133/アレックスとマリアン
そこは、オルシジームの中でも猥雑とした飲み屋であった。
建物の造り時代は古いものの、居抜きで作った店なのだろうか。調度品や皿などはドワーフのモノが多く、増設したと思われるカウンターには金具が用いられている。
壁に貼り付けられたメニューは全体的に安いが、客層の九割が男性であり、ガラの悪い者が多く、酔っ払いの大声が建物の中で響き渡る――場末の安居酒屋、というべきなのだろう。
(人によっては嫌悪感すら抱くのかもしれんがな)
喧騒に顔を顰め、客層に辟易する――そんな者も多いだろう。
そんな店のカウンターに、金髪碧眼の騎士アレックス・イキシアは居た。
甲冑を脱ぎシャツとパンツにアウターを羽織るというラフな格好ではあるものの、その姿はあまりこういった店に馴染まない。衣服を多少着崩してはいるものの、騎士として身につけた教養のためだろうか、こういった店では仕草が上品過ぎる。
だが、それでもアレックスはこういった店が好きだった。
落ち着いた店も嫌いではないが、友人と騒ぐなら気兼ねなく騒げる場所の方がいい。一番仲の良いブライアンなどは酔うと声が大きくなるから、彼と楽しむ時は女王都でもこういった店で飲んでいた。
もちろん彼も落ち着いた場所で飲む場合、店の迷惑を考えて声を抑えてくれるのだが、どうせなら友人に気兼ねなく楽しんでもらいたいと思うのだ。
何より、安く楽しめるのはありがたい。
騎士とて体を使う職業だ。そして、体を動かせば腹が減るのは自明の理である。
美味しい物を食べたいのは当然だが、量も食べたいのだ。そんな者が下手に高級店に入ると、会計時に非常に後悔することになる。酒が入って食欲が増しているのなら、尚更だ。
「復興作業中に作業員のエルフに話を聞いてな。気に入ったか?」
そう言って、隣に座る彼女に声をかける。
店内の男女比率を崩す存在であり、先程からアレックスと親しげに話している女性である。
本来であれば、このような治安の悪い店に女連れで入店すれば酔っぱらいに絡まれるのは必然だ。けれど、今現在そのような様子は無く、そして後にもないだろうと確信していた。
「そうだね。上品な店でちまちまコースを食べるなんて性に合わないよ」
そう言って彼女は大らかに笑った。
アレックスよりは小柄ではあるものの、下手な男性よりはずっと長身だ。着崩した紺色のローブの下にある肉体は下手な戦士よりも鍛え上げられている。
綺麗な金髪を肩の辺りで乱雑に切り、そばかすも多いが、全体的に顔立ちは整っており魅力的な笑みを浮かべる人。名をマリアン・シンビジュームという。騎士団に従軍する神官、そのリーダー各の女性だ。
女性と呼ぶよりも姉御と呼ぶ方がしっくり来るであろう彼女は、勢い良くジョッキを傾けた。下手な男よりも力強い仕草を見て、絡みに来る酔っぱらいはそうそう居ないだろう。存在したとしても、すぐに制圧されるはずだ。
「しかし、早いもんだね。つい最近入団したと思ったのに、いつのまにか副長なんかになってるんだから」
「何を言うかと思えば。もう十一年前だぞ、随分と昔だ」
十四歳で入団し、最年少の騎士と持て囃されたのを思い出す。
下手な大人よりも強い自信があったし、勉学や礼儀作法を覚えるのも苦ではあったがそこまで時間はかからなかった。
だからこそ、『入団試験がこの程度なら、そこに居る騎士たちも私の敵ではない』などと増長してしまったワケなのだが。
「時間なんていざ振り返ってみるとあっという間さ」
あっけらかんとそう言うマリアンに、それもそうか、と頷く。
騎士として鍛錬し、働き、気づけばもう二十五歳だ。子供の頃に想像した二十代半ばはもっと大人だったけれど、思ったよりも大人になれた自信がない。
だが、きっと誰しもそうなのだろうなと思う。一足飛びで子供から大人になるワケではなく、子供と大人は人生という道において地続きだ。歩んでいる間に大人と呼ばれるが、しかし当人は普段通り歩いているだけで、上手く自覚が出来ない。
