192/湯船の中に少女がふたり
――ノーラは大丈夫だろうか。
雑音の背を追いながら、連翹はどうしても不安に思ってしまう。
別に、彼女が不甲斐ないと考えているワケではない。それでも、もしもという予測はどうしても頭から完全に抜け切らないし、その場合ノーラが無事で済む可能性は限りなく低いのだ。
「お友達が心配かい?」
そんな思考を読まれたのだろう、こちらに振り向いた雑音語りは、くつくつと笑い声を漏らしながら連翹の顔を見つめる。
「安心していいよ。彼は力があり、権力も手に入れたっていうのに、それを振るって誰かを服従させることを好まない偽善者だから」
「偽善者……?」
「そう、そうとも、偽善者だ。富や女に興味ありませんって顔をしている癖に、玉座が恋しくて愛しくて仕方がないらしい。本当に善なる者なら、騎士どもみたいに正しき怒りを抱いてぼくに剣を向ければ良いだろうに! そんなことすら彼はしようともしない……結局のところ、あいつは富と権力を手中に収めながらも『おれはこんなモノに興味はないんだけどなぁ』って顔をしたいだけの馬鹿者さ」
そう言って嗤うのだが、連翹はどうしてもそのようには思えなかった。
無二の剣王が本物の善人にしろ、善人を装った詐欺師にしろ、何か理由があって王をしているのだとは思う。
だが、雑音が語るような俗な理由だとは思えない。金銭とか、名誉とか、他人の評価とか、そういうモノに頓着しないタイプに見えた。
「異世界転生や転移モノ、それどころかマンガやラノベでもあるだろう? 客観的に見て恵まれまくってる癖に、薄っぺらい不幸自慢しだす奴。
たっぷりの財宝に囲まれながら『自分はこんなの望んでなかったのにー』って嘆いて美少女に可哀想可哀想って慰められ、その癖望んでいたいなんて言った財宝を自分の所有物にしたり。
沢山の美少女による自分の争奪戦が始まるのを見て『うわーん、不幸だよー』とか言った舌で新たな女の子を口説き始めたり。
そんな風に……自分はそんな即物的な欲望で満足するような奴とは違う、こんなので喜ぶ小物じゃないってアピールがしたいだけさ。ああ、薄っぺらい薄っぺらい、そういうアピールが一番小物臭いってなぁんで分からないかなぁ……ハハハッ!」
そう言って心底おかしそうに笑い、嗤う。
その姿が、非常に癇に障る。自分や知り合いを嗤われたワケでもないのに、イライラが止まらない。
なんでこんなに他人の悪口を心底楽しそうに喋れるのだろう。無論、連翹だって陰口の一つや二つ、吐いたことはある。自覚的なモノでもいくつか、無意識のモノならたぶんもっと一杯。そういうのは嫌いだって思ってるのに、たぶん何度も口にしているんだろうと考えると、自分で自分が嫌になってくる。
「……それより、あたしとノーラの部屋はどこかしら? ごめんなさい、早く行ってノーラを出迎える準備をしなくちゃいけないの」
「おっと失礼。長話をしてしまったようだね……この部屋だよ」
そう言って開いた扉の先は、綺麗に整頓された部屋であった。
掃除の行き届いた室内の中で目を引くのは天蓋付きの巨大なベッド、そして壁を覆い尽くす本棚だ。それ以外の調度品などはほとんどなく、せいぜい机と椅子、その上に座るテディベアと傍らに置かれた安っぽい短剣くらいだ。
読書家の女の子の部屋だろうか――鏡すら存在しない室内は、この部屋の主が自身を着飾ることより趣味に没頭するタイプなのだと告げている。
それに対して、連翹は部屋の主に対して共感を抱いた。なんというか、地球時代の自分の部屋に似ているのだ。そのせいか、居心地の良さを感じていた。
だが、それ以上の問題が一つ――
「あの、ここって、誰かが使ってるんじゃ……」
来客用にベッドメイクされた部屋、などでは断じて無い。
誰かがこの部屋に住み、自分好みの本棚やベッドを設置したのだというのがひと目で分かった。
「ああ、その通りさ。けど安心するといいよ、もうその人間がこの部屋に来ることは二度とないから。なら、再利用した方が良いだろう? もちろん、自分で家具や調度品を選びたいっていうのなら、他の使っていない部屋を案内するけどさ」
「そう、ならいいの」
少しだけ気になったが、今はそれを気にしている場合ではあるまい。
ついでにベッドが一つ、というのも問題と言えば問題なのだが――自分の演技のせいで「ねえ、もう一個ベッド頂戴」みたいなセリフを封殺されてしまっている。むしろ喜びそうだもの、演じている片桐連翹という女。
