191/無二とノーラ
無二の剣王と二人きりになり、ノーラは静かに唾を飲んだ。
連翹には大丈夫だと言ったし、事実そのつもりである。けれど、どうしたって緊張はしてしまう。
どうやって話を切り出すべきか、そう悩んでいる最中――無二は表情を緩めた。
「さて、と。話をする前に――」
机に歩み寄り、上に載ったベルを摘んで鳴らした。
しばしの間を置いて、彼が「ノックはしなくていいよ」と告げると扉が開いた。
現れたのはメイド服を身に纏った妙齢の女性であった。
「お呼びでしょうか、無二様」
「うん、紅茶を二人分お願いしたいんだ。頼めるかな?」
「はい、もちろん。新たな転移者様が訪れると聞き、既に準備は――」
その時初めてメイド服の女性はノーラに視線を向け、僅かに困惑の表情を浮かべた。
「ああ、彼女はその転移者の友達なんだ。転移者と同じように持て成してあげてくれ」
「はい、分かりました」
「ありがとう――ホワイトスターさん、君も立ちっぱなしでは疲れるだろ。遠慮せず座ってくれ」
「ええ――っと、はい」
おずおずと腰掛けるノーラの動きとは裏腹に、メイドの動きは迅速で、しかし淑やかであった。
ティーセットを用意し、紅茶を注ぐ。
すると満ちる、心地よい香り。
メイド服を纏った女性の手によって注がれた琥珀色の液体の匂いによって、緊張した精神を僅かに解けていくのを感じた。
「ありがとう。用があればまた呼ぶよ」
一礼して去っていくメイドを見送った後、「さて」と小さく呟いて無二は視線をノーラに向けた。
「――悪いね、知らない場所だっていうのに友達と引き離してしまって」
そう言って笑う無二の仕草はフレンドリーで、嫌な感じはまるでなかった。
特別女の扱いに長けているようには見えないが、だからと言って特別おどおどとしているワケでもない。なんとも普通の対応だな、とノーラは思った。
想像していた『転移者の王』のビジョンに掠りもしなくて、どうしても困惑してしまう。
これだったら先程出会った現地人の貴族の方がまだイメージと合致する。
「……先程の方はちゃんと衣服を着ているんですね」
「ああ、来る途中にアレを見てしまったのかな。おれはああいうのは苦手でね」
目のやり場に困るし、何より可哀想だろう――と。
その言葉を聞いて抱いたのは反感ではなく納得であった。
こんな国の王などをやっているのだ、どの口でほざくのだと怒りを抱いてもいいくらいなのに――どうしてもそう思えない。ああ、この人は本当にそう思っているんだな、という感想しか抱けないのだ。
改めて部屋の臭いや紅茶から漂ってくる香りに注意を向ける。雑音語りが連翹に対して行ったことを考えれば、注意しすぎて損は無いはずだ。
けれど、どれだけ注意深く観察しても薬の臭いも感じられなければ、自分の体が薬で蝕まれている感覚もない。無論、気づいていないだけだ、と言われたらそれまでなのだが。
「そう思うのなら止めさせないんですか? 一番偉い人なんですよね、無二さんは」
これ以上考えても無駄だな、と思考を打ち切って問いを投げる。
「おれもどうかと思っているんだけど、雑音があれはあれで必要なモノだって言うからさ。おれ、そういう細かいことは分からないから、それ以上何も言えなくてさ」
考えるのは苦手でさ、と困ったように笑った。
よく笑う人だな、と無二の表情を見て思う。
そして、柔らかな笑顔が自然だな、とも。
慣れない表情を浮かべたら、大なり小なり違和感がありそうなものだが、彼にはそれが全くない。
きっと昨日も一昨日も、そうやって笑顔を浮かべていたんだろうなと思いながら紅茶をゆっくりと啜る。
「あ……美味しい……」
ミルクや砂糖を入れるのを忘れていたが、それで良かったかもしれない。
心を落ち着かせる優しい薫りが鼻孔を満たし、緊張で固まった体を解きほぐしていく。
「それは良かった。賢人円卓の貴族たちから貰ったのだけど……残念ながらおれは貧乏舌でさ、あまり味の差が分からないんだよ」
