203/負けない、絶対に
「……ああ、良い香りだ」
雑音語りはティーカップをソーサーの上に戻し、側に控えるメイドに笑いかけた。
優雅に、優美に、少なくとも彼自身はそう考えながら甘い香りを楽しむ。
雑音自身、紅茶もその香りも大して好きではなかったが、時折メイドに命じて紅茶を用意させていた。
味も香りの良し悪しも実のところよく分っていないのだが、それでも高額で取引されているモノは良い。自分は恵まれているのだと強く実感できるのだから。
(――そうとも、ぼくは冷静だ)
このように紅茶を嗜む余裕さえある。
怒りなど、あるはずもない。
――片桐連翹、そして彼女が連れてきた少女ノーラ・ホワイトスターの失踪。
深夜の間にゴキブリの如く静かに、しかし素早く脱出したらしい彼女たちの姿を思い浮かべながら、雑音はにい、と笑った。
ああ、なんとも愚かな連中だ! と。
「そうとも、情報など好きに持っていくと良い。実際、ぼくは君たちに勝つつもりなんて欠片もないんだ。だっていうのに、惨めにこそ泥めいた行為をして――哀れったらないね。まあ、そうでもしなければ勝てない以上、仕方ないんだろうけど」
無様無様、無様に過ぎる――歌うように呟き、紅茶を啜るべくカップに手を取る。
瞬間、ぱきり、と持ち手が砕け散り、カップが机の上に落下する。がしゃん、と紅茶とカップの破片がテーブルに撒き散らされた。
どうやら非常に脆いカップだったらしい。
どれだけ高級なモノであろうと、しょせんは現地人が扱うモノ。転移者の力に耐えられないのは道理だろう。
そう、これはカップが脆かっただけ。
怒りなど、していない。決して、そう決して。
「――ああ、ぼくは冷静だとも。負け犬の女に、たった一度くらい騙された程度で怒り狂う程度の低い人間ではないさ。それに、ぼくの目的は現時点で破綻していない。やるべきことも変わらない。何一つ、何一つ。ゆえに、ぼくを騙したあの女はただの道化だとも。なんの成果も出せていない無能だ。ぼくが上で、あいつが下だ。考えるまでもない、当たり前の方程式だとも」
メイドにテーブルの上を片付けさせながら、雑音は語り続ける。
特定の誰かに聞かせる言葉ではない、けれど誰かが聞いていればいいと思い言葉を発し続けるのだ。
自分は冷静だ、と。
小賢しく屋敷に居座っていたネズミどもが哀れで惨めな劣等であって、自分はそんな存在よりもずっとずっと格上なのだと。
垂れ流される言葉に対し、メイドは相槌すら打つことはない。そもそも、そのようなことを許していないのだ。使用人は使用人の仕事だけをしていれば良い。
「ああ、そうだ」
ふと、何かに気づいたように頷くと、にまりと口元を歪める。
「格下が格上を馬鹿にしたんだ、報いを与えても構わないだろう。そうとも、そうとも、女風情が、誰かと一緒じゃないと不安で仕方ない劣等女が、ぼくを騙した、舐めたんだ。ぼくは怒り狂って仕返しをする程の低能ではないけれど、あの女がたまたまぼくの前に来たとすれば――格の違いを教えてやるべきだろう」
雑音は気づかない。
自身のハラワタはとうの昔に煮えたぎり、堪忍袋の緒は連翹の脱出を知った時から切れたままなのだと。
血走った眼に赤い顔、怒りに震え力加減すらままならない掌――誰が見ても激昂していると理解できるであろう。
だが、彼はまだ己が冷静だと思っている。この程度で怒るはずがないだろう、自分はそんな器が小さな人間ではないと。
それは、匿名掲示板で延々と長文を吐き出し続ける者のように。
誰に聞かせるでもなく、ただただ自分のためだけに彼は口を動かし続ける。延々と、延々と、自身の正当性を謳い続けるのだ。
「ああ、なんだ――結局全てぼくの掌の上じゃあないか!」
連合軍がレゾン・デイトルを半壊させ、王が慌てて秘匿して来た無二の規格外を晒し無能となった元転移者に力を与え、自分はとっととこんな砂上の楼閣から撤退する。
