207/賢人円卓
その数は十。
十人の武装した男たちが、ノーラとアニーは舐めるような眼で見つめている。
「ああ、我々は戦士ではない。そんな薄汚れた存在ではないとも」
「だが、アルストロメリアの貴族として教育を受けている。勇者などと呼ばれた小娘が作った伝統で子供の頃に習った程度のモノであるし、真面目にやったワケでもない――文字通り児戯の技だ」
「けれど、この人数で女を切り刻む程度――余裕だとは思わんかね?」
――寒気がした。
それは外気によって齎されるモノではなく、内側から溢れ出すモノ。背骨が氷結し、そこから体内全てを凍てつかせるような冷たさだ。だというのに、心臓は熱く脈動し続けている。
恐怖、困惑、驚愕、狼狽――背筋を凍らせる原因となる感情と共に、ノーラはようやく理解した。
どうやら自分は、致命的に失態を犯していたらしいということを。
「雑音の器の小ささを呪うのだな。あの小僧の言葉が無ければ、醜女の使用人の顔や声など一々確認してはいなかった」
賢人円卓の面々は慌てない、焦らない。ただただ口元を緩め、獲物を前に舌なめずりをする。
そのような真似は三流が行うことだ、とどこかで聞いたような気がするが――しかし、ノーラ・ホワイトスターという女は、戦闘者という意味では三流以下の劣等だ。
ならば、三流の行動をしても問題ない。彼らのそれは油断ではなく余裕なのだ。
たかだか見習い神官如き、刃物を持った男たちで囲めば容易に抑え込めるのだと。
「ああ、そこのメイドも動くなよ? 君はそこの娘よりは動けるようだが――君が二、三人を制圧している間にこの娘の柔肌を切り裂くくらいは出来るのだからな」
「……」
アニーは無言で表情を歪めながら、しかし賢人円卓の面々の動きを注視し続けている。
握りしめた右手と、下半身の安定した立ち姿が、ニールや騎士たちが剣を構えている姿と重なった。
それは戦闘者としての立ち居振る舞い。恐らく、護身術か何かの心得があるのだろう。転移者に勝てる程ではなくとも、足手まといさえ居なければ現状を打破出来る程度のモノが。
そしてこの現状において、ノーラは足手まとい以外の何物でもなかった。
「いや、しかし――裏切ってくれたことに感謝しなくてはいけませんな」
ひゅん、ひゅん、と鞭を素振りながら賢人円卓の一人が嗤う。
視線の先にあるのはノーラ――否、違う。
服の下に存在する胸、腰、尻、脚、他にも唇や頬など女性的な部分をじろりじろりと心理的な陵辱をするように見つめ続ける。
それは下卑た男の欲を欠片も隠していない眼であり、同時に無法の転移者が現地人を見る視線に似ていた。他人を前にしながらも相手を人間扱いしていない、そんな眼だ。
「ああ、そうですなぁ。最初に雑音の小僧と一緒に屋敷に来た時から良い体だと思っていたのですよ。転移者のお気に入り、ということで手出しが出来なくて、生殺しとはああいったことを言うのでしょうな」
「真に、真に。高ぶった気持ちを冷ますため、似た髪色の娘を犯すのも愉しかったが――どうせなら本物を相手にしたいと思っていたところで、これだ。ああ、やはり創造神は目的に向かって邁進する者に加護を与えてくださるのだなぁ!」
神官であるノーラを茶化すように、嘲笑うように、賢人円卓たちは大きな声で笑った。加護云々なぞ、自分たちも信じていないだろうに。
「それに、裏切り者を奴隷にしてやれば、あの小僧の機嫌も良くなる。そうなれば、ああ、ここでの暮らしも更に良くなることだろう。」
にたり、にたり、下卑た笑みを浮かべながら賢人円卓の貴族たちは僅かに方位を狭めた。
焦りはない、女如きどうとでもなる、そんな思考が透けて見える。
悔しいし、腹立たしい。
そして何より腹立たしいのは――その思考が間違いではないことだ。
(クレイスさんは――きっと、助けてはくれませんね)
自分たちを囲む面々の中にクレイスは居ない――が、突然彼が助けてくれるなどという都合の良い妄想は捨てるべきだ。
仮に今、ここでクレイスが参戦すれば雑音か無二に裏切りが露呈する可能性が高い。一階か二階の窓から庭を覗かれただけで、そうなってしまう。
ゆえに、このタイミングで助けてくれるはずがない。背後から刺すのであれば、もっと効果的なタイミングで刺すことを選ぶはずだ。少なくとも、ただの小娘を救うためにそんな大切な切り札は切れない。
「――この状況で、まだレゾン・デイトルで暮らせると思っているんですか?」
――だから、ここはノーラ自身でどうにかすべきだ。
今自分が出来ること、すべきこと、それらはどのようにすれば両立するのかを思考しながら口と頭を動かし続ける。
幸い、賢人円卓の面々はこちらを舐めきっている。それ以外に大して有利な点はないが、それでもその有利を上手く使えばなんとかなるかもしれない。
「騎士の皆さんが率いる連合軍は、既に門を破っているかもしれません――もう、こんな国は終わりですよ」