紅茶も味が分かる人間に飲まれたほうが幸せだろうから、と。
そう言って彼は嬉しそうに笑った。
「少しは緊張もほぐれたかな?」
「え? あ――っと、その、すみません。気を使わせてしまって」
「いいさ、雑音から事の次第は聞いている。緊張するのも当然だと思うよ」
ああ――と思う。
この人は、突然敵地に拉致された少女を気遣っているのか、と。
もしかしたら、先程連翹を呼び止めたのも、ノーラを先に部屋で休ませるための口実だったのかもしれない。
そう思うと、少し申し訳なくなって来る。
雑音のような男なら、騙しても良心が痛まないのだが――緊張が解れたノーラを見て安堵の息を吐く彼を騙すのは、少しばかり胸が痛んだ。
(もしかしたら、ここでわたしたちがここに居る理由を全部話したら、全て上手く行くのかも)
彼は雑音に騙されているだけの善人で、人の良さに付け込まれているだけなのではないか。
今、ここで全てを話せば彼は喜んで協力してくれて、連合軍の突入タイミングと連携して悪い人たちを倒せるのではないか――
『あたしにも良く分からない――けど、きっと見たままの人じゃないんだと思う』
――そんな妄想を、頭の外に追いやった。
連翹は確かにそう言ったのだ、それが合っているのか間違っているのかは分からないけれど、自分の考えだけで動いて良いはずがない。
彼女が感じた『良く分からない何か』がなんであるのかは分からないけれど、それが真実であり、なおかつそれが致命的なモノであればノーラだけではなく皆を巻き込んだ大失態となるのは想像に難くない。
「お気遣い感謝します。……その、お話をする前に、一つ質問をしても良いですか?」
「構わないさ。突然こんな場所に連れ込まれたんだ、分からないことだらけだろうしね。おれが答えられる範囲で答えよう」
「大丈夫です、答えられることのはずですから」
じっ、と彼の顔を見つめる自分の顔。
それがきっと、普段より少しまなじりが吊り上がっているのだろうなと思いながら。
「無二さん……レンちゃんに何をしたんですか」
自分では何があったのか分からなかったけれど、あんなに驚き、怯える姿が普通のはずない。
目の前の男が何かしたのだ。ノーラや、そして転移者である雑音語りが気づかぬ手段で。
その質問は彼の想像から外れたモノだったのだろう。困惑の表情を浮かべた無二は、「質問を質問で返してしまうんだけど」と前置きをして問いかけた。
「自分を拉致した相手だっていうのに怒るのかい? なにせこんな状況だ。この国やおれ、そして片桐さんに対する愚痴くらい聞くつもりだったんだけど」
「……わたしは、レンちゃんが元に戻るって、信じてますから。怒るのも、愚痴をこぼすのも、後で本人に言います。あなたとこの国に関しては……思うところがないワケではないですけど、語れる程の知識がありませんから」
今こうして述べている連翹に対する言葉は演技だけれど、仮に本当に連翹の心が折れてレゾン・デイトルに降り自分を誘拐していたとしても……その気持ちは変わらないだろうと思う。
突然見知らぬ場所に連れ込まれて、困惑はするだろう。
その身勝手な行為に、怒りもするだろう。
でも、それでもそこまで追い詰められていることに気づけなかった自分を恥じて、どうにかしてあげたいと思ったはずだ。
「そうか……君を拐った片桐さんの目は確かだったというワケだね。……こんな風に想ってくれる相手が居るんだから、不安を打ち明けられたらこの国に来る必要もなかったろうに」
痛ましそうに表情を歪めた彼は、すぐに表情を引き締めてノーラを見つめる。
「さっきの質問だけど――別に、彼女だけにやったワケじゃないんだ。あの場で理解出来たのが彼女ぐらいだった、ってだけでね――彼女には悪いことをしたよ。完全に理解してくれたのなら問題はないのだけど、半端に理解したせいで『なんとなく怖い』という印象だけを与えてしまった」
ああも怖がらせる気はなかったのだと、言って彼は頭を下げた。