「しかし、あの時の生意気な子供とこんな風に酒を飲むなんて思っても見なかったね。長く生きてみるもんだよ」
「私も、小うるさいデカ女と仲良くなるなど考えられなかったな――だがマリアン、お前はまだ二十代だろう。言い回しが年寄りくさいぞ」
「二十九なんてもう立派なおばさんさ。後一年だとか、まだ若いだのとぐだぐだ言う方がみっともない」
少女とか女とか乙女とかは二十代前半限定さ、と。
悲嘆するでもなく、世の中そんなものだと淡々と認めているのだろう。
そういうところが女らしくないな、と思う。
女という生き物は多かれ少なかれ若く、そして綺麗に見られたいモノだ。だが、彼女はそのどちらも欠如しているように見える。
「思えば、最初に出会った頃からそんな具合だったな、マリアンは」
「今になると十代の頃ぐらいはかわいこぶっても良かった、なんて思うけどね。若い頃にしか出来ないんだから、ガラじゃない、なんて言わずに試しておくべきだったね」
冗談めかして笑うマリアンを見て、かつての姿を思い返す。
背丈と鍛えられた肉体は今と変わらないが、全体的な雰囲気に少女らしい未成熟さがあったような気がする。当時はアレックスよりも背が高く、男ならともかく女に見下ろされるとは、と驚いた覚えがあった。
そして今と変わらず面倒見が良くて、よく笑っていた。にこりと微笑むのではなく、口を大きく開けて声を出して笑う、そんな女性であった。
だからなのか男性人気よりも女性人気があって、若い頃は同性に告白されたこともあると酒の席の笑い話として披露されたのを覚えている。
「アレックスも気をつけな、あんただってもう半ばだ。四捨五入すればもうおじさんだよ。硬派ぶって女遠ざけてる暇があったら一人二人抱いてみたらどうだい?」
「……!? げほっ、ごほっ……!」
あまりにもあまりな言い草に思わず咳き込み、その様子を見たマリアンは騒がしい店内にも負けぬ声で大笑する。
「……女から男にするのもセクハラというらしいぞ」
「らしいね。大丈夫大丈夫、さすがにもっと純朴な子には言葉を選んでるよ」
冗談になる相手くらい見極めているさ――そう言って、酒の追加注文を行う。
騒がしくも穏やかな時間だ。摂取したアルコールが程よく体と心の緊張をほぐしてくれる。
「言っておくが、別に女を遠ざけているワケではないんだぞ? お前も居るし、キャロルも居る」
「そこにあたしを含めるんじゃないよ。言ったろう、もうあたしはもうおばさんだって」
「だが、来年の春前までは二十代だ。十分女だろう」
だから、と。
表情を引き締め、「残り数カ月だけどね」と笑うマリアンを見つめる。
固くならない程度に柔らかく、しかし冗談だと思われぬ程度に真剣に、彼女を見る。
「互いに男と女の間に、付き合ってみるのも悪くないと思わないか?」
今にも「は?」という声が漏れ出しそうな形に口を開いて、彼女は固まった。
飲み干そうと持ち上げたジョッキの中身だけが、ゆらゆらと揺らいでいる。
「――あー……冗談かい?」
「この手の話を冗談にする趣味はない」
「だろうね。あんたはそうだよねぇ……あー」
ワイングラスかなにかのようになみなみとビールが注がれたジョッキを手元で回す。
どう返答しようか、と。思いもよらない言葉で、言葉が上手く紡げない、そのように見えた。
「マリアン。私は強くなったぞ。調子に乗ってゴブリンの罠に嵌められて泣いていた少年騎士ではない。無論、まだ未熟だが――ここで終わるつもりなど毛頭ない。今は不足かもしれないが、いずれはマリアンを守れるようにもなってみせよう」
絶対に守ってみせる、などとは言えない。
鍛えれば鍛えるほど、強くなれば強くなるほど、より強い存在や己の手では不可能なことに気づいていく。
だというのに全てから守る、などと言い切るのは傲慢だ。かつての自分のように。
無論、相手によっては嘘でも守ると力強く叫ぶべきなのかもしれない。
だが、目の前の女性には。かつてのアレックス・イキシアを知るマリアンには、正直な心を伝えるべきだと思ったのだ。
