196/たのしいお茶会
カップに注がれたハーブティーから強めの香りが発せられた。
ふわりと香る――どころではない。ポットから注がれる度に、部屋全体に匂いが広がっていく。
(あたし、別にハーブに関して全く詳しくないんだけど――)
なんだろう、匂いが凄く強い。
ちらりとノーラに視線を向ける。こういう系統は自分よりも彼女の方がずっと詳しいだろう。
ノーラも連翹の内心に気付いたのか、ゆっくりと首を左右に振った。違う、と。ハーブティーとは良い匂いがするモノではあるが、さすがにこれは過剰過ぎる、と。
やっぱりそうなのか、と頷く。嫌な臭いというワケではないのだが、さすがに過剰だ。芳香剤か何かだったらきっと普通に良い匂いだと感じられただろうに。
「……やっぱり二人には強すぎるかしらー?」
そのハーブティーを淹れた女性――崩落狂声が首を傾げながらくぐもった声を漏らした。
口と鼻は分厚いマスクで覆われていて、少し声が聞こえづらい。
けど、それは絶対に必要なモノだ。少なくとも、ノーラがこの部屋に居る限りは、必ず。
「あ、いいのよ別に、あたしたちハーブティーの淹れ方知らないから、貴女が得意なやり方でいいのよ」
自分が知らないだけでノーラだったら淹れられるかもしれないけど――という思考は口に出さず、崩落に微笑みかけながら彼女の姿を観察する。
昨日風呂場で見た時とは違い、髪を腰の辺りまである大きなツインテールにし、きらびやかな衣装を身に纏っていた。
黒地に白いフリルをふんだんに用いたドレスだ。袖には鍵盤を模したメタリックな意匠が施されている。
全体的に肌の露出の少ないデザインなのだが、上着と袖が完全に分離していて細い肩とか白い脇などが大胆に見えていた。
スカートもドレス相応の丈の長さなのだが、それも背後と左右のみ。前方は大胆に切り開かれ、白いミニスカートと黒いブーツが、そしてタイツに包まれたふとももが大胆に見えている。
独特な衣装で、普通に着たら服に着られるか濃厚なコスプレ臭が漂うであろうに、崩落は苦もなくそれを着こなしていた。唯一、口や鼻を覆う大きめなマスクだけが取って付けたようであまり似合っていない。
(……んー、なんだっけ、なんかどっかで見たことがあるような)
見たこと無い衣装なのに、少し既視感があった。
特にツインテールの大きさは過剰で、現実というよりは二次元のキャラクターで映えそうなデザインだ。
なんだろう、ゲームキャラの衣装か、もしくはアイドルの衣装だろうか?
「いいのよ、やっぱりかー、って思っただけ。気にしないで。わたしって、ほら、『あれ』じゃない? だから、強めにしないと香りが分からないのよ」
普通の人向けのを淹れて貰うわ、と彼女は微笑んだ。口元はマスクで隠れてしまっているが、それでも魅力的な笑みであると思う。
けど、だからこそ不気味さも感じてしまう。
ベルを鳴らし、現れたメイドにお願いをする彼女の姿は可憐な少女そのものだが――その体内にはびっしりと菌糸が張り巡らされているのを知っているから。
「ハーブティー、好きなんですか? えっと……崩落さん」
「さん付けなんてしなくても、崩落って呼び捨てにしてもいいのよ? ノーラお姉さんの方が年上なんだからー。それと、うん、わたしはハーブティーが一番好き。紅茶やジュースだって好きだけど、香りが良くて気分が落ち着くから」
探るように問いかけたノーラに対し、崩落は心から嬉しそうに微笑んだ。
裏表など欠片も見えない、今が楽しくて仕方ない、と言うように彼女はふふ、と笑う。
それは花畑で踊る少女のようで、真実を知りつつも頬が僅かに緩んでしまう。
それでも脳内に残った彼女の口内の記憶がチラついてしまうが――それを意識的に思考から排除しながら、連翹は笑う。
心配するのも、恐怖を抱くのも、全部全部一時的に棚上げにして、今はこの茶会を楽しもう。
そうしないと、表情が強張ってしまいそうだから。
そんな風に悩んでいると、こちらの会話を妨げないしずしずとした動作で現れたメイドが、連翹とノーラ用のハーブティーを注いだ。
カップから広がる、甘い香り。
今度は常識的な強さの香りだ。果実のような濃厚な甘い香りが連翹の鼻孔をくすぐった。
(あ、ハーブティーってなんか意識高い系女子が飲んでそうなイメージしか無かったけど、これ良いかも)
気取ってんじゃないわよばーかばーか、と思っていた自分が少し恥ずかしい。
「さて、今日はわたしの誘いを受けてくれてありがとう。こんな風に誰かと話すのって久々だから楽しみにしてたのー」
喋ってからマスクに隙間を開けて、ハーブティーを一口。軽く香りを楽しんだ後、マスクを戻す。
