193/情報共有
「こちらをお使いください」
「ど、どうもありがとう……」
お風呂から上がって「そういえば着替えのこと考えてなかったな」と考えた瞬間、待ち構えていたようにメイドが二人現れた。
突然だと驚く程に唐突なワケではなく、けれど着替えが無いことに気付いて困るよりも早いその仕事ぶりに声が狼狽で震える。
(ほんと、そのくらい自分でやるから! ……って言いたくなった困るわ)
イケメン執事に色々世話される――みたいな妄想はしたことはあったけれど、やっぱり自分で出来ることは自分でやった方が精神衛生上良い。根っこが小市民のせいか、どうしても人間にお世話されることに慣れないのだ。
そう、人間に。
転移直後やニールたちと仲良くなる前は、このくらいなんてことはなかったような気がする。豪華な馬車を借りて、優雅に移動していても特になんとも思わなかった。
それはきっと、相手を対等な人間だと認識していなかったからだろう。ゲームのNPCに対して窃盗や殺害を行っても心が痛まないのと同じように、転移者主人公である自分とその他大勢くらいの認識だったから。
「……ね、ね、連翹お姉さん連翹お姉さん。後で部屋に行ってもいいかしら? 良い紅茶とお菓子があるのー。一緒にお喋りしましょう?」
過去の黒歴史っぷりに頭を抱えたくなる衝動を堪えていると、背後から小声で、けれども楽しげな弾む声が響いてくる。
振り向くと声の主、崩落狂声が柔らかそうな肢体を水色の下着で包みながらこちらを見つめているのが見えた。にこり、と悪意の無い笑みが向けられる。
一も二もなく頷きたくなる欲求が胸から這い出て来るが、それを抑えつつ首を横に振った。
「ごめんね、今日は疲れたからもう休みたいの。連れてきた友達に無理させちゃったから」
「そうなの? ……あ、その子は転移者さん? それとも現地人さん?」
青地に白いレースがふんだんに用いられた布地が彼女の胸を包み込む。
下着によって形を整えられた胸元は、生とはまた違う質量を連翹に突きつけてくる。生がふわふわとした柔らかな印象だとすれば、こちらはそびえ立つ二つの山だ。
その質量はもはや引力を有している。女だと言うのに無意識に山登りがしたくなってしまう。
「現地人よ、連合軍の中で仲良くなった子なの。いい子よ、あたしの大切な友達なの」
与えられた替えの下着を身に纏いながら言う。
サイズが合っているかどうか不安だったが、しっかりとフィットして逆に不安になる。もしかしてメイドが汗を吸った下着を確認して、それと同じサイズを持ってきたのだろうか。
同性だとしても恥ずかしいなそれ、と思いながら白いネグリジェに袖を通す。ネグリジェといえば薄くて透けてるイメージがあったが、連翹が身に纏ったのは分厚く丈も長いモノであった。さすがにこのまま外には出れそうにないが、室内であれば十分だろう。
「そっか――ならマスク用意しないと駄目ねー。普通に話してる分には問題ないんだけど、笑ったり大きく息を吐いたりすると胞子が散っちゃうの」
脱衣所に設置された鏡を前で「……西洋風でちょっとテンション上がるけど、大丈夫? 似合ってるこれ?」と首を傾げていたら崩落が言った。
相手が現地人なら胞子を吸って寝込んでしまうから、と冗談めかした口調で言う崩落だが、聞いているこちらとしてはちょっとしたホラーなので止めて欲しい。
(……まあ、優しい子ではあるみたいなんだけどね)
他の転移者のように他者を気遣え無い輩では断じて無いのだ。
実際、こちらの言い分はしっかりと受け入れてくれるし、着替えを持ってきたメイドに対しても感染させぬようにしているのか先程から小声で話しているし、距離を取っている。悪い子ではないのだと思う。
インフィニット・カイザーがなんとかしたいと思ったのも分かる。
これが他の転移者のように、他者のこと知らぬとばかりに暴れまわっていたら、見捨てることに抵抗は無いのだが――
「んー? どうしたの、連翹お姉さん?」
――そんな、裏表の無さそうな笑みを向けられたら。
こんなの困る、困る、困ってしまう。
