175/西部の戦い/王冠に謳う鎮魂歌/2-1
――――この程度、どうとでもなる。
外套をはためかせながら姿勢を制御しながら、王冠に謳う鎮魂歌は氷嵐を冷静に対処していた。
翼代わりの外套が風に囚われバランスを崩す? ああ、確かにそれは正しい。
嵐の中で形成される氷の壁が嵐から脱出するのが骨? ああ、それもまた正しい。
だが、それがどうしたのだと白き軍服を、同色の外套を翻す。
なるほど、その二つは確かに厄介だ。その事実に間違いはない。
けれど、それはバランスを崩すだけであり、脱出するのに手間がかかるだけ――時間さえかければ十分に対処可能なのだ。
無論、対処するまでは戦闘能力が減ずるのも事実。自由に飛行することが出来ず、下手に魔法スキルを放っても爆風が嵐と干渉して更にバランスを崩してしまう。ドラゴンの翼とブレスを無効化したに等しい。竜殺しを行う者にとって、これ以上はない好機となるだろう。
だが、ここは上空だ。吹き荒れる嵐の中だ。
弓矢や現地人の作った鉄砲モドキは強風でこちらまで届かぬし、他の魔法使いは軍勢の対処にかかりきり。不確定要素として連翹という現地人に与する転移者が居るが、それも仲間を守るので手一杯――上空に存在する王冠を攻撃する手段が皆無なのだ。
ゆえに、焦る理由はない。こんなもの、ほんの数分の時間稼ぎでしかないのだから。
(あの魔法使い――我が評価してやったというのに、最後の最後で選択を誤ったな)
しょせんは現地人、地球に比べ文化で劣る土人だ。猿山のボスが人間社会で何も出来ないように、現地人として優秀な彼も、転移者から見れば劣等だったのだろう。
侮蔑するように、見下すように口元を歪め――
「はは」
――不意に、笑い声が響いた。
王冠のモノではない。彼は、カルナに対し失望と侮蔑の感情を抱き、僅かに口元を歪めただけ。笑い声どころか、笑みすら浮かべてなどいない。
「はははは」
だが、笑い声は絶えることなく響く。
いいや、笑い声だけではない。硬い地面を蹴り飛ばすような音が、断続的に鳴っている。
その音源は不規則に移動しながら、しかし確かに王冠の元へ近づいてきている。早く、速く、疾く。
(――まさか)
視線を下に落とす。
嵐の中に、己の足元へ。
仮に、この氷嵐が時間稼ぎでなかったとしたら。
王冠に謳う鎮魂歌に対する攻撃、その下準備なのだとしたら。
翼代わりの外套が風に囚われバランスを崩す。
嵐の中で形成される氷の壁が嵐から脱出するのに時間が掛かる。
それら二つは、十分に対処可能なモノではなく――致命的な隙になるのではないか?
そして、もし何者かが近づいてきたら、戦闘になるのだとしたら。
高威力のスキルを使ってしまうと、硬直時間のせいで強風に乗り切れず、王冠は墜落する。実質、高威力のスキルの使用を封印されてしまっているのだ。
それは、王冠にとって最悪の立地であり。
けれど、敵対者にとっては最高の立地なのではないか?
「はははははははァッ! 捉えたぜ王冠ッ!」
氷壁が蹴り飛ばされる。
嵐で不規則に動き回るそれらを足場に、何物かが急速に間合いを詰めてくる。
ぞくり、とした。
己の支配領域を侵される困惑、そして恐怖。それが、胸の中に一滴。
「困惑、恐れ? 我がか? 我が――この完成した我が!」
それに対し思考が焼ききれるような怒りを抱きつつも、王冠は根本の部分においては冷静であった。
人間と感情は切り離せないモノだが、しかし感情に振り回されるのでは猿と変わりはしない。冷静に、己の利益のために、己の生命のために、思考を回す。
(遠距離攻撃の可能性は低い。つまりは――)
腰に差した剣を抜き放つ。
先程思考した通り、今現在王冠を狙い撃てる者は近くに居ない。
だとすれば――
「人心獣化流、跳兎斬――!」
――近接攻撃!