きっとノーラに感染させないように注意を払ってくれているのだろう、マスクを外している最中は息を吸い込むだけで吐いてはいないから。
「……大丈夫ですか? その、だいぶ飲みづらそうですけど」
「飲みにくいのは確かだけどねー。でも、誘ったのはわたしだもの。ホストがゲストに迷惑をかけるワケにはいかないでしょう?」
心配そうに問いかけるノーラに対し、崩落は微笑みを浮かべて首を振った。気にする必要ないよ、と。
「ああ、そうだ。お姉さんたち、この屋敷には慣れ――てるはずないわね、昨日きたばっかりなんだから。何か不都合はない?」
「大丈夫ですよ、まだまだ慣れないのは事実ですけど、快適な屋敷だと思っていますよ」
そう言いつつも、ノーラは小さくため息を吐いた。
連翹にはその気持ちが分かる。ふかふかのベッドに数多くの使用人が二十四時間体勢で自分たちを世話してくれるのだが――正直、全く落ち着かない。
『わーい、お姫様になったみたーい』と楽しめれば良いのだろうが、ノーラから伝え聞いた使用人の言葉を聞いたために、腹の中で憎悪を滾らせているんじゃないかと考えて楽しむどころではないのだ。
「それは良かったわ。慣れたらもっと快適に過ごせるはずよ。今は嫌な人があんまり居ないし」
「あんまりということは、居るの? 嫌いな人」
なんというか、ふわふわとした雰囲気で、あまり他者を嫌ったりしないイメージがあったから思わず問いかけてしまう。
「自分たちのことを賢人円卓って言ってるあの人達。わたし、あの人たちきらい、きらいよ。女の子に酷いことするし、こっちに嫌な視線向けてくるし。雑音さんが止めないなら、全員ぼっこぼこにしたいくらい」
「あー……それは、うん、分かるわ」
というか、あの連中を好む人間なんて少数派だろう。真っ当な人は嫌悪して当然であるし、同じメンタルを持つ人間同士が仲良く出来るワケでもないのだから。
唯一、ノーラが今朝語った男――クレイスという貴族は真っ当なようだが、どんな組織であっても声と態度がデカイ者ほど目立つものだ。きっと崩落はクレイスという男を認識していないのだろう。
「それと……あと王様! 無二の剣王! わたし、あの人が二番目にきらい! ……あっ、白い人は居なくなったからもう一番! そう、一番きらいよ!」
たんたんっ、とカップの中身が溢れない程度の強さで机を叩く。
(白い人――は、たぶん王冠よね。それなら、うん、相性悪そう)
連翹が冗談めかして彼女の胸の大きさを言及した時ですら、酷く取り乱していたのだ。
だというのに、女好きで、直裁的な物言いの多い王冠と相性が良いはずもない。きっと一言一言が彼女の脆い部分を突いていたのだろう。
だが、それに次ぐ相手があの無二の剣王? 確かに、彼は底が知れないけれど――
「無二さん、ですか? 真っ当な人……に、見えたんですけど」
ノーラも同じ結論に至ったのか、崩落に問いを投げかける。
それに対し、彼女は身を乗り出して「全然真っ当なんかじゃないわ」と頬を膨らませた。
「だって、怖くてひどいのよ、あの人。わたしは戦う気なんてない、って言ってるのに問答無用でお腹殴ってくるんだもの。刀を抜いてないから手加減してる、だなんて言ってたけど、それ以前の問題だと思うのよ」
「……なんですかそれ、いくらなんでもちょっと酷くないですか」
掌返し――というワケではないのだろうが、むっとした表情で崩落の言葉に聞き入る。
「そうなの! 戦うのは好きじゃないし、痛いから止めてって言ってるのに、『最低限抵抗してみてくれ』、って! そのくせ、お腹とか喉とかわたしが戦うために必要な部分を執拗に攻撃してくるの!」
なけなしの気力だって最初の一発で折れていたのに、と崩落は頬を膨らませた。
その言葉を聞いて、その様子を想像してみる。
容姿は大人びているものの中学生くらいの女子を腹パンしたあげく、抵抗しろよと腹や喉を殴る長身の男性の姿を脳内に描き――うわあ、と声が漏れた。
「暴行的な意味でも絵柄的な意味でも犯罪過ぎるんだけど」
「でしょ!? なのにあの人、殴るの止めた後に謝るどころか、がっかりしたって顔でわたしを見下ろすのよ! なによなによ、何を期待したのか知らないけど、そっちが勝手にやったことじゃない」
何様よ、何様よ、と憤懣やるかたないと言うように瞳を吊り上げた。
その様子を見ながら、連翹は無二の行動から目的を想像する。
レゾン・デイトルという侵略者の国に君臨し、けれど統治は全て他者に任せ、私腹を肥やしているワケでもない彼。
だけど――国を襲う現地人、屋敷を襲う転移者、そして配下の幹部たちに対し刃を交えるその姿。
