178/響く雑音と胸に抱く誓い
雑音は外套の中から革袋を取り出した。
既に口が開かれたそこから流れ出るのは粉だ。風に乗ったそれが、連翹にノエルやミリアム、若いエルフたちに届いていく。
連翹にとっては少し良い気分になるだけのモノ――だというのに、効果は劇的であった。
一人、また一人とエルフたちが昏倒していく。なんとか抗おうとする者と、『自ら進んで眠りに落ちようとする者』と二種類存在したが、どちらも最終的には深い眠りに落ちていく。
「なん、だい……これ、は」
ミリアムが顔を顰めながら言って――しかし、凝固な氷が溶け出すように笑みを浮かべていく。
それは心の底からの喜び。楽しくて楽しくて仕方なくて、つい笑みを浮かべてしまった――そんな自然な笑みで、だからこそ傍から見る連翹には恐ろしく見えた。
何が起こっているのか。
何が、彼女たちを蝕んでいるのか。
それが全く理解できないから。
「違う、駄目、だ。こ……のっ!」
ミリアムは矢筒から矢を一本取り出すと、それを強く握り締め――ふとももに突き立てた。白い肌に赤い液体が吹き出し、流れていく。
痛いはずだ。苦しいはずだ。だというのに――彼女の表情は変わらない。
まるでここでは無い何かを見つめているような遠い目で、傷など気にならないとばかりに微笑むのみ。
「痛みが……無い、まさか、これ――」
その言葉を最後に、彼女もまた昏倒した。他の者と同じように、幸せそうに。
今残っているのは連翹と、ギリギリで踏みとどまっているノエルのみ。
その様子を見て満足そうに微笑んだ雑音は、エルフたちを眠らせた粉を摘み、己の鼻に近づけて吸い込んだ。
だが、エルフたちのように昏倒することはない。ただ、少しばかり気分の良さそうに笑みを深めるだけで。
「ハピメア――心地よい夢を見せてくれる粉の名前だよ」
それは、連翹自身は聞いたことのない単語だ。
けれど、ノエルの瞳が鋭く細められる。それだけで、何かヤバイ物だということくらいは察せられた。
「麻酔用のヤツを集めて、純度を上げてみたんだ。どうだい? 辛いかい? 抗えないかい? けど残念! 転移者に状態異常は無意味なんだよね、効能だけ貰えるわけだ。だから――眠りに落ちるのは君たちだけさ」
(状態異常耐性――!)
それは転移者なら誰でも有している能力だ。
毒や麻痺などといった絡め手をシャットアウトする規格外の一部である。
本来なら変なモノを食べても大丈夫だったり、毒攻撃を防ぐ程度の受け身な能力。けれど、雑音はそれを攻撃に転用している。
自分に毒が効かないのであれば、敵に囲まれた状況で『自分を巻き込む形で』使用する――単純な、しかし効果的な手段。
「貴様、これが、どんなモノか――過去、これで、どれだけ、の者が、犠牲になった、のか――」
「知らないよ、君たちの過去も今も未来も、興味もなんて一欠片もありゃしない。興味があるのはこれが対エルフに一番有効そうだった、ってことくらいかな。実際、大成功したからね! 弱いぼくには絶対勝てそうにない戦士が膝をつくその姿――ああ、凄く気持ちいいなぁ! ねえ、どんな気持ちだい? 今、君はどんな気持ちだい!?」
その言葉にノエルは答えない。
先程のようにあえて答えていないのではなく、もはや返事すら出来ぬと荒い息を吐くのみ。
「さっきからぺちゃくちゃぺちゃくちゃ――喋りすぎなのよ貴方!」
呆けている場合ではない、とノエルの前に出る。
作戦は完全に崩壊したが、しかし連翹はまだ動ける。なら、なんとかしなければならない。
剣先を雑音に向けて威嚇しながら、背後のノエルに向けて叫ぶ。
「ノエル、大丈夫!? 少しでも動けるのなら、這ってでもいいから後ろに下がって! このままじゃ巻き込まれるわ!」
「ああ、分かった」
思いの外しっかりとした返答に、小さく安堵の息を漏らす。
