この瞬間ここに現れたということは、君も全力で戦ってくれるのかい? 身命を賭し、おれの命を奪いに来てくれるんだね」
「否。生憎と、私は命を賭すことはできん。端的に言って、死にたくないのだ」
その言葉に、無二は怪訝そうに表情を歪めた。
言葉そのものは命乞いをする小物のようでありながら、しかしその眼には決意が満ち溢れていたから。
それは死を恐れているワケではなく、生き残るという決意。死なぬ、死なぬ、死ぬわけにはいかぬという想いが佇まいから伝わってくる。
「この戦いが終わった後にやりたいことが出来たから――というのもあるが、コレはどうやら『死亡ふらぐ』というらしくてな。唆した自分が殺したみたいだから死ぬなと、とある少女に言われてしまっているのだよ」
ゆえに、死んでやるワケにはいかん、と。
大真面目に語ったノエルに対し、無二は「――はっ?」と、間の抜けた表情で固まった。
酷く場違いな単語を聞いたとでも言うような姿を見て、アレックスはほんの少しだけ共感する。連翹が似たようなことを言っていたが、あれはそんな大真面目な顔で言うべきモノではないだろう、と。
「……なんだその顔は。この言葉は貴様らの世界のスラングだろう」
「ああ、うん――でも、貴方みたいなエルフがその単語を言うのは、少しばかり意外というか、似合わないというか、若すぎるというか……」
「年寄りぶるな、と怒られたばかりだからな」
このくらい若作りしても創造神は怒らんだろう、と。
冗談めかした物言いと共に笑う姿は少年のようで、今まで感じていた枯木のような雰囲気とは一線を画するモノであった。
「まあ、いいさ。けれど、おれは手加減なんてしないぞ」
「無論だ――仮にする気だったとしても、私の剣がそうさせんよ」
死ぬ気はない、けれど手を抜く気など欠片もないのだと――そう宣言するように剣を構える。
その姿は生命力に満ちた大樹のようで、生半可な攻撃では切り倒されないだろうという安心感を与えるものであった。
「行くわよ、アレックス」
肩を貸そうかと問いかけるキャロルに対し、首を横に振るう。この程度のダメージで走れなくなるほどヤワな鍛え方をしていない。
だが、それでも足が鈍るのは――ここで二人を置いていくということは、捨て石にするということ、見殺しにするということになるのではないかと思ったから。
――無二の剣王は強い。
実力はもちろんだが、何より今まで積み上げた対転移者の経験が役に立たないことが厄介だ。
そして、こちらの剣術をコピーし、そこから更に自分たちが知らぬ剣術すら引き出すという彼の能力。それが一体どういう仕組なのかもまだ分かっていない。
「死ぬ気はない、足止めをするだけだ――無論、倒せるのなら私が倒してしまうがな」
アレックスの不安を笑い飛ばすように、ノエルが表情を緩めた。
「それに、だ。どうやら私は年寄りではないらしいが――それでも年上ではあるからな。年長者の言葉には従うものだぞ、アレックス・イキシア」
「……すまない、任せた! 行くぞ、キャロル」
「そうね――二人とも、武運を」
「承った」
「無駄口を叩いている暇があるなら、とっとと走れば良いだろう」
アレックスとキャロルが駆け出した瞬間、鋼の音が響き渡った。
断続的に、けれど独特なリズムで打ち鳴らされる剣戟を聞きながら、しかし振り向くことなく駆け抜ける。
任せると言った以上、自分たちがやるべきことを成すだけだ。恐る恐る背後の様子を伺うことでは断じて無い。
(……だが、それでも無事であってくれと願おう)
背後で争うノエルとクレイスはもちろん、街門付近で今も戦っているはずの皆も。