それらから、彼が何を望んでいるのか断片的ながら想像出来てきたのだ。
(……これって、要は強い人と戦いたいって感じなのかしら)
想像するのはバトルジャンキー。
戦いたくて戦いたくてうずうずとしている狂戦士だ。
権力も金も必要としていないのも道理である、彼はそんなモノなどより戦いを欲しているのだから。
なるほど、そう考えれば辻褄は合うかもしれない。転移者の王として君臨しているのも、単純にその方が敵が多くなるからだと考えれば、雑音に任せっきりの現状も納得出来る。
だが――それなら連翹と戦わなかった理由に説明が付かない。
未だ無二の剣王が放った威圧感がなんだったのかを理解しきれていないが、ノーラから聞いた話では彼はそれを感じ取れる相手を求めていたのだという。
つまりは無二にとっては、連翹は部分的にとはいえ理解して欲しいモノを理解してくれる転移者――つまりは強者なのだ。それをなぜ放置しているのだろう。
(……もしかして、わたしは『理解』したから見逃されたんじゃなくて、後回しにされただけ?)
喩えるなら、滅多に食べられない大好物を目の前にしたような感じとでも言うべきか。連翹の場合、冷蔵庫の中に入った有名店のケーキだ。
どうでも良さそうなモノなら適当なタイミングで食べても良いけれど、滅多に食べられない大好物をそんな雑多な感じで処理すると後で後悔してしまうだろう。
だから、可能な限り最高のタイミングで食したい――紅茶かコーヒーを用意して、腹具合も整えて、じっくりと食べたいと思うのだ。
(その最高のタイミングが、連合軍によるレゾン・デイトル襲撃……なの、かしら?)
無論、疑問点はある。
連合軍に所属する人々は確かに強い。騎士を筆頭に、兵士も冒険者も皆一線級の実力を持っている。それは事実だ。
だが、強いという意味では転移者だって同じではないか? 幹部級ならば、特に。
つまりは幹部たちと連翹、そして連合軍の皆。それを明確に分ける差は一体なんなのかという疑問に戻ってきてしまうのだ。
(ああ……こういう時、ニールとかが居てくれたらなぁ)
智謀に長けているワケでは断じて無いが、剣や剣士に関することならばきっとカルナよりもずっとずっと詳しいはずだ。
もし彼がレゾン・デイトルに居れば、きっと最初の顔合わせで無二を見定めていただろうと思う。
だが、無いものねだりをしても仕方がない。元より全てを丸裸に出来るなどと連翹も連合軍の皆も思っていないのだ。ある程度の情報を集め、皆に伝えられたらそれで良い。
「ねえ崩落、嫌いな人の話ばかりしてても楽しくないし、そろそろ止めない?」
無二に対する愚痴が加速しすぎているので諌める。
半分くらいは本心の言葉だったが、もう半分はこれ以上考えても答えが出そうにない無二の話題を切り替えてしまいたかったからだ。
「……そうね、ごめんねー、話してると段々とイライラしてきてねー」
「いいのよ――うん、きっとそういうのは当たり前のことなんだから」
共通の誰かの悪い部分で盛り上がってしまうのは、正直褒められたことじゃないし、嫌いだとも思う。
でも、きっとそれは誰しもが多かれ少なかれやってしまうことなのだ。昔は、それすら許せず塞ぎ込んでしまったのだけど、今は分かる。
「それより、何か楽しいこと話しましょ。たとえば、そうね、好きなこととか! あたしはマンガとかラノベとかゲームとか、あとまあ、下手の横好きで絵を描いてた感じ」
だけど、それでも前を向いて笑っていたいと思うから、二人に対して笑みを向けた。
他人の悪口を言ってしまうのは仕方ない、それで終わりたくないから。どうせなら他人の嫌な部分を言い合うより、自分はこれが好きだって言いたいと思うのだ。
「あら、いいわねー。わたしは歌と踊り! 転移前からずっとやってるのよー!」
「わたしは……本を読んだり、友達と材料を持ち寄ってお菓子を作ってお喋りしていたくらいですね。何分、娯楽が多い村ではなかったので」
「あら、意外ね。ノーラのことだから、村の居酒屋の常連さんになってるとばかり」
「あはは……今はけっこう飲んじゃってますけど、村で過ごしていた頃は十歳の誕生日に飲んだっきりですね。友達もお酒よりお菓子、って感じでしたし」
奇跡が使えるので、少しくらい贅沢出来たんですよ――とノーラは微笑む。
そういえば、彼女は両親が死に教会に預けられたのだったか。
それにしては普通の家庭ぐらいの裕福さで暮らせているのは、保護された子供たちが神官となるからなのだろう。人間は生きている以上、大なり小なり傷を負っていくのだ。食いっぱぐれがない。
だが、その理屈は置いておいて――