力を取り戻した転移者たちによって混乱するの戦場の中、『たまたま』片桐連翹という女に出会い報いを受けさせるのだ。
◇
夕闇に染まっていく世界で、屋敷の中を二人のメイドが忙しそうに駆け回っていた。
「次、こっちの掃除を手伝ってちょうだい」
「は、はーい! 今行きまーす!」
背丈の大きいメイドの背中を追うのは、メイドの少女であった。長い茶の髪を結ってコンパクトに纏めつつも、前髪だけ瞳を覆い隠すように長い。全体的にふっくらとした体つきで、足取りも軽やかとは言い難い。
だというのに先輩メイドの動きに遅れずついて行く様は、仕事こそまだ素人臭さが残るものの光るモノがあった。
なにせ、動作の一つ一つの手際が良い。新人であるがゆえの無知と不慣れさはあるものの、家事などは元々得意だったのだろう。
「……けっこう手慣れてるわね。正直な話、仕事の方はもっと足を引っ張られると思ってたんだけど」
「あはは……元々教会で共同生活をしていましたし、れんご――元の職場で時間を見つけて手伝っていましたから。本業の方はまだまだ未熟なので、あまりやれることが無いんですよ」
互いに口を動かしつつも手は止まらない。手慣れた先輩メイドとそれをサポートする後輩メイドは、流れるような動きで掃除を完了させていく。
背の高いメイドは後輩メイドに労いの言葉をかけようとし――口を閉ざした。
――じゃらり、じゃらり、装飾品が擦れ合う音がする。
はっ、と小太りの後輩メイドが息を飲んだ。
「おやおや、アニーではないか。仕事に精が出ているようで何よりだ、感心感心」
膨らんだ体に仕立ての良い礼服を纏い、その上から過剰なほどに装飾品を重ねた男――賢人円卓の貴族は、にまりと笑みを浮かべた。
彼は欲望を隠そうともせずアニーと呼ばれた背の高いメイドの体を舐めるように眺め、後輩メイドの方に視線を向けた後、わざとらしく溜息を吐いた。ああ、これは外れだ、と。
そんな視線など全く気にしていない風を装いながら、アニーと呼ばれた背の高いメイドは恭しく頭を下げた。
「お褒めに預かり光栄です――ですが、今日はいかがされましたか? 普段であれば地下に居る時間でしょう」
「なに、最近奴隷の補充が少なくてな、抱き飽きてきたのだよ。……そうだ、光栄に思うついでに、どうだね? こんな下人の仕事はそちらの太めの女に放り投げ、私の寝室で喘ぐ仕事をしては。ああ、それが良いそれが良い、そうと決まれば今すぐにでも――」
「恐れながら――今現在、雑音様は酷く機嫌を損ねています。貴方もお気づきでしょう」
言葉を遮る非礼をしながら、しかしそれ以上に言わなければいけないことがあると貴族の眼をじっと見つめる。
「ああ、そうだなぁ……あれで自分は冷静なつもりだというのだから愚かしい。腹芸の経験が足りんよ、経験が。あのような小僧、転移者でなければただ屁理屈が上手いだけの子供だ」
「ええ、その通りです。ですが、引き継ぎもままならない状態であたしが抜ければ、屋敷は荒れ、それを見つけた雑音様が難癖をつけて暴れる可能性があります。あたし自身はもちろん、あたしを娶った貴方に対しても。子供の癇癪でしかありませんが、あれでも彼は転移者ですから」
そうなれば、困るのは貴方たちだ、とアニーは微笑む。
「ですので、機嫌を取るため屋敷に埃の一つも残しておくワケにはいかないのです。真の支配者たる賢人円卓の皆様を、たかだか子供の癇癪で失うワケにはいかないのですから」
「そうだなぁ……子供の癇癪に巻き込まれるのは頂けない、ああ頂けないとも」
仕方ない、仕方ない、そう鷹揚に頷いていた貴族だったが、にたりと意地悪気に口元を歪めた。
「だが、それはつまり――あの小僧の機嫌が治れば、伽を命じても良いということか?」
「ええ、もちろん」
最初は断らせて、その次に実現可能な要求を――そう思っていたのだろう。
