134/オルシジーム最後の夜
木漏れ日の光が茜色に染まり、街全体が静かに夜の準備を始めていく。
家路に帰る子供、夕飯の支度をする女、あと少しだと仕事のラストスパートにかかる男。転移者の襲撃によって崩れたモノも多いが、しかし変わらぬ景色がそこにあった。
それを見下ろしながら、連翹は今日のことをノーラに話していたワケだが――
「や……やっぱりレンちゃんの方が色々女の子としてちゃんとしているような……? いや、やるべきことがあったから今日は別れたワケですけど。でも、わたしたちよりレンちゃんたちの方が色々男女として真っ当なお付き合いしているのはどうなんだろう……!?」
(今日の出来事をノーラに話したら、なんか破壊力ばつ牛ン! なダメージを受けてベッドに突っ伏した。解せぬ)
なんだろう、ノーラが付けている篭手が霊樹とはいえ木製だし、なんか火属性な言葉を使ってしまったのだろうか。火属性の言葉ってなんだろう、とは思うけれど。
けれど、言葉から察するに、告白オッケーした後だっていうのに一人で――いや、ミリアムは居たらしいけれど――行動しているのを省みて、ちょっとどうかと思ったようだ。
まあ、気持ちは分からないでもない。連翹だって、恋人が出来たら一緒に居たいと思ってしまう。もちろん、相手の用事などでずっと一緒に居ることは無理なのだろうが、出来る限り迷惑にならない範囲で色々したいと思う。
もっとも、色々ってなんだ? って聞かれたら、「い、色々は、色々よ」と答えるしかないけれど。
連翹の恋愛経験など、男向けラノベの添え物みたいなモノとか、女向けの少し夢見がちなモノしか知らない。そしてどちらも現実的じゃないことくらい理解はしている。ハーレムとか婚約破棄とか現代日本じゃあどう足掻いてもファンタジーでしかない。
「お、落ち着いてノーラ! ピンチはチャンスって名台詞があるじゃない!」
「うう……そうは言いますけど、一体どうしろっていうんですか。明日にはもう出立ですよ? 行軍中に仕事をサボるワケにはいきませんし」
「い、一体どうしろ……具体案かぁ。ぐ、具体案かぁ……!」
待って、と言うように掌をノーラに向けて、必死に頭を回す。
確かに恋愛経験など皆無な連翹だが、今時の若い子であり、ネット世代の娘である。
便利な箱や板を用いていたし、その途中で意図の有無問わず便利な知識やら無駄な知識やらを蓄えて来た。
ここで何かそれっぽい言葉を言えれば、数多の賞賛に対しクールに「それほどでもない」と答えられる人生が始まるのではなかろうか。
ゆえに、回せ回せ脳を回せ、知識チートをするなら今だ!
「そうね――やっぱあれよ、夜這いよ夜這い! 男は胃袋と玉袋で手玉に取れって言うじゃない! 夜這いによって玉袋を掴み、『わたしを食べて』とかいうセリフで精神的な胃袋も掴ぶぉふぅぁあ!?」
顔真っ赤にしたノーラが枕を投げつけてきた、解せぬ。
「役に立つ立たない以前に恥じらいを持ってくださいレンちゃん! この前の歌詞といい、どうしてそういうのを平気で口に出せるんですか!?」
「えー、だってこのくらい……あー、そっか。その辺りも世界の違いかぁ」
ノーラは「どうして」と言うけれど、この程度の下ネタなんて現代日本の若者は大体慣れている。
だって、ネットサーフィンしてたらエロ系列の広告なんて嫌でも目に入るではないか。まとめブログなんて読んでいると特に。『今オ○ニー出来ない人は絶対にプレイしないでください』という頭の悪そうな広告を何度みたことか。
そんな環境のせいか、経験はなくとも耳年増なのだ。ノーラの反応を見て、「どこの生娘よー」と思ってしまう生娘なのである。
「まあ、真面目に言うなら――時間を作って一緒に居る時間を増やす、くらいじゃない? それで一緒に古書の翻訳したりするの」
「……それっていつもと変わらないような気がするんですけど」
「でも、ノーラそういうの好きでしょ? たぶん、カルナも。だったら、現状維持でいいと思うの。デートとかするなら、どこかの町に行った時の自由時間にでもすればいいわけだし」
一緒に古語を解読したり、本を読んだり、魔導書の編纂をしているカルナにそっとお茶を出したり。
付き合ったばかりの恋人というより、それなりに長く連れ添った夫婦みたいな光景だ。派手さはないけれど、互いに心を許し落ち着ける時間なのだろうと思う。