「……ねえ、ノーラ? 崩落の前だからって猫かぶらなくていいのよ? 別にいいじゃない、居酒屋の姫として君臨してましたって言ってもドン引くことなんてないから」
――今更、女友達とお菓子作ってましたとか言われても、反応に困るというか。
焼き鳥とビール片手に幸せそうな笑顔を浮かべている姿しか想像できないというか。
正直に言うと、なんか猫かぶってない? という感想しか出てこないのだ。
「なんですか居酒屋の姫って、初めて聞きましたよそんな単語! というかですねレンちゃん、あなたはわたしのことをなんだと思ってるんですか?」
「見た目小動物なのにお肉とビールが似合う肉食系ビール女子」
瞳を閉じれば、居酒屋で美味しそうにお酒を飲んでごはんを食べて、その様子を見た周りのおじさまたちに可愛がられる姿が見える。
それはさながらオタサーの姫の如く。男ばかりの場所にそれなりに可愛い女の子が、自分たちと同じ趣味趣向で盛り上がっていたら、ついつい優しくしてしまうのが男の常らしいから――!
「言葉の意味はこれっぽっちも理解できませんが、貶められているってことだけは理解しました。泣いたり笑ったり出来なくしちゃうんですから……!」
「ふぉっふぉっふぉっ、そうじゃよノーラ。大人しいキャラになんてもう戻れないんだから、ここらで素を曝け出すのじゃ――ぁ痛い痛い痛い! ごめっ、ごめん、ごめんノーラ! 調子に乗ってた! だから耳から手ぇ離して! ごめんってばぁ!」
伸びる! 耳が伸びちゃう! エルフに転生しちゃうからぁ! などとじゃれ合っていると、ころころと笑う声が響いてきた。
見ると、口元を手で抑えながら微笑む崩落の姿。
「ノーラお姉さん、見た目ほど大人しい人じゃないのねー。ちょっとびっくり」
「ああ、いやその、これは――」
崩落に笑われて、恥ずかしがって、僅かに出来た隙。それを連翹が逃すはずがない。
即座に彼女の隣に逃げ、内緒話をするように耳元で小さく――けれどノーラにもばっちり声が聞こえる程度の大きさで囁いた。
「そうよそうよ、そうなのよ崩落。こんな見た目なのに、いざって時は右腕が光って唸るの。勝利を掴んで轟き叫んじゃう感じなの」
「あらあら、こわいわ」
「レンちゃん! 崩落ちゃんに変なこと囁かないでくださいよ、もう!」
顔を赤くして言うノーラを見て、連翹と崩落はくすくすと笑う。
それでからかわれているのが分かったのか、むう、と微かに頬を赤らめながら口を閉じる。
「ごめんねノーラお姉さん、楽しかったからつい――お詫びに一曲歌おうかしら?」
「凄いわね、自分の歌がお詫びになるって自信。ぼくにはとてもできない」
「あら、自信はあるのよー。これでもレゾン・デイトルに来る前は歌と踊りでお金稼いでたんだから」
「へえ、規格外でモンスターの討伐だって出来るんだから、それ含めるとけっこうなお金に――」
「ううん、歌と踊りだけ。だって、モンスターって怖いもの。襲われても自衛出来るようになったから女の一人旅も出来たけど、だからって自分から戦ったりなんて出来ないわ。おかげで、最初の頃は宿に泊まるのも一苦労だったの」
いくら強くなっても犬に吠えられたら怖いのよー、と少し恥ずかしそうに崩落は微笑む。
それは当たり前のようなことに聞こえるが、しかし転移者という枠組みの中では異質な思考であった。
なぜなら、転移者は誰しもがチートが強大な力であるという認識を持っていて――その上でネット小説を中心としたサブカルチャー、その中でも転移、転生、そして無双というモノに親しみ、憧れている者ばかりだからだ。
だからこそ多くの転移者は力に酔いしれ、すぐに規格外を振るいたがる。己こそがこの世界の主人公であると主張するように、今の自分はかつての自分とは違うのだと言い聞かせるように。連翹もまた、そうであったからよく分かる。
無論、全ての転移者がそうであるワケではない。
ニールから聞いたのだが、王冠は転移することが主目的であり規格外などあれば便利な副産物程度に考えていたらしい。もっとも、なぜそんな目的で異世界に来たのかまでは連翹には教えてくれなかったのだが。
(……この子も、最強チートとかには興味ないのかしら)
規格外に依存しているのは事実なのだろうが、その使い道は他者を虐げるためではないのだろう。
昨日と今日、話してみたから分かる。モンスターが怖いというのも、自分から戦ったりなど出来ないというのも全て真実であると。
ゆえに、彼女が求めているのは外敵を屠る剣ではなく、己を守る鎧なのではないかと思うのだ。
転移者という肩書と、規格外によって齎される生存能力、そして最低限の自衛が出来る戦闘能力。それらによって自分を守ることこそ、彼女が望んだモノではないだろうか?
