182/矛盾ではなく――
天幕の中に、男が三人居た。
一人はニール・グラジオラス。だが、この場において彼は主役ではない。
あくまで付き添いであり、主体的に言葉を発する理由はない。『彼』も心を許した相手が居たほうが安堵出来るだろう――という、長時間の会話で乾いた喉を湿らせる茶の程度の存在だ。
二人目は、白銀の騎士である。
ニールよりも頭一つ以上大きい巨躯を覆うその鎧は、他の騎士よりも豪奢な装飾が多く、けれども実戦的に作られていた。それは一目で彼の立場が騎士の中でも上であること、そして装備の華美さをひけらかすだけの人間ではないことを示している。
ゲイリー・Q・サザン――アルストロメリア騎士団団長である彼の顔は、今は見えない。頭部を全て覆う兜を被っているから。
(……顔が見えないと、喋ってねえと、すげぇ恐ろしく見えるな)
ニールは知っている。
あのナリで自分のことを『ボク』と言う間抜けさや、明るく朗らかな性格を。
けれど、兜を被り無言で佇む彼の姿からは先程の印象は見受けられず、在るのは巨漢ゆえの威圧感と隙の無い佇まいだけだ。
「は――はじめ、まして」
最後の一人は、一言で言えば貧相な男であった。
小柄な背丈に色白の肌に、全体的にふっくらとした体つき。身に纏う衣服はとりあえず防寒出来ればそれでいい、といった思考が透けて見える適当さ。
肩まで伸びた黒髪はそういう髪型というよりは、放置していたらここまで伸びてしまったように見える。
そんな彼を見下ろしながら、ゲイリーは口を開く。
「君が狂乱――いいや、インフィニットだったね」
「……ああ、この姿でそう呼ばれるのは恥ずかしいけど」
彼こそが西部の勇者インフィニット・カイザーにして、レゾン・デイトル幹部の一人――狂乱の剛力殺撃なのだ。
緊張した面持ちの小太りな彼があの巨大な甲冑騎士を操っていたのかと思うと驚きと同時に、彼が抱いていた不安に少し納得した。
(……確かに、こいつがいきなり『自分は西部の勇者です』なんて言っても、何言ってんだコイツで終わってたろうな)
自信に満ちた勇者の姿と、緊張して小さく体を震わせる小太りの男とをイコールで結ぶのは難しい。
声だって鎧の中で反響した音と普通に喋る今の声とでは別物に思える。
ニールとて、機能停止した大甲冑からインフィニット本人を引きずり出す作業をしていなければ、彼と勇者を同一人物だと理解するのは難しかったはずだ。
「ば――罰を受ける覚悟は、出来ている。俺は確かに、貴方たちに、剣を、振るった……から」
尻すぼみになっていく声は、恐れと自信の無さゆえか。
当然だろう、と思う。元々気が強いタイプではない、というのもあるだろうが――インフィニットが罪を犯したのは事実なのだから。
これからどうなるのだろう、という不安。
しかし逃げるわけにはいかない、という覚悟。
それらがせめぎ合って、インフィニットを動かしていた男はおどおどとしながら、しかし目を逸らすことなくゲイリーを見つめている。
その背中を見つめながら、ニールは一人小さく頷いた。
確かに彼は気弱で、道を誤ったかもしれない。
けれど、その根は善性のモノだ。西部の勇者と讃えられた巨大な騎士と、姿は違えど同じ存在なのだと実感する。
「そうだね――だがその前に、質問をしてもいいかな?」
ゲイリーは大きく頷き、表情を兜で隠したまま問いかける。
「連合軍には、レゾン・デイトルに所属していた転移者が居てね。滞在していたのは僅かな間だったようだが、その時に君の姿を見ていた」
そして、こう証言していたよ、と。
顔全体が隠れる兜の中から、インフィニットを睨む。瞳は見えないけれど、そうとしか思えない圧力を感じた。
「王の居る館を襲撃しようとしていた転移者を、巨剣で薙ぎ払っていた――と」
ゲイリーが柄に手を伸ばした瞬間、圧力はさらに増した。