これなら、連翹が雑音を押さえ込めば、この窮地を脱することが出来るかもしれない。
「迷惑をかける――フィリア」
突然知らない誰かの名前を口走ったノエルに対し、怪訝に思う以上に背中がぞわりとするような恐怖を抱いた。
振り返りノエルの顔を見る。
彼の視線は連翹に向きつつも連翹を見ていない。腰から背中辺りを、そこに誰かの顔があるかのようにじいと見つめていた。子供かドワーフの女なら、その辺りに顔があるのだろうか。
そして何十年かぶりに、親しい誰かと再会出来た――そんな、普段の彼からは想像出来ぬ、嬉しそうな、けれど同時に泣き出しそうな笑みを浮かべ――
「……だが大丈夫だ、私はまだ戦える。さあ、いつものように、魔族の連中を、叩き出――――」
――そのまま、地面に倒れ込んだ。
強烈な攻撃を受けて気絶したかのように、けれど口はうわ言のように何事かを呟いている。
その様子を満足気に眺めていた雑音は、うんうんと何度も頷いた。
「これで一番厄介なのは排除完了、と。やっぱり、エルフには良く利くね。もう会えない別種族の友達が、恋人が、仲間がいたのかな? いたんだろうね。さあ、好きなだけ会えばいいさ、夢の中でね」
小馬鹿にするような言い草に、この男……! と斬りかかろうとし――しかし寸前で自制する。
すぐ背後にはノエルが倒れているし、数メートル先にはミリアムや他のエルフたちが居る。
こんな状況で互いにスキルを放ったら、絶対に巻き込んでしまう。連翹が巻き込まないように動いても、雑音には関係ない。この場で戦うのは圧倒的に不利だ。
「……なんかすっごい強い麻薬みたいね。どこで買ったのよ、そんなの」
だから、使うべきは剣ではなく言葉。
油断させて隙を引き出すのか、時間を稼いで助けを待つべきなのかは分からない。けれど、どうにかしなくてはならない思った。
正直、会話することすら悪手かもしれないと思いはする。
けれど、多少下手を打っても、今この瞬間に戦ってノエルたちを巻き込むよりはマシだろうと思った。
「少し前に十字聖印を身に着けて買い込んだんだ。領地の兵士のためだ、お嬢様のためだ、とか適当に言ってね」
そう言ってボロボロの外套の裾から、銀に輝く十字をこれ見よがしに取り出した。
神の力に反応して銀に輝くそれは、皮肉なくらい綺羅びやかに輝いている。
そうだ、転移者の力と神官の奇跡の力は根本は同じなのだ。ゆえに、本来神官の証明である十字聖印を銀に輝かせるのは転移者にも出来る。
無論、輝くだけであって転移者には奇跡は使えない。神官が奇跡に使う力を、全て己の強化に使っているためだ。
ゆえに、本来はそんなモノを持っていても意味がない。ただ単に銀に輝くだけで、何の効果も無いのだから。
だが、他者を騙すことは可能だ。
「……まさか、本当に詐欺に使う奴が居るなんてね」
昔、ノーラに十字聖印を触らせて貰ったことがあった。
その時、冗談交じりで『聖印が輝くのを利用してなんか詐欺でもしろっていうの!?』と言った覚えがある。
無論、冗談だ。
詐欺なんて駄目だ、という良心から出た思考もあるが――仮に良心が無くてもそんなことをする理由は転移者には無いから。
だって、転移者には力があるから。相手を騙すより、真っ当に冒険者するなり、力で脅迫して奪い取った方が断然早い。
「いやいや、信頼っていうのは便利なモノなんだよ。他人のモノを利用するなら尚更さ。力だけある転移者より、聖印をぶら下げた神官の方が現地人は信用してくれるからね」
おかげで買い占めるのは容易だった、と外套の中から革袋を取り出し、掌で弄ぶ。
そのせいで、連翹は余計に攻撃に移れなくなる。
だって、既にノエルたちは昏倒しているのだ。そこに更に、昏倒の原因の薬を嗅がせたらどうなるのか――こちらの知識に疎い連翹には、判断出来なかった。