嵐を突き破る弾丸の如く宙を疾駆するそれが、王冠目掛けて剣を振るう。狙うのは首。一太刀で貴様の首を落とすという殺意を載せた一撃であった。
「ち、ぃい!」
寸でのところで刃を受け止め、しかし勢い良く弾き飛ばされる。
地に足が付いていれば現地人の攻撃など正面から受け止めることも可能だろう。しかし、ここは空の上だ。嵐の中だ。ゆえに大きくバランスを崩し、風に巻かれることとなる。
その無様さに苛立ちはある。
だが、それ以上に嵐の中を駆け回る存在に対する驚きがあった。
「氷壁を足場に、ここまで跳んで来たというのか! 翼持たざる身で、空の領域まで!」
交差の瞬間、その者の姿を視認した。
それは血塗れの死神を倒した剣士であり、けれど実力という意味では秀でたモノのない人物であった。
ゆえに、王冠は彼に重きを置いていなかった。こんな弱者に己の思考を割くより、騎士という現地人の強者や魔法使いなどを観察すべきだと思っていたからだ。
無論、死神を倒したという事実、それ自体は過小評価はしていない。
だが、どれだけ地を疾く駆けようとも、空を飛べるか対空攻撃を複数所有しているワケでもない限り己の敵ではない。これは実力云々ではない、相性の問題だ。
そう、思っていたのだ。
「見りゃあ分かんだろ! 元々俺は、こうやって駆けて、跳んで、たたっ斬るのが得意なんでなぁ!」
茶髪の剣士が――ニール・グラジオラスが歯列を獣の如くギラつかせた。
お前の喉笛を噛み切る、そう宣言するように。
◇
跳躍、跳躍、跳躍。
強風の中、極寒の中、氷嵐の中。
目まぐるしく変わる足場と王冠の位置を目視と気配と勘で把握し、ニール・グラジオラスは跳び続ける。
視界の先には王冠が居た。嵐の中にあっても外套を巧みに操り、姿勢を制御しこちらを睨みつけている。
「上等だ。一発で終わっちまったら、それはそれでつまらねえしなぁ――」
笑みを浮かべる。獲物を見つけた獣の如く、されど強敵と出会った求道者のように。
この男をさっさと倒したいという想いと、全てを出し切った末に勝利したいという願いが交差する。
無論、わざわざ戦いを長引かせるつもりも、相手に全力を出させてやる気もない。カルナの魔法がどのくらい持つか不明だからというのもあるが――戦う前に自分が有利になるように立ち回る技術も、戦う者として重要な強さなのだから。
「――行くぞイカロス。あいつを斬り殺す!」
一人の相棒が作ってくれた道を、一振りの相棒と共に駆け抜ける。
強風で体勢が乱れるが、問題ない。この程度でバランスを崩すような鍛え方はしていない!
氷壁を思い切り踏みしめ、全力で跳ぶ。衝撃で氷壁全体にヒビが走り、強風に耐えきれず砕け散っていく。
視界の端に映ったそれに構いもせず、ニールは一直線に王冠の元へと飛翔するように跳びかかる。
「イカロス? 太陽に近づき過ぎて落下した愚か者の名か。それを剣の銘にするとは、貴様は存外に自分の格というモノを理解しているのだな!」
忌々しげに吐き捨てた王冠がニールの刃を受け止める。凍えた嵐の中、火花が舞い散り、しかしすぐさま凍てついていく。
重力に引かれ始める体を制御し、手近な氷壁へと落下、すぐさま跳躍し不規則に跳ね回る。
停止してはいけない。停止すれば敗北するのはニール自身だ。
スキルの発動条件は目視と発声、そして姿勢だ。だからこそ、高速で立体的な軌道を行い続け、目視の段階を可能な限り潰す。
だが、それ以上に単純な理由があった。
(氷壁を跳躍のために蹴り飛ばすことは出来ても、着地して立ち止まることはできねぇ。そんな風に、この魔法は作られてねえからだ)
ゆえに、体力が尽きるか脚を損傷してしまったら――ニールは墜落する。そうなれば待っているのは死だ。
ニールは転移者でもなければ、現地人の中でも飛び抜けて体が頑丈なワケではない。空から地面に叩き落されれば、どうあっても墜落死は免れない。
(はっ――だからどうした!)
強敵と戦うためにリスクを背負う――そんなことは当然のことだ。そもそも、何も賭けずに自分よりも強い敵を倒そうと思う方が、よっぽど頭がおかしいではないか。
自分が戦える舞台は整えて貰った、相手の力も出来る限り削いだ、その上で失敗したら墜落して死ぬ。非常にシンプルだ、分かりやすい!
氷壁を蹴り飛ばし、立体的な機動で、変則的な動きで王冠に迫る。視線を切り、スキルを封じ、首を断つ!