なら、それでいいはずだ。
下手に既存の恋人像に振り回されるよりは、今大事な日常を謳歌する方が良いに決まってる。
「そりゃ、付き合ったばかりなんだもの。一枚絵が出るような劇的なイベント欲しいとか、そんな風に思う所があるのは分かるんだけどね」
「待ってレンちゃん、全然聞きなれない単語が混じってる!」
「新しい刺激を求めるのは当然だし悪いことじゃないけど、慌てて変なことするのはきっと駄目よ。だって、ノーラの恋心とカルナの恋心が合わさって恋慕になったのは、二人がちゃんと燃えやすい環境を整えたから。火種を消さずにちゃんと守って育てたからなんだから」
あんまりそういうのを軽視しちゃ駄目だと思うの、と。
そう言うとノーラは驚きに目を見開いてこちらを見つめてくる。何か、変なことを言ったのだろうか。
「レンちゃん、実はこういうのに慣れてる?」
「……ちょっとそれやめて。嫌味じゃないって分かってるけど、彼氏いない歴イコール年齢のあたしからすれば、付き合いたてホヤホヤのノーラのその言葉は超嫌味に聞こえるから」
「いえ、だって、なんかこう含蓄のある言葉だったので」
「大したことじゃないわよ。だって、どれだけ見た目格好良くて一目惚れした相手が居ても、性格が生ゴミみたいな奴だったり、露骨に意地悪されたりしたら恋愛感情になる前に怒りの方が強くなって恋心も消えるはずでしょ? それの逆ってだけのことよ」
容姿も金銭も劇的な出会いも、それらは全て火種。それだけでは決して炎にならず、いずれ消えてしまう儚いモノだ。
それに適度な風を送り薪を入れるのも人の行いなら、水をぶちまけて消してしまうのも人の行い。その行いの結果が燃え盛る炎か、水浸しの床になるかを決定づける。
「――『いつか空の飛び方を知りたいと思っている者は、まず立ちあがり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。その過程を飛ばして、飛ぶことはできないのだ』
あたしの世界の偉人、フリードリヒ・ニーチェって人の言葉よ。ノーラは確かに空を飛び始めたんだろうけど、まだそれはようやく体を浮かせただけ。上手く行ったからこそ、今までの過程を大事にして飛び方を自分のモノにしないと」
こういう風に使う言葉じゃないかもだけどね、と言って軽くウィンクする。
だが、発言者の意図とどれだけ食い違っていようと、言葉は世代交代する生き物だ。発言者の意図が相手に伝われば、それでいい。
「……ごめんレンちゃん。実を言うと、レンちゃんって少し頭の弱い子だと思ってた」
なんか名言を引用すると超頭良く見えるわね――そんな頭の悪いことを考えていた矢先に、ノーラがそんなことを言い放った。
「待って、ねえ待ってお願い! あたしなんでいきなりディスられてるの!?」
「あ、違う、ごめんねレンちゃん! 色々世間知らずだなぁって思うところはあったから、つい! ……でも、それはこの世界の知識が無いからで、転移者たちの世界を基準にすれば、わたしなんかよりちゃんと学んでるんですね」
ごめんね、と頭を下げるノーラに、連翹は思わず硬直する。
だって、そんな風に心から反省されても、ちょっと色々と、困るのだ。
(……い、言えない……今更『厨二病心をくすぐる偉人の名言集めようずwww』みたいなまとめ読んだだけで、ニーチェのこと全然知らないなんて)
ニーチェ? 誰それ? 外人? 歌? ほらこんなもん。
外人であるのは確かだけれど、何人かすらも理解していないし、何をしていた人なのかも曖昧だ。勉強なんて、全くしてない。
特に転移直前あたりは「どうせ才能の無い自分が頑張ったって、才能ある人と比べれば誤差でしかないし……」と斜に構え、成績が物凄い勢いで下落していた。
ニーチェの言葉を覚えていたのだって、なんか格好良かったから、程度のモノだ。当時中学生だったというのに凄まじい小学生並みの感想である。
「そ、それよりごはん食べに行きましょごはん! ニールたちもそろそろ準備し始めてる頃だと思うし!」
――勘違い物の主人公とかを見て、「適当にやって評価されるならいいじゃない、勘違いを自覚してる奴はなんで『違うんだ』とか『そんなんじゃない』とか言い訳しちゃうの?」とか思ったことがあったが。
(よく分かったわ、訂正もし辛いしなんか超居た堪れない……! ノーラごめん、なんか超ごめん……!)