気づいて貰えたのなら嬉しいけれど、気づかなくても問題はなかったのだと。だというのに、連翹は非常に半端なレベルで理解してしまったのだと言う。
「……ええっと、それは一体、どういう……?」
「生憎と、分からない人に説明する気はないんだ。おれの我儘なんだけれどね、分かる人が理解してくれたらそれでいいって思ってる」
だからすまないね、と本気で申し訳なさそうに頭を下げる。
質問の答えは抽象的でノーラには理解出来なかったけれど、しかし彼が言葉に出来る範囲で答えてくれたのだということは分かった。
答えられないことなら誤魔化したり嘘を吐いても良さそうなのに、真っ直ぐに答えてくれたことに好感を抱き――
「……あなたみたいな人が、どうしてレゾン・デイトルを建国しようと思ったんですか?」
――しかし、だからこそ解せなかった。
正直、目の前の人がこの国を――レゾン・デイトルなどという国を建国するビジョンが全く見えないのだ。
彼が善人に見えるから、というワケではない。一応それも理由の一つではあるが、それだけの情報で確信出来るはずもない。
一番の理由は、失礼な言い方だが――上に立つ人間には、人を導く存在には見えないのだ。
無二の剣王という男は組織を運営するには人が良すぎる。個人同士の交流なら美徳なそれも、複数人を纏めるには向かないのだ。
「うん? ……ああいや、違う違う、そもそもおれは国なんて造ってないよ――雑音がおれにプレゼントしてくれたんだ」
無二は語る。
そもそも、自分はこの国の建国にほとんど関わっていない、と。
雑音語りに玉座を渡され――これはこれで都合が良いな、とそこに座っただけなのだと。
「――転移者の王だとか言われてるけど、おれは棒振りが得意なだけのお飾りさ。それに正直、英雄の国だとか転移者の国だとか、そういうのは一切合切どうでもいいんだ」
卑下するワケではなく、虚偽を述べているワケでもなく、淡々と事実を語るような口調で言い切った無二は静かに紅茶を啜った。
たぶん、その言葉に偽りはないのだろうと思うし、そう考える以外に今のところ道はないとノーラは結論を下す。
その言葉は彼との会話の中で築いたイメージとも合致するというのが一つ。王とか頂点に立つ栄誉とか、そういうのを欲しがるイメージがあまり見えてこないから。
そして何より、先程までの立ち居振る舞いから今の言葉まで全て全て全て偽りでノーラが騙されているというのなら――そのような相手を疑ったところで真実が見抜けるとは思えない。考えるだけ無駄だ。
「じゃあ、なんで王様なんてやっているんですか? 無いんですよね、興味」
「まあね、王っていう肩書それ自体は全く興味ないよ。ただ、個人的に都合が良くてね……色々な人に迷惑をかけて、言うセリフじゃないけど」
その言葉は、真実申し訳無さそうな響きで、ノーラは余計にこの人間がなぜ王をやっているのかが分からなくなってきた。
だって――先程の会話から今まで、演技臭さというモノがまるでない。心から楽しそうに笑い、心より緊張しているノーラを気遣って、心よりレゾン・デイトルの犠牲となった現地人を悼んでいる。
彼が善性なのは間違いないだろう。実は全部演技で内心は下劣なケモノだとしたら、どれだけ演技が上手いというのか。
「都合が良い――現地人の人々が虐げっられているのを黙認して王として振る舞う程のモノがあるんですか?」
「それは――うああ、やっちゃったなぁ……その部分は黙っておけばよかった」
「あの、答えたくないのなら答えなくても良いですし、嘘か何かで誤魔化しても構いませんよ。わたしばかり突っ込んだ質問をしてるんですから」
それは演技というより、思わず口から出た言葉だった。
レゾン・デイトルの王ということで多少彼を色眼鏡で見ていたが、こうやって話してみるとそれなりに好感を抱ける人物だと思えたから。
そんな人物が頭を抱えて悩んでいる姿を見て、思わず考えてしまったのだ。そんなに悩ませるつもりはなかったんです、ごめんなさい、と。