「それなら良かった、片付ける手間も省けたというものだよ。さて、それじゃあ旅の疲れを癒やすと良い。現地人の奴隷たちに用があるなら、机のベルを鳴らしてくれ」
「ありがとう、雑音様。その言葉に甘えさせて貰うわ」
一礼すると雑音は気を良くしたように笑い去っていった。ばたん、と扉が閉まる音が響く。
しばし、扉を凝視して沈黙し――彼が去っていったのを確信すると、ぺたりと椅子に腰掛けた。
「……ふぅぁぁぁうぁ」
気の抜けるような声が口から漏れる。
疲れた。演技は思ったより上手く行っていたし、案外才能あるんじゃないのとも思ったのだが――それでも、違う自分を演じ続けるのはどうしたって疲労してしまう。
だから、こうやってプライベート空間があるのは非常にありがたい。四六時中他の転移者と一緒に居たら、絶対に疲れてボロを出すはずだ。
(……ひとまずは成功ね)
本格的な情報収集はまだだが、現状は疑いを持たれていない。
雑音が連翹に疑心を抱いていたとしたら、こんな風に一人にさせるはずがない。様々な言葉を弄して連翹の心をかき乱し、その本心を探ろうとしたはずだ。
無論、だからといって安堵出来るワケでもない。
雑音は今、連翹とノーラを見下しており、自分を害する存在だと欠片も認識していない。
けれど、何かの拍子に疑われたら――一気に動けなくなる。
だからこそ慎重に、そして大胆に動く必要があった。ぐずぐずとしている間に違和感を持たれたらそれで終わりだ。
「けど、今は――」
呟いて机の上のベルを鳴らす。
ちりん、ちりん、という音が響いてからしばらくして、現地人のメイドが現れた。
賢人円卓を名乗る貴族が飼っていた奴隷とは違う。肌の露出の少ない、まさしく仕事をするためのメイドといった雰囲気だ。
「失礼します――御用でしょうか、片桐連翹様」
「……ねえ、今お風呂って入れる?」
疲労感と先ほど無二と対峙した時に吹き出した汗。
それを洗い流してリフレッシュすることは別にサボりではない。風呂に入って寛いでる人をスパイなどと思わないだろうし、コンディションを整えるのも立派な仕事だ。
(うん、まあ、そのはず)
内心で言い訳をしながら、連翹はメイドに問いかけのであった。
「ええ、大丈夫ですよ。ご案内いたしましょうか?」
「うーん……うん、お願い」
一瞬、ノーラを待とうかとも思ったが、無二との会話にどれだけの時間が掛かるのか分からない。
それに、あんまりノーラが心配だという不安を見せるのもマズイだろう。雑音が安心しろと言った以上、その言葉を疑う行為は不必要にしない方がいい。一応、彼の言葉を信じてレゾン・デイトルに逃げ込んだという設定なのだから。
だから、一人で行っても大丈夫だろう。それに部屋に篭っているよりは、理由をつけて移動していた方が情報を拾いやすいはず。
「分かりました。どうぞこちらへ」
頷いて先導するメイドの背を追いながら、廊下や窓、階段などをチェックしていく。
いざという時の逃走経路は重要だし、どうしようもなくなった時に発煙筒だけでも外に投げ捨てられるよう窓の位置などは把握しておくべきだ。
「こちらです」
「ありがとう、もう大丈夫よ。何かあったらまた呼ぶから」
そう言って脱衣所の中に逃げ込むように乗り込んだ。
だって、メイドさんに案内されたりするの微妙に緊張するから。これがミニスカメイド服着たちゃらい女の子ならまだしも、ロングスカートのメイド服をキチンと着こなしている姿はプロっぽくて困る。そんな人にお世話してもらう人間じゃないんですよぅ、とか言いたくなるのだ。
同性でもこれなのだから、イケメンな執事とかが側に控えたらどうなるのだろう? 正直、役に立つたたないじゃなく、こっちが緊張してしまいそう。
ふう、とため息を吐きながら衣服を脱ぐ。
セーラー服を脱衣籠に入れ、シャツに手をかけてから「むう」と小さく声を漏らす。
「……シャツとか下着とか、言ったら洗濯して貰えるのかしら」
汗を吸ってじっとりとしたシャツは、冬の大気によって冷やされてなんとも言えない不快な感触をしていた。恐らく、下着も。肌に密着している今ならまだしも、一度脱いでしまえばじっとり感マシマシになっていそうだ。
うーん、と下着姿で悩むこと数秒。
だが、「まあ、そういうのは温まった後で考えればいいや」と下着を脱ぎ、タオルを巻いて浴場に行く。
扉を開けると暖かそうな湯気が出迎えた。
(大きなお風呂ね……!)