案外大丈夫なのかもしれないし、吸い過ぎると死ぬのかもしれない。けど、そんな危険なギャンブルを行えない。失敗は仲間の死である以上、軽率な真似など出来るはずもない。
そんな連翹の内心を見透かしたように、雑音は笑う。
「さて、と――――ようやく二人きりになれたね」
ぞわっ、と。
肌が泡立つのを感じた。
気持ち悪い――言葉の気持ち悪さもそうだが、何かもっと根本的な部分で拒絶反応が出ている。
触れられたくない部分を、全て全てねっとりと撫で回されるような、そんな嫌な感じ。
このまま会話を続けるのは、絶対に良くない――そんな直感が、電流の如く体中を駆け回る。
「……随分と古典的なセリフね。けど、女の子を誘いたいなら、もっと根本的に色々見直した方がいいと思うの」
だが逃げない。
いいや、逃げられない。
意識を失ったノエルやミリアムを放って逃げることなど、出来るはずもない。
ゆえに、連翹は会話を続けるしかないのだ。
戦えず、逃げられない現状、雑音が会話を続ける限り、味方の増援が来ない限り。
「そうかな? それは残念。本題の前に多少は好感度を稼いでおきたかったんだけど」
ははっ、と笑うその姿は親しい友人を前にしたように明るくて、だからこそ気色が悪い。
それはホラーゲームで突然心地よいポップ音楽が流れてきたように。それ単品なら恐ろしくもなんでもないはずなのに、状況が重なって奇妙な恐怖を連翹に抱かせる。
「じゃあ、まずは最初に結論から。片桐連翹さん――連合軍を裏切って、こっちに来る気はないかな? ぼくは、君と友達になりたいんだ」
「……馬鹿にしてんの?」
眦が吊り上がっていくのが分かる。
今回だけでも非戦闘員に火を放ち、ノエルたちに麻薬みたいな何かを吸わせて昏倒させた癖に、こっちに来る気はないか? 友達になりたい?
こんなの、交渉の余地なんて欠片もないではないか。もし本当に連翹がそちらに付くと考えているとしたら、馬鹿にしているにも程があろう。
「馬鹿になんてしてないよ、心からの願いさ! それに、君が気づいていないだけで、君が裏切る明確な理由があるはずなんだけど」
「はあ? 一体なんだって言うのよ」
ちらり、と背後に視線を向ける。
ノエルたちは起き上がる気配がないし、増援もまた来る様子がない。今は、まだ。
けど、幸い雑音は長々と喋り続けている。時間を稼ぐという目的は、達成できる――
「……だって、君は力を失えば惨たらしく彼に――ニール・グラジオラスという男に殺される運命にあるんだから。『役に立ったな、けど友達ごっこは終わりだ馬鹿女』――なぁんてね」
下手糞なモノマネをして、ニールのモノマネをして、雑音が嫌らしく嗤った。
ぷちん、という音が響いたのは、幻聴なのかどうなのか。
分からない。分からない。分からないけれど、体を貫いた雷めいた怒りが、連翹の刃を閃光へと変えたのだ。
「――――ッ!」
声にならない声を喉から発し、さっきまで考えていたことを全て忘却し、雑音へ剣を振り下ろす。
だが、直線的過ぎたのか、それともこうなることを予測されていたのか、軽いステップで回避されてしまう。
剣先が地面を叩き地面に亀裂を走らせるのを見て、雑音は「おお、怖い怖い」と馬鹿にしたように呟く。
「いけないな、いけないなぁ、戦ってもいいのかい? ぼくが迎撃してもいいのかい? ぼくは構わないよ、死ぬのは君が仲間だと思っているエルフだけだしさ!」
「ッ! ……ッ、……!」
二撃目を放とうする腕を強引に止める。ぎちり、と腕の筋肉が音と痛みを発して剣の動きを停止させた。
その様を見て「偉い偉い、よく我慢できました」と拍手する雑音の声に再び怒髪天を衝くが、しかし歯を食いしばって耐える、耐える、耐える。
(良いように弄ばれてる……!)