実際に体験してみないことには分からないこともある。
連翹は百聞は一見にしかずという言葉の意味を強く噛みしめるのであった。
◇
大きな鍋の中に白い液体がふつふつと煮えている。
焦げ付かぬよう軽くヘラで中身をかき混ぜると、見た目以上にどろり、引き抜く際に糸を引いた。
それはチーズだ。アルコールを飛ばした白ワインと共に煮込んであるそれから、香り立つように独特な匂いが鼻孔をくすぐった。
「チーズフォンデュね! ていうかチーズフォンデュってトマト入れるの? いや、もちろん美味しそうだし、トマトとチーズは凄く相性が良いと思うんだけど!」
連翹の視線は鍋の中央にあるものに注がれていた。
そこにはごろり、したまるごと一つのトマトだ。皮を剥かれたそれが、尻部分を上にチーズの海でたゆたっている。
テーブルに置かれた更には塩ゆでされた野菜やベーコンにウィンナー、一口大に切りそろえられたバゲットなどはあるものの、それらはチーズと絡めて食べるモノであって、チーズと一緒に煮込むモノではないらしい。
「ああ、それは途中で潰して混ぜてみてくれ。味が変化して新鮮な気持ちで食べられるんだ」
ミリアムが出立前最後の夜ということで店員たちと引き継ぎの最終確認をしつつ連翹の言葉に答える。
その言葉に「へえ……」とフォークでつんつんと突く。チーズの大海原に浮かぶ島にある大きな山――そんなモノのミニチュアみたいで、少し可愛らしい。
「んで、これはもう食って大丈夫なのか?」
この手のモノはあまり食べたことがないのか、隣に座るニールが恐る恐るといった具合に鍋と具材の間で視線を彷徨わせている。
「大丈夫なはずよ。ただ、昔聞いたことがあるんだけど、こういうのって底の方が焦げ付きやすいから、そこを擦る感じで具材をチーズと絡めるといいらしいわよ」
ちらり、と鍋の下を確認しながら言う。
そこにあったのは専用の鍋台と、その中で小さく燃える火である。店員のエルフが詠唱し、客席用の火を用意したのだ。
専用の燃料でも使うのかと思えば、まさかのオール魔法である。エルフは魔法に特化した種族だと聞いてはいたし、それについては風の魔法のエレベーターの浮遊床を見て理解もしていたつもりだが、小さな飲食店で当然のごとく魔法を使われるとやはり少し驚く。
「……やっぱりエルフは魔法の発動も早いし、詠唱も適当でも簡単に成立するんだな。だからこそエルフは魔法で発展していて――いやでも、人間だって魔法王国なんて国を建国したくらいだ。効率の良い使い方さえ学べばちゃんと似たようなことを――」
「カルナさん、食事時なんですからそういうのは後回しにした方が良いと思いますよ」
そして連翹の正面。
カルナが魔法の火を見つめて考え込み、隣に座るノーラが少しばかり呆れた顔で窘めている。
普段とは若干違う席順だ。
普段通りならばニールとカルナ、連翹とノーラと同性同士が隣り合うように座っている。無論、示し合わせているワケではないので、場合によっては違う席順になる場合もあるのだが。
しかし、今回は場合によってはとか偶然そうなったとかではない。誰かがそう言ったわけではないけれど、ノーラとカルナが隣り合うように座ったのだ。
(ニール辺り、そこら辺を察さずにいつも通りに座るのかと思ってたけど)
聡くはないけれど鈍くもない、そんな感じなのだ。
切り替えが早い性格のせいか、じっくり考え込むのは苦手だが、咄嗟の判断は早いのだ。
――まあ、その判断が間違っていたりするのだが。
寝起きで着替え中に部屋に乱入された時に、そのまま部屋に居座って『待っててやるから早く着替えろ』と言ったりとか。どんな思考で着替え中の女の子と同じ部屋で待つという選択肢を取ったのだろう、この男は。