まさか肯定されるとは思っていなかったようで、賢人円卓の貴族はしばし呆けたように口を開いた。
「ほ――本当か!?」
「今までは仕事が忙しくて抜け出すことは出来ませんでしたが、幹部も減り、新人を雇うことも出来ました。これで雑音様の機嫌を損ねる要因――連合軍の撃退さえ済めば、断る理由はありませんわ。その時を楽しみにしています」
「わ、分かった! 前言を翻すなよ、既に言質は取っているからな!」
「ええ、ええ、もちろんです」
その後も何度も念を押した貴族だったが、自身の聞き間違いでもアニーの言い間違いでも無いと理解したらしく、にまりと喜悦の表情を浮かべた。
「そうか、そうか――はははっ! いやいや、なるほど――求めても応えなかったのはそういう事情があったからか! ならば良し、許そう許そう」
貴族は何度も頷きながら、こちらに背を向けて去っていく。
その背が見えなくなり、数十秒ほど経った頃だろうか。アニーが力を失ったかのようにふらりと壁に寄りかかった。
「ッ……ぅぁぁあ、反吐が出るぅ」
「だ、大丈夫ですか? アニーさん。……というか、あんなこと言っちゃって良かったんですか?」
連合軍撃退後と期限を決めてはいるものの、あそこまで色好い返事をしてしまったのだ。
私室に呼ばれて伽を行うことはなくとも、馴れ馴れしく体を触られるくらいはあるかもしれない。自分の要求を受けたのだ、さてはこの女、自分に気があるぞ――そんな男性特有の妄想を抱きながら。
「あー、大丈夫大丈夫。乳も尻も安いモノ、とまでは言わないけど寝室で色々やるよりは遥かにマシだしね。それより――」
アニーは微笑みながら小太りの少女の前髪を掻き分けた。
「――けっこうバレないもんでしょ? ノーラちゃん」
ええ、と。
小太りの少女は――否、メイド服の下に多量の衣服を纏い、髪型を変えて染髪したノーラは頷いた。
「でもニールさん……ああ、友達の剣士なんですが、その人なら動きの違和感に気づいちゃいそうな気がします。やってもらっておいてこんなこと言うのは申し訳ないんですけど、子供騙しの変装ですし」
言って、自分の体を再度確認する。
重ね着で着ぶくれして体型を誤魔化した後、その上からメイド服を着る。まあ、これは良い。かなり動きづらいし夏だったら命の危機だとは思うが、今は冬だから問題ない。動き続けていると暑いが、水分補給さえしっかりすれば良い。
問題は、髪だ。
元々サイドテールにするためにそれなりに伸ばしていた髪を結い、後ろ髪を前に持ってきているのだが――
(髪を染めるモノが手近にないからって、布を染める染料で染めちゃってるんですよね……これ)
ごわごわとした髪の感触に違和感を抱くのもそうだが、無理矢理染めたために髪の毛に凄いダメージが入っている気がする。
旅の最中でも出来る限りケアしていたというのにこれだ。必要なことだとは思うけれど、それとは別にちょっとだけ泣きそうになる。全部終わったら頑張って治癒の奇跡を使ったりケアしたりしよう、と内心で大きく頷いた。
そんな複雑な乙女心を察したのか「髪の毛に関してはごめんね」と申し訳なさそうに頭を撫でてくる。
「変装の子供騙しっぷりも……ま、やったあたしが素人だしね、仕方ないわ。けど、そんな子供騙しだって堂々としてれば『体の動きに詳しい人間』でなければ問題ないのも証明されたでしょ? だからもっともっと堂々としなさい、嘘吐く時に後ろめたそうな顔してるとすぐバレるのよ。自然体でいればいいの、自然体で」
「……なんだか、凄く実感の篭ったセリフですね」
「ええ、その通り。旦那様の部屋に食事を届ける時に、少しつまみ食いとかしてたのよ。おかげで五回目まではバレずに美味しく食べられたわ。……うん、さすがに五連続はマズかったなぁ」
あの時はさすがに怒られたわ、と言っているが怒られるで済むのか、さすがに不敬過ぎやしないか。曲りなりにも貴族とメイドの関係だろうに。