見捨てるという選択肢が無くなってしまうから。
連翹はレゾン・デイトルに潜入する時に、おおよその優先順位を考えていた。その中で、崩落狂声という少女の救出はだいぶ下の方に位置していたのだ。
だって、しょせん他人だと思っていたから。
そして他人を救うのであれば、複数存在する囚われた現地人の方が優先順位が高い。そう、潜入前は考えていたのだ。
だが、一度出会って、会話して――連翹の心の中にある優先順位は大きく変化してしまった。
さすがに突入経路や転移者の配置などといった連合軍の皆の生き死にに関わることより上にはならないけれど。それでも上に、上にと上り詰めてくるのだ。
「……ううん、別に大したことじゃないのよ。ただ、あたしなんかよりずっとおっぱい大きいなぁって――」
「やめてッ」
決して大きな声ではなかった。
だが、重く冷たい金属の刃めいていて、冗談めかした連翹の言葉は引き裂かれてしまう。
崩落の表情には先程まであったどこか眠そうな瞳も、楽しげな笑みも無い。
あるのは恐怖と拒絶。
心底怯えた眼差しで連翹を見つめていた崩落は、驚き固まる連翹を見て涙を流しながら頭を振った。
「ああ、ごめんなさい、ごめんね、ごめんね連翹お姉さん。でも、お願い、そんな風に言わないで――お願い、お願いだから」
やめて、やめて、やめて、そんな風に見ないで、そんな風に言わないで。
うわ言のように呟きながら、下着姿の彼女は自身の体を強く抱きしめた。寒い、寒い、寒い、このままでは凍えて死んでしまうとでも言うように。
言葉が失せた脱衣所で、崩落の呼吸音だけが大きく響く。そう大きく、深く。体の中で繁殖したハピメアの胞子を摂取するために。
「うん。ごめんね、もう言わないわ。約束よ」
その体を、そっと抱きしめる。母が子にそうするように、怖がる必要なんてないよと。
突然ボロボロと泣き出した彼女に対して驚きはあった。けれど、不快感や嫌悪感などあるはずもない。
(……誰だって、救われたいと思ったからこの世界に来てるんだから)
元々リアルが充実していた人間なら、異世界になんて来るはずがない。強制ならともかく、この世界の神様は行くか行かぬか問うてから転移をさせているのだから。
だからこそ、転移者たちは救われたいと願っている。元の世界で得られなかったそれを得たいと思っているのだ。
それはきっと逃げなのだろうと思う。元の世界でちゃんと頑張れと声高に言う人も居るはずだ。そしてその言葉は、きっと正しいのだろう。
だけど、その正しさに耐えきれない弱い人間だから――自分たちはここに居るのだ。
だから、優しくしてもいいではないか。救いを与えてもいいではないか。
無論、そこで立ち止まっているワケにはいかないけれど。ずっとずっと雛鳥のように口を開けているワケにはいかないけれど。
それでも、翼の傷ついた鳥が再び空を駆けるまで治癒することは、決して間違いではないと思うのだ。
――だって、片桐連翹という女がそうなのだから。
空を飛ぶことが出来なくなって、その癖与えられた力に酔い痴れて己の力で飛翔することを忘れていた自分も、多くの人との交流で翼を癒やすことが出来た。
この翼はまだ小さいけれど、前々から努力している人に比べて飛び方は下手糞でも、それでも眼下で震えている雛鳥に手を伸ばすことくらい出来る。出来る、はず。
「う――ん、ありがとう、ごめんね、ごめんなさい」
「そういうのは良いのよ。悪いのはあたしなんだから」
よしよし、と震える背中を撫でる。
彼女に何があったのか、どんなトラウマがあってこんな風に震えているのかは分からない。聞くことも、出来ない。ずかずかと踏み入って良いことではないだろう。
だから今は、優しく撫でるだけ。
連翹が皆にして貰ったように、弱った心を包んであげたいと思うから。彼女の本心を知るのは、もっと後で良い。
「さっきの約束、まだ有効よね? 明日はノーラって子と一緒に、笑顔でお喋りしましょう」
「うん、わかったわ――ありがとう、お姉さん」