ポーチの中を漁りながら説得を試みる。
その行為自体、ただの時間稼ぎではあるが――しかし、同時に受け入れて欲しいなとも思う。
正直に言えば、ノーラは目の前の男たちのことが嫌いだ。見た目だけならまだしも、性根が腐りすぎているから。
だが、それでもこちらの言葉を受け入れてくれるのなら――罪を償うつもりがあれば出来る限り歩み寄りたいと思うし、最低限の擁護をしようと思う。こんな土壇場で、とも思うが――本心からの言葉であれば、少しくらい優しくしてもいいだろうとも思うから。
「はっ! 愚かな娘だ――剣しか脳のない騎士団如きが、あの連中に勝てるモノか」
だが、返ってきたのは心からの嘲りのみであった。
それは囲まれた状態で説得をし始めたノーラに対してだけではなく、騎士たちにも向けられている。
愚か愚か愚か――ああ、なんでこんな簡単なことも分からない愚図どもが存在するのかと。
「然り。しょせんは争い事しか出来ん下賤な者共だ。一番最初に負けたくせに、まだ勝てるのだと無駄な戦いを続けている。愚か愚か、ああ、愚か極まりない」
「だが、そんな愚かな連中が権力を持っていた。ああ、前から気に入らなかったのだ。だから奴らが無様に転移者に殺される姿を見て、非常にスカッとしたものだ」
「ああ、あの時ほどワインが美味い日はなかった。そして今日も同様に美味いワインが飲めるのであろうな!」
「然り、然り! いやはや、調子に乗った愚者が墜落する姿には今まで感じたことのない愉悦を感じたとも! 転移者万歳! だな! ははははは!」
「――――」
怒りや嫌悪を通り越して、頭が真っ白になった。
この人たちは、囚われた人たちを助けるため命をかけた人たちの死に様を、面白いと笑ったのか――?
誰かが死ぬことが、そんなに面白いのか――?
知らず、拳を握りしめる。
溢れ出す怒りを押さえ込むように、ぎゅう、と。
「ははははははっ! おおっと、怒らせてしまったかな? これは失敬! 我々には無為に死んだ愚者を尊ぶような無駄な思考が無い賢人ゆえに、愚者の気持ちが分からんのだよ」
怒りに震えるノーラを見た賢人円卓たちは、更に声を上げて笑った。
ああ、なんと可愛らしい怒りだろうか、と。
なんとも無駄な感情なのか、と。
「……でも、皆はここまでたどり着きました。様々な障害を乗り越えて」
「どうせ逃げたり雑魚ばかりを相手取っていただけだろう? その程度しか出来ぬ脳筋共の癖に、勝てるなどと思いあがるなど、愚かしいにも程がある」
「力を失った転移者――ロストなどと呼ばれている者がいるではありませんか。あれを殺して、士気高揚に使ったのではないか? 『見よ! 我々は転移者を倒せるのだ! 進め! 進め!』とな。そのように冒険者を焚き付けて、自分たちは後方で震えているのだろうよ」
「なるほど! それは傑作だ! あの敗北者どもはそのようにしてプライドを守っているのだな!」
――声を荒げそうになったが、唇を噛んで必死に堪えた。
今まで一緒に過ごした人たちを恥知らずの愚者だと決めつけて笑う者たちの姿を見てしまうと『勝ち目がないからまだ耐えるべき』という思考が蒸発しそうになる。
だが、喋りながら弄っていたポーチの中身から、ようやく目当てのモノを見つけて少し心が落ち着いた。
「これからの時代、いかにして転移者を制御するのかが重要なのだよ。上手く連中を調子に乗らせ、こちらの利益になるように動いてもらう。あちらは優越感を得られ、こちらは利益を得られる、まさしく理想の関係ではないか」
「ゆえにこそ、我らは賢人円卓。新たな時代の波に乗った真に賢き者。その賢人が一つの目的のために協力するがゆえに、賢人円卓なのだ」
「然り、然り、我らは一つの目的のために生きる同士よ。仲間割れをして街を破壊する野蛮人の転移者とは違う、彼らを働かせて利益を得る唯一無二の存在なのだ」
(――ああ、この人たちは、駄目だ)
分かりきっていたことではあった。
だが、心のどこかで期待していたのかもしれない。
彼らにだって良心があると。多くの現地人が虐げられるこの状況に加担している事実に、心が苛まれているのではないかと。
だというのに、あるのは仲間同士の情があるくらいで――誰かを虐げることを喜び、誰かから奪うことを喜び、誰かが道半ばで倒れる姿を喜ぶだけの下劣な者共だ。
けれど、だからこそ理解できたことがある。
こんな連中に情けなんて一欠片だって必要ないのだと。
「さて、そろそろ――我々に無礼な態度を取った報い、受けてもらおうか」
武器を構え、貴族たちは踏み出した。今度は威圧目的の一歩ではない、ノーラやアニーを囚えるための行動だ。
「……! ノーラちゃん!」
アニーは右拳を構えながら左腕でノーラを抱えようと動く。
このまま捕まるワケにはいかない以上、ノーラを庇いながら一点突破を狙う
怪訝な顔をするアニーを横目で見ながら――
「いやです――よ!」
――ポーチの中で『点火』したそれを投げつける!
