199/地下奴隷部屋
「さて、と。これで大体の情報は得られたわね」
「そうですね。もちろん、これが全てではないのでしょうけど」
上級宿舎を観察し終え、屋敷の自室に戻った連翹とノーラは椅子に座って話し合っていた。
幸運なことに、街中の襲撃はあれ以上なかったため、比較的のんびりと街を歩くことが出来たのだ。
(けど――あの連中、どうしたのかしら)
連翹たちを騙し、路地裏に引き寄せた男を斬り殺してから――それを見た転移者たちが酷く恐れていたのだ。
幹部クラスの実力があったから、ではないと思う。実力者を恐れるのは当然の思考だけれど、あれはもっと別種の恐怖に思えた。
それを問いただしたかったのだが……連翹やノーラが声をかけるだけで怯えてしまって、会話にならなかったのだ。
連翹に向けられる未知の恐怖はもちろん、転移者の力を奪い殴り倒したノーラもまた、転移者たちにとって恐怖の対象なのだ。最低限、街門前広場と上級宿舎の案内をしてくれたのが奇跡であった。
ふう、と息を吐いて机の上に置かれた紙を見る。
それはレゾン・デイトルの地図だ。おおよその形と、施設の場所を記してある。
それに加え、王と残った幹部の情報をいくつか手に入れた。最低限、求められた仕事はしたと思う。
無論、調べようと思えばまだ調べられるはずだ。じっくりと腰を据えて、何度も聞き込みをして――それを繰り返せばもっともっと精度の高い情報を得られることだろう。
だが、連翹もノーラも情報収集のプロではない。そんなことを繰り返していれば、油断している雑音もさすがに怪しむ。
自分たちが求められているのは相手の油断に乗じて内部を探索することであり、無事に戻ること。
ゆえに、そろそろ潮時だ。欲張って警戒されて逃げられなくなりました、なんてことになったら最低限の情報すら持ち出せない。
(それに、今程度の警戒なら逃げ出すことは簡単)
外壁に寄り添うように建設された下級宿舎。あそこには外壁に登るためのハシゴがあった。
深夜にそこに行けば脱出は容易い。もちろん、見張りは存在するだろうから、逃げたことはバレるだろう。
だが、素人や少し戦い慣れただけの転移者ならば問題ない。ノーラを抱えながらでも十分逃げ切れる。
「……ううん、違う。そんな考え方じゃあ、たぶん駄目」
確かに雑魚相手ならどうとでもなる。
だが、見つからずにスムーズに逃げられる方が良いに決まっている。敵と戦う云々は、最後の手段にすべきなのだ。
だって、『あの程度の敵なんて雑魚でしか無い』――そんな思考、余裕ではなく油断ではないか。
連翹は確かに戦い慣れているし、剣術も学んだ。複数人に襲われても、十分対応出来る実力はある。
けれど『だから見つかっても平気』などと思ってはならない。
それでは規格外に酔った転移者と同じ、授かりモノの力と努力して得た力程度の違いしか無いではないか。
どんな力であっても、使い方と心構え次第。それを忘れてはならない。
「なら、やっぱり脱出は夜中かしら。いや、明け方が警戒されにくいってなんかラノベで読んだ気がするけど……ううん?」
いや、いっそのこと昼に動いた方が、多くの転移者が騒いでいる分、目立たないのではないだろうか?
