190/無二の剣王
屋敷の内部は煌めくような美しさこそないモノの、質素で品の良い調度品で彩られていた。
華美な家具もあるが、それは無闇やたらに己の財力を誇るワケではなく、他の質素な部分と調和して全てを引き立てている。
調度品を選んだ者のセンスが良かったのだろうな、と連翹は思う。仮に自分が全部一から調度品を集めて部屋を飾ったとしたら、成金めいた部屋になるかチグハグな印象の部屋になるだろう。
演技で疲弊した精神が、僅かに癒されるのを感じる。
綺麗なモノ、美しいモノは心を落ち着かせるなと小さく息を吐き。
「おおっ、雑音語り殿ではありませんか! どうかなされましたかな?」
――そんな気持ちをぶち壊すモノが、荒々しく乱入して来た。
それは、ふくよかを軽々と通り越した、弛んだ肥満体の男である。
金糸によって装飾された衣服に、その上から金銀宝石などの装飾品をじゃらじゃらと見せびらかすようにその身に纏っていた。少なくとも、屋敷の内装は彼のセンスではあるまい。
そんな彼の右手には、鎖が一つ。
彼が纏う装飾品とは全く違う、無骨で冷たい鉄の質感を持つそれは彼の足元――そこで四つん這いになる少女の首に繋がっていた。
「え……?」
「昨日ぶりだね。新たな幹部に相応しい実力者が来たから、王に会わせようと思っているんだ」
「おお、それは喜ばしいことだ! 転移者様が増えることは我々の喜びであるがゆえに!」
ははは、と。
まるで友人同士の他愛もない会話のように雑音と男は笑い合う――鎖に繋がれた少女を風景の一部だとでも言うように、一瞥すらせず。
そんな二人を罵るように、呪うように、半裸で口を器具で固定された少女は怒りと恥辱で赤面しながら犬のような唸り声を上げていた。
「おお、この奴隷が気になりますかな? 奴隷商が近場の村から調達して来た奴隷ですよ。中々に見目も良く、我々賢人円卓の『処理』用のために購入したのですが――中々反骨心が強く、このまま『処理』に使えば我々のモノを噛みちぎられそうでしてなあ! 少しばかり外を散歩して、自尊心を叩き折ってやろうと思っていたところなのです」
躾のなっていない犬だ――そんな言葉が聞こえてきそうな乱雑な動作で男が鎖を乱雑に引き寄せる。
ぎち、と鎖が少女の首が締め上げ、同時に悲鳴じみた唸り声が漏れ出す。見れば首には鎖が食い込んだ紅い痕がいくつも存在し、今の行為が何度も、何度も何度も繰り返させられて来たのだということが理解出来た。
(……ああ、こういう貴族ってヤツね。この世界では初めてみたけど)
転移直後、活躍の場を探して目の前に居る『絵に描いたような悪徳貴族』を探したモノだったが――連翹には見つけられなかった。
そういう輩が居なかったワケではないだろうが、多くの貴族は騎士を恐れて表向きには真っ当な領地運営を行っていたため、一転移者にして冒険者であった連翹のツテでは探し出せなかったのだ。
だからそう、悪とは隠れて行うモノ。
目をつけられ秩序の刃、アルストロメリアの騎士と戦うことがないように、闇の中で行うモノであるはずなのだ。
目の前の男のように、当たり前のように行うべきことではない。
「あなた――現地人、じゃないんですか? なんで、こんな……ことを」
その様子を見たノーラの声は震えていた。
転移者なら分かる。
突然大きな力を得て、今まで満たされなかった欲望を解消しようとする――それで外道に手を染めるのは理解は出来ないし、そんなことを許すつもりはない。でも、理屈としては分かるのだ。
だが、目の前に居る男は同じ人間ではないか。この大陸で普通に暮らしていた人ではないか。
だというのに、どうしてこのようなことが出来る?