気にしなくていいのよ、と少しだけお姉さんぶって笑った後、背を向けて歩き出した。
その姿でどれだけ安堵させられるかは分からないけれど、不安そうな顔をするよりはずっといいはずだ。
だからこそ、笑う。まだ、彼女の口内を覗き込んだ時に抱いた恐怖は無くなってはいないけれど、こんなのなんてことはないと言うように。
そうやっていると、ふと思うのだ。
きっと連翹が今まで出会った大人も、そんな風に強がっていたのではないか。
自分なんかよりずっとずっと優れていた誰かも、こんな風に強がっていたのだろうかと。
「……ありがとうございます」
あてがわれた部屋への道中、メイドが小さく呟いた。
突然の言葉になんのことだろうかと思ったが、少し考えて思い至る。崩落に対する行動のことだ。
「彼女はここでは珍しい、私たちに力を振るわない転移者ですから。あのような自然な笑みを浮かべるようになって、こちらとしても嬉しいのです」
「……まあ、暴力振るって楽しむタイプには見えないからね、あの子」
元々の性格がそうなのか、ハピメアの効能でそうなったのかは分からないが、非常にマイペースな印象を抱く。
普段はぼうっとしていて、けれど楽しいことがあると嬉しそうにはしゃぐ――そんな、ちょっと隙が大きそうな女の子に思えるのだ。
ゆえに他人の悪意に鈍感で――けれど直視した時には多大なストレスを抱え込んでしまう。
これが普通の俺ツエーしたいだけの転移者であれば、適当に力を振るって溜め込んだストレスを解消できたのだろう。
けれど、彼女はそういった趣味はなく、だからこそストレスを溜め込んで――雑音より齎された薬に溺れた。
「多少だけど噂には聞いてたのよ、彼女のこと。……あそこまで依存してるとは思ってなかったけど」
「ここ最近、御友人を亡くしてしまい、それから余計に薬に逃げるようになってしまって。連合軍から来たというのなら知っているのではありませんか? 血塗れの死神という転移者を。
……正直、彼女自体は良い転移者ではありませんでした。喜ぶ現地人も、多いくらいで。ですが――それでも崩落様が歌う異世界の歌を楽しそうに聞いていたのです」
それがきっと、崩落にとって救いだったのだろう。
同性の友人に自分の趣味を楽しんで貰えて、だからこそ薬の依存も今ほどではなかったのだという。週に何度も吸っていたのは確かだが、菌糸に蝕まれることなどはあり得なかった。
だが、その友人が死に――抱え込んだストレスを解消するため、彼女の死を直視しないようにするため、吸って、吸って、吸って吸って吸って吸って――今に至るのだという。
――それを聞いて、思わずごめんと言いかけ……しかし言葉を飲み込んだ。
自分の仲間が彼女の友人を殺したこと、その結果ああなったのだという事実、それが罪悪感となって連翹を襲うが――その言葉はきっと言っていいモノではない。
死神の在り方はどう考えても快楽殺人者のそれであり、実は良いところが少しあったということ程度で評価を覆すべきではないだろう。
どれだけ彼女に善の部分があったとしても、罰せられるに足る悪事を成したのだ。微かな善だけで犯した罪が全て許されるというのなら、正しく生きている者が救われないではないか。
悶々とした想いに苛まれながら歩いていると、メイドがぴたりと足を止めた。どうやら部屋に着いたらしい。
「――お喋りが過ぎましたね。御友人は既にお部屋でお待ちですよ」
「ええ、ありがとう」
小さく頭を下げると、メイドの表情が僅かに緩んだ。
「……本当に。転移者が皆、貴女や崩落様、無二様のような人たちであれば良かったのですが」
「冗談。友達を拉致して騎士から逃げてきたような女よ、あたし」
レゾン・デイトルに来た時の設定を語りつつも、言葉には真実の想いを込める。
事実、連翹はそんな良い人間だなんて思われることをしていない、出来ていない、やれていない。失敗と失態と罪と、それらに気づかず笑っていたマヌケっぷりばかり目立って、とてもではないが彼女の言葉に頷くことなど出来ない。
「それでも、私はそう信じたいと思うのです。他人を気遣って微笑むことが出来る人が、そんな悪い人間ではないのだと」
