159/街壁上で
ブバルディアの街壁にそって一周。
連翹自身が定めたそれは校庭一周などと比べ物にならない距離で、もしもチートが無ければ涙目で悲鳴を上げるだろう。
けれど、そのくらいの距離じゃなければ疲労はしない――そう結論づけてからしばし。おおよそ半分の距離を走破した頃に、ふと疑問が湧いた。
――――そういえば、転移者の体でランニングとかして体力が付くんだろうか? と。
風を切って走る今、疲労感などほとんどない。けっこう走ったのに息も乱れず、いつまでも走れそう。
だが、それでいいのか? と思うのだ。
(……こういうのって体に負荷をかけるからいいって話もあるし)
たとえば普通の――十キロ未満のダンベルがあるとしよう。
普通の人ならそれで十分トレーニングになるのだろうが、ボディービルダーがそれを使って効率の良い鍛錬が出来るかと言うと微妙だと思う。
もちろん、連翹はトレーニングなんてまともにしたことがない。運動なんてせいぜい体育の時間に強制的にやらされてたくらいだし、経験も知識も存在しないから、その結論が合っているかどうかも分からないのだけれど。
(こういうのって、ニールに聞けば分かりそうだけど)
でも、彼はあまり連翹に教えたがらない。
鍛錬には付き合ってくれるし、最低限の知識や致命的な間違いなどは色々と口出ししてくれたりするけれど、それ以上はほとんど教えてくれない。
うーん、と唸り声を漏らしながら、腕を振って前へ前へ。
効果があるかどうかは怪しいこのランニングだが、それはそれとして気持ちいいと思う。風を切って走るこの感覚はなかなか悪くないし、体もポカポカとしてくる。
スポーツが好きな人の気持ちが少しだけわかった気がした。言ってしまえばゲーマーなんかと同じだ。好きだから遊んで、練習して、どんどん実力が付いて来るのだろう。
「あれ?」
先程の悩みを「まあ、後で誰かに聞けばいいや」と棚上げして走っていると、視線の先――街壁の上に誰かが座っているのが見えた。
自警団だろうか、それとも連合軍の誰かか。
そのようなことを考えながら近づき――
「あ。……おーい、おじさーん! 貴方なにやってんのそんなとこでー!」
――予想したどちらでも無かったが、見知った顔なので声をかけた。
大陸風のシャツとズボンに着流しを羽織った壮年である。そのくせ腰に差しているのは普通の長剣で、日本かぶれ――この世界では日向かぶれか――のおっさんにしか見えない。
その彼は、街壁の上に腰を降ろし、何かを見下ろしているようだった。
「ん……ああ、あん時の嬢ちゃんか! どうした? 上に登りたいならもう少し先に行けば階段があるぞ」
連翹の声に気付いたのか、こちらに顔を向けながら手元のグラスらしきモノをくいっと呷る。
なんだろう、お茶でも飲んでいるのかな? そう思いながら、連翹は首を左右に振った。
「大丈夫、ちょっと登るくらいなら簡単よ簡単!」
力強く地面を蹴り、街壁へ向けて跳躍する。
しかし、さすがに上までは届かない。壁にぶつかる軌道を描く連翹は空中で姿勢を制御し、街壁に着地。重力に引かれ落下するよりも先に壁を蹴り、今度は目の前の家屋――その煙突に足を載せ、再び街壁へと跳躍する。
外壁を跳び越えふわりと宙を跳んだ連翹は、そのまま街壁上に着地する。たんっ、と靴底が石を叩く音が響く。
「壁ジャンプからの、着地! 見事な三段跳びだと感心するがどこもおかしくはない! ……あ、やばい、これほんと凄く楽しい。イヤッフー! とか、イッツミーレンギョウ! とか言った方がいいかしら!?」
ミスター・ビデオゲームみたいな動きを自分自身が出来るとは思わなかった。これも、最近の鍛錬で足さばきとかバランスを強化したおかげだろうか。
だが、感動の壁ジャンプの観客たる壮年は「あー……」と呟きながらその表情に呆れを滲ませていた。
「どうでもいいが、丈が長いとはいえスカートで飛び回らん方がいいぞ。ばっさばっさ捲れて、派手に白色が露出していたぞ」
若い娘なんだから恥じらえ、という彼の言葉に慌ててスカートの裾を抑える。だが時既に時間切れ、もうパンツ見られてるから。