情報を引き出すという役目を考えれば、ここでなんとしてでも答えを聞くべきなのだが――それなりに好感を抱いた、抱いてしまった相手に対して無理強いすることがノーラには出来なかった。
「いや、口に出した以上、可能な限り喋るよ。嘘吐くのは嫌いだしね――けど、この時期にあまり言葉にし過ぎるとなぁ」
悩みながら無二は部屋をぐるりと見渡す。
そして彼は何かを思いついたのか、棚に駆け寄り『それ』を手に取った。
「よし! じゃあ、これで勝負をしよう。勝ったら君にヒントをあげるってことで」
「これは――チェス?」
白と黒の駒とチェス盤が机の上に置かれる。
一瞬、転移者専用の特殊な細工が仕込まれた遊びかとも思ったが――ノーラが見る限り何の変哲もないチェス盤だ。高価なモノですらないと思う。
「……あの、わたしそんなに強く無いんですけど」
せっかく用意してくれたのに、申し訳ないけれど――と頭を下げる。
自室にチェス盤を常備しているのだ、きっと自分よりも経験豊富で慣れているのだろう。
だからこそ、喋らなくても良いように自信のあるゲームで勝負を挑んできたのだと思った。
まあ、それはいい。喋りたくないのなら無理に聞き出そうとは思えないから、こんな手間をかけずとも追求はしないつもりだったから。
申し訳なく思うのは、ノーラ自身が弱すぎて勝負にもならないと思ったからだ。
一応チェスは触ったことはあるが、それだって教会の子供同士で行った遊びレベルでのモノだ。とてもではないが、自前のチェス盤を持ってる人と戦えるとは思えない。
だというのに、目の前の彼は「大丈夫」と自身の胸を強く叩いた。
「安心して良いよ、たぶんおれの方がずっと弱い」
それはきっと自信満々で言うセリフじゃないですよ、というツッコミをぐっと堪える。
「……分かりました、それでは一戦」
そう言って自分の前に並べられた白い駒を並べ――盤上の戦いが始まった。
(あ……れ?)
交互に駒を動かし続けること、おおよそ三分。
その時点で、ノーラはとある事実を確信し、愕然とした面持ちで無二を見つめた。
(こっ、この人……自分から勝負を挑んできたのに、ホントどうしようもないくらい弱い……ッ!?)
黒の陣営が削れていく。それはもうゴリゴリと、凄い勢いで。
なんだこれ、と必死に次の手を考えている無二を凝視した。
無策で特攻してきたり、こちらの囮に引っかかりまくったり、ノーラの悪手を気づかずスルーして駒を動かしたり――いくらなんでも弱いにも程がある。
最初、手加減してくれているのかと思ったが――
「……ナイトっていうくらいだから、反撃して逆に駒を取るくらい出来ていいと思うんだ」
「確かに騎士が兵士に負けるのは釈然としませんけど、そこはほら、ルールですから……」
――違う、この人この手のゲームに全くもって向いてないと思う……!
先程も述べた通り、ノーラはチェスの名人でもなんでもない。
経験も教会の友人と一緒に少しだけやったくらいだし、そんなお遊びでも勝率はさして高くなかった。
だというのに、目の前の男が相手であれば百回やって九十九回は勝てる。一回くらいはこっちも致命的なミスを乱発したり、退屈過ぎて居眠りしたりして不戦敗扱いになるかもしれない。
一体どういうことなのだろうか? 内心で首を傾げながら盤面を制圧していく。そろそろチェックメイトも近――
「――うん、やっぱりおれには向いてないや。負けだよ、負け」
――瞬間、王はチェス盤を掴んで放り捨てた。
放物線を描いたそれは壁にぶつかり、がしゃんという音を立ててチャス盤が割れ、駒が辺りに散乱する。無事なのは、ノーラが摘んだ駒くらいだ。
え、と驚きの声を漏らす頃には机の上には空っぽになった二つのカップしか存在していなかった。
(……なんなんですか、この人)
……その行為に、初めて目の前の男に悪感情を抱いた。
なんだこれは、負けが避けられなくなった瞬間、ゲームそのものをひっくり返すだなんて――癇癪持ちの子供じゃないんだから、と。
負けを認めたから良い、なんて理屈は通らない。