「う、ごめんノーラさん。でも、やっぱりオルシジームは魔法の本場だなぁと思うと、色々気になって……」
「あんまりずっと悩んでるようなら、カルナさんの分を全部わたしが食べちゃいますからね」
ええ、もうたらふく食べちゃいますよ、と。
冗談めかした言い回しのそれに対しカルナは、
「――え、何それはすごく困る」
超、素の声であり、真顔であった。
放っておけば言葉通りノーラが全部食い尽くしてしまう――そんな声音で、カルナは呟いたのだった。
「!? え、あ、あれ? 冗談ですよ? なのになんで真顔でそんなこと言うんですかぁ!?」
「……あっ、違っ、ごめんあんまりにも違和感がなかったからつい」
「フォローどころか追い打ちありがとうございます! カルナさん、わたしってそんなに食いしん坊に見えますか? 見えるんですね!?」
「いや、見えるも何も、実際食いしん坊だろノーラ。朝とか俺と一緒に鍛錬した連翹以上に朝メシ食ってるじゃねえか」
前に連翹も似たこと言ってたろ、というニールの剣。カルナに詰め寄る背中に無慈悲に突き立つ言葉の剣でノーラは死ぬ。
「ちょ、やめなさいよニール、追い打ちかけないであげて! あたしは――ほら、朝あんまり食べないタイプだし」
「うう……いいんですレンちゃん。というかレンちゃん、晩御飯とかもあまり量食べないですよね……?」
「そ、それが原因であんまり成長しなかった説もあるから、ちゃんと食べた方がいいと思うわよあたし。見なさいよ、背は大して変わらないのにノーラとあたしの胸の差――がふっ!?」
――――ありのままに今起こったことを話すわ、フォローしていたらいつの間にか自刃していた!
ダメージは大きいけれど近くにチーズフォンデュの鍋があるから少しも寒くないわ。
「れ、レンちゃん……? あの、胸とか大きくても邪魔なだけですよ。教会の先輩から服のお古を貰っても、胸が苦しくて着れなかったりして――」
「やめてあげてノーラさん。ノーラさんとしてはデメリットを話してるつもりなんだろうけど、恵まれない者にとってはそれも自慢話の一つだから!」
「誰が恵まれない者よカルナ、貴方喧嘩売ってんのぉ!?」
「ああくそ面倒くせえな! いつまでだべってんだ、もうお前ら全員無視して俺が全部食うぞ!」
「あ、それ困るわ。ノーラ、フォーク取ってー」
「はいレンちゃん、カルナさんも」
「ありがとう。それじゃあいただきます」
「俺が言えたことじゃねえが切り替え早えなお前ら! まあいい、焦げねえうちに食うか」
ニールの一言で皆の意識が食事へと戻る。
これはリーダーの一言で統率されたというべきか――いや、みんなが大なり小なり食べるのが好きだからというのがあるんだろう。
皆が忙しなく具材にフォークを突き刺していくのに追従し、連翹もまた目についた具材にフォークを突き立てる。
それはカボチャだ。塩茹でされたそれを鍋の中に入れ、チーズを巻き込むように纏わり付かせていく。
どろりとしたチーズを纏ったカボチャを口の中に運び、食む。
すると濃厚なチーズの香りと、次いでカボチャ特有の甘みが口の中に広がる。とろとろに溶けたチーズは熱く、行儀はあまり良くないが思わずはふはふと息を吐いてしまう。
(……やっぱり冬は熱い食べ物よね)
冷たい食べ物が美味しくないワケでは、断じて無い。連翹だって冷たい食べ物で好きなものはいくつも存在する。
けれど、冬の寒い中で食べる熱々の食べ物は、この季節特有の旨味を主張するのだ。熱い、温かい、体が温まると。
それは真夏の冷えたアイスと同じ。暑い時に冷たいモノ、寒い時に熱いモノ、それらは他の季節では感じられ美味しさを主張するのだ。口、舌、それら以外でも感じる温度差という旨味を。