「……あの時の言葉、覚えていたのかい?」
「『気持ちはありがたいよ、けどそういうセリフはもっと成長してから良いな』、だったな」
「大体そんな言葉だったのは覚えてるけど、さらりと言えるのかい、アレックス……」
「無論だ。その言葉を聞き、より騎士として高みに至ろうと努力をしたのだからな」
周りを気遣い、周りを癒やし、周りのために傷つく貴女。
その背中は頼もしく、その逞しい後ろ姿を見れば今でもゴブリンに殺されかかった時に救い出してくれた姿を想起する。
皆が頼りにするマリアン・シンビジュームを――厳しくも優しい母のような女性を、今度は自分が守りたい。
(無論、今でも女性として好きなのかは分からないが、な)
子供のころから剣を振り、十代になってから騎士になるための勉強ばかりをしていた身だ。正直、今でも恋愛云々なんて理解出来ている自信はない。
だが、それでも。この女性を一人にしたくはないと思うのだ。
大柄で、男勝りで、女らしくなくて。
けれど優しくて、大らかで、頼りになるマリアンという女性に惹かれている。
これが異性としての感情なのかは、正直に言えば自信はない。アレックスは剣に生き、そして騎士に生きた男だ。愛だの恋だのという感情の経験はなかったから。
「アレックス、あんたさ、吊り橋効果って言葉知ってるかい?」
「無論だ。そして、私の心もそれがキッカケなのだろう。それを取り繕いはしないさ」
確かに、あの出来事が無ければマリアンという女性に好意を抱かなかったかもしれない。
未だに小言の多い大女だと思っていたかもしれないし、心配してくれていることを理解し普通に仲良くなったかもしれない。だが、どちらにしろ恋愛対象などにはならなかっただろう。
吊り橋効果、まさしくだ。それを否定することなど、出来はしない。
「だが、揺れた吊橋が切っ掛けでも、今も揺れる心は真実だ――少なくとも、私はそう思っている」
ゆらゆら揺れる吊橋の上でなければ抱かなかった想いかもしれない。
だが、その時に揺れた想いは、未だに心の中で揺れている。静かに、けれど確かに。
ならば、その揺れはきっと真だ。確かに最初に抱いた想いは吊り橋効果なのかもしれない。だが、未だに揺れる力は心から生まれ出たモノだ。
「……馬鹿だね、あんたは。あんたの容姿と職業なら、女なんて好きなだけ食えるだろうに」
「女に興味が無いなどとは言わんが、だからと言って必要以上に食い散らかす趣味はないさ」
想いが通じ合った女だけを抱く――などと言うほどロマンチストではないけれど。
それでも、性欲のためだけに女を取っ替え引っ替えする気はない。相手が本気ならそれに応えたいし、応えられないなら否を告げるのが優しさだろう。
――無論、それが女性にとっての優しい男でなくても。
場合によっては自身の心から出た言葉よりも優しい嘘の方が女性と接する場合としては正しかったとしても。
アレックスはその想いを曲げたくはなかった。
「……あたしじゃなくても、キャロルとか女神官や女騎士も居ただろうに」
「さっき言った通りだ。大して興味もない女に期待を持たせたくないし、キャロルは友人であって私を好いているワケでもないだろう」
特にキャロルは無い。
男女の友人関係を恋愛に結びつけるのは悪しき風習だ。彼女は騎士として高みを目指す同胞であり、そういった関係になることはきっとありえない。
それに、アレックスが女性関係の話題を上げると不機嫌になったり憂鬱になったりしている彼女だ、恋愛関連の話題は苦手なのだろう。オルシリュームでそれを確信した。
そんなことを言うとマリアンが形容し難い表情で頭を抱えだしたのだが、それも致し方ないことだ。女の心は魔境だ。異性である男には分からず、同性である女にも他の女の気持ちなど理解できないのだろう。
「ああ、もう、こういう話題振っておいてどうしてこう鈍感なんだか……!」
