206/少女たちの想い
――レゾン・デイトルの街から鐘の音が鳴り響く。
焦燥感を煽るように打ち鳴らされるそれは、危機を知らせるためのモノだ。
敵が来たぞ敵が来たぞ、早く迎撃に迎えと声高に叫ぶその音色を聞きながら、ノーラは使用人部屋で急いで着替えを行っていた。
メイド服を脱ぎ、その下に重ね着していたシャツやズロース、詰めていたタオルなどを外していく。
「早く、早く――」
皆が戦っている以上、着替えている間も惜しい。
だが、あんなに着ぶくれした状態ではまともに動けない。早く普段の格好に着替え、地下に行って――
「はい、ストップ」
――薄ピンクの下着姿のまま自分の服に手を伸ばそうとしたら、アニーに取り上げれてしまう。
なんで、と彼女に責めるような視線を向けるが、アニーは少しばかり呆れたように笑うと、たっぷりと湯の入った桶を手渡した。
「その前に、その髪洗い流しちゃいなさい」
「そんな暇は――」
「ナルシスが占領されてから、一体どれくらい攻撃されてると思ってるの? 近場の冒険者に、傭兵に、騎士たち、他の転移者、って感じで何度も襲撃されて撃退してるのよ、ここの転移者たちは」
だから、攻撃されること自体は日常茶飯事なのだと。
この鐘の音だけで取り乱すことはなく、下級宿舎に泊まっている転移者が全滅させてしまうだろうと考えているはずなのだ。
「だから、もうちょっと戦いが長引かないと警戒すらしないわよ、特に屋敷周辺なんてね。だから、それまでに染料を落としながら心を落ち着けなさい。焦って動いても良いことはないわよ」
髪、気になってたんでしょう? と。
そう言ってタオルを手渡す彼女の言葉は正しかった。前者も、そして後者に関しても。
実際、屋敷は特に浮足立った様子はなく、いつも通りの日常を過ごしているように見える。この程度、平凡な日常を彩るアクセントの一つに過ぎないと言うように。
確かに、こんな状況で慌ただしく出ていったとしても、すぐに見つかって捕まるだけだろう。
「……そう、ですね。ありがとうございます、お湯とタオル、お借りしますね」
「どうぞどうぞ、まあ長引かなくて良かったね。何日も騙しきれる変装じゃないってのもあるけど、髪の毛が荒れちゃうからさ」
アニーの好意に甘え、ゆっくりと髪を洗いながら心を落ち着ける。
急ぐの良いが、焦ってはいけない。元々、ノーラは敵地に潜入して活動するような人間ではない。だというのに、視野を狭めては失敗するだけだ。
ノーラはプロではない以上、この先何か失敗をするかもしれない。だが、その失敗は全力でやった結果の失敗であるべきだ。焦って普段通りの力が出せず、結果失敗してしまうのは頂けない。
「それで、転移者たちの注意が街門の方に向いたらどうするつもりなの?」
「地下室に行って女の子たちを自由にします。ただ、それからはしばらく待機ですね」
クレイスが語った囮役と奇襲役がそのまま採用されているのなら、街門の戦いが激化した辺りで奇襲役が――連翹たちが船で乗り付けてくるだろう。
彼女たちが来る前に娘たちを連れて港へ――とも考えたが、すぐに却下する。
全ての転移者が街門へ向かったワケではないだろうし、なによりこちらはノーラを含めて普通の娘たちばかり。転移者に従う現地人が攻撃を仕掛けてきたら、それを防ぐ手立てがないのだ。
だからノーラがやるべきことは、地下の皆がすぐに動けるような状況にしておくこと。それ以上をやろうと無茶をすれば皆を巻き込んだ大失敗をする可能性がある。
焦ってはいけない。
動くのは今ではない。
(だから、今は――少しだけ、ゆっくりと)
はふう、と息を吐く。
ベタついた髪をお湯ですくと、次第に元の桃色が露わになっていく。それがとても心地よい。