悩む、悩む、悩むが――答えなんて簡単には出てこない。
うんうんと唸っていると、不意にノーラが「あのっ」と声を上げた。
「レンちゃん、脱出の前に調べたい場所があるんですけど、構いませんか?」
「え? ああ、確かに一度出てったら戻って来れないし、気になるなら調べておくべきだと思うけど。でも、どこを――」
そこまで言って、「ああ」と納得した。
庭の花畑――その奥に作られた地下室。賢人円卓たちが女奴隷を連れ込んでいる場所だ。
下手に侵入すれば警戒されるからと後回しにしていたが――なるほど、そろそろ調べておくべきだろう。
「なら、行動は夜中ね。賢人円卓の連中も昼には仕事してるみたいだし、その時間は寝てるでしょ」
そう言ってから、短慮な思考だろうか? と悩む。
クレイスとやらに会って、情報収集をしてから行くべきか? そう思ったが、悩んだ末にその案を却下する。
(行動前に不信感を抱かれるような真似はしたくないし……仮に地下に賢人円卓の貴族が数人残っていても、傲慢な物言いで居座れば良い。あっちも転移者と喧嘩はしたくないだろうしね)
無論、翌日に雑音へクレームが送られるだろうが――その頃には自分たちは脱出している。
リスクはあるが、動く前に警戒されて地下室で待ち伏せされたりするよりはマシだろう。
(……ああ、けど、怖いなぁ)
自分の選択が正しいのか間違っているのか、分からないことが怖い。
これが自分だけの問題ならまだしも、ノーラを巻き込むことになると考えると失敗が怖くて仕方がなかった。
そういう意味では、転移者の多くが抱く自分こそが思考で他は塵芥という己の欲望に直結した思考も便利ではあると思う。他者を大切に思わず、自分自身を規格外で守られている以上、恐れることなど何もないのだから。
無論――ある意味では、だ。
もう二度とあんな身勝手な考え方には戻れないし――戻りたくもない。
◇
太陽が落ち、屋敷や街から明かりが失せ始めた頃を見計らって、連翹とノーラは移動を開始した。
ゆっくりと自室の扉を開ける。ぎい、という音が静寂の中で嫌なくらい響いて、冷汗がたらりと落ちる。
「……行くわよ、ノーラ」
無言で頷くノーラを確認した後、靴をついで廊下を歩く。最低限、足音を無くそうという試みだが、内心でこの程度で大丈夫なのか? と疑わしく思ってしまう。
連翹もノーラも隠密行動が得意というワケではない以上、この手の気配に敏い人間が居れば簡単に見つかってしまうことは予測出来た。
だが、ここに居るのは転移者と現地人の貴族に使用人、後は違法奴隷くらい。連翹たちの気配を探れるような敏い人間は居ない。居ない、はず。
(まずい、と思ったらノーラを連れて全力ダッシュ。外壁を乗り越えて外へ……)
一階への階段を降りながら自分に言い聞かせる。幸い、周囲に人の気配はない。大丈夫、大丈夫、大丈夫なはず。
ロビーに行き、そのまま庭へと続く扉に手をかけ――右、左、と周囲を探る。
人影は見えない。
こちらを伺っている誰かの気配も、たぶん。
ごくり、と唾を飲みながら内鍵を外して扉を開ける。ぎぎぃっ、という思ったよりも大きな音に心臓が跳ねるが――もうここまで来たら周囲の気配を探るよりも庭に逃げ込んだ方が良い。ノーラの手を掴んで扉の隙間に体を滑り込ませ、慌てず、ゆっくりと扉を閉める。
すぐに花畑へ行かず、扉の近くで身を隠す。
花畑は廊下の窓からも見えたはずだ。扉を開ける音に気付いた者が居たら、花畑の奥へと駆ける連翹たちの姿が見られてしまう。
(これで、大丈――!?)