言って、彼女はスカートの裾を摘んで一礼する。
言葉も動作も向けられた感情も連翹には分不相応過ぎて、どうしたって困惑の方が強くなってしまう。
「そっか――うん、ありがと」
けれど、だからこそ――それらの想いに恥じない何かになりたいと思うのだ。
メイドに微笑みかけて、あてがわれた部屋の扉を開く。
「レンちゃん! そっちも無事だったんですね!」
扉を閉めるよりも早く、ノーラの声が響いた。
椅子に座り所在なさ気に室内を見渡していたらしい彼女は、勢い良く立ち上がってこちらに駆け寄ってくる。
「ノーラ、しー……」
気持ちは分かるけどね、と思いながら己の唇に指を当てる。
さすがにそんなに待ちわびていた、みたいな対応を雑音に聞かれたら困る。わざわざ険悪なムードを演出する必要はないが、拉致された身でそんな心から嬉しそうな声を出したら流石に違和感があるだろう。
「あ、そうですね……ごめんなさい」
「いいのいいの、外には現地人のメイドさんしか居なかったし」
これがレゾン・デイトルに忠誠を誓ってるような人だったら問題だったろうが、先程の会話を聞く限りそれは無さそうだ。
無論、全ての現地人がそうであるとは限らないから注意は必要なのだが。
賢人円卓が良い例だ。内心で転移者にどういう感情を抱いているかは分からないが、しかし利益を得ているから忠誠を誓っている。
彼らのようなあからさまな者以外にも、レゾン・デイトルが無くなっては困るという現地人は居るはずだ。現地人だから、とこちらの思惑を喋っていたら密告されて吊るされる未来が見える。
そんな連翹の言葉に頷いていたノーラだが、「あれ?」と不思議そうな顔で連翹を――いや、違う。連翹の服を見つめた。
「レンちゃんその服どうしたんですか?」
「ああ、これ? さっきまでお風呂に入っててね、その時に貰った着替えなの。ネグリジェって初めて着るからテンション上がるわ!」
パジャマなどには存在しない大人の女パワーが漲る、溢れる!
丈が長く下着が透けないのもまた良い。露出が少ないから安心して着れるし、何より童貞殺傷能力が高い。今ならニールなんぞ一捻りだ、馬鹿女馬鹿女言ってくるあの野郎にいっちょ大人のエロスというモノを享受してくれる――!
「……一人でですか?」
むう、と。
少しばかり責めるような眼差しに思わずたじろいてしまう。
まあ、気持ちは分かるのだ。心配しながら待っていたのに、実はくつろいでましたー、とか言われたら確かにちょっと怒りたくなる。
「ご、ごめんね――言い訳だけど、無二と謁見した時にかいた汗が酷くて」
言っても、言い訳にしか聞こえないな、と額に汗を滲ませた。
だって、あの場で無二に対して恐怖を感じたのは連翹だけなのだから。
「……いえ、構いません。だって、わたしはそれが何かも分からなかったんですから」
表情を悔しそうに歪めて、ノーラは語る。無二の剣王との会話、その全てを。
連翹が感じたそれを確かに自分は放ったのだと。そして、それをおぼろげに理解したからこそ、連翹は恐怖したのだと。
それを聞いて、連翹は静かに腕を組んだ。
あの時感じたモノは自身の勘違いではなく、実在したもの。
けれど、感じ取れたのは連翹だけで、他の者は全く気づかなかった。
そこまで考えて、ぽつりと呟く。
「――あたしって、実は転移前から異能とかそういうのがあったタイプ?」
「レンちゃん、今まじめな話をしているんですけど」
にこり、という笑顔と共に叩きつけられる怒りのオーラ。
あ、ちょっと真面目に怒りかけてる。下手するとお説教喰らう流れだこれ!
笑顔で静かに威圧感を発するノーラに対し、違うの違うの、と両手を振ってアピールする。
「うん、ふざけた物言いだって自覚はあるけど、一応真面目な話なの。だって――三人の中であたしだけが感じ取れる『何か』って何? それこそ説明の出来ない超パワーか何かじゃない?」
転移者の幹部雑音語り、転移者片桐連翹、現地人の神官ノーラ・ホワイトスター。
この三人の差はなんだ?