無論、公衆浴場などに比べれば小さい。だが、あちらは自分たち以外の沢山の人間が居るため、どうも狭っ苦しい印象があるのだ。
だが、今ここには自分だけ――こんな状況下だというのにテンションが上がってしまう。
だって行軍中は中々お風呂に入れないから。
野営中はもちろんそうだし、仮に泊まった場所に公衆浴場があっても連合軍は大所帯だ、全員が入浴する時間もお湯も燃料も足りない。
「……でも、これならノーラを待ってた方が良かったかしら」
独り占めすることに罪悪感を抱き、ぽつりと独り言を呟く。
「あら? だーれー? 誰かいるのー?」
誰に聞かせる言葉でも無かったのだが、連翹の独り言に応える声が湯船から響いてきた。
ぱちゃり、という音を立てて立ち上がったのは、どこか眠そうな顔をした少女であった。
ふわふわとした亜麻色の長髪に、タオルの上からでも凹凸が分かるスタイルの良さ。背も女性にしては高くモデル体型――というには胸が大きすぎるけれど、四肢はすらりと長くて細い。
肌は太陽から降り注ぐ光のように白く、瞳は眠た気に細められていても分かる大きさ。
大事な部分をタオルで包まれた肢体を見て、心臓が跳ねる。細すぎず太り過ぎず、ある種黄金比めいた体つきに同性ながら少しばかりどきりとしてしまう。
そんな風にじっと見つめていたせいだろう、不思議そうに首を傾げる彼女の姿を見て慌てて挨拶をする。
「あ、ごめんね、あたし一人だと思ってて。片桐連翹……今日、ここに来たの」
「あらあら、そうなのー、よろしくねー」
そう言って近づいてくる彼女の姿は、やはり連翹よりもやや大きい。
だというのに、夢見心地であるかのようなふわふわとした口調が年若い少女のような雰囲気を漂わせている。
彼女は湯の滴る髪を掻き上げ、ふわりと微笑み――
「わたしは崩落狂声。みんなからは崩落って呼ばれてるわー」
――柔らかい声とは裏腹に剣呑な名を告げる。
崩落狂声、それはレゾン・デイトル最後の幹部の名だ。
インフィニット・カイザーによって伝えられた情報によれば、単体戦闘能力は低いが、多数の現地人と戦う時に無類の強さを発揮する転移者なのだという。
ゆえに、雑音に利用され、薬漬けにされているのだと。
だが、連翹は内心で首を傾げた。戦闘能力云々はまだ見ていないから分からないが、それ以外の情報と眼前の少女の姿がどうしても重ならない。
突然知らない人間と出会っても取り乱す様子もないし、それどころかフレンドリーに微笑んですらいる。
(ん? ……いや、ちょっと待って)
そこまで考えて、ふと思い出す。
インフィニット・カイザーが語ったという崩落狂声の情報の中に、確か年齢もあって――
「ええっと、崩落、貴女……十四歳、と――とし、した?」
十四、じゅうよん、連翹よりも二歳も下だ。
おかしいだろう、明らかに自分よりも育っているではないか――!?