こういう遊びは勝ち負けを競い合いながら交友を育むモノだ、負けを認めたからって遊びそのものを台無しにして良いワケがない。
これは一発ガツンと怒ってやるべきか、いやこの現状でそんなことをするのも……そう悩んでいると、無二は深々と頭を下げ始めた。
「苛立ったかい? ……悪かったね、おれもこういうのが――こういうのこそ嫌いなんだけれど、口で言うより実感して貰った方が分かるかと思ってね」
そう言って持ち上げた顔に浮かぶ表情は本当に申し訳なさそうで、そんなことをした自分に対する強い苛立ちが見て取れた。
「そうさ、勝てないから負けを認めてはいやめた、なんて……そんな理屈は通らないし、通してはいけない、こんな行為は相手に失礼だろう。これならまだ、競い合おうとしない強者の方がマシだ」
どちらも嫌いだけどね、と。
苦々しげに吐き出すその言葉には、深い深い怒りと憎悪で満ちていた。
「……これが理由さ――おれは、こういうのが嫌だからこの異世界で、レゾン・デイトルの王をやっているんだ」
「それは、どういう……?」
言葉の意味は何一つ分からない。
分からないが、それでも分かることが一つ。
それは、彼が強い渇望を抱いてレゾン・デイトルの玉座に座っているのだということ。
そしてそれは、彼の説得が不可能ということでもあった。彼の想いを心より理解できているのなら話は別なのだろうが、今のノーラにそんなことは出来やしない。
無二が首を左右に振って理解を拒み、最後の一線を理解させようとはしないから。
「ごめん、そこまではまだ話せないんだ。だけど、近々行動で示せると思うよ」
その日が楽しみでならない――そう彼は微笑んだ。
それはプレゼントを待つ子供のような純真な笑みで、見ている方が気持ちよくなる程のモノなのに。
――なのに、なぜだろう。
一瞬、その笑みを『怖い』と思ってしまった。
理解できない怪物が、舌なめずりしているような、そんな気がして。
「ああ、でも実感して貰うためとはいえ、チェス盤壊したのはやり過ぎだったなぁ……投げるにしてもベッドの方に投げれば良かった……」
だけど、砕けたチェス盤を見て頭を抱える姿を見ると、そんな恐怖はすぐに霧散してしまう。
それだけを見ると少し――いいや、けっこう?――考えが足りないだけの普通の青年に見えるのだ。そう、一瞬だけ感じた恐怖など、気のせいだったのではないかと思えるほどに。
(でも……レンちゃんが感じた恐怖の件もあるから)
ノーラ一人であれば、気のせいだったと結論づけていたかもしれない。
だが、自分だけではなく、連翹も似たようなモノを感じ取っていたのだ。警戒する理由としては十分だろう。
だから――音に気づいたらしいメイドが入室し、壊れたチェス盤に駆け寄ろうとした体勢のまま固まる無二の姿をじっと見つめるのだ。
「無二様、何をやっているのですか?」
「ああ、ごめん……ちょっとその、チェス盤壊しちゃってさ。いや本当に申し訳ないんだけど、掃除道具持ってきてくれないかな……? うん、おれの責任だから掃除はおれがしますごめんなさい」
「……あなたにそんなことをさせたら、わたしたちが怒られます。あなたは椅子に座っていてください」
呆れ顔のメイドに頭を下げる彼を見て、思う。
館の主人とメイドという関係にしてはフランク過ぎる気もするが、ちゃんと信頼関係を築いているのだな、と。
きっと、良い人と感じたのは間違いではないのだろう。
でなければ掃除を開始するメイドは、正座して反省の意を示している主人に対し、抱いた嫌悪の情を隠すためもっと慇懃な態度を取るか、もしくは過剰に親密さをアピールするかしているはずだ。レオンハルトの時に経験したので、その辺りはなんとなく察することが出来た。
けれど、だからこそ余計に分からなくなるのだ。
先程感じた何か得体の知れない恐怖を内包した姿と、普通の青年としての姿。
一体、どちらが本当なのだろう。
分からない、分からない。ノーラには、まだ。