「おい連翹、そっちのソーセージ取ってくれソーセージ。俺の位置からじゃ届かねえんだよ」
「はいはい、どうぞ。代わりにバゲットいくつか取って。やっぱりチーズフォンデュってパンつける食べ物だと思うのよあたし」
おらよ、と小皿に取り分けられたバゲットをありがたく受け取り、鍋底を撫でるようにチーズと絡めていく。
糸を引くチーズをフォークをくるりと回して巻きつけ、ゆっくりと口に運ぶ。すると感じる、とろりとしたチーズと柔らかいパンの食感。カボチャを食べた時はカボチャの甘みが強かったけど、今は濃厚なチーズの味が強く強く主張する。
「レンちゃんレンちゃん、ブロッコリーも美味しいですよ! チーズばっかりじゃ口の中が重くなるんですけど、ブロッコリーの独特な味わいがいいアクセントになってます!」
「ベーコンもいいなぁ、肉とチーズって凄く合うよね……そういえば、海鮮モノもチーズフォンデュに合わせると美味しいって聞くけど……」
「残念だけれど、オルシジームは森の国だからね。川魚はまだしも、海の魚は難しいね。冷蔵して輸入はされているようだけれど、ぼくの店が仕入れられる値段じゃないから」
「だよねぇ……」
少し残念そうな顔をするカルナの横顔を、ノーラがくすりと笑った。
「カルナさん海の魚が好きですよね。わたし、あんまり食べたことないんですけど」
「好き嫌いはあると思うけど美味しいよ、僕は大好きだね。でも……西部だと食べる機会はないか。港町やそこに近い場所なら食べられると思うんだけど……」
「なら、クエスト終わった後にナルキに帰る時に誘えばいいじゃねえか。クエスト達成祝いってやつだ」
勝ったつもりで予定立てるのもどうかと思うけどな、ニールは笑う。
(帰ったら、か――)
少し、不安に思う。
レゾン・デイトルを打倒するというクエストが終わった、その後。
その時に自分は――片桐連翹は、皆の隣に居場所があるのだろうか。
大丈夫、とは思うのだけれど。
それでも、クエストが終わってしまえばそのままさようなら――そんな想像が捨てきれない。
だって、友人関係なんていうのは証明証がないから。
好いた誰かと婚姻関係を結ぶなり、奴隷と契約を結ぶなり、誰かと主従関係を結ぶなり――なんにせよ契約の証がある。
でも、自分たちの間にそれはない。
それこそ、全てが終わったら他人に戻ってもおかしくないくらい――
(馬鹿なこと考えてんじゃないの、あたし)
ノーラは最初から仲良くやれていると思っている。
ニールは良くも悪くも直球の人間だから、連翹という人間が嫌ならとっくの昔に一緒にいないはず。
カルナは――正直一番読めないけど、少なくとも義務で一緒にいるワケではないと思う。
だから大丈夫。
そう思うけれど、皆との関係も『思っている』、『はず』、『思う』――どれも連翹の主観に過ぎず、それが少し怖い。
(恋愛小説や漫画なんかで、今の関係が壊れるのが怖いっていうのを見て、もうちょっと頑張ってよとか思ったけど)
状況は違えど、その気持がよく分かる。
戦いが終わった後、皆との関係がどうなるか分からない。それが、少し怖い。叶うなら、ずっとレゾン・デイトルに着かず、連合軍として大陸を移動し続けたいくらいだ。
「おう連翹」
「……え? あ、ごめん、聞いてなか――」
ニールの声に振り向くと、すぽん、と口の中に突っ込まれた。
熱々のチーズで包まれたソーセージを、勢い良く。
「――――ふぐふぅう!?」
しばしの沈黙。けれどすぐさま口の中に広がる熱さにくぐもった悲鳴を上げる。
熱い熱い熱い! 猫舌というワケではないが冷ましていない熱々のモノを口の中に入れられて熱ダメージを受けない方がおかしい。なんだこれは、突然熱々おでんチャレンジもといチーズフォンデュチャレンジが始まったのか――!?