この男、徹底的に自分が戦わないように、相手が戦えないように誘導している。
歯噛みする連翹を心の底から楽しげに見つめる雑音は、攻撃が来ないのを確認するとまた口を開いた。
「連翹さん、片桐連翹さん、よくよく思い出して見るんだ。君がこの世界に来たばかりの頃を。転移者の力を冒険者という身分で振るって、ギルド対抗のトーナメントに出場した時のこと」
「なにを今更そんな昔のこと! そんなの――」
どうだっていい些事ではないか。この場に何一つ関係ない話ではないか。
そんな怪訝な表情を浮かべた瞬間――
「ははっ」
――雑音は楽しげな、しかし嗜虐的な笑みを浮かべた。
捕まえたとでも言うように、絡め取ったとでも言うように。
「そりゃそうだ! 覚えていないだろうね! だって、君にとっては本当にどうでもいい程の些事だったんだから! 勝利して当然、栄光を手にして当然、俺TUEEEE! と精神的自慰に耽るためだけのイベントだったんだからねぇ!」
高らかに歌うように、しかし罪人を弾劾するように。
雑音は叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。
お前のことは知っているぞ! お前の成したことを知っているぞ! お前の罪を知っているぞ! と。
「けど、それを汚す者が居た! 一太刀叩き込んだ剣士が居た! 大したダメージを与えられなかった癖に、完全勝利に水を差した大馬鹿者が!」
――ああ、覚えている。
もはやどんな人間だったかも覚えてはいない、片桐連翹の心身に傷を刻んだ男にして――今の連翹になるキッカケをもたらした誰か。自分が傷つけてしまった、鋭い瞳の少年剣士。
かつては必死に忘れようとして、けれど今はなぜ思い出せないのかと悔やむ誰かだ。
「彼は敗北後、女王都から姿を消した。逃げ出したワケじゃない。彼自身の求道、自殺志願めいた渇望の隣に居られる人が居なくなったから、過去の仕事仲間を切り捨てて東部を練り歩くこととなるんだ。当然だ。転移者と戦って勝利したいなんて、真っ当な冒険者は考えないし賛同出来ない。転移者は最強なんだから!」
だが、彼は剣を振るうのだと。
運良く受け入れてくれる人たちに出会えるまで、延々と、一人で。
「あの時の転移者を倒すため――ねえ、片桐連翹さん。君は、何か感じ入るモノがあるんじゃないかな? なにせ、当事者の一人なんだから」
「……回りくどいわね、それと今のあたしが、一体なんの関係があるって言うのよ」
過去の過ち? それは認めよう。
傷つけた誰か? 出会ったのなら向き合おうと思う。
けれど、それだけだ。
取り返しのつかない過去であるのは確かだが、今この瞬間に必要な情報ではない。
(ない――はずよ、きっと)
だというのに、なぜだろう。
心がざわざわとするし、呼吸も乱れる。
明確に感じる嫌な予感に雑音の口を塞ぎたくなるが、ノエルやミリアムを人質にされている現状、何も出来ない。なにも、なにも――出来ることなんて、話を聞くことくらい。
「ぼくは弱いからね、情報収集は欠かさないんだ。敵対する相手の中に転移者が居たのなら、その人物について調べるのは当然のことさ。女王都のギルドの知り合いに話を聞きに行ったり、君たちが立ち寄った町や村の住民に金を握らせて話を聞いたりするワケなんだよ。だから、気づけた――君が使い勝手の良い駒扱いされている事実に!」
両手を広げ、歌劇か何かのように高らかに語り始める。
「教えてあげよう、君が都合よく忘れ去っている事実を。
教えてあげよう、君がどれだけ惨めで憐れな家畜なのかを。
教えてあげよう、君が役目を終えて貪り喰らわれる未来を!