――その思考はノーラが故郷で、女王都へと向かう道中で、そして連合軍として一緒に行動した日々で得た経験から出たモノ。
誰しもが完璧なワケではないけれど、誤ちを犯すことはあっても、しかし良き人々と出会ってきたから。
だからこそ、彼女は知らなかったのだろう。
世の中には根本的に邪悪な思想を抱く者がいるということを。
それは、自分を諌める権力が無くなれば、容易く暴走し悪逆を成すのだと。
「おや? 中々良さそうな娘だ、小柄だが組み伏せ甲斐がありそうな体つきで中々に滾る。これは貴方の奴隷ですかな、雑音語り殿」
事実、その男はノーラの言葉を聞きながらも返答らしい返答はしていない。その価値を認めていないのだ。
だって、ただの現地人――それも見る限り平民か何かだろう? 会話など対等な者同士が行うモノではないか、と。
ゆえに彼が見るのは商品価値、ただそれだけ。
「いいや、新しい仲間の奴隷――いいや、友達だってさ」
「おおっと、これは失礼しました転移者様とその御友人。私は賢人円卓の一人でございます、雑事は我々に任せ、あなた方は何不自由なく暮らし、その力をお振るいください。」
そうして賢人を自称する男は恭しく頭を下げた。
その動作は確かに洗練されていて育ちの良さを伺わせるモノであったが、彼の足元で苦しみ喘ぐ少女の姿のせいで下劣な印象しか抱けない。
「……ええ、よろしく。ちゃんとあたしの役に立ってね。……それで、貴方は何をやっているの? そういう行為は現地人の多くが嫌っていたと思うのだけど」
可能な限り尊大な物言いで、先程のノーラの問いかけを引き継ぐ。
すると彼は、「ああ、これですか」と見せびらかすように鎖をたぐり、少女を連翹たちの前に引き寄せた。
「なに、真に尊き者が下々の者を支配する……ただそれだけのことですよ」
それが当然のことだ、そうとでも言うように少女の背を踏みつけんがら、ねっとりとした笑みを浮かべる。
その不快感で歪みそうになる表情を必死に御しながら、「へえ、そう」とだけ呟く。そうするのが、精一杯だった。
「ええ、そうなのです! そも、リディアなどという小娘が国を作る前はそれが普通だったという記録が残っているではありませんか。つまりこれは温故知新、無知な小娘に壊された古き尊い文化を復活させているのですよ。おお、そうだ雑音語り殿。どうですかな、一口。転移者様の体であれば、多少噛みつかれても問題ありますまい。むしろ、丁度いい刺激になるかもしれませんぞ!」
「魅力的な誘いだけれど、今は無理だね。新たな幹部候補を王の下へに案内しなくちゃならないんだ」
「ああ、それは真に残念。では、気分転換の運動も兼ねて散歩をするとしましょう。……ほら、とっとと歩け!」
そう言って男は再度、恭しく礼をした後、荒々しく鎖を引いて屋敷の外へと歩んで行く。
その醜い背を蹴り飛ばし、繋がれた少女を救いたい――そんな衝動をぐっと堪える。
そんなことをしても意味がない。仮に雑音を排除したとしても、すぐに複数の転移者に包囲されて倒されるはずだ。
ノーラもそれを理解しているのか、動くことはなかった。連翹という転移者に無理矢理連れてこられた一現地人として、暗い顔をするのみで。
「……随分と、無能そうなのを飼ってるのね。雑音様の役に立つの? あんなのが? 邪魔ならあたしが殺しておくけど、あたしの方がきっと役に立つから」
怒りや敵意を飲み込んで、雑音に媚びる、媚びる、媚びる。
もう頼れる人は貴方しか居ないのだから、役に立つため頑張ってみるわ、必要ならいつでも命令して――と。
言葉と一緒に反吐が出そうになるが、堪える、堪える、堪える。剣を振るうのは、今じゃない。
「その気持ちはありがたいけど、まだ駄目だ。あれは連合軍が襲撃してくるまで生かしておかなくちゃ、好き勝手にやらせなくちゃならないんだ」
先程まで親しげに会話していたというのに、汚物を見下すような表情を浮かべる。
「欲望に塗れた奴らだけれど、レゾン・デイトルを燃やす薪には丁度いいんだよ――それに、良いデコイになってくれる」