大丈夫かしら、そう思いかけた瞬間、扉が開く音がした。
こつ、こつ、という足音が響く。ゆっくり、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
どこかへ行け、どこかへ行け、そう願うのだが足音は近づくばかり。そして、扉の前でぴたりと止まった。
誰だろう、と窓から覗き込みたい衝動に駆られるが、ぐっと押さえ込む。
数秒の、しかし連翹の中では数十分近い沈黙が訪れ――屋敷から響く疲れが滲んだため息によって破られる。
「……カギ閉まってないし、風で開いたのかしら。……全く、誰よ最後に閉めた子は」
そう言ってがちゃりと扉が閉まる。
その後、足音はゆっくり、ゆっくり遠ざかって行き――遠くで扉が開き、閉まる音が響く。
しばしの間、そのままじっとしていた連翹とノーラだったが、完全に人気が失せたのを感じ取ると互いに安堵の息を漏らした。
「……よし、それじゃあノーラ、入り口までお願い」
「はい。こっちです」
そう言って頷いたノーラは小走りで花畑の脇を駆ける。
仮に二階から誰かが覗いていたら、身を隠す場所はない。だからこそ急いで、しかしなるべく音を出さないように慎重に進む。
幸い、誰かがこちらを見ている感じはしない。
その感覚が正しいか否かは判断できないけれど、今更立ち止まることなど出来るはずもない。ノーラの案内によって辿り着いた地下室の入り口に駆け込んだ。
「はあ、はあ……これで、ぅっ!?」
緊張で荒くなった息を整えるために大きく息を吸って、思わず戻しそうになってしまう。
嫌な臭いがする。
それは汗とか涎とか血液とか――そして、それとは別の体液が混じり合った臭いだ。
「……少し、外で呼吸を整えた方がいいんじゃないですか?」
「だ、大丈夫……必要以上に姿を晒したくないしね。……けど、ノーラは平気なの?」
「わたしは――入り口までは一度来ているので」
心構えがあったから踏ん張っているのだと、ノーラは顔を顰めつつ言った。
要は気合で耐えているというワケだ。前々から思っていたけれど、いざって時の行動力とか精神力が高すぎやしないだろうか――そんなことを考えながら、連翹はゆっくりと呼吸を整える。
嫌な臭いだ。単純に悪臭であるというのもそうだが、なぜこんな臭いがするのかと想像してしまうから余計に気分が悪い。
吐き気を抱きつつも、しっかりと呼吸して鼻を慣らす。中に何があるか分からないし、最悪転移者が潜んでいるかもしれない。確かに連翹は一般的な転移者よりも強くはあるが、しかし呼吸がまともに出来ない状態で勝利出来るかというと無理だ。
「……よし、大丈夫。行きましょ」
ようやく臭いに慣れた――正直、あまり慣れたくはなかったけれど、ともかくその――後、静かに階段を降りていく。
夜闇の中で地下に潜ることに微かな恐怖を抱くが、幸いに階段の奥から微かな明かりが見えるため、うっすらとだが足元は確認出来る。
土や岩を削り出したような内装だが、木材や鉄材によって天井が補強され、階段もまた綺麗に整えられている。恐らく、転移者が力に任せて地面を削り、その後に現地人の大工などが補強したのだろう。だが、この季節に暖房のない地下空間――寒くて寒くて仕方がない。
さすがにそこまでは現地人の大工も手が回っていなかったのか、それとも賢人円卓の面々が自分たちが居ない時に燃料を使うのは勿体無いとケチっているのか。どちらにせよ、吐いた息は白くなるばかりだ。
微かに体を震わせて周囲を観察しながら移動していると、明かりの灯った部屋が見えてきた。
「……」
聞こえる。
誰かの息遣い、誰かが身動ぎする音、がちゃりがちゃりという金属質な音。
そっと剣の柄に手を置きながら、明かりを目指す。
「……だ、誰?」
足音に気づかれたのだろう、誰かの声が明かりの灯った部屋から響いてくる。
一瞬、転移者の見張りか賢人円卓の誰かに見つかったのかと思ったが――違う、これは少女の声だ。怯えを含んだその響きは、囚われている違法奴隷の誰かのモノだろう。