「良く分からないが、私がこの手の話題に聡くないことくらいは理解している。ゆえに、私が理解できていない事柄なら、遠慮なく指摘してくれていいのだぞ?」
最年少で騎士になったという実績はあるが、それは同年代の子供たちと同じ時を共有できなかったということでもある。
最短距離で突っ切ったゆえに、本来誰しもが経験すべきことを置き去りにしてしまった自覚はある。だからこそ、経験不足はちゃんと学んで補強しておきたい。
「当人の了承無しに指摘できないから困ってるんでしょうが! こういう手を焼かせるのは入団直後から全く変わらないね!」
「マリアンも変わっていないな。未だに手のかかる私を見捨てずに世話を焼いてくれる。あの時から変わらず、頼りになる女性だよ」
ぐっ、と言葉に詰まるマリアンを見て、思わず笑みを浮かべる。
もっとも、それは『愛おしい女』を見て浮かべるモノではなく、普段絶対に口で勝てない相手を黙らせた高揚からの『してやったり』という笑みではあったのだが。
その後、思い悩むように天を見上げた彼女は、小さなため息と共にアレックスに向き直る。
「即答はできないね。できないから――この仕事が終わって女王都に帰ったら、その時に返事をするってことでいいかい?」
「分かった。なにせ突然だったからな、時間が足りないことも理解している。……肯定するなり、拒否するなり、マリアンらしく直截に頼む。その方が未練を抱かずに済む」
困らせるために言ったわけでも、無理やり手篭めにするために言ったワケでもないのだ。
アレックス・イキシアという男が不足だというなら、悔しくもあり悲しくもあるが、潔く身を退こう。
「言われるまでもないね。断るにしろ受け入れるにしろ、ちゃんと言葉にしてやるつもりさ。その代わり、断った時に騎士の仕事を疎かにするんじゃないよ」
「無論だ」
そのような醜態を晒したら、断られて当然の人間であると自分で証明するようなモノではないか。
神妙な顔で頷くアレックスに、ミリアムは大きくため息を吐いた。
「……あたしなんぞのどこが良いんだかねぇ」
「分からん、私とてこれが本当に異性としての好きなのかを判断しかねている部分もあるからな。だからまあ――そっちがその気になった頃に私が「やはり違う」などとのたまったら、遠慮なく平手を打つといい」
「はいはい、そんな生娘の色恋みたいなことはしないと思うけど、一応覚えといてあげるよ」
「生娘ではないのか? 男と付き合う機会などなかっただろうに、どこで喪失する機会があったのだ?」
ジョッキを傾け始めたマリアンに問いかける。
その言葉を彼女は鼻で笑う。何言ってんだこいつ、とでも言うように。
「あたしみたいなのは生娘じゃなくて行き遅れって言うのさ。……あと、あたしみたいなのなら問題ないけど、そういう言葉は思っても言うんじゃないよ。平手喰らっても文句は言えないからね、その発言」
「無論、その程度は理解しているとも。だが、最初にセクハラしたのはそちらだろう? お返しというヤツだ」
「残念ながら、女が男にするセクハラより、男が女にするセクハラの方が世間一般では罪が重いんだよ。覚えておきな」
「なんて理不尽な!」
勇者リディアの存在から男女同権の流れに世間はなっていると思ったというのに――!
もしかしたら、勇者の威光が薄れかかっているのだろうか。だからこそ世間ではそのようなことがまかり通っているのでなかろうか?
そんなことを口走ったら、心底呆れた顔でため息を吐かれた。
「……大陸を救った勇者様も、セクハラ云々まで自分の威光でどうにかしてくれ、とか言われたら困ると思うよ」
「いや、人間が負け続けていたあの時代に魔王を討ち取った勇者だぞ? その慧眼を以てすれば、セクハラ問題など一発で解決できるかもしれんぞ」
「無茶苦茶言うねこの子は……」
二人の会話は分厚い酒場の喧騒に埋もれ、消えていく。
他人にとっては数多に存在する雑音の一つ、記憶に留めておくほうがおかしい。
だが、それでも。
当人たちにとっては特別で、記憶に残り続けるモノとなるだろう。