「ほれ水だ、飲め」
「んん、んんっ、んんんんっ……! ……ふはぁ……ありがとニール、助かっ――」
お礼の言葉を途中で止める。
落ち着こう。
そもそも、熱々のチーズフォンデュを口の中に突っ込んだのは、他ならぬニールではなかろうか――?
「――超マッチポンプってワケねぇ! ニール貴方ねぇ! 穴という穴にチーズ流し込んでやるわよぉおお!」
「やめろもったいねえ、食いもんで遊ぶな。……けどま、その調子なら大丈夫そうだな」
「大丈夫じゃないわよ、超熱くて泣きそうだったからね今! まだちょっと口の中ひりひりする……」
「……いや、その辺は真面目に悪かったな。手近にあったから、ついそれを使っちまった」
そう言って視線を鍋に戻し、トマトを潰し始める。
白色にゆっくりと馴染んでいく赤色を見つめたまま、ニールは小さく言った。
「言いたくねえならいいが、なんか不安があったら相談しろよ。絶対、一人で悩んでもこじらせるだけだろ、お前」
そう言ってニールは程よく混じり薄いオレンジに近い色合いになったチーズをバゲットに絡ませた。
――心配、してくれたのだろうか?
「レンちゃん、チーズとトマトの程良い酸味がからみ合って美味しいですよ! さっき食べた具材も凄く新しい気分で食べられます! これはもう大皿くらい一人で食べられちゃいそうな勢いですね……!」
「ピザとかでも感じたけど、チーズとトマトの組み合わせって凄いよね。トマト自体はそんな好きじゃないけど、組み合わせたら好物って言っても良いくらいに美味しく思えるよ」
二人の会話も普段より明るく、こちらの陰気を吹き飛ばすような響き。
明確な言葉にはしていないけど、沈んだ気持ちを引っ張り上げるように、明るい声を出している。くれている。
(……本当に、あたしって馬鹿ね)
ニールの言う通り、一人で悩んでも答えなんて出ず、どんどんこじらせていくだけだ。
さすがに直接「あたしのこと友達だと思ってくれてますか?」なんてことは聞けないけど。
だって恥ずかしいし、今の対応を見ていると怒られてしまいそうだから。そんな当たり前のことを聞かないでくれ、と。
「ごめんねニール、なんでもないの。さあニール、そっちの野菜いくつか取って! チーズもトマトも好きだからきっとこれ凄く美味しいと思うの――!」
不安を歓喜で塗り替えて、連翹は笑う。
その様子を見たニールは安堵したように小さく息を吐き、微笑む。
「――え、なにニールその孫を見つめるお爺ちゃんみたいな笑い方。似合ってない上に年寄り臭くて気持ち悪いんだけど」
「よーし、お前に食わすバゲットはねぇ、全部俺のモノにすっから覚悟しろ……!」
「ちょ、独り占めしないでよニール!」
「そうですよ、わたしだってトマト混ぜた後はあんまり食べてな――じゃなくて、色々子供っぽくて意地汚いですよ、ニールさん!」
「ねえノーラ、そこまで言っちゃったら欲望のままに突っ走った方が良いと思うの」
そうやって騒がしく、楽しげに、オルシジームで過ごす最後の夜は過ぎていくのであった。