髪から滴る水滴がノーラの肌を軽く叩いた。白い肌に乗ったそれは、つるりと首筋から胸元まで流れていく。
ぶるり、と体が震えた。
室内とはいえこの季節、下着姿は寒い。頭が温かいから余計にそう思ってしまう。
(どうせ洗い流すならお風呂の方が良かったな――いや、駄目駄目、無茶ですよそれは)
幹部転移者ならまだしも、ただの使用人が朝から風呂で体を洗っていたら誰だって疑問に思うだろう。
それに何より、この状況下で髪を洗っていること自体贅沢の極みではないか。これ以上望むのなんて、さすがにどうかと思う。
思う、のだが。
「……アニーさん、さすがにそこまでじっと見られると恥ずかしいんですけど」
これが大衆浴場のように、互いに裸であれば良いのだ。
だがこちらは下着だというのに、あちらはきっちりとメイド服を着込んでいる。その事実が非常に恥ずかしい。自然、体を隠すように丸まってしまう。
「いやね、背低いけどけっこう胸あるんだ、と思って」
「そんなことを言われると余計に恥ずかしいんですけど!」
もうっ、と顔を背けて染料を洗い流す作業に戻る。
再びじゃぶじゃぶと洗い続けること数分そこら。染料はようやっと落ちきってくれた。
落ちきってくれたのだけれど、毛先とかを確認するのが凄く怖い。枝毛になったりボロボロになったりしていないだろうか
「でも、それだけ胸大きくて可愛いんなら、連合軍とかでも言い寄られたりしてたんじゃない?」
「いや、わたしは別に、そんな言われるほどじゃ――それに、仮にそうだったとしても、体だけが目的の人とか、どうかと思います」
「何言ってるの。男なんて基本、顔と体ばっか見てるモノよ。もちろん、それだけで終わるタイプはごめんだけどね」
最初がどれだけ下世話でも、最低でも、それがキッカケでちゃんと互いに愛し合えるのなら問題ないではないのだとアニーは笑う。
確かに、と頷きながら思い描くのは連翹とニールの姿だ。
二人の出会いは一般的な常識と照らし合わせれば最悪であり最低だ。だが、連翹が変わるキッカケも、ニールが彼女のことを思い続けるキッカケもまたその最悪の出会いあってこそのモノだった。
そして自分も、また。
カルナとの出会いはもう少し落ち着いていて、優しい人だなと思ったが――それ以降、彼はけっこうな勢いでボロを出していた。第一印象とは違うなぁ、と何度となく思ったのを覚えている。
だが、だからこそ繋がったモノもあったのだ。
カルナが出したボロは、良し悪しで言えば悪一択である。であるが、だからこそ産まれた隙があればこそ、気安く声をかけるキッカケなどになって今の関係に至ったのだと思う。
「まあ、そうですね。あの人も、そういうところありますから」
「……おっ、なに? その口ぶり……良い人がいるの」
「え、ええ――カルナさんって言って、背が高くて、綺麗な顔をしていて、凄く才能のある魔法使いなんです」
「へえ、中々優良物件――」
「まあ、不意に服の隙間から胸を覗き込んだりする人なんですけど。わたし以外にも、ドワーフの女の子なんかに対しても」
「――付き合う相手は選んだ方が良いと思うの、あたし」
真顔の返答であった。
「いや、まあ……良いところも沢山あるんですよ?」
「そこで疑問形になっちゃってるのがねぇ……話してみて分かったけど、ノーラちゃん駄目な男に引っかかるタイプだから気をつけなさいよ。一度深呼吸したり、友達に相談したりするのよ」
「いや、そんなことはないと思うんですけど……」
「完璧で格好いい人より、なんか抜けてる人の方が好きでしょ? そして自分が居ないと駄目だな、みたいなこと考えちゃうでしょ? 駄目な男に貢いで破滅するパターンよ、それ」