もちろん仕事は丁重だし、屋敷の構造を熟知しているため効率良く動いているのだが、そういう部分以外が粗雑過ぎる気がする。
「まあ、メイドになる前からの付き合いだからね。昔はよく冒険者だったゲイリーさんと一緒に遊んだり喧嘩したり、色々やり過ぎて前領主様にこっぴどく怒られて三人一緒に牢にブチこまれたりしてたわ」
「なんかわたしが抱くゲイリーさんのイメージがどんどん崩れていくんですけど」
「むしろノーラちゃんがどんなイメージを抱いていたのか疑問なんだけど……っと。屋敷の清掃は終わりね。後は――」
そう言ってアニーは庭に視線を向けた。
すると響いてくる複数人の男性が談笑する声と、のそのそとした足音が響いて来た。
庭の花畑を観賞していた者たちが屋敷に戻ってきた――ワケでは断じて無い。彼らに花を愛でながら歓談する趣味があるとは到底思えないし、庭に複数の人間が談笑していたら大声で無くても気づく。
それは即ち、屋敷まで音が届かぬ場所に居たということ。
地面をくり抜いて作り出した地下施設から、一人、また一人と賢人円卓の貴族たちが満足気な笑みを浮かべて現れる。
「いやあ、やはり従順な娘は良い。頼まずとも自分で動いてくれるから、仕事で疲れた体でも存分に愉しめるというモノだ」
「毛布一つであそこまで媚びてくる卑しさもまたそそりますな。人間、ああはなりたくはない」
「はははっ、その通り、その通り!」
「ふふふ、そちらも愉しんだようで何より。しかし、私は反抗的な方が良いですなぁ。無駄だというのに暴れて、喚いて、最後には羞恥と悔しさによって涙を流す――ああいう娘を組み伏せてこその奴隷だと私は思うのですよ」
「ああ、あの死にかけているエルフの娘もそんな風に扱っていましたな。お気に入りなら治療してやってもいいのでは?」
「まさか、一度抱いた中古品などに興味はありませんよ、汚らわしい。もっとも、これは私の考えであって、あなた方の誰かが専用奴隷にしたいというのなら止めませんがね」
「遠慮させてもらうよ、病気でも移されたらたまったものではない」
「然り、然り。あれは見せしめとして横たえておくのが正解ですとも、それに騎士共を退けたらエルフなんぞいくらでも仕入れられますからな。一人に固執する理由はありませんよ」
――――今すぐにでもその顔面をぶん殴ってやろうか。
あまりといえばあまりの会話に血液が沸騰しそうになるが、しかし拳を強く強く握りしめて耐える。
確かに、彼らは弱い。肥満体の者が大多数で、そうでない者の体つきも運動に適しているようには見えない。ノーラでも、きっと殴り倒すことが出来る。
けれど、それでは何も解決しない。音を聞きつけた無二や雑音によってノーラは捉えられてしまう。
ゆえに、今は我慢だ。
「そういえば、バーベナ殿はまた欠席ですかな?」
「ええ、またです。全く、自由に出来る穴があるというのに、一体なにが不満で拒否しているというのか」
「まさか、男色家なのではありませんか?」
「はははっ! それは怖い。なら、欠席してくれるのは我々にとっても都合が良かったのかもしれませんな。心ゆくまで愉しんでいる最中に背後を狙われてしまう」」
下品で下卑た笑い声が屋敷に居るノーラたちの方まで届く。拳を更に強く握りしめて、胸から湧き出る激情を押さえ込む。必死に、必死に。
自分たちの会話を隠すつもりなどない――いいや、隠す理由すらないと考えているのだろう。なにせ、彼らはレゾン・デイトルを運営する貴族だ。金銭や女は下手な転移者よりも自由に扱えるのだろう。
ゆえに、己は特権階級だ――と。
その在り方は、考え方次第では規格外を得て暴走する転移者よりも醜悪であった。
なにせ、彼らは規格外を得てはいない。
現地人のまま、人間のまま、転移者に寄り添って甘い汁を吸い続ける。自身の意思で、自身の選択で、誰に強制されたワケでもなく。