「そうよー。よろしくねー、連翹お姉さん」
そう言ってぺこりと頭を下げる。
そうするとぷるりとタオル越しの乳房が震えた。
――でかい。
タオルが水を吸って肌にぺたりと張り付いているから余計に理解できる、出来てしまう。ちょうでかい。
恐れ慄きながら自分の体を見下ろす。
――ぺたん。
いや、ぺたんではない。違う、違う、断じて。タオルに包まれた胸部も、ほら、なだらかではあるけれど丘ではあるから。
そう、ゼロではないのだ。Aではない、Bくらいはあるから。大丈夫だから。
某バスト占いソングで『無くてもいいけど、ちょっとは有ったほうが良いとか好みとして微妙過ぎー!』とか言われるくらいのサイズだけど絶壁ではない。ぺたんこではない、ないのだ。
「どうしたの、連翹お姉さん?」
「……ううん、なんでもないわ。それより、体洗っちゃうわね」
もっとも、目の前の質量を前にそんな一かゼロの差を論ずるのは不毛なことではあるのだが。
それに何より、貧乳はステータスだ、そう悲観することはあるまい。バッドステータスとか言ったら殺す。主にニールとか言いそうだから想像の中で殺しておく。
無意識に力強く体を洗っていると、浴槽の方から視線を感じる。振り向くと、楽しげに微笑んでいる崩落が湯船から頭だけ出しているのが見えた。
「ふふふっ、連翹お姉さんが来てくれて嬉しいわー。レゾン・デイトルの転移者って大体男の人だからー」
ぱしゃぱしゃ、とリズミカルに湯船を蹴る音が響く。
見た目は自分などよりも年上に見えるのに、その動作が年相応な感じで微笑ましく思う。
(それに――ちょっと、お姉さん呼ばわりが嬉しい)
なんというか、こう――年上なお姉さん扱いって、今までされたことが無かったから。
別に背丈が高いワケでもなければ、しっかりとしたタイプだったワケでもない。部活動に打ち込んでいたワケでもないし、年下から年上扱いされるのが無かったのだ。
「ああ、まあ……確かに男女比率は偏ってるわよね」
女が居ない、というワケでは断じてないけれど――それでも転移者は男性が多いのだ。
創造神の声を聞いて、異世界に転移することを良しとした者――転移者。その者たちは、やはり無作為に選ばれたワケではないのだろう。
チートと書いた最強とルビを振る。そんな日本の中でも狭い文化を転移者全てが共有している現実がある以上、創造神は何か目的があって転移チートに憧れを抱いている人間を呼び寄せているのだろう。
(『作家になろう』とかでも、男向けと比べたら女向けの最強チートって少ないしね。そのせいで転移チートに憧れる絶対数が少ないのかしら)
無論、それはあくまで男性向けの創作と比較して少ないというだけで、数多く存在していたのだけれど。それでも悪役令嬢転生などをメインとした恋愛モノが多かった気がする。
そうなると、転移する人間は転生や転移によるチートモノに憧れていた者を狙い撃ちにしているという予想、それに真実味が出た気がする。
創造神はあくまで規格外を好き勝手に使わせるために転移者を呼び寄せていて、それ以外はあまり頓着していない――そんな風に感じるのだ。
そう考えると創造神とかマジ邪神臭いんだけど――そんなことを考えながら湯で泡を流し、湯船に向かう。
「それじゃあ、お邪魔します」
「いらっしゃーい、ふふっ」
ちゃぷん、と湯船に浸かった。
すると、この国に来てから感じていた疲労感などが溶け出していくのを感じる。
やはりお風呂は良い。地球時代は当たり前でありがたみを感じたことは無かったけれど、この世界に来てから沢山のお湯にのんびり浸かるという贅沢さが分かった。
「ねえねえー、連翹お姉さんはどこから来たの? 見ない顔だし、レゾン・デイトルには最近来たのよね?」