「それじゃあ一曲。わたしが好きな曲の一つで、一番有名な曲よ」
なんか変な気分だなって思ったら言ってね、マスクを整えながら告げると、彼女は椅子から立ち上がって歌い始めた。
アカペラで、その上マスク越し。
歌を綺麗に聞かせるという意味ではバッドコンディション極まりないそれだが――
「……綺麗、ですね」
ノーラがぽつりと呟く。
澄んだ音色が室内に響き渡る。マスクに遮られややくぐもって聞こえるその歌声は、しかしその程度で澄み渡ったメロディーを妨げるには値しないと宣言するように美しく空気を震わせた。
――響き渡るのは一人の少女の歌だ。
溶けてしまいそうな恋心を抱いた彼女は、ピンクのスカートと花の髪飾りでお洒落して出かけたのだが、生憎の雨が降った。
せっかくの外出だっていうのに。カバンの中に折り畳み傘はあったけど、そんなの嬉しくない――そんな時、彼女の想い人が「仕方ないから、入ってやる」と言って彼女の傘に入り込んだ。
はんぶんこの傘の中で触れ合う手と手、胸の鼓動は高鳴り少女は「時間を止めて欲しいな」と願いながら駅まで一緒に歩いていく。
そんな年若い少女が抱く微笑ましい恋の感情を表現した歌詞が、澄んだメロディーとなって響き渡った。
(――あ、これ……聞いたことある)
確か、動画サイトで一躍有名になった、歌を歌わせるソフト――確かボーカル・ロイド――で奏でられていた歌だ。
それより前から存在はしていたらしいが、キャッチーなキャラクターと動画サイトという投稿も視聴も用意な環境も相まって一時期爆発的な人気を得たのだ。他ジャンルの娯楽が増えたため全盛期と比べ衰えた今だって、新たな歌が多く作られる一大ジャンルである。
これは、その中でもトップクラスに有名な歌だ。あまりボーカル・ロイド界隈に詳しくない連翹でも、動画サイトを巡っているとちらりと聞くレベルの曲だ。
そしてようやく気づく。
崩落が身に纏っている衣装はかなり大胆なアレンジが成されているが、ボーカル・ロイドで一番有名なキャラクターの要素を受け継いでいる。あのキャラクターも曲によってアレンジ衣装を着ていたし、これもその一種だと考えると違和感がない。
これで髪の毛が緑色で、かつ胸がもっと慎まやかであればもっと早く気づけただろう。
「――――どうかしらー? 自分では中々のモノだと思ってるんだけど」
「凄かったですよ! 声も澄んで綺麗でしたし、歌の歌詞も可愛らしくて!」
「ありがとう、だけど歌詞の方はわたしの手柄じゃないのよー」
拍手しながら心からの賛辞を述べるノーラに、笑顔でそれを受け取る崩落。
そんな手慣れた反応を見て、人前で歌うのもそれで感想を貰うのにも慣れていると感じた。
先程、歌と踊りでお金を稼いでいたと言っていたのだから当然の話ではあるが――それよりも、もっともっと前から経験を積んでいるように見えた。
「ねえ崩落。もしかして、元々こういうのを動画サイトでアップロードしてたりしたの?」
ボーカル・ロイドのファンで、それで歌や踊りをアップロードしてたのではないかと思ったのだ。
連翹の言葉を聞いた瞬間、崩落はぱあ、と笑顔の花を咲かせ大きく頷いた。
「そうなの! ニコ○コ動画とかY○uTubeとかに歌ってみたとか踊ってみたとかの動画を沢山出してたんだから。連翹お姉さんは見たこと無い? 何度かランキングにも乗ったのよー」
「あー……ごめんね、そっち方面あんまり見てなくて。ゆっくりとした実況動画とかならそこそこ詳しいんだけど」
だが、納得は出来た。
人気の歌い手などはライブなども行うというし、それ関連で場馴れしているのだろう。
へえ、と感嘆の声を漏らして彼女の話を聞いていると、袖をくいくいと引かれる感触がした。ノーラだ。怪訝そうな顔でこちらを見つめている。
「レンちゃん、歌とか踊りなら分かるんですけど、何ですか? その、ゆっくりとした実況って」
「ああ、生首の形をした喋る饅頭が色々お喋りするジャンルがあるのよ、あたしはそれが好きで――」
「……!?」
なんだそれ怖い――そんな風にぎょっとした顔でこちらを見つめてくるノーラに、なんだろうと首を傾げ……ああ、と思う。
確かに、喋る生首饅頭とか一体何事だって話だ。言葉にするとホラー以外の何物でもない。
そんなに心配する必要ない、とどういうモノなのかを詳しく説明しようとして――言葉に詰まる。
あの饅頭どもを全く知らない人に、どうやって説明すれば良いのだろうか……?