少女を違法奴隷として所有し、辱める畜生にも劣る外道ども。
そんな存在を、騎士たちが許せるはずもない。彼らに飼われた少女たちを見捨てられるはずもない。必ず外道を誅するために、可哀想な少女たちを救うために人員が割かれる。
その上、王を倒すためには多数の実力者が必要なのだ。結果、雑音が逃げ出す隙が生まれやすくなるのだと。
「けっこう衰弱してる女も居るしね。連合軍に所属している善人たちは、絶対に奴隷たちを後回しになんて出来ない。……おっと、大丈夫だよ。君のお友達はそうならないように取り計らうからさ。君は安心してぼくの役に立ってくれ」
「本当に? ……ねえ、聞いたノーラ! 大丈夫よ、貴女はあんな風にはならないから!」
素晴らしい報告を聞いたとばかりにはしゃぎ、ノーラに抱きつく。
わっ、と驚いた声を漏らすノーラをぎゅうと抱き寄せ――耳元で、そっと囁く。
「たぶん、あたしは雑音から離れられない。だからその娘たち、お願いね」
「……任せてください、こんなこと、絶対に許せなぃひゃあああ!?」
はむり、と。
ノーラの耳を甘噛する。
「ああ、ノーラの香り、味わい、あたしの中にノーラが広がっていく……これだけであたしは生きていけそう、ずっとずっと永遠の友達だって実感出来る! ああ、ノーラ、ノーラ、ノーラ……」
「ぅ、うわぁ……」
長く抱きついたままだと不審に思われるかと思って全力で演技をしたら、またもや素でドン引きされてる気配が腕の中から漂ってくる。解せ――るんだけど、心にちょびっとダメージを負ってしまう。
なんというか視線に『ねえ、どこまで演技なんですか?』と問いただしたそうな感情が見え隠れしているのだ。無論、演技百パーセントである――うん、本当に。普段出来ないロールプレイで地味にテンションが上がっているのは事実であるが、それとキマシタワー建設業とはまた別問題だ。
「……じゃれ合うのも良いけれど、そろそろ止めて欲しいな。そろそろ王の下へ案内したいからさ」
その様子を見て呆れと見下し、そしていつまで遊んでいるんだという苛立ちが混在した視線を向けながら、雑音は小さく息を吐いた。
「あ、ご、ごめんなさい……ちゃんとする、ちゃんとするわ、だから大丈夫、ごめんなさい……」
「分かればいいのさ、分かれば」
俯きながら許しを請う連翹を鷹揚に――少なくとも、彼自身はそう思っているはずだ――許しながら、雑音は階段を昇る。
その背中を追いながら、連翹はふと思い浮かんだ疑問を口にする。
「ところで、その……剣は置いておいた方がいい? 一応、形式上は一番偉いんでしょう?」
雑音をじっと見つめ、言外に真実一番偉いのは貴方でしょうと告げる。
その言葉に、彼は静かに口角を上げた。やはり、下から持ち上げられること――相手よりも自分が偉いと他者から思われることに喜びを感じる人間なのだろう。
「構わないさ。王はそんなことに目くじら立てる人物じゃない――というか、ただ単に考えなしというか。それに、仮に君が王を暗殺するために来ていて、ぼくがそれに気付いていたとしても――剣を置け、なんて間抜けな言葉は吐かないさ」
だって――彼は最強なのだから、と。
「彼は無二の規格外を身に宿した剣の王なんだ。君一人で彼を倒せるのなら、とっくの昔に他の転移者が彼を拘束して、拷問して、条件を吐き出させてるよ」
ゆえに無二の剣王。
転移者の頂点に立つ、無双の剣の王。
それが彼なのだから。
「それに、きっと剣は必要になる。持っておいた方がいい」
「それは――」
どういうことなの? と。
その質問をする前に雑音は足を止めた。
そこは元々領主の部屋だったのだろうか、他の部屋よりも扉や周辺の調度品のランクが高いように見える。
「やあ、珍しいね雑音。鍵はかかってないから、後ろの二人と一緒に入ってくれ」
――瞬間、部屋の中からよく通る男性の声が響いてきた。
扉までまだ距離があるというのに、自分の部屋に近づいてきている存在を、その性格な人数すら把握している。気配を感じた――というヤツなのだろうか?