「……見たの?」
「そりゃああんだけアクロバティックに動いて、しかもあんな上までジャンプしたんだからな。スカートが中身を隠す仕事を放棄していたぞ」
むしろなんで見えないと思った。カラカラと笑いながら小さなグラス――いいや、あれはお猪口だ。お酒が注がれたそれを、ゆっくりと傾けている。
彼の隣にあるのは日本酒――いや、この世界では日向酒なのだろうか?――であり、それをお猪口に注ぎゆっくりと味を楽しむように飲んでいるようだ。
「なに、あたしのスカートの中を肴にお酒飲んでるの? 見事な変態だと罵倒するが何もおかしくないタイミングよね!」
「なんだその発想、嬢ちゃんの方が変態だろう。生憎と、壁に登ってきゃっきゃとはしゃぐ子供相手には欲情したくても出来ねえよ」
スカートの裾を抑えながら怒鳴りつけたら変態扱いされた、解せぬ。
その様子に頬を膨らませていると、もうちょい女らしい立ち居振る舞いを学んでから出直してこい、と鼻で笑われた。
それに安心半分、全く魅力ないと言われているようで悔しさ半分を抱く。畜生と思う反面、ドキドキ大興奮もうおかずに困らない! とか言われなくて良かったとも思う。
「それで……こんなとこで一人寂しくなにやってたの? 風邪引くわよ」
よいしょ、とその場に腰を降ろしながら問いかける。
実際、こんな時間になにやってんのこの人、と思うのだ。月見酒みたいに外で飲むお酒が美味しいというタイミングはあるとは思うが、それは少なくともそれは今じゃないと思う。
うーん、としばし悩み――思いついた。
「ああ、あれね! これから働こうとする人を見下ろしながら飲む酒はうめぇとかそういうワケね! 中々に畜生ねおじさん!」
「真っ先にその発想をする嬢ちゃんの方が畜生だろう」
物凄い呆れられた、解せぬ。
そんな連翹を見つめながら、壮年の男は大きくため息を吐いた。
「……全く、これが転移者の姫にして不沈の盾の乙女だとか言われてるんだから、人の噂なんぞアテにならんな」
「いや、確かに不沈の盾云々はハッタリのために名乗ったけど、さすがにそれに乙女とか付けてないんだけど。というか、さすがに姫って呼ぶのはいかがなもんかと思うのよね……と、話が逸れたわね。それで、なんでこんなところで寂しく一人酒なんてしてるのよ」
「ああ――理由はあれだ」
彼が指差す方に視線を向けると、そこには野営地があった。
昨日の戦闘のためあちこちがボロボロで人気もほとんどないそこに、天幕が一つ。その周りに焚き火と二つの人影が見えた。
流石に遠すぎてよく分からないが、きっと素振りをしている男がニールで、焚き火の前で何か調理をしているのがガイルだろう。
(……ちゃんと仲良くしてるみたいね)
表情や会話などは全く分からないが、それでも距離感からそこまで険悪な雰囲気ではないことくらいは察せられた。
その事実に、少しホッとする。
ニールと父親の関係がどうであろうと連翹には関係ないけれど、しかし友人が楽しそうだと嬉しいのだ。
自然と顔がほころび、その様子を見た壮年の男が楽しげに笑う。
「顔出しついでに酒でも飲み交わすかと思ったんだがな。だが、久々の親子水入らずの機会だ。邪魔しちゃあ悪かろうよ」
「だからこんなところで?」
「そういうことだ。あいつら見ながら酒飲んでたんだが、途中からそれとは関係無しに飲んじまってな――ご覧の通り、夜が明けちまった」
そう言ってカラカラと笑い、酒を一口。
楽しそうだな、と隣に座る連翹は思う。無論、酔っぱらいは概ね楽しそうなモノだが、それを踏まえてもなにか良いことがあったのかなと思う笑みを浮かべている。
そのことをからかってやろうかと口を開きかけ、ふと気づく。
(あれ――そういえば、あたしこのおじさんの名前知らない)
考えてみれば最初の出会いは戦いの場で、互いに自己紹介する暇なんてなかったし、インフィニット・カイザーの登場でうやむやのまま別れたような気がする。
やばい、どうしよう、今更名前を聞くとか、超失礼案件ではなかろうか――!?