「あ、うん。そうね、最近までは――連合軍ってとこに所属していたわ」
少しだけ俯いて、暗い声音で。
多くを語ればボロが出そうだから――仕草で想像させる。
「あ、知ってるわそれ! 雑音さんが言っていたもの。わたしたちに意地悪する悪い人たちでしょう? 大丈夫、連翹お姉さん。何か酷いことされなかった?」
「うん、大丈夫――何かされる前に逃げてきたから」
「そっか……良かったわー」
胸に手を置いて心から安堵したという風に吐息を吐く崩落の姿に、心の中に罪悪感が膨れ上がる。
歳の近い同性が来たことを喜び、何か酷いことをされていないかと心から心配し――そんな姿を見ていると、このまま騙していて良いのかと思ってしまう。
無論、思うだけだ。彼女が信頼できるようなら連翹たちの目的を話し、一緒にレゾン・デイトルから脱出するのも有りだが……今はまだ、崩落狂声という少女のことを理解出来ていないから。
連翹が知っていることなんて、今こうやって会話をした印象以外には、ハピメアに依存しているということくらいなのだから。
(……でも、見た感じ随分とまともそうよね)
受け答えもしっかりとしているし、体だって健康に見える。とてもじゃないが薬物中毒者には見えないのだ。
「そうだ! ねえねえ、連翹お姉さん。ここに招かれるってことは、新しい幹部になるのかしら? だったら名前はもう決めた? それとも雑音さんにつけて貰うの?」
ぐいっ、と体を寄せて崩落は楽しげに問いかけてくる。
名前? と怪訝に思ったが、すぐに思い至る。幹部が名乗る二つ名みたいな名称だ。
「ううん、まだ来たばかりだし、決めてないの。参考に聞かせて貰いたいんだけど、他の幹部はどうやって決めてたの?」
「死神お姉さんとあの白い人は自分で決めてたけど、他の人はみんな雑音さんが付けてたわ」
死神お姉さんなんて一週間くらい名前に悩んでたのよ、と。そう言って崩落はころころと笑う。
だが、連翹はその言葉に上手く返事をすることができなかった。
オルシジームで王冠に追い詰められていた時、自分たちを救うために現れたニールが取り出した彼女の首――それを思い出してしまったから。
後悔しているワケではないが、生前の彼女と仲良くしていたという話を聞くと、少し居心地が悪い。
だから、彼女の言葉を話半分に聞きながら、楽しげに笑う彼女の顔をじっくりと観察した。彼女が笑い終えたら別の話題を提供しようと思って。
その整った顔、瞳、頬、そして楽しげに笑って開いた唇――その、中を。
連翹は、覗き込んだ。
覗き込んで、しまった。
「――――ひっ」
ばしゃり、という音が鳴った。
それは無意識に飛び退いた音。おぞましいモノを直視してしまい、無意識に後ずさりした音だ。
――名状しがたき化物の臓腑を覗き込んだ、そんな錯覚。
あるいは、腐った木の洞を覗き込んでしまったような嫌悪感か。
暖かな湯に包まれているというのに寒気がして、冷えた汗がじわりじわりと吹き出してくる。
だって――彼女の口内には、白い根がびしりと張り付いていたから。
微かに見える喉の奥も同じ、肉を覆い隠すような白い根がへばり付いている。
崩落の口内をびしりと覆ったそれだが、彼女がころころと笑うだけでぺりぺりと剥がれ落ちていく。根が貼っているのではなく、べたりと張り付いているだけのようだ。
そんな根に繋がるように、赤い突起がいくつか生えている。毒々しい赤、それがいくつも、いくつも、いくつも。
なんだこれは、気持ち悪い、恐ろしい。
けれど、何より恐ろしいのはその見た目では断じてなく――彼女の口から香る甘い匂いを嗅ぐと、生理的嫌悪感も恐怖も溶け落ちていくように消えていくこと。
それどころか、心地よさすら感じてしまうのだ。そんな風に感じるはずもないのに。
(これ……まさ、か……!)