全身を押さえつける不可視の力を感じる。
無論、そんな力は存在しない。存在するのは、威圧するようにゲイリーが放つ敵意だ。その密度に、心が怯え、体が竦む。
「……ッ!」
拳を強く握りしめ、それに真っ向から対抗する。
剣士がビビって萎縮するなどあってはならないことだ。動きが鈍った自分を敵が気遣ってくれるはずもなく、簡単に殺されてしまう。その結果、他の者にも危険が及ぶ。
消えろ臆病者、俺はそんなに弱くねえ――そう心に言い聞かせ、強引に圧力から抜け出す。
「……ほう」
その様子を見て、ゲイリーは少し驚いた風に感嘆の声を上げた。
だが、それだけだ。今、ゲイリーがすべきことはニールと語らうことではない。
二人の視線が、インフィニットに向けられる。
「インフィニット・カイザー。嘘、偽りなく答えたまえ。何故、君はそうしたのかを。何故、刃を振るい殺したのかを。全て、全てだ」
でなければ、斬る――と。
静かな、しかし威圧感のある声音であった。
その殺意に近い敵意に晒されたインフィニットは、圧力から逃げるためだろうか、少しだけ立ち位置を変える。ニールの視線を遮るように立った彼は、荒い息を漏らしながら口を開き――しかし言葉を発することはなかった。
唇からはひゅーひゅーという掠れた吐息が漏れ、脚は情けないくらいに震えている。
けれども、彼は立っていた。
恐怖を抱きながらも、向き合おうと立ち続けているのだ。
「……ビビる必要なんてねえよ、お前がお前である限り、あの剣はお前に振るわれることはねえ。俺はそう信じてるからよ」
そう言ってゲイリーに視線を向ける。勝手に口を挟んで悪かった、と。
それに対し、ゲイリーは「いいや、構わない」と言うように首を左右に振る。
インフィニットはニールに振り向き、頭を下げ――ゲイリーに向き直った。
「あそこに一人、女の子が居るんだ。それを守ってあげたかった――もっとも、俺は必要になんてされてなかったけれど」
インフィニットが語り始める。
なぜ剣を振るったのかを。
「幹部の一人、歌うのと踊るのが大好きな彼女――雑音が崩落狂声と名付けた子が居る」
彼は言う。その少女は元々歌うのが好きで、踊るのが好きで、レゾン・デイトルの幹部になってからも定期的にライブを行っていたのだと。
その声に、多くの者が惹きつけられているのだと。
ある者はその容姿に、
ある者はその歌声に、
ある者はその舞踏に、
そのどれに対しても興味を抱かない者は居たが、地球時代の心地よく懐かしい歌を聞かせてくれる彼女の元に多くの者が集まった。
美しい少女であった、
可憐な乙女であった、
けれど――同時に酷く壊れた少女なのだ、と。
「……その子を襲おうと、組み伏せて慰み者にしようとした者たちが居た。あの時、止められるのは俺しか居なかった。同性の死神は不在だったし、王冠も自分のモノにならない実力者がどうなろうとどうでもいいって顔で、雑音は好都合だと笑って、無二の剣王は我関せず。だから、俺が剣を振るった。正直、レゾン・デイトルの連中は嫌いだったけれど、あの子はなんとか守ってあげたいと思っていた」
ゲイリーは剣の柄に手を置きながら、しかし黙ってインフィニットの話を聞いていた。
彼の言葉、手足の震え、声の調子、にじみ出る汗――それら全てを無言で見つめ続けている。
嘘か、真か。それを判断するために。
「幹部って言うからには強いと思ってたんだが――なんだ、そんなに弱いのか、その女幹部は」
思わず漏れたニールの独り言に、インフィニットはゆっくりと首を左右に振る。
「いいや、強いさ。ただ、彼女の咆哮は一撃で相手を叩きのめすモノではない。だから、複数人の転移者でゴリ押しすれば押し倒して無力化することは、そう難しいことじゃない」
要は相性の問題なのだという。
対現地人に対しては幹部最上級の実力を持っているのだが、こと転移者との戦いになれば雑音にすら劣るのだと。