(――ど、どうしよう、ぐうの音もでない)
まあ、確かに――カルナが見た目通りの好青年だったら、少女向け小説に出てくるヒーローのような性格であったら、今のように好感を抱いていたかは怪しい。
もちろん友人として仲良くはなったのだろうが、しかしどこか高嶺の花を見つめるように距離を置くんじゃないかと思う。
「……あれ、というか、今こんな話をしてる場合じゃあ」
「そうね。けど、けっこう落ち着いたでしょ?」
そう言われてハッ、とする。
確かに先程は緊張とは無縁の素の状態で会話出来ていた。
今の状況を思い出すとじわりと緊張の感情が滲むが、しかし行動を妨げる程のモノではない。
「女同士は恋バナが基本よ基本。もちろん、そういうのが好きじゃない娘も居るけど、ノーラちゃんはそこまで嫌ってるワケじゃないみたいだしね」
言ってニカリと笑ったアニーは、そっと着替えを差し出した。
ありがとうございます、とそれに手を伸ばし――
『――――!』
――不意に響き渡った咆哮と共に窓ガラスがガタガタと揺れた。
街全体に響き渡る獣じみた咆哮は、街門方向から――恐らく、外壁の上から放たれたようだ。
窓から外を覗くと、咆哮を聞いた転移者たちが慌てて、そしてどこか狼狽えながら街門広場の方へと向かっていくのが見えた。
ああ、と思う。
ノーラはそれを知っている。その響きを、その叫びを聞いたことがある。
「ニールさんの声……」
「え、あれ人間の声なの? 偶然モンスターも襲撃して来たとかじゃなくて?」
アニーが思わず呟いたらしい言葉に、くすりと笑う。確かに、あれは人間というよりもモンスター――それも狼に近い存在の咆哮に近い。
街全体に揺るがすそれは、きっとレゾン・デイトルに存在する転移者全てに聞かせるためのモノだ。
俺はここに居るぞ、と。
お前たちの敵はここに居るぞ、と。
本来なら、現地人の叫び声など転移者は恐れない。大きな声に驚愕し、恐怖するのは人として当然の感情ではあるが――自分の体を傷つけられない者の咆哮など、負け犬の遠吠えでしかないのだ。
だが、ニールは違う。
実力という面ではまだまだ騎士などには及ばないが――転移者を、幹部を斬り殺したという実績があるのだ。
結果――負け犬の叫びは猛獣の威嚇に変質する。何も出来ない弱者ではなく、こちらを殺傷できる存在であるがゆえに。
そんな恐ろしくも頼もしい絶叫を聞きながら、ノーラは小さく拳を握りしめた。
ああ、頑張っているんだな、と。
自分の役目を、しっかりと果たしているんだな、と。
次はわたしの番だ、と。
素早く着替えをし、右手に霊樹の篭手を、理不尽を捕食する者を嵌める。指を、手首を何度か動かして不備がないかを最低限確認し、うんっ、と大きく頷く。
「それじゃあ、わたしは行きます――アニーさんは、ここで戦いが終わるまで待っていてください」
その言葉はノーラにとって当然のモノであった。
無理を言ってノーラを匿って貰い、今もこうして手助けをして貰っている。これ以上危険に晒すワケにはいかないだろう、と。
だが、アニーは大げさに眉を寄せて首を左右に振った。一体何を言ってるんだお前は、と言うように。
「冗談言わないで。自分よりもちっちゃな娘があたしが住んでる街のために頑張っているってのに、自分はなにもしないなんて、出来るワケないでしょ?」
「そんな、これ以上迷惑は――」
「迷惑云々言い出したら、大した抵抗も出来ず占領されて助けを待ち続けているあたしたちの方がよっぽど迷惑かけてるわよ。若い娘が遠慮なんてしないの」
「……アニーさんだって若いじゃないですか」
「そうね、だから互いに遠慮する必要なんてないでしょ?」
……そういう理屈で良いのだろうか?