「やはりな、貴様の剣は騎士ほど冴え渡ってはいない、転移者のスキルほど鋭くはない。せいぜい、脚が他者よりも強いくらいか。その程度で、我を殺すと吠えるか――身の程知らずめ!」
だが、金属音と共にニールの刃は受け止められる。
ちい、と舌打ちをした後、王冠を怒鳴りつける。
「ペラペラうるせえんだよ! 身の程知らず? 馬鹿か、そんなもん自分が一番知ってる!」
騎士よりも弱い? 転移者のスキルで放つ剣技よりも自分の剣は鈍い?
そんなこと、全て全て承知の上だ。
剣を振るえば振るうほど、自分よりも上手い人間がどれだけ居るのかが見えてくる。ニール・グラジオラスという男は、平々凡々な男でしかないのだと、他ならぬ自分自身の弱い心が囁き続けるのだ。
そうだ、どれだけ鍛錬しても手が届きそうにない達人が居た。
師匠が、アレックスが、ゲイリーが、ノエルが、他にも沢山の剣士が居た。
その戦いぶりを見て、模擬戦でその技を受けて、どこまでやればあそこに辿り着けるのか分からなくなることもある。
そんな時、時々聞こえる声があった。
あれは才能のある連中だから仕方ない、身の程を知れよ――そんな風に、弱い、けれど賢しく立ち回ろうとするニール・グラジオラスの声が。
だが、それでも。
「それでも! その身の程を! 『俺はその程度だ』って考えを認めたくねえからここに居る! それをテメェを倒すことで証明してやるよ王冠に謳う鎮魂歌!」
「夢想家の愚者め! いいだろう、我という輝きを持って貴様の希望を溶かし、地面に叩き落としてくれる!」
「ほざけ! この翼が溶け落ちるのは今じゃねえし、それを成す太陽はテメェじゃねえ! 俺とカルナが紡いだ蝋翼は、お前如きじゃ溶け落ちねえんだよ!」
加速する、加速する、加速する。
体力など考えない。余力など残さない。ただただ全力で、全霊で、目の前の男を仕留める。それだけを考えて体を動かし、剣を振るう。
「忌々しい蝿が――『ファイアー・ボール』!」
「――ッ」
外套を大きく靡かせながら王冠が叫ぶ。産まれ出た火球は凍えた大気を焼き払いながらニールへ向けて飛翔する。
既に目が慣れ始めているのだ。ちい、と小さく舌打ちをしながら跳躍、跳躍、跳躍――氷壁から氷壁へと連続して移動し、爆発の範囲から離れる。
(レオンハルトの時みてぇにはいかねえか……!)
この氷嵐は、かつてレオンハルトに対して使った対転移者戦法、その発展版だ。
不規則な動きをする氷壁を足場に、立体的な軌道で目視を避けながら一撃で首を断つ――スキルを使う間もなく殺すための戦法だ。
あの時はニールの技量では、その時使っていた剣では転移者の肌を貫けなかった。だが、今回は違う。攻撃を当てさえすれば致命傷を与えられる。
ゆえに、カルナは二人なら勝てると言ったのだ。
規模こそ大きくなったが、やることは変わらない。
順当にやれば勝てる、そう言ったのだ。
だというのに――殺しきれていない。それどころか反撃さえされている。
(こいつ――動き慣れてやがる!)