「ねえ……ええっと……ニールのお師匠様? やっぱり、弟子が幸せだと嬉しいの?」
だから、色々と誤魔化しつつ、会話の中で名前を聞けたらラッキーかもという作戦を実行する。頑張れ連翹、なせばなる! きっと、たぶん。
「名前が分からんのなら素直に聞け。というかだな、名乗ってないのだから知らんのは当然だろう」
けっこう頑張って誤魔化したつもりなのに、一発でバレた、解せぬ。
「ジャック・コックスコームだ、好きなように呼ぶといい――あと、顔に出まくってるから嘘や誤魔化しはしないことをおすすめしておくぞ」
「ええぇぇ……。最近、そこら辺上手いんじゃないかな、って思ってたのに。ほら、街門では華麗にハッタリ決めて相手の足を止めたじゃない」
「らしいな。……その辺りは、嘘と演技の差だろうさ。教えてるガキに似たようなのが居るぞ。嘘つくのはヘッタクソな癖に、フェイントで相手を騙すのは同年代で一番上手い奴がな」
そこら辺は当人の気質にもよるんだろうな、とジャックは呵々と笑った。
「さて、さっきの話だが――ま、馬鹿な子ほど可愛いってのと同じでな。手ぇかかった馬鹿ほど、真っ当に生きてるのを見ると楽しいと思う」
「なんかすっごいおっさん臭いセリフね」
「見ての通り、まだ若いなどと言い張れる歳でもなくなったからな。ここまで来れば開き直っておっさんをやってやるさ」
若いつもりの年寄りなんぞ惨めなだけだからな、と。
快活に笑うジャックではあるが、その眼には一抹の寂しさが浮かんでいた。視線の先に居るニールを見ながら、もう戻らぬ過去を想起しているのだろうか。
その気持ちは、少しだけ分かる気がする。中学生の頃、かつて通っていた小学校を通り過ぎた時、ほんの少しだけ寂しいと思った覚えがある。良い思い出と悪い思い出が泡のように脳内に浮かび上がり、しかしもう二度とあそこで似たような経験をすることはないのだと。
「それじゃあ次は儂だ」
「え、質問。別にいいけど――スリーサイズとか下着の色とか聞いても答えないわよ」
「そんな貧相な体に興味はないし、下着に関しちゃ自分で晒してたろうに。それより、先程は熱心に走っていたようだが、どこかに行く用事でもあったのか? ならこんなおっさんに関わってないで急ぐといい」
「違うわ。トレーニングよトレーニング……まあ正直、意味あるのかなーと不安になってたんだけど」
そこまで言って、ふと思いつく。
そうだ、この人はニールの師匠ではないか。なら、鍛錬の方法くらい教えてくれるはず。
そう思った連翹は転移者のスキルの動きを真似したりしていること、体力向上のために走り込みしてみたこと、そしてニールがちっとも具体的な指導をしてくれないという愚痴などを語った。
「ほう、馬鹿弟子ではあるが師の言葉を忘れるほど馬鹿ではなかったか。重畳、重畳」
「まあね。家族のことと言い、馬鹿なくせに変なとこで義理堅いんだから」
「親の影響だろうな、その辺りは」
ああ、と納得する。
「さて、鍛錬についてだが――嬢ちゃんに小技を仕込んだところで扱えんだろ。習得する時間も無ければ、それを上手く戦術に組み込む経験もない」
よいしょ、とジジ臭い掛け声と共にジャックが立ち上がった。
「だから――嬢ちゃんに与えるのは、危機感だ」
危機感?