教えてあげよう――君が傷つけた者の名を!」
――そうして、突き付けられる。
かつての愚かな所業を。
力に溺れ、規格外に溺れ、我欲に溺れた――その結果を。
「彼の名はニール! ニール・グラジオラス! 西部出身で、女王都で冒険者になった剣士だ! 知らない名じゃないだろう、ないよねぇ、ないはずだ!」
「――――え?」
呼吸が、数瞬、止まって。
声は小さく、そして短い疑問符にしかならなくて。
嘘だ、とは言えなかった。
違う、と否定することも出来なかった。
――だって、連想してしまったから。
連翹が斬り捨てた対戦相手。胴を両断され、神官たちに囲まれながら、しかしそれでも鋭い眼でこちらを睨んできた同年代の誰か。
その瞳を覚えている。
鋭く、怒りに満ち満ちた眼。
それが脳内でモンタージュ写真のようにニールの顔と重なり、融合する。
――そこに違和感なんてなくて。
別人の目を無理矢理当て嵌めた不出来さはなくて。
ああ、ニールはきっと心の底から怒ったらそういう目をするよね、と――親しくなったからこそ、理解できる。出来てしまう。
だから否定も出来――けれど肯定も出来なくて。
「あたしは――あた、しは――もう、あんな、ことは――」
一歩、後ずさりそう呟くことしか出来なかった。
否定も出来ず、肯定も出来ず、ただ、もう自分はあの時とは違うのだと言って――言うしか、なくて。
にまり、と雑音が嗤った。
「そうだね、しないかもしれないね。君は変わった、成長したんだろう! 騎士と一緒に行動して、排斥されることも断罪されることもないんだから! 素晴らしいね、感動的だ! 昔はヤンチャしてたけど今は真面目に生きてます、みたいな三流ドキュメンタリーみたいな話で涙が出そうだよ!」
おめでとう、おめでとう――そう言って拍手する雑音に怒りを抱くことすらなく、ただ、頭の中が白く、白く、白く染まる。
「けど、そんなものは無意味で無価値だ」
だってそうだろう、と。
雑音はお気に入りの娯楽を眺めているような笑顔で、語る、語る、語る。
「被害者が加害者の成長を賞賛し、水に流してくれると思うかい? いじめっ子が真っ当に生きて幸せになっても、かつてのいじめられっ子は腹立たしいだけだとぼくは思うなぁ。あの野郎何一つ報いを受けてない、ってね! ……ねえ、君はどう思う? 一人の意見だけじゃあ偏るからさ、君の意見を聞いて参考にしたいんだ!」
「それ、は……」
「そんなわけがない、そんなわけがない、そんなわけがない! 口ごもった君が一番分かっているだろう! 被害者はいつまでも傷つけられたことを覚えているし、加害者はどこまでも鈍感になれる! いじめっ子が数年後にSNSで『いじめは絶対に許されない!』とかドヤ顔で語っていたって話もあるくらいだしね! 君にはその気持ちが分からないかい? 分からないかなあ? 分かるだろう? 君自身がそうなんだからさ! 鈍感な加害者さん! 片桐連翹さん!」
そうだ、忘れていた。
都合よく、目の前に傷つけた誰かが居たのに、一切思い出すことはなかったのだ。
(思い返してみれば――)
ニールたちと初めて出会った時。
目深にフードを被り謎の女剣士ごっこなんてことをしていた連翹は、返り血を浴びたフードを乱雑に脱ぎ捨てたのだ。
その時ニールは、呆然とこちらを見つめていた。
――それは、探し求めていた相手を見つけたからではないのか?
その事実に気付かず、怪訝に問いかけた連翹に、絞り出すような声で何かを呟いた彼。
――それは、探し求めていた相手に忘却されていて、ショックを受けたからではないのか?