「ああ、失礼させて貰うよ」
返答しながら扉に歩み寄った雑音は、勝手知ったるなんとやらというような乱雑さで扉を開いた。
――部屋の中に居たのは、和装の巨漢である。
僅かに逆立った黒髪に、やや伸びた後ろ髪を包帯で強引に縛って纏めている。
四肢は太く、巨木のようにがっしりとしているのだが、日本人離れした高身長がどこかすらりとした印象を見る者に抱かせる。まるで肉厚な刃だ。
身に纏うのは茶の着流しに漆黒の羽織。腰には一振りの太刀が有り、静かな存在感を放っていた。
「やあ雑音。どうしたんだい、こんな風に何度も顔を出すだなんて」
おれは友達と会えて嬉しいけどさ、と。
そう言って着流しを纏った青年は微笑んだ。
磨き抜かれた肉厚な刃のような体とは裏腹に、その物腰は柔らかい。
(こいつがレゾン・デイトルの王――無二の剣王)
雑音と楽しげに会話する青年を観察する。
柔らかい雰囲気の、しかし全身が研ぎ澄まされた男だ。
背丈も高くがっしりとした体つきで、普通なら他者に威圧感を与えてしまうことだろう。
だというのに、一見して感じるのは恐怖ではなく親しみであった。友人に出会って楽しそうに笑うその姿はどこにでも居る好青年にすら見える。
そう――抱いた印象の真偽は分からないが、目の前の男はきっと『良い人』なのだろうと思う。
人間を見た目で判断するなとは言うが、しかし人間の内面は外面ににじみ出るモノだ。雑音語りが普通の少年の容姿をしながらも、こちらを見下す嫌な感じがするのと同じ。表情や立ち居振る舞いから、当人の本質が滲み出るモノなのだ。
(ああ、この人はきっと良い人だ)
内心で結論を出しかけるが、慌てて周囲に気を配った。
部屋の臭いなどを注意深く嗅いで、雑音のように薬物を使っている可能性を調べてみる。
だが、何か特別な薬品を使われた感じはしない。ちらりとノーラに視線を向けるが、彼女もまた小さく首を横に振った。現地人の彼女も無事なのだ、薬品を使われたという可能性は低い。
ゆえに、目の前の男に対して抱いた感情は真実ということになる。
雑音と雑談し、朗らかに笑う彼は――きっと善人なのだと。
無論、まだ出会ったばかりである以上、確定ではない。だが、もしもこの印象が真実であれば――彼は雑音に利用されているだけの存在ということになる。
「おっと、悪いね。せっかく来てくれたのに放置してしまった」
青年の眼が連翹とノーラに向けられる。
そこに威圧感も侮りも、ましてや敵意など欠片も存在しない。連翹に対してはもちろん、現地人のノーラに対してもだ。
まるで、友人の友人に対して『初めまして』と挨拶するような笑顔――いいや、違う。『まるで』ではなく、真実その通りなのだろう。
だからこそ、困惑してしまう。
だって、ここに来るまで――転移者の王は絵に描いたような下衆だと思っていたから。
先程見た賢人円卓を名乗る現地人貴族のように、女を侍らせ、力を振るう人間のようなナニカであると。
「おれは無二の剣王、皆からは無二か王と呼ばれているよ」
「え、ええっと……あたしは片桐連翹。こっちの子が……」
「ノーラ・ホワイトスターです、無二さん……で、いいんですか?」
「ああ、よろしく片桐さんにホワイトスターさん。うん、それで構わないよ。剣王でワンって呼ぶ案も有ったらしいけど、華僑か犬の鳴き声の二択の印象になって間抜けだからやめろって雑音に言われてね。良いと思うんだけどね、剣の王と描いて一。文字通り最強の称号みたいで、年甲斐もなくワクワクしてしまうから」
名付けたのは雑音だけど、この名前は気に入ってるんだ――と。
照れ笑いしながら頬を掻く無二に、連翹の頭は混乱するばかりだ。
だって、軽く会話しても嫌な感じが全くしないから。言動全て、こんな国の玉座に座るには相応しくない印象ばかり。実は目の前の人は影武者で、下劣な本物がどこかに隠れていると言われたほうがまだ納得できるだろう。
「それで雑音、片桐さんが幹部候補で良いんだね?」
「ああ、そうだよ」
「そうか――」
そう言って無二は深く深く頷き――――
瞬間、連翹の首が切り落とされる――そんな映像を幻視した。
「――――ぃ」
血の気が、引いた。
心臓を握りつぶされるような圧迫感と、南極の海にでも叩き込まれたかのような寒気。
四肢は寒さに耐え難いと叫ぶように震えて、だというのに汗だけは滝のよう。
死ぬ!
