プロローグ
(負けるのはいい。けど、こんな冗談のような奴に負けるのは嫌だ)
闘技場の中心。同業連中を含む観客が見守る中、ニール・グラジオラスはただただ強く想っていた。
学問は並だし、魔力は平均を下回る。得意な剣だって、師を筆頭にした練達の剣士には劣るだろう。
故に、負けるのはいつものことだ。そこに不満はない。
しかし、同年代の連中には負けたことはないし、負けるつもりはサラサラないのだ。
自身が剣の天才なのだから、などといううぬぼれを言うつもりはないが、他の連中に比べ時間を注ぎ込んでいる自覚がある。
その上で同年代の剣士に負けたとしても、悔しくはあるが不満を口にする気はない。
それは相手が自身の才能を上回っているからか、自身以上に鍛錬をしてきたからであり、それを否定する気にはならないからだ。
(けど――けど、だ)
眼前の少女には。
剣士を冒涜する者には。
構え方すらロクに知らない癖に、ギルド対抗トーナメントルーキーの部――その決勝戦に立つような不出来な妄想めいた奴に負けたくはなかった。
小柄な少女だ。この辺りでは珍しい濡れ羽のように水気を含んだ黒い髪が、風に撫でられさらさらと揺れている。その中に一つ、髪飾りがあった。黄色の花を模った髪留めだ。
肌の色は白く、体つきも細い。これが剣士の身体などという妄言は、実際に彼女の動きを目にしなければ信じられなかったろう。
その身体を覆うのは紺色の水夫服と同色のスカートを掛けあわせた奇妙な衣類だ。スカートと合わせるだけで水夫の服が少女のための衣服に見えるのが非常に不思議だったが、今はそんなことはどうでもいい。
そして、右手には剣。鋭さを以って撫で斬るよりも、重さで叩き斬ることに特化した分厚い長剣だ。
相手は、構えていない。
だらん、と弛緩した右腕で握った剣の先は地面に接地している。
対し、ニールは中段に構え、相手の動向を油断なく観察していた。
(油断しやがって! ……って突っ込んで脳天に刃を叩きつけてやりたいとこだが)
そうやって突撃した連中がどういう末路を辿ったのかは記憶に新しい――が、あまり思い出したくない。近くで神官が待機しているため後遺症すら残らず治癒されるだろうが、やはり人間一人が両断されるという光景は気持ちのよいモノではない。
ニールの持つ剣は彼女と同じく長剣。
ただ、彼女のそれと比べやや細身で刀身も鋭い。対し、あちらの剣はこちらよりやや大ぶりで、刀身も両手剣ほどではないが分厚い。
(下手に相手の剣を受け止めると……叩き折られる)
あの細腕から放たれる強力な斬撃を、とてもではないが受け止められるとは思えない。
「来ないの?」
澄んだ声。
小鳥がさえずるような声だ。
それが相対している少女のモノだと気づくのに、数瞬の時間を要した。
(綺麗だな)
艶のある黒髪に白い肌、赤い唇からこぼれる柔らかい声。それらに、一瞬だけ魅了される。どくり、と心臓が鳴った。
(ああ、糞――なにを馬鹿なこと考えてる!)
頭を左右に振って浮ついた思考を消し飛ばす。
あいつは敵。
強敵であり、絶対に負けたくないと心から思う相手だ。
くだらない思考で剣を鈍らせるワケにはいかない。
「ああ。人間は学ぶ生き物だからな、前の連中と同じ失敗はしたくない」
「あたしとしては同じ失敗をしてくれた方が楽なんだけどね」
「生憎と、お前を楽させるためにここに立ってるわけじゃないんだよ」
「そっか」
なら、と。
少女は微笑んだ。
「全力で叩き潰してあげる――この力で!」
少女が――駆けた。
矢の速度で接近してくる彼女に対して、ニールは――動かない。
(まだだ。まだ、早い)
彼女が剣を振り上げ、地面を砕く踏み込みと共に剣を振り下ろした。
轟! と風を叩き斬りながらこちらに向かってくる刃。ぞわり、と体から冷々とした汗が吹き出す。
(なんだこれ、力自慢のオークの攻撃だってもちっとマシだぞド畜生が――ッ!)
脳内で悪態を吐くもやるべきことは忘れない。
体を右に逸らし、全身の力を――抜く。
瞬間、俺の体を襲う風圧と衝撃。それに押し出されるようにして、振り下ろされた刃から回避する。
轟音!
高所から鉄の塊を投げ落としたような重い音と共に、突き刺さった剣先を中心に地面に蜘蛛の巣状のヒビが走る。
「あ――」
「これで終いだ――!」
地面に突き刺さった剣を呆然と見る少女に向けて、袈裟懸けに刃を振るう。手加減も遠慮も無しに、全力で!
(これで終いだ――!)
刃は肩にぶち当たり、そのまま斜めに断ち切る――はずだった。
「な――に、ぃ」
無傷、ではない。
刃は食い込んだし、肉は裂いた。血も、流れている。
だが、それだけだ。
全力で叩きつけた刃は、しかしその程度で止まってしまった。
「痛――ったいじゃない……のっ!」
呆然としていたのは大した時間ではないだろう。しかし、戦闘している現在、それは致命的な隙だった。
少女は地面に突き刺さっていた剣先を跳ね上げるように振るい、ニールの腰から脇の辺りまで――めきめきと音を立てて両断した。
「ぐ――ぃ!?」
「痛たたた……転移者スキル使うまでもないと思ってたのに。ホント、手間取らせて」
血液をバラマキながら地面に叩き込まれるニールの体を一瞥もせず、彼女は己の傷口を掌で抑えながら不快そうに眉を寄せた。
待機していた神官たちが駆け足でこちらに向かってくる。無論、彼女の傷を塞ぐためではなく、両断された少年剣士の治療のためである。
その治療風景を眺めながら、彼女は「全く」と溜息を吐いた。道理を知らぬ子供を見て、呆れるように。
「ただの人が、地球から召喚されたあたしに敵うわけないのに」
なんでそんな無駄な努力してるんだろう。
少女は心底不思議そうに呟き、去っていく少女の背。それが――憎たらしいと思ったのだ。
「ざっけ……ん――な」
神官たちが「喋るな」とか「これだから転移者は」とか言いながらニールの体を治療している。
だが、聞こえない。言葉は耳に入っているが、意味が脳まで届かない。
ただただ灼熱があった。
意識を燃やし、思考を焦がし、体に力をみなぎらせる赤色が彼の全身に満ち満ちた。
「絶、対――勝つ」
――なんで無駄な努力をしているんだろう?
その言葉が、歴戦の戦士からのモノでも、普通の天才からのモノでも、ここまで怒りはしなかった。
「気まぐれに力を与えられて、それに酔ってるような連中に、負けて、られるか」
お前らを認めないし、屈しない。
必ず勝つ。
――――それが二年前の誓い。ニール・グラジオラスの胸に灯った炎。
それは、今も衰えずに燃え続けている。