そんな風に、かちり、かちり、かちり、と。
今まで完成できなかったパズル。そこにニールというピースが組み込まれた瞬間、恐ろしい速度で完成に向かっていく。
そう、恐ろしい。恐ろしいのだ。
知りたくなかったという醜い本音が、胸の中に浮かび上がる。
いずれ、傷つけた相手と出会ったら向き合おうと思っていた癖に。
自分がやらかした結果だっていうのに。
(だって、ニールは許してくれない。許さない)
一緒に居たから、分かる。
彼がどれだけ剣が好きなのか、どれだけ鍛錬をしているのか、どれだけ上を目指しているのかを。
そんな相手に、自分は一体、なんと言ったか。
ただの人が、地球から召喚されたあたしに敵うわけないのに――と。
なんでそんな無駄な努力してるんだろう――と!
「だから、君の破滅は運命づけられている。お友達ごっこをすればそこそこ扱える戦力として使い潰され、『力を失った時』、皆が君を排斥する! 魔女扱いされ焼かれたジャンヌ・ダルクのように! 掌を返して君を捕らえ、陵辱し、火刑に処すことだろうさ!」
お前は許されない、許されない、許されない。
罪は背後まで迫っている。ひたひた、ひたひた、足音を立てながら。
もうすぐ追いつくぞ、追いつくぞと雑音は言葉を発し続ける。その度に、思考に、心に、耳障りな雑音が響く。うるさくてうるさくて仕方がない。
「力を――失った、時、って、何よ、それ」
それでも問いかけたのは、会話を続けて増援を待つという初志を貫徹しようとしたがためか、己の力が失われることを恐れたためか。今の連翹には理解出来なかった。
一応、チートに時間制限があるらしいというのは、断片程度には理解している。
先程の戦いでインフィニットが語っていたのもそうだが、それに近い話を別の場所で、だいぶ前に聞いていた。
血塗れの死神だ。彼女は言っていた、己の配下に『ここで成果を出さないと――その時が来ても助けてあげないからね』と。
その時の連翹は『その時』の意味を知らなかったけれど、それは、つまり――
「三年」
短く、雑音は呟く。
「転移してから三年――それがぼくらに与えられたタイムリミットさ」
「さ、ん――年?」
さっきからずっと感じ続けていた寒気。それが、一層強くなる。
自分はチートだけの存在じゃない――ノーラに力を吸われた時、そう思ったはずなのに。
それでも、怖い、怖い、怖いのだ。己を守る鎧であり、外敵を屠る牙――それが、二度と戻らぬという事実が。
「おかしいと思ったことはないかな? 転移者は最強で、ぼくらが来るもっと前からこの大陸に居るのに――なんで大陸を制覇していないんだろう、ってさ。人間の国はおろか、それよりもずっと小さなエルフの国やドワーフの国すら無事なんだろうって」
個人主義だから?
自分が一番じゃないと満足できない奴ばかりだから?
「違うね。協力する奴も居るには居たんだよ――ただ、規格外に舞い上がって遊び呆けて、それに飽きた後に国取りごっこをしようとするから時間が足りなくなったんだ」
三年という時間は長いようでいて、しかし何かを成し遂げようと考えたら思った以上に短いのだ。
だからこそ、遊び呆けて無駄にした時間は、決定的なロスとなる。
「タイムリミットが訪れて、力が嘘みたいに掻き消えて――虐げた現地人や配下の転移者に逆襲されたり、逆襲されるのを恐れて逃げ出したりするワケさ」
その結果、転移者は『消える』のだ。
転移者が殺せば転移者同士の諍いと処理されるだろう。
だが、無双の力を持つ転移者が騎士でもない現地人に殺される――そんな事実、誰も信じない。
上手く逃げて現地人の村に溶け込めば、もう見つけることは出来ない。チートを失ったがゆえに力量も傲慢だった性格も激変し、仮に元知り合いが通りすがっても同一人物だと気づけない。
ゆえに、消える。
無双の転移者はそれこそ夢想の姿であったとでも言うように、歴史の表舞台から消滅するのだ。
「確か、君は二年前の春にギルドに登録したらしいね。けれど、今は冬。そろそろ今年が終わり来年に変わり春に至る! 仮にギルドに登録したのが転移直後だったとしても、もう数カ月しか君はチートを扱えない!」