「あー、ええっと……? なんていうのかしら……女の子の頭をデフォルメした饅頭が、色々なモノを解説したり雑談したりしながら遊んでいるのを眺めて慈しむって文化があってね」
「ご、ごめんなさい、わたしの理解が全く追いつかないんですけど……!」
なまくび……? まんじゅう……? と頭を抱えだすノーラだが、その気持ちは分かる。連翹とて上手く説明できていない自覚はあるのだ。
「……あー、崩落? なんか部屋にペンと紙とかない?」
「ええ、ちょっと待ってねー」
そう言って彼女は自分のベッドに向かった。枕元には複数の紙が散乱している。
紙に書かれているのはポエム――いいや、これは歌詞だ。それと一緒に、楽譜らしきモノもいくつか見える。彼女はそこから白紙の紙とペンを一つ手にとって、連翹へと歩み寄った。
「はいどうぞ」
「ありがと……楽譜とかあったけど、作曲でもしてるの?」
「ううん、自分で曲を作るのは難しくって。これはわたしが忘れないようにっていう覚書」
いつかは自分で曲を作りたいと思ってたんだけどね――と、楽しげに微笑みながら、しかしもはや自分に未来などないと呟く。
それに対し連翹は、どう言えば分からなくて「そうなんだ」と頷く。何か言ってやりたい気持ちはあるのだけれど、それが上手く言葉になってくれなかった。
「ちょっと待ってね、ノーラ。今、わかりやすく描いてあげるから」
「えっ……ああいや、その、ちょっと待って下さい! 話を聞く限り、見るのに色々と勇気が必要な物体だと思うのですが――!?」
もう何年も描いてないから大して上手くなかった腕が錆びついているだろうけれど、あの饅頭どもを描く程度なら問題あるまい。
さらさら、と紙にペンを走らせる。左側に黒い帽子をかぶった金髪饅頭、左側に赤いリボンをつけた黒髪饅頭。そして彼女らの頭の上に『ゆっくりしていってね!』と針フキダシ。
「完成! ふふふっ、超久々だったけどまあなんとかなったわね!」
想像した二つの饅頭に比べバランスが崩れている感はあるが――もうずっと練習どころか遊びですら描いてないのだ。完璧に描けるはずもなかった。
「懐かしいわねー、ランキングで解説動画なんかが上がってきてたりしたから、わたしも知ってるわこれ! 可愛いけど絶妙に腹立たしいのよね! 特に口元とか!」
「……あ、ああ、こういう感じなんですね。なんかもっとリアルな頭を想像してました」
ほっぺたぷにぷにしてそう、と楽しげに自分が描いた絵を見つめる姿に、すこし照れる。
だってこれ頭だけだからボロが出てないだけだ。普通の人間を描いたら全体のバランスどころか手を上手く描く自信すらない。
(……これも、もっと続けてたら上手くなってたのかな)
上手い人ばかり見て、自分は駄目で描く意味がないと結論を下して、結局何もやらなくなった自分が成長などするはずもない。
どんなモノであっても、上手な人はそれだけのモノを積み重ねえいる。もちろん、センスだとか才能だとかはあるのだろうけど、そういう人だってその人なりに出来ることをやって上手くなっているのだ。
だからこそ、理解出来る。
目の前の少女が、崩落狂声の歌声はこの世界に転移する前から――ずっとずっと昔から磨いてきたモノなのだと。
無論、規格外による強化で肺活量が大幅に上がっているのは事実だろう。転移前より声を容易く響かせられるようにはなっているのだろうと思う。
だが、それは以前から積み重ねた努力あってこその強化だ。実際、連翹が今歌ったところで彼女のような美しい旋律を奏でることは出来るはずもないのだから。
無論、歌ってみただとか、踊ってみただとか、そういう方面に関して連翹は無知だ。
だが、評価されていたのは事実なのだろうと思う。
この異世界ならばともかく、地球で、しかもネットで発表している歌は様々な調整が成されている。何度か同じフレーズを歌って、一番出来の良いモノ同士でつなぎ合わせたり、音程をソフトで弄ったりなど。
それ自体は別に悪いことでもない。言ってしまえば化粧と同じだ。顔も、歌も、綺麗に着飾る技術があるのなら着飾るべきだろう。