「……大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
へらへらと笑いながら私室に戻る彼らを見送った後、ノーラは硬い声音で答えた。
自分が冷静ではないことくらい、百も承知だ。だからこそ、大きく深呼吸をして心を落ち着ける。
怒りという感情には爆発力があるものの、同時に視野を狭めるモノだ。そして、ノーラ程度が爆発力を発揮したところで、この状況では何の役にも立たない。
「そう。ならいいの。それじゃあ――」
「――地下奴隷施設の掃除かい?」
かつん、と。
背後で靴音が鳴る。
振り向くと、詰め襟の黒服に隠者めいた黒の外套を羽織った少年――雑音語りが佇んでいた。
「アニー君。一応、君にはあそこに近づくなと言っておいたのだけどね。なにせ君は仕事が出来る。あんな場所から病気を貰って寝込まれたら、こちらも困るんだよ」
嘘ですね、とノーラは思った。
だって、彼の眼にアニーを気遣う色は欠片も存在しない。
あるのは警戒、ただそれだけ。
なにせ彼女はナルシス時代からのメイドであり、クレイスとも親しい人間だ。屋敷の構造にも詳しい彼女に、新造した施設の情報を与えたくないのだろうと思う。
「いえ、掃除をするのはあたしではないんですよ。……ほら、挨拶して」
「ふん? 見ないメイドだね」
じろり、と雑音の視線が体に突き刺さる。
(……ッ)
その視線に、僅かに体が震えた。
本当に騙しきれるのか、そんな不安が胸から溢れ出して――けれどそれを力づくで押さえつける。
騙すのなら堂々と、さっき言われたではないか。
「初めまして。わたしは、数日前にアニー様に雇われたノーリーンです。……雑音語り様ですね? よ、よろしくお願いします」
少し声が震えたが、大丈夫だろうか。転移者を前に緊張しているのだと思ってくれれば最良なのだが、あまり自信はない。
だが、そんな不安を仕草に出すワケにはいかない。ただただじっと、雑音の返事を待つ。
「……そうか、なら良いよ。ノーリーンさんだったね。あの連中はけっこう汚すから、丹念に掃除をしてくれ。頼むよ」
それだけ言って、雑音は踵を返した。
階段を上がって私室へと向かう姿をしばらく見送って――大きく安堵の息を吐いた。
なんとか乗り切ったが、正直心臓に悪くて困る。
背を丸めながら大きく息を吐いていると、背中をぽんぽんと優しく叩かれた。
「お疲れのところ悪いけど、お願いね。実際、ちゃんと掃除しないと病気の娘が増えると思うから」
申し訳なさそうに言って、アニーは掃除道具といくつかの道具を手渡した。
掃除道具は分かるが、後者は一体なんなのだろうと思い手渡されたモノを観察する。それはお湯の入った桶と複数枚のタオルであった。
「地下にお風呂とかがないのは見たでしょう? せめてそれで体を拭わないと」
「そうですね――分かりました、頑張ってきます!」
気合を入れて頷くと、掃除道具とお湯、体を拭うタオルを持って庭に出る。正直かなり重いが……歩けない程ではない。
時々小休止を入れながら庭を横断する。その時に鼻孔をくすぐるストックの花の香りで、ほんの少しだけ心が落ち着くのを感じた。強めの匂いで好き嫌いは分かれると思うが、ノーラは嫌いではない。
それに、微かに香る繊細な匂いの花であったら、とっくの昔に地下から漂う臭いに押し負けてしまっていただろう。こんな形で花が使われているのはどうかと思うが、今はありがたい。
「よいしょ――っと」
かつん、と地下へ繋がる階段に足を載せる。
厚着をし掃除道具を持った現状、昨夜忍び込んだ時よりもずっと歩きにくい。壁に手を置きながら、ゆっくりと階段を降っていく。それに伴い、嫌な臭いもまた強くなっていった。
昨夜は既に掃除を済ませた後だったのだろう。だけど、今は違う。一番初めに階段の奥を覗き込んだ時に感じた嫌な臭いが、強く強く漂ってくる。