慌てて駆け出そうとする足を強引に押さえ込み、前方と背後からの奇襲を警戒しながら声のした方へと進む。
(気にし過ぎかもしれないけど、奇襲するならこういうタイミングだものね)
ノーラと頷きあいながら、ゆっくり、ゆっくりと進み――辿り着いた。
幸い、見張りは居なかった。
賢人円卓も、ここには居ない。なるほど、確かに幸運と言えるだろう。
だが――目の前の光景を見て『自分は幸福だ』などとはとても思えなかった。
そこにあったのは複数の牢獄だ。
正方形を両断し、別れた左右を更に三等分したような形だ。真ん中が広い通路で、その通路と隣り合うように六つの牢獄がある。
牢獄の中には人間やエルフ、ドワーフの女性――その中でも見目麗しかったであろう者たちが乱雑に牢の中に放り込まれていた。
牢の中に居る者たちの視線が連翹たちに突き刺さる。怒り、憎しみ、諦め、媚び――数多の感情が混ざり合ったそれに気圧されてしまう。
そして通路の中央。そこに、大きめなベッドがあった。
ふかふかで寝心地の良さそうなベッドだ――そこに鎖や縄、猿ぐつわ、他にも用途の分からない小道具が無ければの話だが。
(ああ――そっか、ここで)
地下室へ向かう階段から臭っていた悪臭、その大本がここなのだと理解した。
無論、最低限の掃除は成されている。ベッドのシーツも変えてあるし、床だって定期的に清掃されているらしい。
だが、空気の流れの悪い地下で繰り返された行為によって染み付いた臭いはそうそう抜けきらないし、少女たちが囚われている牢からも悪臭はしている。
「……雑音に案内されてた転移者じゃない。一体何の用よ」
じゃらり、と鎖が擦れる音がした。
見れば、そこには年若い少女が一人。他の少女たちと同じように牢の中に、しかし他の少女たちよりも厳重に拘束されていた。
ムチか何かで打ち据えられたのか、身に纏う衣服はほとんど破れ半裸となっている。素肌と首輪の隙間にはアザが痛々しい赤色で自己主張していた。
彼女が囚われている牢には、同じように拘束されている人間が後四人居た。反抗的な奴隷を拘束する牢――ということなのだろうか。
(……あれ、この子)
忌々しげにこちらを睨んでくる彼女の顔を覚えている。
レゾン・デイトルに来て、雑音に案内されている時――賢人円卓が犬か何かのように連れ回していた少女だ。
彼女は、連翹の黒髪を忌々しいと言うように睨む。
「転移者でも女はここに寄り付かなかったんだけどね。けど、ああ――そっち系の趣味なの? さすが転移者様ね、どいつもこいつも趣味が悪いわ」
「違う……って言っても、無意味よね」
言葉を尽くそうとして、しかし首を左右に振った。
恐らく彼女は――いいや、ここに囚われている少女たち全ては、レゾン・デイトルの転移者としか会っていない。そんな彼女らに『転移者にも色々な人間が居る』と言っても聞き入れてくれるワケがないだろう。
だから、今やるべきことは口を動かすことなどでは断じて無い。
背後に立つノーラに視線を向け、問いかける。
「……ノーラ、あたしがやれること、ある?」
「今は何も。女神の御手だと明かりが外に漏れると思うので」
それだけ言うと、ノーラは少女の元へと駆け出した。
「なにを――」
転移者と一緒に来た奴だ、信用できるか――そんな眼差しで距離を取ろうとしたが、彼女を縛る鎖がそれを妨げる。
「大丈夫、安心してください……創造神ディミルゴに請い願う。失われ行く命を守る力を、癒しの奇跡を」
祈りと共に生じた燐光が、少女のアザを癒やしていく。
その光景を、何人かが胡乱げな目で見ていた。
だって、ノーラは連翹と共に居るから。転移者と共に――突然自分たちが住んでいた町を襲ったり、強引に自分たちを拐ったりした連中と一緒に居るから。
すぐに信用しろ、という方が無茶な話だろう。少女たちの立場であれば、『奴隷を長期間利用するため、転移者が何らかの手段で神官を仲間に引き入れた』という方がしっくりと来るはずだ。