「だけど、それ以上に――彼女は戦いに向いてないんだ。強い、弱いって話じゃない。戦いに向いていないんだ」
けれど、と。
彼は拳を強く握りしめる。
「彼女は雑音に囚われている。自分の意思で戦っているつもりで、彼に利用されている――薬を使って」
「……ハピメア、か」
ゲイリーが苦々しい声音で呟いた。
ニールも聞いている。雑音がエルフや連翹相手にそれをばら撒いたと。
悪辣なことをしやがる、と内心で舌打ちを一つ。
幸福な夢を見せるその胞子を吸えば、過ぎ去った幸せな過去すら夢として現れるらしい。
そんなモノをエルフに与えれば、人間よりも遥かに深くトリップしてしまう。人間よりも寿命の長い彼らには、人間以上に失ったモノが多すぎる。ドワーフと交流しているのなら、尚更だろう。
「彼女は雑音に心酔している。辛い現実から目を逸らすための道具をくれる良い人だって。だからあいつの言うことなら、なんでも聞いてしまう。戦うのを怖がっているのに、それでも雑音のためだと言って赴いて、戦いの恐怖を忘れるために更に依存して――その繰り返しだ」
薬漬けにされ、兵器として扱われているのだと。
それはあまりに不憫なのだと。
そう言って彼は頭を下げた。
「だから、すまない。もしも俺の罪を裁くというのなら、今ここで首を断つっていうのなら、その前に一つだけ頼みがあるんだ」
「聞こう」
低く、そして短い返答。
それに臆すること無く――いいや、違う。臆しながらも、体を震わせながらも、言葉を発した。
「その子を救ってあげて欲しい。俺は心が弱くて無理だったけれど、貴方たちなら――規格外持ち相手に恐れず戦える人たちなら、彼女の心を震わせる何かがあるかもしれないから」
自分では無理だったのだと。
勇者のなりそこないの自分では不可能だったのだとインフィニットは言う。
その真摯な声を聞きながらも、ゲイリーは揺るがない。表情の見えぬ姿のまま、淡々とした声音で問いかける。
「質問に答える前に、一つだけ問おう――なぜ、そのようなことを頼む? その少女は確かに憐れであり、不憫なのだろう。だが君とは他人だ。だというのに、なぜだ」
「なんだ――そんなの、簡単だ」
何を聞かれるのかと思った、と。
どこかホッとした面持ちで安堵の息を吐く。
「その子は中学生くらいで、見た目十三か十四くらいなんだ。……そんな子が、未来に怯え、全てを諦めて薬に縋ってる姿なんて、見ていられないじゃないか。俺は勇者なんていう器じゃなかったけど、それでも苦しんでいる子供を見捨てるのは嫌なんだ」
勇者に憧れた一人として。
勇者に届かなかった者であるけれど。
救うことが出来ず、己の恐怖に負けた心の弱い人間であっても。
それでも、見て見ぬふりはしたくないのだと。
その真摯な想いを真っ向から受け止めて、ゲイリーは大きく頷いた。
「分かった。では、君に罰を与えよう」
鞘走る音が響く。
刃が走る音が耳に届く。
「待――」
待ってくれ、というニールの言葉すら置き去りにして刃が走る。
音を置き去りにする鋭い斬撃は、インフィニットの首へと疾走し――
「転移者インフィニット・カイザー。君は現地人をブバルディアに送り届けた後、転移者の捕虜たちを女王都まで連行しろ。そして、兵舎に留まり、我々の帰還を待て」
――その刃は、首を抉る直前で停止した。
「……なん、で」
体を震わせながら、しかしその場から一歩たりとも動かなかったインフィニットが、呆然とした声音で問いかける。
殺されることを覚悟し、けれど殺されていない現状を訝しんでいる彼に――ゲイリーは普段通りの柔らかい声音でその問いに答えた。
「見極めさせて貰った。今の言葉が、命惜しさから出た言葉ではないと。『善人ならばこれで納得するだろう』という小賢しい計算ではないのだと」
ゲイリーはそう言って兜を外した。禿頭の強面が浮かべる表情は、柔らかい笑みであった。