連翹と雑音が理解したのなら分かる。つまりそれは転移者が感じ取れるモノだということだ。つまり規格外や地球時代に育まれた何かが反応したのだと理解できる。
ノーラだけが理解できたとしても、分かる。それはこの世界に根ざした現地人が感じ取れるモノだということだから。
だが、このメンツで連翹だけが理解できる何か――それが全く検討もつかない。
「雑音の言い方からして、理解できない相手なら戦闘になってたってことでしょ? そして、血塗れの死神や崩落狂声が戦闘を回避していないらしいし、そうなると転移者で女性って括りもアウト。なら、なんかよく分からない不思議パワーが共鳴したとかの方がまだ理解出来る気がするのよね」
連翹が恐怖に囚われた後、雑音は言った。『……? もうおしまいかい、無二。普段なら軽く戦っているだろう?』と、不思議そうな顔で。
あれは素の感情と言葉だと感じた。普段と違う行動に怪訝な思いを抱いたのだ。
つまり、レゾン・デイトルの幹部は全員、戦闘の回避に失敗しているということ。
連翹よりも対人経験と殺人経験が多い死神も、
連翹よりも運動神経があり知識もある王冠も、
連翹よりも一撃のパワーが大きい狂乱も、
連翹よりもメンタルが脆く戦いが苦手そうな崩落も、
皆、等しく王と戦うことになり――敗北している。
ノーラから伝え聞いた無二の言葉を信じるのなら、彼が放つ威圧感に気づけなかったから。
だというのに、連翹だけは気付いて、戦いを回避した。自分よりも優れている部分がある者も、劣っている部分がある者も、等しく戦っているのに。
だからこそ、もう超能力の才能があるとか言われた方が納得出来るような気がするのだ。
「うう……ん……? 言いたいことは分かるんですけど、さすがにそれは思考停止に近いんじゃないかと思うんですけど」
「うん、口に出して頭を整理するのって超大事ね。というかこれが正解だったとしても、それを証明する方法もないからね。自分で言っといてなんだけど、そんな能力があるのならここまでの道中でとっくに覚醒してる気がするのよ」
ゆえに、ひとまずは保留。
どれだけ推論を並べても検証が出来ない以上、こればかりを考えていても意味がない。
「後は――チェスの終盤に負けが確定したらチェス盤ごと投げ捨てて『こういうのが一番嫌いだ』、か。……まあ、確かに回線切断する奴は死ねばいいとかは思うけどね」
「かいせん、切断?」
聞きなれない単語に不思議そうな顔をする彼女に、連翹は「ええっと、ちょっと待ってね」と頭の中にある半端な知識を繋げてこの世界の人間に伝えやすい説明を考える。
「うーん、細かい理屈云々抜きで、すっごく雑に言うと……あたしたちの世界にはどんなに遠くはなれていても一緒にお話したりゲームで遊んだり出来る仕組みがあるのよ。それに必要なのが回線。
んでもって、負けが確定するともうつまんなーい、って感じでその回線を意図的に切断して、ゲーム自体をなかったことにしようとする輩が居るのよ。それが回線切断。切断厨とか呼ばれて忌み嫌われる生き物よ」
なにせ顔が見えないから、どれだけ不義理をやってもリスクが無いの、と。
まあ最近のゲームでは切断対策とかがあったりするけれど、そこら辺は今必要ない情報なので全部オミットする。
「そういう奴が居るとすっごい冷めるのよね。そりゃ負けたら悔しいのは理解出来るけど、だからって勝者に冷水かけるような真似してんじゃないわよ全く」
その気持ちは、まあ分かる。
分かるのだが――
「……嘘を言っていたとは思わないんです。きっと、そういうのが本当に嫌いなんだろうって思いました。けど――それと転移した理由、王様をやっている意味が繋がらないんですよね」
そうなのよね、と連翹は頷いた。
チェスを用いて行ったのは比喩表現か何かだと思うのだが、それとレゾン・デイトルの玉座に座ることがどう繋がるのかが分からないのだ。
だから、これもまた保留。自分たちが答えを導き出すには、少々情報が足りない。