だからこそ、元の歌声が綺麗な彼女がそれらのソフトを駆使して動画をアップロードしていたら、今以上の綺麗な旋律となって多くの人の耳を喜ばせていたはずだ。
きっと、人気だったはずだ。
好きなことで評価される日々は、きっと楽しかったはずだ。
(――なのに、なんでこの子は異世界に来てるんだろう)
異世界召喚モノみたいに、魔法陣で強引にこちらに呼び出された――などなら理解出来た。
けれど、この世界の神は転移者候補と一度顔を合わせ意思を問うている。今の世界を捨てて、規格外で自由に生きてみないか? と。
ゆえに、この世界の転移者は皆、その誘いを受けた者なのだ。
だからこそ、解せない。
素人目線ではあるが、彼女の歌も容姿も、まだ見ていないがきっと踊りも高水準に纏まっている。きっとプロにだってなれるはずだ。
もちろん、それだけで食べていけるほど世の中は甘くないとは思う。けど、成功を諦めて異世界に行くには彼女はまだ若すぎる。
若いからチャレンジしろ、なんて老害めいたことを言うつもりはないが――それにしたって諦めが早すぎるのではないかと思うのだ。
「でも、残念です。ここにカルナさんやニールさんも居たら良かったのに」
連翹が思い悩んでいる間、ノーラは崩落と楽しげに談笑していた。
間を持たせるため、情報を引き出すためという理由もあるのだろう。
だが、それと同じくらいにノーラは会話を楽しんでいるように見えた。
「カルナ? ニール? ノーラお姉さんのお友達? どんな女の子なの?」
「あはは、違いますよ、男の人です。カルナさんは凄く背が高い人で、ニールさんはちょっと目つきが悪――い、人で」
親しげな談笑が途切れる。
楽しげな口調から、怪訝に思ったゆえの間、そして掠れた声。
その響きに思考を打ち切ってノーラと崩落を観察する。
ノーラは――問題ない。驚き、戸惑っているようだが、ハピメアに毒されたとかそういう心配は無さそうだ。
ならば、と崩落に視線を向けて――
「ごめんなさい――男の人は、好きじゃないの。全員が嫌い、ってワケじゃないんだけどねー」
――どろり、と。
淀んだ泥めいた闇が、そこにあった。
死者の眼のように輝きの失せた瞳、けれど表情だけは先程と同じような楽しげな笑みで固定されている。
だからこそ、違和感が酷い。
それは白いドレスについた一箇所の汚れの如く。変わったのはたった一箇所だというのに、その一箇所の変化が全体の印象を捻じ曲げている。
「ノーラ、あの人達はわたしを裏切るつもりなの。裏切って殺すつもりの連中なの。だから、名前を出さないで――それより、ごめんなさい崩落。雑音様と仲が良いって聞いたから、男の人が嫌いだなんて思ってなかったのよ。あたしも、ノーラも」
それでもなんとか演技をしつつ会話出来たのは、心構えがあったからだろう。
口の中を覗き込んだ時に見えた、あのおぞましい光景――それを知っているから。
どれだけまともに見えても、愛らしい少女に見えても、致命的に破綻している部分があるのだと理解していたから。
無論ノーラにもその情報は話していたが、実物を見ていなかったから、会話が盛り上がったから、親しいを抱いてしまったから――彼女の落差について行けていないのだろう。
当然だ、連翹だって上っ面を取り繕うだけで精一杯なのだから。
「雑音さんは別。あの人はわたしに酷いことをしないし、変な目で見ないし――いたいことも、しない。その上、楽しくなれる薬もくれる親切な人だから」
優しいお兄さんなの、とほんの僅かに瞳を輝かせて微笑む。
だが、その輝きはすぐにくすんで深い深い暗色へと転じていく。
「そう、いたいこと。男の人はいたいことをするもの。『男の人はそういうモノ』ってネットで読んで、知ったつもりだったけど、違うの。あれはもっと力強くて、乱暴で、お腹をすかせた野良犬みたいになりふり構わないで、怖いモノだから」
一瞬、年若い少女ゆえの潔癖さかと思ったが、違う。
彼女が発する声には、生々しい嫌悪の響きがあった。
それはつまり、彼女が抱く嫌悪の情が実体験から来たモノであるということの証明。