いいや、違う――殺される!
他の誰でも無い、目の前の男の手によって!
迎撃も回避も不可能だと理性と本能が同時に叫び、けれど死にたくないからと硬直し始める体を強引に動かし、距離を取りながら剣を引き抜いた。
これでどうにかなるとは到底思えないけれど、それでも武器を構えずにいればすぐに死ぬと、そう思ったから。
まさか演技がバレた? どうしよう、でもノーラだけはなんとか生かさなくては――!
「……なるほど」
瞬間、全身を苛む寒気と威圧感、それら全てが霧散した。
「あ……れ?」
王は刀を腰に差したまま、一歩たりともこちらに近づいてはいなかった。
ただただ嬉しそうに微笑むだけで、敵対的行動など何一つ行っていない。事実、連翹も首を切り落とされるような気がしただけで、彼が刀を抜く姿など見ていないのだ。
傍から見れば連翹が突然驚いて剣を抜いたとしか見えない状況。だというのに、無二はそれを咎めるどころか、むしろ微笑ましそうに笑っている。
「うん、まだまだ未熟だけれど、全くの素人ではないみたいだね」
「……? もうおしまいかい、無二。普段なら軽く戦っているだろう?」
「いいや、その必要はないよ。見るべきものは見たから」
「そうかい? ……まあ、情緒不安定な女が勝手に怯えただけだ。君が刀を抜く価値もないか」
連翹を見下す言葉を吐いて嗤う雑音に、無二は曖昧な笑みを浮かべた。
そのやり取りに対する怒りはない。ただただ、疑問だけが胸の中にあった。
だって、あんなに怖かったではないか。何をされたのかは分からないけれど、何かをされたのは確実だ。
だというのに――雑音はそれに気づいている様子がない。もし気づいていたのなら、未だに混乱している連翹の理解の遅さこそを見下すはずだ。
いや、いや、それこそが雑音の策で、連翹を混乱させるために必要な行動なのか?
「レンちゃん、大丈夫ですか?」
訝しむ連翹の背中に、小さな手が添えられる。
ノーラだ。彼女は囁くような小さな声音で安否を問いただしながら、疑問を口にした。
「……一体どうしたんですか、突然剣なんて抜いて」
なんで連翹があんな動きをしたのか分からない――そんな怪訝そうな声音。
だが、連翹はそれに対する答えを持ち合わせていない。感じた恐怖こそ確かであったが、しかしどうしてそんなモノを感じ取ったのか理解出来ていないからだ。
それはたとえるなら、RPGで最初の街から出た瞬間にラスボスとエンカウントし、負けバトルだと思ったらゲーム―オーバーになってかのような絶望感。
片桐連翹という人間では、どのような手段を使ったとしてもこの場を切り抜けるのは不可能――そんな風に全身が警告を発する程の圧力が部屋全体に放たれたのを感じた。
だというのに、雑音は、それどころかノーラですら何かあったのか? とでも言いたげな顔だ。
(……もしかして、あたしの気のせい?)