「あれも保留、これも保留……焦っちゃいけないのは分かってるんだけどね」
レゾン・デイトルの内部に入ってまだ一日すら経っていないのだ。
だというのに全てを見抜くほどの洞察力と推理力は、残念ながら連翹にもノーラにも存在しない。凡人は凡人なりにじっくりと情報を集め、完璧ではなくても役立つ情報を皆に提供するべきなのだ。
だからこそ、ゆっくり、そして確実に。
劇的な成果を得るために冒険して大失態というのが一番最悪だ。
なにせ、ニールやカルナ、連合軍の皆はきっと自分たちを見捨てないから。こちらがヘマをして捕まれば、必ずこちらにリソースを振るはずだから。
そんな風に足を引っ張るのだけはゴメンだ。信じて任せてくれたのだから、小さくとも必ず成果を出さねばならない。
「わたしが出せる情報は、今はこれだけですね。レンちゃんは何かありましたか?」
「……ああ、うん。最後の幹部と仲良くなって、お茶会の約束を取り付けてきたわ」
その言葉を聞いて喜色を浮かべたノーラだったが、連翹の説明を聞くに従い表情を曇らせていく。
薬に依存するどころか、大本を体内で繁殖させてトリップする姿は、確かに異様だ。
あんな風にまともに会話出来ていたのは転移者が状態異常を無効化するからであって、本来ならとっくにまともな会話など望めない状態であろう。
「……そもそもあたしってハピメアについて全然詳しくないんだけど、あれってどういうモノなの? なんか幸せな夢を見せるキノコで、それを上手く使って薬にしてるってことくらいしか知らないのよね」
雑音に嗅がされたそれについて、連翹は大して知識を持っていない。
せいぜい幸福な夢を見せることを利用した痛み止め兼睡眠薬であり、転移者はその睡眠をレジストして幸福な気分だけを感じ取れるということくらいだ。
「ええっと、確か――吸うと幸せな夢が見られる胞子を散らすことで動物を近くに招いて、眠らせるんです。そして脳を侵して、苗床化した動物を繁殖に適したじめじめとした立地まで動かす。そしてたどり着いたら脳を中心に増えるんだとか」
「待って、思ってたよりずっと怖いんだけど」
連翹が漠然と想像していたハピメアのイメージは使い方次第では医療用になる麻薬だった。
だが、今の話はもう麻薬通り越してゾンビウイルスだ。そんなモノ嗅がされたのかと思うと吐き気さえする。
「もちろん、医療用に使われるのは純度が落とされてますから、せいぜい気持ち良い気分になって頭がぼんやりする程度です。けど――話を聞く限り、崩落さんは高純度どころかキノコそのものから胞子を吸ってる可能性さえありますね……」
元々は医療用の低純度のモノを使っていたのかもしれないが――人間とは慣れる生き物だ。
どれだけ美味しい食事であっても毎日食べれば日常となり飽きが来るように、人間は新たな快楽を求めてしまう。
より美味しいモノを、より劇的な勝利を――そして、より幸福な気分になれる薬を、と。
そうなったのが彼女自身の意思か雑音の謀略か、はたまたその両方が連鎖反応したのかは分からない。だが、どうであれ危機的な状況には変わりない。
なにせ、口内をちらりと見ただけで分かる異様な状況なのだ。肺なり食道などはもっともっと酷い状況だろう。
そんな状況でも生きているのは、転移者の体が彼女を守っているからだ。体内に張り巡らされた菌糸は転移者の体が状態異常と感知しない範囲に留められているのだろうと思う。
そう、転移者だから。そうでなくなれば、彼女が生き延びられる要素など欠片も存在しない。脳まで侵されてじめじめとした場所を探すゾンビモドキの完成だ。
「……一応、あたしなりに考えてみたんだけど――除草剤とかを一気飲みしたらなんとかなるんじゃないかしら?」
治療法というよりもアヴァンギャルドな自殺に聞こえて仕方がないが、しかし転移者ならば手の一つではあるだろう。