ああ、怖い、怖い、怖い。
気を抜けば泣き叫んでしまいそうな恐怖が連翹を苛んだ。
明確なタイムリミット――それを突き付けられたせいで、気づかなかった不可視のギロチンがすぐそこまで迫っていることに気づく、気づいてしまう。
「だけど、レゾン・デイトルなら君を救えるんだ」
まるで傷つき倒れた者を救う聖人のような顔で、雑音は微笑んだ。
「レゾン・デイトルは実力主義でね。功績を上げた人間はちゃんと保護してあげてるんだ。裏切った君が連合軍の情報を流してくれたら――ああ、随分と大きな功績になると思うなぁ」
――それは。
それはそれは、甘い毒。心を蝕む甘美な誘惑だ。
ゆえに、一瞬、強く強く心惹かれ――
『大丈夫ですよ――ニールさんやカルナさんだって、きっと大丈夫』
震える背中にそっと添えられた感触を思い出す。
ノーラに規格外を吸わせて傷ついた村人を癒やした時に、そう言って安堵させてくれたノーラの姿が脳裏を過ぎった。
『――ごめんね。レンさん、ニールは任せたよ』
温泉街オルシリュームで、己の相棒を救うことを任せてくれたカルナの言葉を思い出す。
初めて心から頼ってくれたのを実感できた――その実感が、体を満たす。
『――ま、ともかく、よくやったな連翹。後は俺らに任せとけ』
ノーラに力を渡した後に、そうやって褒めてくれたニールを覚えている。
規格外を無くし、心身ともに弱っていた連翹を安堵させるように微笑んでくれた彼の顔が胸を満たす。
「――ッ!」
ああ――そんな風に信頼を、親愛も貰っていたのに、なぜこんな言葉に揺さぶられてしまったのだろう。
「嫌よ!」
おや、という雑音を睨み、叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ!
思い通りになんてなってやらないと、誰がお前と共に行くかと。
瞳から涙が溢れる。
それは、雑音の言葉に心を揺さぶられた自分自身の情けなさゆえに。
親しい友人たちの言葉を忘れ、目の前の男の言葉を信じかけてしまったゆえに。
情けない、愚かしい、みっともない。
こんな有様では、とてもではないが皆の隣に相応しい自分になどなれやしないではないか。
「貴方の口車になんて乗ってあげない、やるもんか! 確かにあたしは駄目な奴で、ニールを凄く傷つけたけど――それでも、皆は、そんな回りくどいことを、他人の気持ちを裏切るような真似しない! 絶対に!」
そうか――と。
雑音は笑みを消して、連翹の瞳をじいと見つめる。
だが、そんな圧力には屈しない。
どんなことを言われても、もう自分は揺るがない!
決意を持って睨む連翹を見て、雑音はしばし黙り込んでいたが――
「ふう……なら仕方ない。これ以上は無粋かな」
――ため息と共に、頭を振った。もう自分に出来ることは何もないとでも言うように。
その姿に安堵よりも警戒してしまう。
こんな簡単に諦めるはずがない、もっと何かがあるはずだ、と。
「なら、ぼくはここから去るとしよう――おっと、追いかけようなんて考えないで欲しいな。戦えばぼくは負けるだろうけど、スキルでエルフの一人や二人は巻き込んでやるからね」
「……分かったわよ」
去り際に奇襲をすれば――とも考えたけれど、相手だってそれを警戒しているだろう。
なら、最低限こちらが奇襲されないようにこちらに背を向けて歩く雑音の動きに注意する。それが今、片桐連翹が出来るベターな行動だろうと思った。
「おっと、そうだ。最後に一つ」
くるり、と振り向いた雑音に向けて、思わず剣先を向ける。
だが、彼は武器を構えることなく、何か道具を取り出すこともなく、柔らかく微笑んだ。
「気が変わったらいつでもこちらに来ていいよ。無理に誘うつもりはないけれど、そちらが望むのなら拒む理由はないからね」
それだけ言って、雑音は去っていった。もうここに用はないと言うように。
後に残されたのは連翹と、倒れたエルフたちだけであった。