それは煙を吐き出す筒だ。
もうもうとしたそれを吐き出し続けるそれが目の前に飛んできた時、賢人円卓の貴族は思わず回避を選択した。何か毒性のあるモノだと思ったのかもしれない。
「こちらは大丈夫です、考えはあります!」
その煙を突き破るように、ノーラは駆ける。
皆が困惑している間に目指す場所は――地下へと向かう階段だ。
転げるように駆け下りて、牢が存在する部屋まで向かう。
アニーがどういう行動をするかは分からなかったが――彼女の仕草を見る限り、賢人円卓の刃物を恐れている様子はなかった。ならば、どのように行動しようと無事で居てくれるだろうと信じる。
(それに――こうやって引きつければ、アニーさんは屋敷の中で自由に動けるはず)
そうすれば、使用人の現地人たちを避難誘導してくれるだろう。
息を荒げながら地下室に飛び込むと、そのまま反転。拳を握りしめながら階段の先を睨めつける。
「アンタは……!」
「ごめんなさい、色々失敗しました!」
反抗的な少女たちが囚われている牢から響く声に、振り返ることなく答え右手を構える。
素人以下の構えだ。戦士どころか喧嘩慣れした男にも劣るだろうと思う。
だが、この状況で誰かに代わってもらうことなど出来ない以上、出来ないなりにやるしかない。
「全く、ああ全く愚かしい、愚者の極みだ」
こつん、こつん、と足音が響く。
特別急ぐ様子がないのは、その理由が欠片も無いからだ。
「まさか、出口のない地下に逃げ込むとは――しょせん女だな」
然り。ノーラが逃げ込んだのは地下室で、地上への出口は階段一つだけ。
そしてその出口は今、賢人円卓の面々がゆっくりと足音を響かせながら移動している。
まさしく袋の鼠。逃げ場はなく、生殺与奪の権利は男たちに握られている。
「いいえ、逃げたつもりはありませんよ」
こちらを見下ろし嗤う貴族を真っ直ぐに見つめる。
相手は上、こちらは下。高所の有利こそ取られているが――
「階段では、取り囲めないでしょう……!」
――それでも、集中攻撃される恐れはなくなった!