「真に罪を悔い、真っ当に歩こうとする者を殺しはしないさ。もっとも、全てが終わった後に裁判を受けてもらうがね。けれど、それも問題ないだろう」
君を弁護したいという者も居るからね、とゲイリーは満足げに頷く。これこそ、自分が見たかったモノであるとでも言うように。
「けど、俺は……」
「君にはその力で奪い、殺すことが出来た。そして、それを咎める者たちの多くが君に太刀打ち出来なかっただろう。転移者とは、そういう存在だ。規格外とは、そういう力だ」
けれど、と。
柔和な笑みを浮かべながら、インフィニットの肩に手を置いた。
「君はその道を選ばず、誰かを救う道を選んだ。君はそれを誇るべきだ。それに――何かの影響を受けることは別に悪いことではないよ。ボクら現地人だって、勇者リディアの伝承に憧れて剣を学ぶ者も多いのだからね」
「……でも」
「それに、だ。咄嗟の殺気に対し、恐れつつも知り合いを庇おうとしたその行動に君の真実を視た。そう卑下するモノではない、君は君が思っているより勇気ある者だとボクは思うよ」
その言葉で、ニールはようやく気づく。
殺意に晒され、己の立ち位置をゆっくりと変えたインフィニットの動作――あれは、咄嗟にニールを守ろうと動いた結果なのだと。
言われるまで気づけなかったのは、その動作があまりに鈍かったから。恐怖に縛られ、まともに体を動かすことが出来なかったのだろう。
だが、それでも――彼は庇おうとした。
その動作は滑稽であっても、庇われていると気づけなかった程に無様な動きでも、あの状況下では全く無意味な行動であったとしても、その想いは尊いのだとゲイリーは言うのだ。
「さて、それでは捕虜を監視している者たちと顔合わせと行こうか――ついてきたまえ、インフィニット。そしてニール君、心配させたようだね」
「全くだぜ、つーかさっきの斬撃はさすがに肝が冷えたぞ。最初から止めるつもりだったんだろうが――」
本気で斬り殺すようにしか見えなかったぞ、と。
そう言いかけるニールに、ゲイリーは「いいや」と言葉を遮った。
「命惜しさに少女をダシに使っていたら、そのまま首を断つつもりだったとも。やはり人間、殺される瞬間こそ本音が垣間見えるものだ」
――心配して正解だったんじゃねえか、それ。
心からそう思ったのが伝わったのか、ゲイリーは少し困った顔で首を左右に振る。
「なに、試しはしたが、大丈夫だろうとは思っていたよ。何より――欠片も見込みがない獣であれば、会話すらしていない」
そう言って、ゲイリーは歩み始めた。
インフィニットはその背中とニールを交互に見つめ、ニールに頭を下げた後にゲイリーの後を追う。
天幕から出て、その姿を見送って――ようやく、ニールは安堵の息を吐いた。
(まあ、何はともあれ――何事もなくて良かったぜ)
全てが終わった後に、レゾン・デイトルで何をしたのか、彼らに与して連合軍を襲ったことを追求されるだろうが――その辺りは大して心配はしていない。
インフィニットの心根は善だ。恐怖に負け、欲望に負ける弱さこそあるが、だからといって無辜の人々を殺戮出来る存在ではない。ニールたちを襲ったことも、精神的に追い詰められた結果なのだから。
無論、だからといって全てが許されるワケではない。十中八九、何らかの罪に問われるだろう。
だが、彼を弁護する者は多いだろうし、成した悪行も恐らくそう多くはあるまい。数年で社会に復帰できるだろう。
その時はもう彼に規格外はないだろうが、問題はあるまい。
彼に救われた人々の中から、きっと手を差し伸べる人が出て来るだろうと自信を持って言える。なぜなら、ニールもその一人なのだから。
これで悩みのタネが一つ減った。もう一つは――
「ニールさん、お疲れさまです」
天幕の出口で考え込んでいると、聞き慣れた声が耳に届いた。