「ぅ……」
少し、少しだけ足取りが鈍った。
行きたくないな、このまま戻ってしまいたいな、という気持ちがノーラの足を絡め取ったのだ。
だが、それを振り切り奥へ奥へと進む。
ここに残る選択をしたのはノーラ自身なのだから、ちゃんと役目を果たさなくては――という想い。
それに、こんな環境から逃げられない状態で囚えられている少女たちを思えば、この程度で足を鈍らせるワケにはいかないと思ったから。
そうして訪れた室内は昨夜と同じ――けれど酷く汚れ、異臭を発していた。
真ん中に設置されたベッドのシーツには未だに乾ききっていない体液の染みがあった。ベッドを使わない者も居たのだろう、地面にも体液やら糞尿の痕がある。
「……誰? 見ない顔ね」
異臭に顔を顰めつつ、「掃除が大変そうだなぁ」と現実逃避気味の感想を抱いていると、牢から問いかける声が響いてきた。
視線を向けると、鎖で繋がれた少女の姿。賢人円卓が犬のように連れ回し、昨夜ノーラや連翹を忌々しげに睨みつけていた娘だ。
ノーラは荷物を置いて牢の前に立つと、前髪を掻き上げて素顔を晒した。
「……昨夜ぶりですね。わたしです」
「……ん? ……あ、え? あの時のノーラとか呼ばれてた娘?」
ええ、と頷く。
「そうですよ。アニーさんっていう屋敷のメイドにお願いして、潜り込ませて貰ったんです」
「……呆れた。本当に一人で残るなんてね」
ですよね、と思わず苦笑してしまう。
実際、危険なことをしているという自覚はあるのだ。ノーラが求められていたのは弱者としてレゾン・デイトルの情報を得ることであって、誰かを救うために動くことではない。本来しなくても良いことなのだ、これは。
だが、それでも見過ごすことなど出来なかった。馬鹿なことをしている自覚はあるけれど、冒さなくていい危険を冒してる自覚もあるけれど、それでもノーラはここに留まることを選んだのだ。
「そんなことより、さっさとタオル渡しなさいよ。湯が冷めるじゃない」
そんなノーラの背中に、冷めた声が投げつけられる。
声の主は、この地下牢の中だというのに豪奢な衣服を纏った娘であった。
怪訝に思ったノーラだが、すぐに思い出す。昨夜忍び込んだ時に、寒さに震える者が居る中で防寒着や毛布を支給されている娘たちの集団が居たことを。
それは賢人円卓に協力的な娘たち。従順な態度で悦ばせたがゆえに優遇された存在だ。
鎖に繋がれた少女はそちらを睨み、苛立たしげに吐き捨てる。
「……偉そうに、喜んで抱かれに行くアバズレの癖に」
「なによ、未だに反抗してる馬鹿とか死にかけてる奴の代わりにあいつらの機嫌を取ってやってるんだから、それくらいの約得あってもいいじゃない――どうせ、先なんてないわけだし」
傲慢な物言いにも聞こえるその言葉、言葉通りに受け取れば苛立ちすら抱きそうだったが、しかしノーラは彼女らに悪感情を抱くことは出来なかった。
実際、そうでもしないとまともに生きていけない状況だということもあるが――何より、その言葉に諦めの色が見えたから。どうせ自分はこのまま飼われ続けるのだから、と。
「いいえ、先ならあります。作ります。……わたしなんかが言っても説得力はないでしょうけど、わたしよりずっと頼りになる人たちが居ますから」
思い浮かぶのは連合軍の皆、そして一番印象的なのは友人たちの姿だ。
一番距離が近いから、というのもあるが――それでも彼らが、彼女が頑張っている姿を見ているから。
ニールは言動が荒いものの、毎朝の鍛錬を欠かさずこなし割り振られた仕事をきっちりとこなす、根っこは真面目な人だ。だからこそ、頑張ったぶん報われて欲しいなと思う。
連翹は少々調子に乗りやすいところを除けば真っ当な女の子。転移者ゆえにズレてるところもあるが、しかしやるべき時は真剣で頼りになる友達だ。困っている時は支えたいと思うし、自分が困った時は遠慮なく頼れると思っている。