転移者の多くは書庫で本を読むような人間に力を与え、無理矢理に戦士の領域まで引き上げられている――そんな者が多い。
だが、王冠は違う。
確かに戦う者では無かったのだろう。戦士でもなければ魔法使いでも、ましてや戦術家でも無かったはずだ。
だが、咄嗟の行動や平衡感覚、そして防御のために振るう剣――そのどれもが高水準に纏まっている。
それは戦士としての鍛え方ではなく、貴族が己の体を美しく整えるモノのようではあるが――これもまた一つの努力の形であろう。
「――だが、解せねえな。なんでお前、転移者になった?」
間合いを詰めながら問いかける。
言葉と共に刃を振るう。だが、王冠は外套を巧みに操り、ふわりとした動作でニールの攻撃を回避する。
「なぜ、とは意味が良く分からんな」
「俺が出会った転移者のほとんどは元の世界で成果を残せていない連中だったり、何らかの理由で夢を断たれた連中だった。だが、お前は違ぇだろ」
軍勢を指揮するカリスマ、そして剣を交えて実感する彼の積み上げてきたモノ。
それらが元の世界で全く通用しなかったとは、どうしても思えないのだ。
そして、だからこそ解せない。
『私たちは神の声を聞き、それに頷いてこの世界に転移した。無理やり連れられて来たわけでも、死んで否応なく転生したワケでもない。自分の意思で、この世界に逃げ込んだのだ』
オルシジームで出会った転移者はそう言った。
創造神と出会い、会話し、転移することを受け入れたからこの世界に来たのだと。
だがそれは、元の世界で積み上げてきたモノを捨て去り、この世界で新たな生き方をしろという意味だ。
元の世界で何も成していない、または成せなかった者ならば、別世界に逃げる意味は分かる。
またはアースリュームで出会ったサッカー好きの青年のように――夢に必要なモノを失ってしまった者ならば、理解は出来なくもない。
だが、目の前の人物はそのどちらでもないだろうと、ニールは思うのだ。
「元の世界でも十分成功できる人間じゃねえか、なんでわざわざこの世界に来やがった?」
「――――答える義理は、無い! 『ファイアー・ボール』」
しばしの空白と拒絶の言葉。
しかし、それは何よりも雄弁に語っていた。
彼は、救われるためにここに来たのだと。神楽崎逢魔などと名乗った転移者の言葉通りに。
『だからこそ、分かる。転移者は救いを求めてここに来たのだ、救われたいと願いここに来たのだ。――――私も、そうだった』
元の世界に耐え難い何かがあったのだと。
だからこの世界に来たのだと。
痛みから逃れるために、救われるために。
「そりゃそうだ――な!」
だが、相手がそれを語る気がないのなら、わざわざにその傷を、痛みの元をどうにかしてやろうとは思わない。
胸の中に浮かんだ疑問を捨て去り、ニールはファイアー・ボールを回避しながら王冠へと間合いを詰めていく。
王冠の眼が細められる。芸のない、とでも言い出しそうな顔でニールが攻撃するである場所を予測し、剣の腹を向ける。
「お――ラァ!」
それに対しニールは剣を振るう――何も無い、空中で。
斬撃の勢いでぐるりと回転すると、その勢いのまま王冠の剣へと踵を叩き込んだ。相手を地面に叩き落としながら、ニールは僅かに跳躍する。
「な――ちいっ……!」
それは驚きの声であり、自分自身の間抜けさを罵倒する音だ。
跳躍して斬撃、跳躍して斬撃――それを繰り返され、意識を剣に引っ張られたと。
「強い。やっぱお前は強い――それは間違いじゃねえよ」
転移者になる前から頭の回転は早かったのだろうし、体も見栄えがするように鍛え上げていたのだろう。
それに規格外という力が付与された結果、己の戦いに不利な場所に誘い込まれても戦えているのだ。
「だがお前は戦士じゃねえ、戦う者じゃねえ、敵と命を削りあった経験がねえ! だからこんな簡単な誘導に引っかかる!」
己と同等か、それ以上の存在と戦った経験が圧倒的に不足している。
レゾン・デイトルの幹部は一度、レゾン・デイトルの王とやらに敗北しているらしいが――その一回を含めても、敗北の数は多くてニ、三回程だろう。拮抗した戦いを含めたとしても、五指で数えられる程度なのではないだろうか。
ゆえに、拮抗した戦いの中で使われる絡め手に弱い。
その手の計略に疎いニールですら、騙せてしまう程に。
――ぐらり、と僅かにバランスを崩す王冠を見下ろす。
彼を、彼の剣を踏み台にして跳躍したニールは、剣を構え直し――自由落下。なんとかバランスを整えようとする王冠目掛け、落ちる、落ちる、落ちる。
「舐めるな――現地人風情がぁ! 『ライトニング・ファランクス』!」
されど生み出された無数の雷槍がニールの行く手を阻む。
このまま直進すれば全身を穿たれ、雷で焼かれ、惨めな焼死体と成り果てるだろう。
だが、そのくらいは――予測済みだ。
「お前こそ舐めるんじゃねえ――よ!」
空中で回転する氷壁をつかみ取り、剣の腹でそれを叩き落とす。
雷の槍は氷に妨げられ――爆砕。雷と氷の破片が舞う空を、突き抜けるように落ちていく。
(今だ――行ける!)
そのまま、一気に剣を振り下ろし、終わらせる!
そう思った瞬間、ちり、と右目を苛む痛み。それに、僅かに体勢を崩してしまう。
(糞――ミスった!)