だから、治癒されている少女も何も言わない。怪我を治されるのはありがたいが、だからといって礼を告げることなどありえない。
「今すぐ信用して欲しい――などとは言いません。あなたたちから見て、わたしたちはきっと非常に胡散臭い他人なんだと思いますから」
けど、と。
言葉を切って、ノーラは少女を真っ直ぐ見つめた。
後ろめたいことなど何もない、恥じ入ることなど何もない、そう宣言するように。
「それでも、これだけは言わせてください――わたしも、そこに居る彼女も、あなたたちを助けるために、上で享楽に耽る人たちを倒すためにここに来ているんです」
「……ああ、あれかしら。時々、あの貴族たちが愚痴ってる連合軍とかから来てるって言いたいの?」
言って彼女はノーラから視線を逸し、連翹を睨んだ。
「正直、信じられないんだけど。後ろに居るそいつのこともそうだけど――こんな状態からいきなり都合の良いセリフ吐かれても、何かの罠かとしか思えないわ」
「ええ、ですから――言葉ではなくて、行動で示します。……他に、怪我が酷い人は居ませんか? 一度ここを脱出する前に、出来る限り怪我を治癒したいのですが」
半裸で拘束された少女は、しばし黙り込んだ。
信用も信頼も、まだ出来ない。
出来ない、けれど――それでも縋らなくてはいけない時はある、と。
「……向かいの牢。あそこに居る娘をどうにかしてあげて」
「向かい……?」
彼女の言葉に従い、そちらに視線を向ける。
「……ぁ、……ぁ」
そこに居たのは、地面でぐったりとしているエルフの少女であった。
呼吸は浅く、しかし早く、息苦しそうに呻く彼女はもう立ち上がる元気すらないのか、視線だけノーラと連翹に向けている。
「た、助けて、あげられますか……? 少し前まで……少し咳が出る程度だったんだけど、ここ数日であんな状態になって……」
同じ牢に囚われていた少女が、その娘を抱きかかえながら鉄格子の前まで歩み寄って来る。
その彼女も顔が真っ青で、お世辞にも体調が良さそうなどとは思えない。だが、それでもと気力を振り絞ってエルフの少女を抱えてここまで来たのだ。
「ぅ、ぇ、ほっ、げ、ぇ……は、ぁ、……ぁ、ぁ」
苦しげに咳き込んだ彼女の口から溢れた痰が散った。
病気などに詳しくない連翹でも分かる。
まずい――なにか、非常にまずい。良くないモノを拗らせてしまっているのが、素人目にも分かった。
「ノーラ、確か医学書とか読んでたわよね? これってなんなのか――」
「肺、炎……」
呆然と呟いたノーラだが、慌てて駆け寄り治癒の奇跡を発動させる。
暖かな光を受けて微かに心地よさそうにするエルフの少女だったが、すぐに苦しげに咳き込んだ。
(肺炎って――ええっと、風邪を拗らせてなる場合があるとか、なんとか……ああもう、保健体育とかで習ったっけ!? 授業なんて真面目に聞いてないからそれすらも分かんない!)
習っていたかもしれないし、中学生程度の授業では習わなかったのかもしれない。
だが、どちらにせよ今このタイミングで連翹は役立たずであった。中学生で異世界転移した連翹に、医療でチートを行う知識は存在しないのだ。
けれど、それでも理解出来ることはある。
恐らく彼女は風邪を引き、肺炎まで悪化させてしまったのだ。
――考えてみれば当然のこと。
そもそも、エルフは元々体が丈夫な種族ではない。
そんな彼女が住み慣れた場所から引き離された上、真冬の地下空間の中、まともな防寒着もない状態で放置されているのだ。
体調を崩して当然だし、まともな看病もされていない以上、症状は悪化するばかりだ。
「ノーラ、治癒の奇跡って病気とかは治せないの?」
「……そういうのはお医者さんの領分なんです。今やってるのだって、生命力を高めてるだけですから。死なないようにしてるだけなんです」
これで今すぐ死ぬ、ということはなくなったが――病気が治ったワケではない。大本を断っていない以上、病魔は体を蝕むばかりだ。
これがドワーフのように頑強な種族なら、治癒の奇跡で生命力を活性化させればそのまま完治する可能性はあった。体が丈夫なのもそうだが、元々地下で暮らすことに特化した種族であるというのも大きい。