声がした方に視線を向けると、桃色のサイドテールを揺らしてこちらに歩み寄ってくる姿が見える。
「おうノーラ、そっちもお疲れさん。悪ぃな、連翹のこと任せちまって――大丈夫か、あいつは」
少し前まで普通だったのに、突然何かに怯えるように震えた連翹を思い出す。
正直、見ていて痛々しいくらいだった。普段はやかましいくらいなのに、あの時の声はまるで掠れるように小さくて。
あんな姿、いままで見たこと無い――
(――いや、違う。あった、あったぞ――アースリュームの時だ)
現地に溶け込んだ転移者が、ぽろりとこぼした言葉――突然与えられた力は、同じように突然消えるのではないかという話を思い出す。
あの当時はまだ可能性の話でしかなかったが――インフィニットの様子を見る限り、規格外が消えるのは確定らしい。
もしかして、連翹は雑音にそれを突きつけられたのではないか? インフィニットと同じように。
(……違う、か? どうもしっくりこねえ)
正直、今の連翹がたったそれだけのことで憔悴するとは思えなかった。
アースリュームで話す前なら、怪我人を癒やすために一時的にノーラに規格外を吸わせる前なら、そうなってもおかしくはないと思う。
だが、なんだかんだで彼女も成長しているのだ。
多少は取り乱すかもしれないが、ノーラと話している間に落ち着くだろうと思う。
「……正直、微妙なところですね。わたしでは上手く励ますことが出来そうにないです」
今は多少落ち着いていて、カルナが様子を見に行っているのだという。
そうか、と呟いて空を仰ぐ。
闇に沈んでいく空はニールの思考と同じだ。どれだけ時間をかけても、薄暗くなるだけで答えが見えない。
「……ねえ、ニールさん。ニールさんは、レンちゃんのことをどう思っているんですか?」
そんな暗中を模索し続けるような思考の中、微かな光が一つ。
真剣な表情でこちらを見つめるノーラに、ニールもまた真剣に考え込む。
このタイミングでそんなことを聞いてくるのだ、今、このタイミングで必要な質問なのだろう。
なら、適当な返事は出来ない。
「どう、つってもな……馬鹿な女だが、糞な女じゃねえとは思ってるよ。信頼も……まあ、してる」
言って、顔を顰める。
後半、僅かに言い淀んでしまったのは、気恥ずかしいことを言ったからではない。
脳裏に浮かんだのだ――二年前、彼女と戦った時のことを。
ああ、確かに信頼している。片桐連翹という女は色々と馬鹿をやらかすが、しかし真面目で仲間想いだと知っているから。
だが、それとこれとは話が別だ――そう主張する自分もまた、存在するのだ。
「それは、二年前のことを踏まえた上での答えですか?」
――そんな思考を見透かしたように。
ノーラが問いかける。真っ直ぐに、話を逸らすことを許さぬと言うように。
「答える前に、一つ聞かせろ――誰から聞いた?」
「カルナさんから。昔、話の流れで」
そうか、と短く呟く。
正直カルナの野郎、と思わなくもないが――話しても問題ない相手だと思ったからこそ話したのだろうと思う。実際、他人に言いふらした様子もない。
ふう、と息を吐いて呼吸と思考を整えようとする。
だが、どうしても上手く行かない。呼吸は簡単に整うのに、答えは散り散りになるばかり。
「そこら辺、どうもしっくり来ねえ。許せねえと思う気持ちはまだあるし、だってのに今のまま仲良く馬鹿やりてえって思う気持ちもある。その度に『考えても仕方ねえ』って切り替えてるんだがな」
酷い矛盾だ。とっとと決めれば良いものを、いつまでもぐだぐだと悩み続けている。
なんだこれは、女々しいにも程があるではないか。自分はこんなにも優柔不断なタイプだっただろうか、と己自身が情けなく思えてくる。
そんな様子を黙ってみていたノーラは、表情に呆れを滲ませる。
「それは切り替えてるんじゃなくて、後回しにしているだけじゃないですか?」