貴族の眼が驚愕に見開かれる。
それは油断。逃げることしか出来ない小娘だと思っていたから、刃物さえチラつかせれば何も出来ないと高をくくっていたから。
だから――拳は届く。
「あが、ぎ――!?」
階段を駆け上がりながら拳を振るう。
真っ直ぐ、真っ直ぐ――男の股間へと。ぐちゃり、と柔らかな何かを叩き潰す嫌な感触が伝わってきた。
男と女の体格の差、階段の上部と下部という位置の差から上半身は狙い辛い。それに、しょせん女の細腕だ。規格外を喪失した転移者であれば殴り倒せるが、現地人を真っ向から殴り倒す腕力はノーラには無い。
ゆえに、狙うは急所一択。そこさえ叩き潰せば、小娘の腕力でも十分無力化出来る。
「この――よくも!」
だがしかし、敵は一人ではない。
泡を吹きながら倒れる男の背後から、空気を裂く鋭い音と共に鞭が迫って来る。
予測はしていた、回避もしようと考えていた。
だが、遅い。
後ろに跳ぶが、鞭の先端は鋭い軌跡を描きながらノーラの左頬を切り裂き右胸に激突する。パシン、という肉を打つ音が地下に響き渡った。
「あ、くっ……」
苦痛の声を漏らしながら、ノーラはやはりと思考する。
自分は戦士としての訓練を受けていたワケでもなければ、喧嘩慣れしていたワケでもない。
だから、回避しきれない。ニールや騎士たちの攻撃と比較すれば彼らの攻撃はまさしく児戯だ。だが、児戯すら嗜んでいないノーラではそれすらも対処が難しい。
その様子を見て、賢人円卓の面々は安堵の息を吐いた。ああ、反撃されてどうなるかと思ったが――こちらが有利なことに変わりはないな、と。
「おいおい、胸を傷つけるな。せっかくの品が台無しになるだろう」
「すまないな、脅しとして軽く掠らせるつもりだったのだが、思いの外大きくて当たってしまった」
「そうか、それは触る時が楽しみだ……いいや、そんなことよりも」
言って、彼らは地面に倒れ伏す仲間に駆け寄った。
「大丈夫か? ……酷いことをする、叩き潰されているぞ」
「この娘を捕縛したら、すぐにバーベナ殿を呼ばねばな」
男たちの意識がノーラから外れた。
鞭がクリーンヒットした以上、これ以上は歯向かってこないだろうと考えているのだろう。
実際、その思考は間違っていない。切り裂かれた左頬からは血が溢れ、打ち据えられた右胸は焼けるような痛みを発している。戦いを生業としている者でなければ、この一撃で心なんて折れる。
だが、しかし。
ノーラは知っている、これ以上の痛みを。
理不尽を捕食する者を所有する前――過剰なエネルギーが体内に流入し破裂する痛みを、破裂し穴が空いた場所が即座に治癒され、また破裂する意識が飛ぶほどの激痛を。
無論、だからと言ってこの痛みが平気だというワケではないけれど。
「こ、の――お!」
それでも、我慢することくらいなら出来る。
股間を殴り潰された男を気遣うように跪く者へ踏み込み、顔面に右拳を叩き込む。霊樹の篭手である理不尽を捕食する者によって補強された拳は、鼻骨をへし折りながら男を殴り飛ばす。
「この――小娘が!」
瞬間、剣が閃いた。
踏み込みながら放たれたそれは、ノーラから見ても鈍い。ニールや連翹ならば簡単に対処できる攻撃だ。
けれど、その刃は容易くノーラに届いた。必死に受け止めようとするが、間に合わない。
ざくり、と腹部に裂傷が走る。
「あ――ぅ?!」
浅い。肉を切り裂かれたけれど、内蔵まで達していない。
だが、それでもどくどくと溢れる血と過剰に主張する痛みが思考を一気に白く染め上げていく。
――これがただの拳であれば、受け止めることは出来たかもしれない。
男の腕力で振るわれる拳は女にとって脅威であるのは確かだが、それでも腕で強引に防ぐといった手段が取れたはずだ。
当たり前の事実だが、強く強く実感する――武器は、刃物は、強い。小娘の命程度、簡単に奪えるほどに。
「創造神ディ、ッ……ミルゴに請い願、うっ――失われ行く命を、守る力を、癒しの奇跡を」
痛みに祈りの言葉が乱れるが、なんとか治癒の奇跡は発動してくれた。
けれど、ノーラが使える程度の力では全身を治癒することなど出来ない。引き出せる力が足りていないのだ。
ゆえに、頬や胸の傷は放置し、腹部の裂傷のみに集中――癒やすというより塞ぐことを念頭に置いて力を使う。
切り裂かれた衣服から覗く傷口が、燐光と共に塞がっていく。生々しい傷跡がそのまま残るような乱雑で未熟な治癒だが、少なくもこれで血は止まる。
「これで……少しなら、持ちます……」
再び右腕を不格好に構えながら、賢人円卓たちを睨めつける。
瞬間、腹部からめりめりと引き裂かれるような痛みが生じ、ノーラは思わず顔を顰めた。
ああ、痛い、痛い、痛い痛い痛い――激痛に視界が赤く染まる。
ノーラ程度の治癒では傷だって完全に治せない。動く度に傷口が開こうとするのが痛みで理解出来る。
だが、我慢出来ないことはない。
確かに痛くて痛くて痛くて――泣いてしまうくらいだけれど。
それでも、内側から破裂するのを何度も繰り返されるような痛みとは――女神の御手を生身でやった時の痛みに比べれば、ずっと、ずっとマシだ。
ゆえに、まだなんとなる。まだ、まだ、まだ。
後、八人。これを繰り返せば、なんとか――!