だが、細く長く生きるエルフに病魔は致命的だ。このまま放置すれば、一体どれだけ生きていけるのか。
「賢人円卓の連中は何してんのよ。そりゃ正義感やら道徳心には無縁だろうけど、だからって自分の所有物が死んだら困るのはあいつらでしょ」
他人が死んで悲しむ心が無くても、己の道具を手入れすることぐらいすれば良いだろうに。
拳を握りしめて呟くと、別の少女が小声で呟いた。
「……『ああなりたくなかったら、喜ばせろ』って。気持ちよかったら毛布も渡すし、栄養のある食事も出すって。あっちの、あの娘たちみたいに」
その声に従って一つの牢に視線を向ける。
見れば、そこに居る少女たちは毛布で暖を取り――なにより身なりも綺麗だった。
毛布を羽織った少女は別の牢にも居る。だが、そこの牢に居る娘たちは綺麗な衣服を身に纏い、髪の毛だってシャンプーをしたのだろうかサラサラだ。美味しいモノを食べているのか、血色だって囚われているとは思えないほどに良い。
病気で死にそうになっている少女や、反抗して鎖で繋がれている少女に比べ、なんて恵まれた暮らしなのだろう。
「……なるほど、ね。見せしめってワケ」
気まずそうに視線を逸らす少女たちを見つめなら呟いた。
逆らえば拘束して自由を奪うし、最悪の場合病気になって死ぬ。
けれど従えば最低限の物品は支給するし、賢人円卓の面々を喜ばせたら優遇もするのだと。
底辺と頂点を間近で見せることによって、反抗心をへし折り完全な奴隷として調教しているのだ。
そしてそれは確かに有効な手段らしい。転移者である連翹に怒りや憎悪を向ける者は半裸や全裸のままで、諦めや媚びた表情を向ける者たちは暖かそうな毛布で暖を取っている。
抵抗しても、反抗しても良いことはないぞ? ほら、夜は寒いだろう? 凍えて、体調を崩して、風邪を拗らせて、そのまま死んでしまうぞ? それは嫌だろう? ならば、自分たちに従え、と。
頭に血が上るのが分かる。いますぐ牢を壊して、ここに居る少女たちを連れてレゾン・デイトルを脱出しよう。いいや、しなくてはならない――
(……だめ、落ち着いて、冷静に、冷静、に……)
ぐるりと見渡すと、一つの牢の中には少女が五人前後の少女が居る。六個合わせれば大体三十人だ。
それを連れて逃げる?
全員がちゃんと動けるならまだしも、体調を崩してまともに歩けない娘も居るのに?
一人、二人ならば連翹の体にしがみついて貰えば、なんとか脱出できただろう。
だが、この人数を脱出させるなんて無理だ。どれだけ甘い未来を予想しても、数名は転移者に捕まるか殺されるかするだろう。
ゆえに、ここは連翹とノーラだけで脱出して、その後に連合軍の皆と一緒に助けに行く――それがベターだ。
そう、ベター。決してベストではない。
その理由は――今もノーラが治癒の奇跡をかけている少女にあった。
(放って置いたら、あの娘以外にも何人か死ぬ。……ううん、あたしが来る前に、何人か死んでるんだと思う)
ここの少女たちは使い捨ての処理道具だ。ゆえに、大した手入れもされていない。反抗的なら、尚更だ。
既に体調を崩している者も居るし、そうでなくても反抗的な姿を見せればムチで打たれ怪我をし、最悪それが原因で死ぬ。
――けれど、どちらかを選ばなくてはならない。
小さな可能性を賭けて全員を救出する道を選ぶか。
病弱な者を見捨て、少しでも多くの少女を救うことを選ぶか。
これが創作なら『早く大多数の方を選べば良いのに』と読みながら文句を言っていたことだろう。
でも、現実に重い選択肢が出ると、プレッシャーで吐きそうになる。
どっちを選んでも一生後悔するだろうけれど、だからといってどちらも選ばずレゾン・デイトルに居座る選択肢など最悪ではないか。
脳内に浮かぶのはネットで良く聞いた話がある。暴走したトロッコが走っていて、自分の手には線路を変えるレバーがある。そのまま直進すれば大勢死ぬけど、自分がレバーを切り替えれば少数で済む――そんな思考実験。