「そうだな。正直に言えば、その自覚はある」
だが、後回しにすることが心地よくもあるのだ。
答えを出さずに済むということの、なんと楽なことか。
(答えを出すなら――どっちかを斬り捨てなくちゃなんねえ。それが嫌で、こんなにも女々しく惑ってる)
全てを許して仲間として受け入れるのか? それも良いというニールも居て、けれどふざけるなと叫ぶニールも居た。
それとも、『思い出してくれるまで』などという考えを捨てて、連翹を斬り殺すか? とっととそうしてしまえというニールも居て、しかし嫌だと叫ぶニールも居た。
どちらを選んでもしっくり来ない。
どちらを選んでも後悔する未来が見える。
(……こんな風に悩むことになるくらいなら、あの時に斬りかかれば良かったかもしれねえな)
内心で呟き、自嘲的な笑みを浮かべる。
あの当時の装備で転移者には勝てなかったのは分かっているのに、そんなことを考えてしまう。思考が迷走しているのが自分でも分かった。
「ねえ、ニールさん。わたし、思うんですよ。その気持ちはどちらかを選ぶモノじゃなくて、共存するモノでもあるって」
分からない、分からない、考えても考えても答えが出ない――そんな自分に怒りを向けた矢先に、ノーラがゆっくりと、そして柔らかい声音で言った。
その響きに、ブバルディアの母を思い出す。子供の頃に、自分の目線に合わせて言葉をかけてくれた時のようだと思うのだ。
無論、ニールは直立したままで、背丈の小さいノーラはこちらを見上げている。だというのにそう感じたのは、声の響きか、ノーラの心構えのせいか。
「正直に言えば、ニールさんの無謀なところ――好きじゃありません。ハッキリ言えば嫌いです。親に貰った命をなんだと思ってるんだろうこの人は――って何度も思って、憤ったりしています」
「あ? ……ああ、まあ、だろうなとは思うが……」
似たようなことは散々言われ、そんな文句聞き慣れた。
茶化し半分の言葉にしろ、真剣な忠告にしろ、何度も何度も言われ――しかし是正せずにここまで来た。
なぜなら、それこそがニール・グラジオラスの進む道だから。強い敵を前にして命惜しさに尻込みして何が剣士か。強敵と戦い、競い合って、勝利と敗北というどちらかの未来を掴み取る――それが剣士の生きる道だろう。
無論、最低限の勝算くらいは考えているつもりだ。魔法しか有効打にならない幽霊に剣を振るうような蛮勇通り越して阿呆な真似をするつもりは無いのだから。
けれど、ニールの考える最低限の勝算と、他者が考える最低限の勝算には隔たりがあると感じる時は、確かにある。だからこそ、無謀なことはやめろと女王都でもナルキでも言われたのだ。
ゆえに、そんな言葉今更だ。
(……そうだ、今更だ)
分かっている、そんなこと。
分かっているのに――胸に寂しさが訪れる。
その理由は、ここしばらく行動を共にした少女からの言葉だからだろうか。なんだかんだで仲良くやっている人間から告げられた、あまりお前は好きじゃないという言葉は、当たり前だと思いながらも心に刺さるモノがある。
「けど」
だというのに。
そんな言葉を述べたノーラは、ニールの両手を優しく握りしめた。
まるで、心配するなと言うように。
「それでもあなたはわたしの友人で、一緒に居て楽しい人でもあるんです。……ニールさん、この言葉は矛盾していますか?」
そう言って微笑むノーラの姿に、少しだけどきりとした。
正直、あまり胸の大きい女は異性として好みではないのだが――それでも、優しく包み込んでくる感覚に頬が赤らむのを感じる。
カルナが好む理由が分かった気がする。まるで凄腕の剣士だ。少し前まで互いに構えていたと思ったのに、気がついたら懐まで斬り込まれている。
「いや……ああ、実際そんなもんなんじゃねえか? 俺だってカルナの全てを良いとは思えねえし、カルナの奴だって俺の全てを受け入れてるワケじゃねえだろ。俺は、そう思う」