そして、カルナ。
多くの知識を蓄え、強力な魔法を操る一見完璧に見える人。でも、近くで見ると色々と隙だらけで見た目よりずっと子供っぽい彼。
そんな皆が揃っているのだ、出来ないことなどない。ノーラはそう信じている。
「ふぅん。助けられるって信じてるワケね、アンタは。……まあいいわ、貸しなさい」
胡乱げな眼差しを向けた少女は、しかしすぐ興味を失って体を拭い始める。
全く信用されていないようだが、ノーラは仕方ないと割り切った。
実際に転移者と戦い倒した姿を見ていないのだから、彼女らにとってノーラが語る言葉など夢物語に過ぎない。
ゆえに、これ以上言葉を重ねても意味がない。後は行動で示すのみだ。
一人、一人と丁寧に暖かな湯に浸したタオルを渡していく。大丈夫、もう少しの辛抱ですからと言い聞かせながら。
それに対する反応はまちまちで、「助けが来る」と無邪気に喜ぶ者も居れば、先程の娘のように信用できないと睨む者も居る。光の失せた眼で、言われるがままに動くだけの娘も、数人。
そういう少女たちを見ると、もっと何かをしてあげたくなる。もっともっと、やれることがあるのではないかと思う。
(――駄目、駄目、駄目。それはきっと、冒険じゃなくて無謀だから)
今この瞬間だって客観的に見れば無謀なのだ。だというのに、これ以上何かをしようとすれば、雑音や賢人円卓の面々に違和感を抱かれるだけ。
けれど――これだけはしなくてはならない。
ノーラが視線を向けたのは、昨夜肺炎で倒れていたエルフが居た牢であり――先ほど賢人円卓たちが『見せしめ』と言った少女たちが転がされた場所であった。
「具合はどうですか? ……いえ、ごめんなさい」
馬鹿馬鹿しい問いかけをした、と頭を下げる。良いはずなんてないのに。
けれど、横たわったエルフの少女は、小さく首を横に振った。
「ううん、ありが、と――少し、良くなってる」
「良かった……ごめんなさい、わたしがもっと高位の神官だったら、もう少し病状を落ち着かせられるんですけど」
やはり自力が足りていない――分かりきっていた事実なのだが、それを痛感する。
これがマリアンのような実力ある神官であれば、こんな苦し紛れみたいな治癒ではなく、病状を安定させることくらい出来ただろうに。
「気にしないで。この子も、あたしも……もう無理かなって思ってたから」
横たわったエルフの少女を抱きかかえ、ドワーフの少女が鉄格子の前まで歩み寄ってくる。
「創造神ディミルゴに請い願う。失われ行く命を守る力を、癒しの奇跡を」
創造神に祈りを捧げ、その光で立つ力も残っていない少女を癒やす。病気の原因を取り除くワケではないし、こんな劣悪な環境ではすぐに状態は悪化するだろうが――それでも、やらないよりはずっと良い。
それに何より、病は気から、だ。
心が弱れば体も弱る。だから、少しでも安心させてあげたい。
この苦しみには終わりがあるのだと。
だから、雀の涙程でも良いから希望を抱いて欲しい。
「……安心して待っていてください。大丈夫、きっとお家に帰れますから」
治癒を終えると、ノーラは安堵させるように微笑んだ。
心配なことは色々とあるが――それでも、助けると言った本人が不安そうな顔をしていたら、その言葉を誰も信用してくれない。
「……よしっ、後は掃除!」
気合を入れて地下の掃除に取り掛かる。
正直気が滅入る作業ではあるのだが――それでも、目の前に居る娘たちを救うための一因になると思えばやる気が溢れてくる。
(そう、今はやれることを一つ一つやりましょう。冒険するのは、もっと先)
地道に、慎重に、しかしいざという時は縮こまらずに全力で。
そうすれば道は拓けると信じ、行動するのだ。
◇
ノーラたちと別れ私室に戻った雑音語りは、部屋の鍵を閉めた後、「ひひ」と笑みを浮かべた。