なにせ、転移者に毒は聞かない。どれだけ体に悪いモノだろうが、普通に考えてそんなの飲んだら死ぬってモノだろうが、規格外が体を守ってくれる。
無論、全てを除去出来るワケではないだろうが、それでも大半を取り除けばいざ規格外を失っても死ぬことはないだろう。
「色々ツッコミたいところはありますが……実際、それが一番早くて確実そうなんですよね」
力技極まる理屈であり、正直賛同しにくい意見ではあるが確実ではある、と。
なにせ、崩落は言っていた。自分がいつ転移したのか良く覚えていないと。
ゆっくり、そして確実に治せる手段があったとしても、最初からそれを使うのは難しい。治療途中にタイムリミットが来てしまったらそれで終わりだからだ。
ゆえに、連翹が語った理屈は間違いではない。
もちろん、それだけでは問題だ。だが、その後に実力のある神官の下で治癒を行えば確実に治癒することが出来るだろう。
「ですけど」
だが、それでも問題点があるのだと。
ノーラは暗い顔で思い悩みながら、ゆっくりと言葉を発する。
「……救われることを拒むんじゃないか、わたしはそう思うんです。仮にレンちゃんが言った手段を用いても、自分の手で繁殖させてしまうはず」
「え? ちょっと待ってよ。初手で体内で繁殖したのを殺し尽くせば、胞子の効果だって薄まるはずでしょ? なら、正気に戻って治癒に専念するんじゃない?」
「レンちゃん、彼女は転移者なんですよ。どれだけ多量に胞子を吸い込んでも、気分が高揚するだけで、幸せな気分になるだけで、頭の中身を弄られているワケじゃないんです」
転移者にとってハピメアの効果は、あくまで元気になってテンションが上がるだけ。
それ以上でも、それ以下でもないのだ。
無論、ハピメアそのものに対する嫌悪感も、多少は薄れてはいるだろうが――
「いくら転移者が頑丈で、菌糸によって脳が侵されないとしても――それでも、レンちゃんが言うほどの状況になればハピメアを吸うのを止めますよ。口の中の違和感や見た目の嫌悪感は薄れるだけで、無くなっているワケじゃないんですから」
なぜなら、転移者に状態異常は効かないから。
気分が良くなるだけで、ハピメアによって洗脳されているワケではないのだ。
ゆえに、体内から菌糸が生えてくる状況になれば――普通は狼狽えて吸うのを止める。止めることが出来ない程に依存していたとしても、目に付く菌糸をそのままにしておく理由など全くない。最低限、目につく範囲くらいは綺麗に整えるはずだ。
だというのに、彼女はそのまま放置している。口内が覆われる程に。
それはつまり、彼女はそれを望んでいるということではないか。
「仮に、彼女が完治して、その後に規格外が失われたとしても――何らかの手段でまたハピメアを求めて死ぬと思うんです」
だって、話を聞く限り彼女は生きたいと願っているようには思えないから、と。
ゆえに、何度でも繰り返す。
仮に薬から遠ざけても、何らかの手段を用いてかつて感じた幸せを取り戻すべく行動することだろう。あるいは、もっと質の悪い薬で代用するかもしれない。どちらにしろ、再び現実から目を逸らして夢に溺れるのは想像に難くない。
「だから、力がある間に、彼女の内面を癒やさなくてはならないんです」
転移者の体は頑丈で、状態異常を弾く。
ゆえに快楽で依存することはあっても、禁断症状などに苦しめられることはない。精神的な症状はあるかもしれないが、肉体面の不具合は全て規格外が守ってくれる。
だから内面さえ癒やせば、あとはどうとでもなるはず。
「……もっとも、その内面を癒やすのが一番難しいんですけどね」
「そうよねぇ……そもそも、時間だって足らないだろうし」
連翹の内面ですら、旅の中でゆっくりと育んだ友情があったからまともになったのだ。
だというのに、今日出会ったばかりの女が破綻しかけている少女の内面を癒やすことなど出来るのだろうか?
(正直、難しいと思う)
賢しい自分が言う。
――さっき思ったように、相手は今日出会ったばかりなのだろう?