若干しどろもどろになりながらも、自分の考えを述べる。
極論、他人とはそういうモノだとニールは思う。
どれだけ仲が良い人であっても、いいや、仲が良い人だからこそ受け入れがたい部分も見えてくる。
他者と自分は違う。知れば知るほど自分と違う部分が目につき――結果、嫌な部分も見えてくるのだ。
それはきっと当然のことなのだと思う。
「ええ。だから、きっとニールさんは順序が逆なんですよ」
逆? と問い返す間もなく、ノーラに顔を覗き込まれる。
優しそうな顔をしているのに、言い訳も言い逃れも絶対に許さないとでも言うように、じっくりと。
「最初に悪い部分を見て、その後にいい部分を見た。きっと、それだけ。もちろん、なんでもない時に感じた感情がなんだったのか、その最初の出会いが最悪だったから、こうもこじれたんだと思うんですけどね。インフィニット・カイザーさんとレンちゃんは、ニールさんにとって真逆なんですよ。どちらも信じた相手で、立ち位置が全く違う」
インフィニット・カイザーという転移者と出会った時、ニールは良い男だと思った――だからこそ先程の戦いで侵略者の軍勢に加わっているのを見ても信じることが出来たのだ。
片桐連翹という少女と出会った時、ニールは嫌な女だと思った――だからこそ仲良くなった今でもどうすれば良いのか分からなくなってしまっている。
けれど、どちらも大きな差はない、どちらも心根は善性の人間だ。
最初に力に酔って暴走したか、終わりが近くなって怖くなって暴走したか、ただそれだけが違う。
「ニールさんが言ったように、良いことも悪いことも、どっちも引っ括めて友達なんですよ。だから、ニールさんが昔のことを怒るのも、今のレンちゃんを大事に思うのも全部地続きなんです。どれもレンちゃんで、どれもニールさんが抱いた想いなんです」
だから、と。
ノーラはニールの眼を真っ直ぐに見つめながら、優しく――けれど強く言い放った。
「思うままに喋ればいいんだと思うんです。向き合って、どういう言葉をレンちゃんに言いたいのか、言いたくないのかを考えながら。ニールさん、正直長く考え込むのは苦手でしょう? だから剣を振るうように、考えながらも直感を信じればいいんですよ。きっと、それが一番の近道です」
でも、その前に――そう前置きしてノーラは視線を逸らす。
いいや、違う。近づいてくる別の誰かの方へと視線を向けたのだ。
「最初は、彼女の言葉を聞いてあげてください。その後、ちゃんと考えて――けれど考え過ぎずに直感を信じて喋ればいいと思いますよ。大丈夫。確かに慣れないことかもしれないですけど――剣での斬り合いだと思えば良いんです。全体の流れを見て――けどその場その場で直感を信じて、剣の代わりに言葉を使う。そうすれば、きっと上手く行きます」
近づいてくる足音は二つ。
一つは男のモノ。長身でありながら、しかし前衛の戦士ほど筋肉のない半端な重みの足音。聞き慣れた足音。
もう一つは女のモノ。戦士として戦うには重心のバランスが滅茶苦茶で、けれど最近は随分と頑張ってマシになった足音。
「――ニール」
少女の足音の主が、声を発した。
聞き慣れた声だ。普段は馬鹿騒ぎの中で聞いた声だ。
けれど今は不安に満ちた小さな声で――しかし、それでも決意を以てニールに届かせた声音だ。
「連翹……」
細身で、日向人と似た特徴を有しながら、しかし背丈はそこそこにある女。
長い黒髪を持ち、紺色の水夫服とスカートをかけ合わせた衣装に鎧を重ねた珍妙な装備をした女。
ここしばらく、ずっとずっと、一緒に居た、女。
「話が、あるの」
微かに震える体――それを押さえ込むように両手で己を抱きしめながら。
女は――片桐連翹は、ニールを見つめて言ったのだ。
か細い声音で、しかし瞳に決意を込めて。