「ふむ――」
だが、賢人円卓の貴族たちは焦った様子は見られない。
むしろ――もう終わった、と。
もうノーラは敵ではないと言うように、悠々とした足取りでこちらに向かって歩いてくる。
「馬鹿に、して――!」
拳を握りしめ、もう一度距離を詰めようと駆け出す。
大丈夫、さっきと同じように――そう思った瞬間、腹部から耐え難い痛みが走り、足取りが乱れた。
それを好機と見たのか、レイピアを手に持った男が距離を詰めてくる。余裕の現れなのか、武器は構えてすらいない。
(大丈夫、当たっても大丈夫、すぐに治癒すれば――!)
そうすれば、先程のように腹を切り裂かれても――そう考えた瞬間、ふと、脳裏に過る言葉があった。
(さっきみたいなのを、最低でも八回……?)
いや、大丈夫。耐えられる、耐えられる、前の痛み程じゃない、なんとかなる。
ああ、でも――痛いのが平気なワケではなくて、最初の鞭も、さっきの剣も、凄く、凄く凄く凄く、凄く、痛くて。
だっていうのに、今はそれを何度も喰らうことを前提に、動いている。そう、必ず同じ痛みが襲ってくる。今から、何回も。
そこまで考えたら、足が、思わず、竦んで――
「馬鹿になどしていない。そも、どれだけ大層な鍍金で飾ろうと、貴様はただの愚かな小娘ではないか」
その瞬間、ノーラの柔らかな腹部につま先が叩き込まれた。
頭の中で火花が散るような衝撃と共に、応急処置した傷が強引に割り開かれる。
「あ――ぅ、ぁ……ッ」
どさり、と地面に崩れ落ち、腹を庇うように丸くなった。
どく、どく、と開いた傷口から血が滲む感触がする。早く塞がなくては、治癒の奇跡を使わねば、そう思っても口から漏れるのは荒い息だけ。
「慣れてるのだよ、こちらは。口では威勢の良いことを叫びながら、しかしいざ鞭を前にすると恐怖で動けなくなる娘の相手はな」
頭上から声がする。
すぐそばに敵が居る。なら、立ち上がって対処しなくては、なんとかしなくては――そう思うのに、脚に力が入ってくれない。どれだけ動けと命じても、ガクガクと震えるばかり。
「貴様は普通の娘に比べ痛みには慣れていたようだが――痛みが好きなワケでも、感じないワケでもないのだろう? なら、問題ない。何発か痛めつければ、戦意などすぐに萎える」
言って、男はノーラの髪を引っ掴んで強引に立ち上がらせた。
頭と腹部の痛みに悲鳴を上げてしまう。その様子が面白いのか、たまらなく興奮するのか、男は痛みに歪むノーラの顔を愉しげに覗き込んだ。
「まさか、一緒に行動していた騎士共を見て、自分も出来ると思ったか? 戦う術はなくとも、耐えるだけならなんとかなると」
「それ、は――」
――正直に言うと、思っていた。
皆は頑張っているのだ。恐ろしく強い転移者と立ち向かい、傷つく姿を何度も見てきた。
だから、せめてそのくらいはしなければ、と。
幸か不幸か多少の傷とは比べ物にならない痛みを経験したのだ。自分になら出来る、と。
けれど、明確な敵意と共に与えられる痛みは、ノーラが想像していたよりもずっと痛くて、そして怖かった。
だから、あっさりと屈してしまったのだ――傷つけられるということに対する恐怖に。
隣に頼れる誰かが居たら、こうはならなかっただろう。
カルナが居れば、連翹が居れば、ニールが居れば、他にも連合軍の誰かが居れば――その人がなんとかしてくれると信じることが出来て、だから自分だって負けてられないと奮起することが出来たはずだ。
だが、今この場で敵に立ち向かっているのはノーラだけで……そして、ノーラの心は彼女が想像していたよりも脆かった。
「全く、手こずらせてくれる」
吐き捨てるように言うと、男はずりずりとノーラを引きずり、地下室中央に設置されたベッドに乱雑に放り込む。
昨日ノーラ自身がベッドメイクしたそこに転がされる。叩きつけられた衝撃に腹部が痛みが走り、ベッドの上をのたうった。
その様を、囚われた少女たちは牢屋から見つめていた。
そこに込められているのは、失望、諦め、憐憫、そして納得。
彼女たちは期待を裏切られ、希望を捨て、これからノーラがされることを哀れんで、そして一つの答えを導き出したのだ。
即ち――どう足掻こうと、どれだけ反発しようと、目の前の少女のように叩き潰されるだけなのだと。