効率を考えればレバーを切り替えるのが正しいのは当然で――けれどレバーを切り替えるということは自分で死ぬ人間を選択するということであると。
――そのレバーを前に、連翹は悩む、悩む、悩む。
悩むけれど、都合の良い答えなど出ない。当然のことだと言うように、これが現実だと示すように。
ああ、と思う。
これがもっと有能な誰かなら、もっと頭の回る誰かなら、簡単に答えを導き出せるかもしれないのに。
無い物ねだりをしても仕方ないとは分かっていても、そんな思考が止まらない。
「……レンちゃん、わたしはここに残ります」
それでも、脱出しなくてはならない――目の前で苦しみ喘ぐエルフの少女を見捨てる選択肢を取りかけたその時、ノーラがぽつりと呟いた。
「このエルフの子……こんな状況で放っておいたら数日で死んでしまいます。船の確保だって、きっとすぐには出来ないでしょう? けど、全員を助けて脱出するなんて、わたしたちには不可能――そうですよね?」
そう、それが事実であり現実だ。
だからこそ、見捨てるしかない。
大多数の少女たちのために、何より自分たちのために。
「だから、わたしがここに残って――皆が来るまでここに居る人達を癒やします。さすがに一週間以上持たすことは不可能ですけど――それでも、数日命を繋ぐことくらいは、わたしにだって」
だが、そんな連翹にノーラは第三の選択肢を突きつけた。
なるほど、と思う。確かにそれなら今ここに居る奴隷の少女たちを救うことが出来るだろう。
だが、問題点が一つ。
「……どうするつもりなの? さすがにずっとどこかの部屋で隠れ続けるなんて不可能でしょう?」
この地下室に潜み続けるのは不可能だろうし、クレイスの部屋に居座るというのも無茶だろう。元ナルシスの領主という立場は裏切り者を隠していても不思議ではない。必ず、部屋の隅々まで調べられる。
だが、それ以外の場所にずっと潜み続けるのは無茶だ。
外で隠れ続けるのだって限界があるだろうし、街で出会った転移者たちに頼んだとしても連翹が居ない間にどう動くか未知数。とてもではないが許可など出来ない。
「……一応、考えはあります。勝算も、ちゃんと。けど、もしその人に断られたり――最悪、賢人円卓や雑音に密告されたら全てが狂ってしまうようなモノですけど」
ノーラの瞳が問いかける。
それでもこの選択に賭けるか?
「……ノーラはどう思ってるの? それで成功するって、信じられる?」
ノーラの目を真っ直ぐ見つめて問いかけた。
薄情ではあるが――連翹は今ここに居る奴隷の少女たち全員より、ノーラの方が大切に思っている。少しでも彼女の瞳が揺らぐようなら、恨まれてでも二人だけで脱出するつもりだ。
けれど――ノーラは瞳を逸らすこと無く、一切揺らぐこと無く、真っ直ぐ連翹を見つめながら口を開く。
「ええ、もちろん。……話したことは一度だけですけど――元々、クレイスさんに仕えていたっていうメイドさんが居るんです。その人に、協力を申し出ます。この領地を、囚われた人々を、何より苦しんでるクレイスさんを助けるために――わたしを助けてくれないか、って」
――話を聞く限り、賭けとしては分の悪い類なのだと思う。
もっと長期間潜入捜査をして、そのメイドとやらが信じられる人間だと確信したら実行すべき選択だと。
「……分かったわ、ノーラ。でも言質が取れるまで貴女の側に居るし、危ないと思ったら途中でも掴んで逃げるから」
だけど、ノーラはその人物を信ずるに足ると思った。だから、今この瞬間に提案したのだ。
ならば、それを信じよう。
「ええ――ありがとう、レンちゃん」
「いいのよ、迷惑も心配も、あたしの方が沢山させちゃってるでしょ? ……このくらい、なんてことないわよ」
この選択が正しいのかは、全く分からないけれど――それでも、無謀な行進や苦しむ誰かを見捨てる選択よりは良い。
だから、二人の少女は歩き出した。
先の見えない、正しいかどうかも分からない道を。