「――見つけた、見つけた、見つけたぞ、愚かな醜女と一緒に来た付属品め」
雑音は武芸に秀でているワケではない。
無論、他の転移者よりも優位に立つべく体の動かし方くらいは学んだが、せいぜい通信教育で空手を勉強しました程度のレベルだ。戦士を名乗れるレベルでは断じて無い。
ゆえに、彼はノーラの変装を見破れない。事実、変装したノーラを見ても『デブ女』程度しか考えなかった。
「覚えてる、覚えてるぞ、その『声』を。被害者ぶって震えていた時の、ぼくを騙していた、あの時の声を」
だが、雑音は覚えていた。
別に、特別重要視していたワケではない。ただ――憐れで惨めな小娘の姿に、恐る恐ると声を発する矮小さに、彼は優越感を抱いていたから。
「……殺すか、殺そうか、そうすべきだろう?」
殺すのは簡単だ、スキルを使うまでもない。
乱雑に腕を振るえば、彼女の頭など地面に叩きつけられたザクロのように砕け散る。
いいや、いいや、頭を潰してしまうのは勿体無い。苦痛に喘ぎ、死に怯える絶望を鑑賞できないではないか。
やるなら、腹。腹パンの要領で腹部を殴れば、か弱い女の腹など容易く突き破れる。
突然貫かれた腹部に呆然とし、しかしすぐに痛みで現実に引き戻され、多量の失血で死んでいく――ああ、良い。これは楽しそうだ
「いいや、違う、違うな。これじゃあまるで、ぼくが怒り狂ってるみたいじゃないか」
掌で顔を覆いながら、静かに首を左右に振る。
自分の目的はまだ順調だ、なにも失っていないし、負けてもいない。
だというのに力任せにあの女を殺したら――凡愚が女如きにしてやられたあげく、発狂しているように見えるではないか。それは駄目だ。自身は、そのような感情的な劣等とは違うのだ。
それに、連合軍などという現地人だらけの集団が転移者を追い詰めるには、この程度のハンデは必要不可欠。無二の規格外の条件を引き出すために、王を焦らせなくてはならないのだから。
そうとも、雑音は冷静だ、現状を正しく認識している。
冷静だ。冷静だ。冷静だとも。
ただ――現地人風情が転移者に粗相をした以上、罰を与える必要がある。
これは怒りという感情とは無関係、罪と罰というシステムに則って行う論理的な行動だ。
「そう、そうとも。卑しい現地人如きがぼくを騙したんだ、これは当然の帰結だ。けれど――劣等を相手にすれば、ぼくの手が汚れる。ゆえに、劣等には劣等を、だ。ああ、あれで中々可愛らしい顔をしていたし、彼らも喜んでぼくの提案を飲んでくれるだろう」
脳裏に浮かぶのは醜い脂肪に覆われた賢人円卓の貴族ども。
戦いが始まれば連合軍の騎士たちをおびき寄せる囮にしかならないが、最期に少し役立って貰おうではないか。
なに、目の前に人参を吊るした以上――自分が望む方向に走ってくれるに違いない。
「うん、うん、いい具合にピースが揃った。……ははっ、そうだ、そうだよ、誰もぼくの策からは逃れることは出来ない」
廃棄予定のガラクタがこれほど役に立つとは、と雑音語りは笑みを浮かべた。
誰も彼も、己の雑音によって惑わされる愚者共でしかない。
(ああ――やっぱりぼくは最高の策士だ!)
己の頭脳とそれを最大限に生かす舌、学校では評価されない項目ではあったが――この異世界では違う。
興が乗った雑音は両腕をリズミカルに振るう。それはオーケストラの指揮者のように。
「さあ、フィナーレだ。争え争え小物ども。誰もがぼくの掌の上だと気付かず――ね」
そう言って、笑う、嗤う、嘲笑う。
連翹とノーラを、連合軍を、レゾン・デイトルの転移者どもを、そして――砂上の楼閣の玉座に座る王を。
その全てを見下し、彼は嗤い続ける。デタラメな指揮者の真似事をしながら、ただただ一人で。
どれだけ戦闘能力があろうと、どれだけ大層な肩書を持っていようと、己の掌で踊る凡愚に過ぎぬと嘯きながら。