――そこまで気に病むこともない、適当に仲が良いフリだけして問題は全部放置でいいじゃないか。
――大丈夫、他にやるべきことがあるんだ。見て見ぬふりをしたって誰も責めやしない。
――自分は悪くない。
頼んでもいないのに出て来る言い訳の数々に思わず顔を顰めた。
これが自分勝手な戯言ならすぐに捨てられるというのに、正論でもあるから質が悪い。
実際、連翹がそこまで悩む必要などないのだ。必要な仕事はレゾン・デイトルの内部を探ることで、崩落のことなんておまけだ。余裕があったら手を出すべき要素なのだ。
(そんなこと、百も承知よ)
けれど、けれど、けれど。
それでも、なんとかしたいと思ってしまうのだ。
それは彼女が憐れだからというのももちろんある。
だけど、それと同じくらい――片桐連翹という転移者のIFを見せつけられているようで、見て見ぬフリをしたくても出来ないのだ。
そうだ。もしも自分が転移直後に調子に乗れず、周囲を怖がったまま震えていて、雑音に目をつけられたら。
自分もきっと、ああなっていた。上辺だけでも優しくしてくれた誰かに縋って、そのために薬で誤魔化して、止められなくなって、心も体も破綻して。
そんなの、見てられないし――何より、様々な人に助けられたからこそ、誰かに手を差し伸べたいと思うのだ。
「うん、そうよね……ごめん、ノーラ。ちょっと疲れちゃったから先に寝るわね。お風呂入りたかったら机の上のベルを鳴らせばメイドさんが案内してくれるはずだから」
「ええ、分かりました。おやすみ、レンちゃん」
「うん、おやすみ」
ダブルベッドの中に入り込み、そっと瞼を閉じる。
悩みも葛藤もあるけれど、とりあえず今は悩んでいても始まらない。
レゾン・デイトルの内部についても、崩落狂声という少女のことも、無二の剣王という青年のことも。
全ては、明日から。
そのためにしっかりと眠って、頭を休めるべきだ。
ちゃんと眠れるかどうか不安ではあったけれど、意識はゆっくり、ゆっくりと溶け落ちていく。思ったより気疲れしていたのだろうか。
(ま――眠れないよりは、都合がいい、よね……?)
そんなことを心の中で呟いてから、意識は眠りの海に沈んでいった。
◇
「さて――と」
連翹が眠りに落ちたのを確認して、ノーラはぺちりと自身の頬を叩いた。
それは気合を入れるため。少し気後れする心を叱咤するために。
(レンちゃんが眠った今、わたしが出歩くことはきっと不自然じゃない)
なぜなら、ノーラは連翹に誘拐された現地人だと思われているから。
いくら連翹と仲が良くて、彼女を見捨てられず一緒に居る愚かな小娘だと思われていても、逃走手段すら探さず常に一緒に居るのは不自然だろう。
自分の意思でここに来たワケではないと思われている以上、一人で逃げる方法か連翹と共に国から脱出する方法などを探っている様子を見せるべきなのだ。
(本当はバレずに探るのが一番なんでしょうけど――わたしにそれは不可能ですし)
ただの小娘がこそこそと動いただけで、誰にも見つからずに情報を集められる……そんなの、妄想レベルの無茶だ。
だからこそ、ある程度はこっそりと動きつつ、最終的に見つかることを前提に動けばいい。
普通なら自殺志願か何かにしか思えない理屈だが――現状のノーラならば問題はないだろう。
「これが没収されていないのが、その証拠ですから」
己の右腕を――そこに嵌められたモノを見つめる。
それは霊樹によって作られた篭手、理不尽を捕食する者だ。
転移者の力を一時的に簒奪し奇跡を強化するための装備は、未だにノーラの元にある。
雑音語りは戦いの場でこれを用いたノーラの奇跡を見ているはずなのに、しかし奪いに来る気配は未だにない。連翹が疑られない限り、ずっとこのままだろう。
だって、ノーラは弱いから。
警戒に値すると思われていないから。
個人でこの状況をどうにか出来る力を有していないから。
それは卑下するワケでもなく、言葉通りの意味だ。
実際、これがあってもノーラ一人ではどうしようもない。幸運に恵まれて一人、二人の転移者を無力化してもそれで終わる。この国から脱出するどころか、屋敷の外へ逃げ出すことすら怪しい。
連翹のように規格外があるワケではなく、ニールのように剣を扱えるワケでもなく、カルナのように魔法を操れるワケでもない。使える奇跡だって、他の神官に比べれば未熟だ。
だからこそ、こんな娘一人がどれだけ頑張ってもどうしようもない。全て全て、無意味なのだ――本当に連翹に誘拐されただけの娘だったのなら、の話だが。
哀れで無力な被害者という虚像を以って、自分がやれることをしよう。
無理はしない、無茶はしない、あくまでか弱い娘の無駄な努力に見える範囲で動くのだ。
「それじゃあ――愚かな被害者らしく足掻いてみましょう」
どうあっても逃げ出すことなど不可能なのに、無意味な努力を重ねる愚かな娘として――ノーラは忍び足で部屋の外へと足を進めるのであった。