そんなノーラの疑問を放置して、アニーはゆっくりと扉を開けた。
後ろからそっと覗き込むが、周辺に人影はない。
二人は頷きあって静かに廊下から玄関ロビーまでゆっくりと歩く。急ぎたいのは山々だが、しかしあまり大きな音は立てたくない。
静かに歩みながら周囲の気配を探る。
(気配はない、と思うんですけど……)
少なくとも、剣呑な雰囲気などは感じない。
だが、その感覚を信じて良いのか、ノーラにはよく分からなかった。
けれど、ことここに至っては信じて進むしかない。
そうして玄関ロビーにたどり着くと、裏庭に続く扉を開ける――
「……ノーラお姉さん?」
――その、直前。柔らかな声音が響いた。
とん、とん、そんな軽い音を立てて階段を下り玄関ロビーに現れた歌姫が纏うようなドレスを身に着けた少女――崩落狂声は、ノーラたちににこりと微笑んだ。
いつも通りどこかふわふわとした印象のまま、楽しげな、そして幸せそうな笑みを浮かべている。
その気配を見逃したのは、ノーラもアニーも素人だからというのもあったが、何より悪感情が希薄であったからだろう。
「こんにちは、久しぶり。もうここには居ないかと思っていたのだけど、メイドさんたちに匿って貰ってたのねー」
「……だったら、どうするんですか?」
アニーを庇うように立ち位置を改めながら、理不尽を捕食する者を装着した右手をぐっと握りしめる。
仮に彼女がスキルを使えば女神の御手を使う暇もなくノーラは倒されるのだろうが、それでも何もない普通のメイドよりは勝利する可能性があった。小数点以下、ではあるが。
だが、ノーラの決意を前にして、崩落はきょとんとした表情を浮かべていた。小首を傾げ、しばし悩み始めた彼女だったが、すぐに「ああ」と納得したように頷く。
「そんな風に身構えなくていいわ。だってわたし、ノーラお姉さんを捕まえたり、告げ口したりするつもりもないから」
「……なんでですか?」
なにせ、ノーラと連翹は情報を引き出すために彼女と接触していたのだ。
確かに三人でしたお茶会は楽しかったし、崩落狂声を名乗る少女に親しみを抱いている。そこに嘘はない。
だが、ノーラの内心と崩落がどう受け取るのはか全く別の問題だ。
客観的に見れば、自分たちは彼女を都合の良い情報源として扱って、別れも告げることなく消えただけ。
裏切られたと、騙されたと恨み言を告げられて然るべきだろう。
だというのに、彼女は「なんで分からないんだろう?」とでも言うように不思議そうな顔をするばかり。
「なんで、って――友達を傷つけたくないって思うのは当然でしょう? これからお姉さんの友達かもしれない人たちと戦いに行く以上、自己満足かもしれないけどねー」
「……友達って、まだ思ってくれてるんですか? わたしたちは、必要があって崩落ちゃんと会っていたのに」
だというのに、崩落の表情に嘘はない。
お茶会で笑いあった時のように、ふわふわとした笑みを浮かべながら彼女は頷く。
「うん、そうねー。けど、人間は嘘を吐くモノでしょ? 君の歌が好き、君の踊りが好き、そう言ってくれてたお兄さんが、実は全く興味が無かったって言って覆いかぶさって来たり」
なんでもないことのように言って、彼女は大きく息を吸い込んだ。
それは体内の胞子を循環させるため、ハピメアでトリップするために、辛いことから逃げるために、息を吸って、吸って、吸って、吸い込む。
そうして、どこか陶然とした面持ちを浮かべた彼女は「気にすることないのよー」と首を左右に振る。
「だから、嘘はいいの。もう慣れちゃってるからー。だから、全然大丈夫――」
「違いますっ!」
思わず言葉を遮った。
瞳を丸くする崩落の眼を、真っ直ぐ、真っ直ぐ見つめる。この言葉に嘘はないと宣言するように。
「確かに出会った経緯は嘘でしたけど――崩落ちゃんと出会って楽しかったことも仲良くなりたいって思ったのは、決して嘘なんかじゃありませんから」
こればかりは譲れない、いいや、きっと譲ってはいけない一線だと思った。
だって――嘘には慣れてる、だから平気、なんて。薬に頼らなくては自分自身すら騙せていない大嘘だ。
だから、これだけは伝えなくてはならない。
当然だ。友達が辛い顔すら見せずに我慢している姿を見て、心配しないはずがないではないか。
「……そう、それも嘘かもしれないけど、本当だったら嬉しいわ」
言って、彼女は微笑んだ。
瞳に、微かに涙を滲ませて。
心の底から安堵したのだと、心の底から喜びが満ち溢れているのだと、どんな言葉よりも雄弁にノーラに伝えていた。
「……ねえ、崩落ちゃん。わたしたちと一緒に行きませんか?」
伝わったからこそ分かる。
この娘が戦いに向いていない。
それどころか、敵意や悪意に対抗する術すら持ち得ていない。本来はゆっくりと培われていくはずのそれは、新芽を踏みにじるような形で壊れてしまった。
そんな彼女が戦場に立って、敵意や殺意を向けられるなど、一体なんの冗談だ。
崩落狂声に必要なのはこんな歪な居場所ではなく、親身になってくれるカウンセラーだろうに!