そう言って首を傾げ――――
『死ぬ』
ただ、そんな直感だけが全身を動かした。
「―――ッ!?」
――――地面を蹴り、街壁上を転がりながら距離を取った。ぶわぁ、と冷たい汗が吹き出す。
なんでかは分からない、どうしてかは分からない。
けれど、あのままあの場に留まっていたら『死ぬ』と。理屈も理性も関係なく、己の体が、心が訴えかけてきたのだ。
「ふむ、拙いが悪くない――素人臭いが、しかし経験が皆無というワケでもないようだ」
だというのに、鮮烈な死のイメージを与えてきた壮年の男――ジャックは一歩たりとも動いていない。先程の雑談と変わらず、お猪口を傾けて酒を楽しんでいる。
「はっ――な――に――」
困惑の声も、怒りの言葉も、何一つ言葉にならない。喉は引きつったように動かず、喘ぎめいた吐息となって口から漏れ出るばかり。
その様子を観察しながら、ジャックはゆっくりと立ち上がった。
「転移者を何人か見ているが、その多くに危機感が足りていない。善人、悪人、中庸、性質は違えど根本は戦いをどこか他人事のように見ている」
言って、酒を瓶ごと呷る。
にい、と笑った彼は空になった瓶を掴み、まるで剣でも突きつけるようにこちらに向けた。
「己が舞台の主演であり、世界は書割で、他は自分を引き立てる演者――もっとも、ここまで極まってるのは昨日襲ってきた阿呆どもくらいだが、しかしどの転移者も多かれ少なかれそういった要素がある」
無論、嬢ちゃんもな、と。
「己が憧れた舞台に立った高揚――ああ、それ自体は悪くない。実際、この世界の人間とて、剣を持ってモンスターと戦うことに高揚する者は多い。ああ、まるで物語みたいだ! ってな」
だが、過ぎれば毒なのは万物の理だ、と。
ジャックはそう言って構えた。獲物は酒瓶であり、それで力いっぱい殴られても転移者の体であれば致命傷にはなるまい。
けれど、ああ、けれど――それでも、怖いのだ。
気を抜いたら『斬り殺される』と、そんなことを考えてしまう。
「だが――なるほどな。あのクソ真面目な騎士なんぞと一緒に居るだけはある。ちゃんとこの世界に立脚しているみてえだな」
彼はどこか満足そうな顔をして頷く。
「阿呆な連中なら、これを長剣でやってもへらへらとしてやがる。なんか強そうだが、まあ自分ならなんとかなるだろうってな。場合によっちゃあ、なんも感じないでぼけっとしてる奴とかも居るな」
根本的に他人事なのだ、とジャックは語る。
目の前の敵も、隣の誰かも、頭上の空も、踏みしめた大地も、全て全て全て。
だからこそどれだけ強い相手だろうと、自分自身に危機が迫っていようと気づかない、気づけ無い。
「その辺、嬢ちゃんは合格だ。ちゃんとこの世界を絵空事か何かなんぞではなく、現実の世界だと受け止めている」
「そ――れは、どうも……?」
僅かに落ち着いてきた喉と鼓動を確かめるように、ゆっくりと応える。
「だが、それだけでも駄目だ――怖がって震えるだけじゃあ、ただの的だ」
一歩。
ジャックは前に出て、酒瓶を振りかぶる。
それだけだというのに怖いのは、きっと彼の全身から発せられる殺意のせいだろう。お前を殺してやるという濃密な感情が、連翹の肌を凍えさせる。
「戦いってのは要するに削り合いだ。体力を、精神力を、肉を、骨を――刃で削って削って、細く脆くなった命をへし折るモノだ。当然、戦えば戦うほど、己の体は削られていく」
ぶん、と一振り。
鋭い動作ではないのに、それが一撃必殺の攻撃に思えて、慌てて距離を取ってしまう。どさり、とバランスを崩して尻もちをついてしまうが、その無様な己を恥ずかしがることすら出来ない。
そんな連翹に対し、ジャックは睨みつけるように瞳を細める。
「削られることに慣れておけ。傷を負っても戦えるように、精神が摩耗しても集中力を絶やさぬように」
言って、踏み込む。踏み込んでくる。
濃密な殺意はまるでレーザーポインターの光が如く明瞭に、次にどこを攻撃するのかを宣言している。ああ、次は脇腹だ。なぎ払い、叩き、砕き、殺すぞ。彼はそんなことを一言も口にしていないというのに、なぜだか分かる。
大ぶりで、見切りやすくて、しかも当たってもきっと大したダメージにはならない。
理性では分かってる。いきなりなにするのよ、と怒鳴ってやれと冷静な自分が叫んでいる。
けれど、本能だけは今も叫んでいる。
動け。戦うにしろ撤退するにしろ、足を、頭を動かせと。でなければ死ぬと。
「ん、のっ……!」
ぶおん、という大ぶりに薙がれる酒瓶を避けて、考える。考える、考える、考える。
この体を凍えさせる恐怖こそが真実なのか、それとも理性が語る余裕こそが真実なのかを。
もちろん、頭では分かっている。確かにジャックは転移者を切り捨てられるくらいに強い剣士だ、実力があることは間違いないだろう。
けれど――そんな人間とはいえ、酒瓶如きでは転移者にダメージを与えられない。強い弱いの問題ではない。どれだけ鋭い一撃を打ち込もうと、武器が持たないのだ。
だから、ガードすればそれで終わり。
でも、それでいいの? 本当に?