「でも、それはわたしが間抜けだっただけ。そういう噂が流れた時も、ネットの皆はそんなこと言ってた。『危機意識の無い間抜け』だって、『姫みたいなことやってるからそんなことになるんだ』って、『ざまあみろ』って、『前々から気に食わなかった、消えてくれて嬉しい』って。顔の知らない誰もが皆々わたしの責任だって言うの。でも、その通りなんじゃないかなって思うのよ。そういうモノだって聞いてたのに、ファンの人なら大丈夫だって、歌が好きな人なら大丈夫だって信じてたわたしが馬鹿だったの。ううん、違う。違うの、違う違う違う違う違う、信じてたんじゃない、何も考えてなかったのよ。歌って踊ればわたしも皆も満足するんだ、なんて子供みたいなことばかり考えてたわたしが馬鹿なの、わたしが悪いの、そう、全部わたしが、わたしが、わたしが――!」
崩落の呼吸が乱れる。
吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて。
そんな荒い呼吸とは裏腹に、彼女の表情は心安らかなモノになっていく。
気持ち良さそうに、心地よさそうに、嫌な感情などどろりと溶けてしまったかのように。
その様子を、ノーラは呆然と見守っていた。連翹と違い彼女の中を直接見たワケではないから、彼女の現状を知っていても理解出来ていなかったのかもしれない。
彼女はとうの昔に末期で、転移者でなければ生きているはずもないということを。
「だから、いたい想いをしたのはわたしが間抜けだっただけ。男の人たちと一緒にカラオケに――暗い密室に入ることの危なさとか怖さとか、ぜんぜん考えないで――――ああ、いたい、いたいわ、いたいの。今も、お腹の奥に異物が入って、出て、入って、出て、蠢いてる。今も、感じる。感じるの」
体内で生成されたハピメアの胞子が回ったのか、彼女は歌っていた時のような綺麗な笑みを浮かべ――下腹部を撫でる。
そこに何か入っているとでも言うように。
そこにかつて、何か異物が入れられたとでも言うように。
「え――あ、その、わたし」
なんて声をかければいいのか、とノーラは顔を青くし、口を開けては閉じる。
崩落が直接的な行為の名称を告げたワケではない。
だが、彼女の言葉を聞いて、かつて何があったのかあを察することが出来ない程ノーラは無能ではなかった。無論、連翹も。
「いいの、ノーラお姉さん、気にしないで。ぜんぶぜんぶ、終わったことだから、終わっちゃったことだから、もう大丈夫なの。それに――わたしはもう、乱暴されるままじゃないもの。乱暴するような人を、倒せるような、自分で自分を守れる力を手に入れたの」
――ああ、と。
連翹はようやく得心がいった。
なぜ、彼女は異世界転移に同意したのかを。
なぜ、規格外が喪失することをここまで怖がるのかを。
「だから、うん、それが無くなれば――もう、それでいいかなって思うの。苦しんで死ぬのは嫌だけど、最期に幸せな幻想に浸って眠るように死ねるっていうなら――その結果、わたしの体が苗床になっても、それでいいの。美味しいモノを食べるのにはお金が必要なのと同じで、幸せに生きるためにも対価は必要でしょう? なら、それでいいの」
彼女にとって規格外は無双するための武力などでは断じて無い。
かつて彼女を襲った暴漢、それを撃退出来る力が、身を守る力こそが欲しかったのだ。
無論、暴漢如きに対し規格外は過剰戦力ではある。そこまでの力が無くても、護身用の武器を見える位置に装備するだけでもいいはずだ。それだけで、そこらの暴漢は近寄ってこない。
だが、そんな理屈は彼女には届かない、響かない。
トラウマを抱いた人間に対し、「そんなの意味がないよ」と「そこまで怖がらなくても大丈夫」などと言っても、納得させられるワケがない。
「だって今、わたしは凄く幸せなんだから! 仲良くお喋り出来るお友達ができたし、体がこうなってからは怖い夢も見なくなったの! その上、さらに長生きしたいだなんてバチが当たっちゃうわ」
そう言って、彼女の瞳は光を取り戻した。
きらきら、きらきら、星のように。
けれど、それは空で輝くモノではなく、地表へ向かう流れ星の輝き。
いずれ燃え尽きることを理解しながら、しかし彼女は今こそ幸せの絶頂だと言うように微笑むのだ。