砕けた雷、それが瞳に入り込み、僅かに眼球を焼いた。
氷と雷の破片の中を突っ切ったのだ、本来ならその可能性も考えておくべきだったが――この一撃で倒せるという思考が、それ以外の思考を鈍らせた。完全なる失態だ。
なんとかバランスを整えながら、無事だった左目で王冠を視認し、剣を振るう。
だが、こんなもの苦し紛れの一撃だ。勢いが乗り切っていない、全力を込められていない、間合いの把握も甘すぎる。
己の間抜けさに舌打ちをしながら王冠を睨む。こちらを見上げる王冠の顔を目指して疾走する刃は、しかし剣先で表面を撫でるだけに終わる――
「ひ――」
――それは。
それは、王冠の口から響く音の中で、初めて聞く類のモノであった。
「――や、めろ。やめろぉ!」
それは心の底からの怯え。泣き叫ぶような、震えた声。
傲岸不遜な物言いしかしてこなかった彼の口から漏れ出すには不釣り合いなそれと共に、王冠は己の顔を両手で覆った。
「な――!?」
刃が走る。顔の表面だけを薄く切り裂くはずだった刃が、王冠の両手を切り裂いていく。
右手が半ばから断たれ、左手の指もいくつか切断され、地面へと落下する。無論、彼が握っていた剣も、また。
(なんだ? 何を考えてやがる?)
顔を僅かに斬られるのを防ぐために、己の手と剣を犠牲にした。意味が分からない、道理が通らない。
どちらも治癒の奇跡で問題なく治癒できる範疇の傷ではあるのだろう。顔面を切り裂かれた結果、血液が目に混入し視界を奪われるという可能性もある。
だが、それを考えても戦いの場で両手を失うというデメリットの方が圧倒的に大きい。事実、彼はもうこの戦いで剣を振るうことが出来ない。ニールの斬撃を迎撃する手段が激減してしまっている。
ゆえに、ニールが想像するのは罠。
両手を捨てることでこちらの油断を誘い、後に必殺の一撃を放つための布石だと考えた。そうでなければ、説明がつかない。
手近な氷壁を蹴り飛ばし、即座に上へ上へと跳んでいく。必殺の一撃が近接攻撃か遠距離攻撃かは分からないが、位置の優位を取って回避の機会を伺う。
「嗚呼――無事だ、無事だ、無事だ。我は――無謬のままだ」
だが、王冠はニールなど一瞥すらしていない。
ただ――べたり、べたり、べたり、と。
血が垂れ流される両手で、指の欠損した手で、王冠は己の顔を確かめるように触っている。ガラス細工の宝物を愛でるように、慰撫するように。
己の顔を己の血で染め、恍惚とした笑みを浮かべるその姿は一種の恐怖演劇のようであり、けれどどこか倒錯的な魅力に満ちあふれていた。
(……おかしい、どういうことだ、なにがどうなってやがる?)
戦いの場で突如として行われる奇行に、ニールは混乱する。
眼前の人物の行動が、全く理解出来ない。これからどう動くのか、すらも。
だってニールの目には、自分の顔を必死に守って、顔に傷一つない事実に心底安堵しているようにしか見えない。傷程度、治癒の奇跡ですぐにでも癒せるモノだというのに。
(いや……待てよ)
青葉薫。一時期レゾン・デイトルに居たという少年が、幹部について語ってくれたことがあった。
その時、確か『王冠は治癒の奇跡を嫌う』と、『自分に対し奇跡を使おうとした神官を爆殺した』と。
(治癒の奇跡を嫌ってるから、自然回復できねえ傷を顔に負いたくねえから、必死に庇った?)
なるほど、それなら先程の行動も理解は出来る。
だが、なぜわざわざそんな意味のないことを、という疑問は無くならない。
自分の顔に自信を持っていて、それを傷つけられることを嫌う――それ自体は理解できる。
けれど、だからこそ治癒の奇跡を嫌い、拒む理由が皆無だと思うのだ。どんな考えで治癒の奇跡を拒絶しているのかはニールには分からない。しかし、大切なモノを守るためなら多少の不利益は飲み込む必要が――
(……違ぇな。『逆』か)
大切なモノを守るために、不利益を飲み込んだ結果が今なのではないか?
王冠と戦ったから良く分かる、彼は優秀だ。ならば当然、治癒の奇跡という力の有用性も認めているはずなのだ。
だというのに治癒の奇跡を拒否しているのは――大切なモノを守るために必要だからなのではないだろうか。
もしそうだとしたら、
(一つ、思い至るモノがある)
それは連翹と雑談していた時に聞いた言葉だ。
この世界には存在しない――いいや、この世界では全く意味のない技術の話である。