「――分からなくなるだろう?」
不意に、ジャックは体を弛緩させた。
殺気も、肌に伝わる恐怖も、全て全て、白昼夢か何かだったかのように掻き消えていく。
「実際、転移者をこんな酒瓶で殴った所でどうにもならねえよ。まだ拳を闘気で強化して殴ったほうがマシだ――その程度の理屈は、嬢ちゃんも分かってたろ?」
「う、うん、それは――まあ」
ジャックの言うとおり、その程度のことは分かっていた。
分かっていたけど、分からなくなっていたのだ。
「だが、分からねえ。いや、分からなくなるんだ、これが。戦いの最中じゃあ、どうしたって冷静な判断なんぞ出来なくてな。その時は大真面目で考えていても、後々思い返してみりゃあ噴飯物の間抜けを晒してることも多い」
「……まあね、その辺りよく分かるわ」
落ち着いて考えてみると、なんであんなに必死に逃げ回っていたんだ、と自分で自分を罵りたくなる。
余裕で対処できることだった。回避も楽に出来たし、酒瓶が直撃してもちょっと痛いくらいでダメージはなかったろう。
「一度経験したから次からは平気、なんてこたぁ言わねえがな。けど、次からはまだマシな動きが出来るだろ。そのマシになった分で助かるかもしれん」
「まあ、確かに教えてって言ったのはあたしだけど――これ、トラウマになりかねないんだけど」
分かりやすい程に濃厚な殺意。それを思い出すだけで心臓の鼓動が少し早くなった。
今、目の前で優しげに笑っている姿を見たからこそ分かる。あの殺意は――わざとらし過ぎる程に『らしい』殺意は、連翹に刻み込むためのものだと。
「これがトラウマになるのなら、戦うことなんてやめておけ。チートだかなんだか知らんが、戦いに向いてない奴を強引に強化したところで、無駄に力を持った戦いに向いてない奴になるだけだ」
戦えない奴がわざわざ戦う必要はないだろう、と。
「どれだけ特別な力を得ても、それを使うのは己自身だ。ちゃんと身の程を知れ。そして、それが気に入らんというのなら乗り越えてみせろ」
「身の程を知れって話はよく聞くけど、乗り越える?」
あまり聞き慣れない言葉なだ、と思って問いかける。
「ああ。今の自分と、困難を乗り越えるために鍛え上げた自分は別物だ。だからこそ現状の身の程を知るのは大事なんだよ。乗り越えるべき壁を理解するからこそ、それを乗り越えるために努力することが出来るんだからな」
ゆえに、身の程は知って乗り越えるモノなのだと。
「嬢ちゃんもきっと、自分はこの程度の人間なのかって失望する場面があるだろう。今も、昔も、そして恐らくこれからもな」
言いたいことは、分かる。
他人を嗤う誰かが嫌いで、けど無意識に似たようなことをしてしまう自分に失望して――そうやってる間に地球では友達付き合いがなくなっていた。
他人は皆、駄目で、嫌な人間で――自分もまたそうであると思って。
身の程を知って、受け入れて、ずぶずぶと底なし沼に沈むような生活をしていたように思える。
「そんな自分が嫌なら、乗り越えるために立ち上がれ。受け入れてもいいってんなら、上目指すんじゃなくて他の道を選ぶといい。なにも上を目指すだけが人間の生き方じゃねえわけだしな」
むしろ、自分の限界を知ってからこそ本番なのだとジャックは言う。
それは体も、そして心も。
「ま、もっとも――それだって容易いことじゃないがね。だが、そこら辺は仲間に助けて貰え。なに、人間なんて群れて生きる生き物だ。誰かの手を借りることは、そんなに恥ずかしいことでも惨めなことでもねえよ」
そう言って、彼はお猪口に酒を注ごうとして――酒瓶が空であることを思い出して顔をしかめるのであった。