彼女の口内に生えている毒々しい色の赤い突起――これは、茸だ。
ならば、この無数の白い根は菌糸なのだろう。
そして、彼女の口から香る甘い匂い。香水のように彼女を包むそれを、連翹は知っていた。
だって――つい最近、それを嗅いだばかりだ。
雑音に嗅がされたばかりなのだ!
「ああ、ごめんなさい。こんな風に菌糸を晒すなんて――はしたないわ、はしたないわ。歌を歌う時でもないのに大口を開けるなんて、駄目ねーわたし」
呆然と見つめる連翹の姿に気づいたのか、崩落は頬を赤らめて口元を隠す。ああ、大口を開けて大笑なんて恥ずかしいわ――その程度のことだとでも言うように。
それがまた、恐ろしい。
だってこの子は、自分がどのような状態なのかを理解しているということ。
理解して、その程度のことだと心から言っているのだと分かったから。
「そ――それ、なんなの?」
声が震える。必死に平静を装おうとしているのに、震えてしまう。
不格好な演技だ。それでも、楽しそうに笑う彼女を騙すことを出来たのは幸運だった。新たな友人と出会いはしゃぐ彼女だからこそ、ギリギリ誤魔化すことが出来たのだ。
「これ? これはねー、ハピメアっていうキノコの菌糸なのー。転移者の体だから苗床になってないだけで、普通の人間だったらとっくに頭の中も体の中も全部全部、侵食されて死んでるんですってー」
そんなことを、彼女は笑いながら言った。
そこに不安や恐怖など欠片も存在せず、むしろ――嬉しくて嬉しくて仕方ないのだと言うように。
「へえ――随分とたくさん根が貼ってるのね。茸も、たくさん」
声を荒げたり逃げ出したくなる衝動を必死に押さえ込みながら、問うべき言葉を紡ぐ。
だって、一度でもその選択をしてしまえば、彼女はきっと体の内側を覆うそれについて語ってはくれないだろうから。
なぜなら、崩落狂声は連翹に対して友好的だから。友人に成りたいと思って声をかけてるのだと理解出来る。
ゆえに連翹が嫌がれば、彼女はきっとそれを見せないように気を遣ってくれるだろう。だからこそ、そういう仕草を見せるワケにはいかない。情報を引き出すために、平気なフリをするべきだ。
「うん、そうなの! これのおかげで、あたしはもうずっと怖がらなくて済むのよ!」
そして、連翹の思惑通り――彼女は語るのだ。
自身を蝕む茸、それによって齎される多幸感によって心からの笑みを浮かべながら。
「二度と不安に怯えなくて済むし――転移者じゃなくなった瞬間も怖い思いなんてせず、楽しい夢を見ながら死ねるの!」
言って、彼女は体を――いいや、中で繁殖する茸たちを撫でる。
慈しむように、愛するように、何度も、何度も、何度も何度も何度も、撫でる、撫でる、撫でる。
「わたし、いつ頃転移したかを覚えてないから、それまで起きる度に力が無くなってないか不安で泣いてたけど――これで毎日楽しく暮らせるの、ぜんぶ雑音さんのおかげよー」
「そ――う、良かったわね、崩落」
多少ぎこちなかったかもしれないが、笑みを浮かべて崩落の頭を撫でる。
すると、彼女は心からの笑みを浮かべるのだ。ああ、この世の全てが心地よいのだと言うように。
いいや、事実彼女にとっては世界の全てが心地よいモノに見えているのだろう。
ハピメアが齎す高揚感。それが体内から発生し続けているがゆえに。
――インフィニット・カイザーは言った、彼女はどんどん薬に依存しているのだと。
だが、どうやらそれは古い情報だったらしい。
彼女は、既に末期だ。
転移者だから平気なだけで、普通の人間ならばとっくの昔に絶命している量を摂取しているのが素人目にも理解出来る。
だから手遅れなのか、それとも転移者だからまだ戻れるのか、分からない。連翹には、何も、何も、何も。
(……落ち着いて、結論は焦らなくても良い。うん、きっと)
その時、連翹の脳裏を過ぎったのはノーラの姿であった。
彼女は現地人であり、神官だ。だからこそ、ハピメアの生態だとか、命を救う者の観点から何かヒントを出してくれるかもしれない。