「わたしはいいの。もう、どうでもいいの」
何が――そう言いかけて、口を閉ざす。
どろりと瞳を濁らせた彼女の両手は、そっと下腹部に添えられていた。
痛む体を抑えるように、または突き入れられた何かを押し出そうとしているように。
「どうせ力がなければ生きていくことも出来ない、弱くて汚れた女だから。あたまのわるい女だから。みんな、みんなみんなそう言ってた。SNSで少し弱音を呟いたら、自業自得だって、考えの足りないばかだって、被害者ぶってるって、ああ、あああああ、分かってる、分かってるわ、パソコンのモニタで、スマホのアプリで、何回も何回もみんなが言ったんだから。悪いのはわたし、汚いのもわたし、あたまの足りてない中古品……」
俯き体を震わせる彼女を心配に想う心と同じくらい、ノーラの心に怒りが燃え盛った。
なんでもっと気遣ってやれないんだ、なんでそんな心無い言葉を投げかけられるのかと。この娘が耐えられないなんて、近くに居る人なら分かってただろうに! と。
そこまで考えて、ふと思い浮かぶモノがあった。
(……そうだ、レンちゃんの世界にはインターネットっていう道具があるんですよね)
連翹は言っていた、大陸の端に居ても女王都に居る人とゲームで遊んだり出来る、そんな仕組みがあると。
負けそうになったらその仕組みを切断して、負ける前にゲームを無かったことにする人間が居るのだととも。
それを踏まえて考える。
相手とゲームが出来るくらい凄い仕組みなら、会話くらい出来るはず。会話が出来ずとも、文通くらい瞬時に出来るのではないかと。そんな仕組みがあれば、きっと誰しもが使うだろうな、とも。
そして、こうも思うのだ。
ゲームを自分勝手な理由で中断するような人が居るのなら、自分勝手な言葉や悪意に満ちた言葉をその仕組みで相手に投げつける者も居るだろう、と。
そして、彼女は転移前から有名だったという。
もし、ノーラが想像した通りの仕組みがあり、遠くに居る見知らぬ誰かが彼女に対して言葉を残すことが出来たとしたら。
そうなれば、どうなる?
(そっか、だから……!)
――弱ったところに、負の言葉がなだれ込んでくる!
彼女のことをよく知らないがゆえに無神経なことを言ってしまった者が居て、分かっていて悪意をぶつける者が居て、それらの積み重ねが彼女を追い込んだ。
当然だ、生き物は元来マイナスの情報をインプットしやすい生き物なのだから。
野山に美味しい木の実があり、しかしそこは凶暴な化物が居る場所があったとして、前者のことばかり考えているような生き物はとっくに絶滅している。ネガティブな情報を重要視するのは人間の本能と言ってもいいだろう。
そして彼女は無数のネガティブな言葉を重要視し、理解しようと努めて、努めて、努めて――ある時、ごきり、と心を折った。
結果、出来上がったのは『自分は駄目だ』という先入観に囚われた。
だからこそ強い力を――『駄目な自分』を塗り替える強い力を求めたのだ。規格外という力があれば異性に無理矢理行為を迫られても退けられるし、無数にインプットされたネガティブな言葉を否定する自信に繋がるから。
「ああ、どうしようもなく驕って、愚かで、汚れたわたし――でも、そんなわたしでも、綺麗なモノに憧れるの」
静かに歩み寄って、崩落はノーラの頬を撫でた。
それは壊れやすいガラス細工を愛でるように。とっくの昔に自分が壊してしまったそれを、親しい誰かはちゃんと持ち続けていることに安堵するようにしながら――彼女は寂しげに笑う。
「でも、良かったわ。最期の最期でちゃんと友達だって言ってくれる人が居て。――うんっ、これでもう心残りなんてないわ」
「……崩落ちゃん!」
感情のままに名前を呼んで――けれど、それ以上の言葉が続かない。
なんて声をかければ良いのか、分からなかったから。
「それじゃあ、さようならノーラお姉さん。勝っても負けてももう会えないと思うけど、それでも元気で居て欲しいと願ってるわー」
そう言って、崩落は背を向け去っていった。