敵地に一人で潜入しているという環境が、知らず知らずの内に連翹に緊張を強いていて、王と出会った瞬間に張りつめたそれが千切れた……そういう、ことなのだろうか?
そこまで考えて、小さく首を左右に振る。
気のせいならきのせいでいい。片桐連翹という女が間抜けだったというだけで済む。
だが、もしも今感じたモノが真実であるとすれば――この情報を持ち帰らなくては不味いことになる。
「あたしにも良く分からない――けど、きっと見たままの人じゃないんだと思う」
言って無二の剣王を見つめる。
見るからに善人で、こちらに対して悪意などこれっぽっちも抱いていない風に見える彼。
だが、それが全てではない――証拠など欠片も無いが、それでも連翹はそう感じたのだ。
「……それじゃあ、ぼくはこれで。二人を部屋に案内するからさ」
「ああ、それなんだけど、ちょっと待って貰っても良いかな」
話を打ち切り、部屋から去ろうとする雑音を無二が呼び止める。
「今日の鍛錬はもう終えてしまったし、襲撃者もこの前蹴散らしたばかりですぐには来そうにない。……端的に言うと暇でね。片桐さん、少しばかり話し相手になって貰えないかな?」
「……ッ」
これは、きっと好機なのだろう。
情報を得るというのなら、ここで頷くべきなのだ。
だけど、体が微かに震える。先程の恐怖がまだ抜けきっていないのか、体が無意識に拒否反応を示してしまう。
それでも、ここで断ったら何のために潜入したのか分からない。無理矢理にでも体を動かし、頷く――
「……レンちゃんは少し疲れているみたいですので、その役目、わたしが代わってもいいですか?」
――その、直前。
ノーラが連翹の背後から踏み出し、王に対して言い放った。
それに対し彼は不満を感じる素振りはなく、むしろ申し訳なさそうに小さく笑みを浮かべる。
「役目、って言うほど重く考えないで欲しいんだけどな……おれはそんな優れた人間じゃないし。だけど、うん、構わないよ。片桐さんは『色々』あって疲れてるのは本当みたいだから」
待って、待って、待って。
そう口にしようとするのだが、中々言葉になってくれない。
そんな連翹の心の中を察したのか、振り向いたノーラは優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、先に休んでいてください」
――そう言われてしまえば、もう連翹が止める手段はない。
ノーラも、そして何より王がそれ良いと言ったのだ。これ以上引き止めても不自然なだけだろう。
それに、もし相手が既にこちらの思惑を見抜いていて、二人を引き離して各個撃破を狙っていたのだとしたら――この時点でもう積んでいる。
ゆえに、ある程度あちらの言うことを聞いて、心象を良くすべきである――そう思ってはいるが、それでも不安は不安なのだ。
先程感じた恐怖――それのせいで、肉食獣が飼われている檻の中にノーラを一人残していくような不安と罪悪感を抱いてしまうから。
「……安心しなよ。ぼくが知る限り王は女に手を出したことはない。二人きりになって襲う、なんてことはありえないさ。何より、仲間に引き込んだ者の奴隷……おっと、友達だったね。それを勝手に使い潰すワケないじゃないか」
その言葉が若干苦々しく聞こえるのは、誘惑などで規格外を永遠にする条件を聞き出そうとして、失敗しているからなのだろうか?
真実は分からないが、しかしその言葉に少しだけ安堵する。
雑音はこちらを利用したいと考えているのだから、ここで嘘を吐く必要性はきっと無いだろう。
それに、王も――恐ろしくはあるが、しかし善性の男であるという確信があった。無意味に非道を行う人間ではないだろう。
ゆえに、連翹は瞳をどろりと濁らせ、ノーラの手を掴むのだ。
「そう、それじゃあノーラ、先に休んでるけど会いに来てね。絶対よ、絶対だからね、約束よ、破っちゃ嫌よ、あたしだけのノーラ」
「……ええ、分かっていますよ」
安堵させるように力強く握り返されるのを感じながら、連翹は雑音と共に部屋から退出するのであった。