ノーラはその背中を見つめながら、何か言わねばと口を開き――しかし言葉を紡ぐことが出来ず、静かに閉じる。
――それは彼女の悲嘆に、真の意味で共感が出来なかったから。
力が無ければもう生きていけない――そう言って全てを諦め、まどろみの中に沈むような死を求める彼女の心が、どうしても分からなかったから。
だって……人間、死んだらそれまでではないか。
ノーラは子供の頃、両親を喪っている。人間、どれだけ生きたいと願っても死ぬ時は死ぬし、一度死が訪れてしまえば土に還ることでしか現世に何かを残すことが出来なくなる。
ゆえに、今を生きている人間は今を生きる者として何かを成さねばならない。常に全力であれだとか、休みなく夢に向かってひた走れなどとは言わない、時には怠惰であるのも良い。けれど生きていることを楽しむべきだと思うのだ。
思うのだが――それを口にしたところで崩落の心を動かせるとは思えなかった。
ノーラは彼女の世界を知らない。
便利な道具が彼女を苦しめる悪意となったのだろうということは想像できても、それを実感することが出来ない。
そんな状態で自分の言葉を投げつけるのは、説得ではなくただの押し付けだ。理解もせずに押し付けたモノで、相手の心を動かせるワケがない。
自分では、どうにも、出来ない――
「ほら、シャキッとしなさい」
後ろで様子を伺っていたらしいアニーがノーラの背を叩いた。
「ここで沈んでいてもあの娘は救えないし、追いかけたって同じことでしょう? なら、とっとと自分がやれることをしなさい……酷な言い方で悪いけどね」
「……いいえ、ありがとうございます」
救いたかった、なんとかしてあげたかった、けれど自分ではどうしようもない。
それが悲しくて、悔しくて、どうにかなってしまいそう。
けれど、それで立ち止まってしまったら、地下に居る娘たちまで救えなくなる。
ぱんっ! と自身の頬を叩いて気合を入れた。
(そう――元々、わたしは全てを救えるような凄い人じゃないんですから)
取りこぼして当然、出来なくて当然、ノーラは所詮ただの見習い神官でしかないのだ。
だが、それでも、そんな自分にだってやれることがある。この手で救える人たちが居るのだ。
だから、取りこぼしてしまったモノを想うのは、全てが終わってから。後悔も反省も、その時にいっぱいすればいい。
「それじゃあ、行きましょう!」
裏口の扉を開くと、街門方面から響く戦闘の音がより鮮明に聞こえてくる。
皆は大丈夫だろうか、誰か怪我をしていないだろうか、ニールだけは響き渡る咆哮で無事を知れるのだが。
だが、それを考えるのは後だ。今は、地下の娘たちを自由に――
「――なぁるほど、いやいや、雑音の小僧が言った通りだ」
――ぐしゃり、と。
花壇の花を踏みにじりながら近づいてくる足音が響いた。
「連合軍とやらの襲撃が始まれば、奴隷共を助けるために地下室へ向かうと。喜ばしいことに、オマケまで付いている」
現れたのは複数の男性であった。
綺羅びやかな衣装を身に纏いつつも、肥え太った体が衣服の価値を大きく減じている。複数の装飾品を見せつけるように付け、歩く度にじゃらり、じゃらり、と品のない音が響く。
「アンタたち、賢人円卓……!?」
このレゾン・デイトルを運営する現地人集団――その彼らが、内心の欲望が透けて見えるにたりとした笑みを浮かべながら、ノーラたちを取り囲んでいた。
「上手くやったつもりだったか? 出し抜けているつもりだったか? これだから女は愚かなのだ。黙って腰を振っていれば良いものを、すぐに調子に乗る」
彼らの手には剣があった、短剣があった、鞭があった、棍棒があった。
皆、思い思いの武器を手にし、ノーラとアニーを見つめている。
(……こ、これじゃあ)
確かに、賢人円卓の貴族を殴り倒すことくらい、ノーラにだって出来る。
だが、それは相手が無手だった時の話だ。
武器を手に万全の状態で待ち構えられていた現状で、ノーラが彼らに殴り勝てる道理はない。




