まだ履いていない靴
閉店の四十分前に、透は靴屋の自動ドアをくぐった。
右足の靴底が踵の方から半分剥がれていて、ガムテープが二重に巻いてある。そのテープも底の縁から擦り切れかけていて、歩くたびに浮いた踵がぱたりと床を打った。その音を、駅からここまでの二十分、ずっと聞いてきた。途中で二度立ち止まってテープを巻き直したが、もう粘りがほとんど残っていない。高架下の街頭ビジョンでは、髪の色を三秒ごとに変えるAチューバーが新作の靴を履いて跳ねていて、透はその前を、片足だけ音を立てながら通り過ぎた。腕に抱えた箱には、四日前にこの店で買ったスニーカーが入っている。箱の側面には二十五・五とあって、一度も外を歩かせていない。買った夜に一度だけ足を入れてみたら、踵に指が一本、楽に入った。
天井のスピーカーから店のエージェントが、本日の営業は二十時までです、と穏やかに告げた。
レジ横に、イヤーカフをした若い女の店員がいる。透は箱をカウンターに置き、胸の名札を読んで、その名前を端末に打ち込んでから顔を上げた。
「すみません。四日前にここで買ったやつなんですけど、サイズが合わなくて。交換できますか」
「はい、大丈夫ですよ。未使用でしたら」
感じのいい人だった。箱を開け、靴底を裏返して汚れがないのを確かめ、透が半サイズ下げたいと言うと「二十五ですね」と復唱して、売場の方を振り返る。そこまでで一分と少し。
「お支払いはこちらのセルフレジで——」
言いかけて、彼女の瞬きが一つ増えた。カウンターの上の開いた箱と透の顔を見比べる、その見比べ方で、もう分かる。
「……いらっしゃいませ。何かお探しですか」
人は、透と会って九十秒ほどで、透のことを忘れる。目の前で話していても、顔を見ていても変わらない。顔も声も、話した中身も、そこに透がいたことも。写真や文字は残るし、レジや改札の機械はちゃんと覚えている。忘れるのは人間だけで、透のほうは全部覚えている。物心ついたころからではないけれど、もう何年もそうだった。
透は一度だけ短く息を吐き、さっきと同じ順番で最初から言い直した。四日前、ここで、サイズ、交換。二度目のほうが言葉は滑らかに出る。彼女がまた靴底を裏返したところで、奥の試着用ベンチから年配の客が「ちょっと、これの色違いある?」と呼んだ。すみません、少々お待ちください、と彼女は透に頭を下げ、そっちへ行ってしまう。戻ってくるころには、少々お待ちくださいと言った相手が誰だったかも、もう分からないだろう。
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透はレジ脇の、採寸用の小さなメモ用紙を一枚もらった。商品名と色、購入日と時刻、支払いはセルフレジで端末決済、二十五・五から二十五へ、試し履き希望。最後に「未使用です」と足して、少し考えて、「急いでます」は消した。
次に通りかかったのは、眼鏡をかけた男の店員だった。透はメモと箱を一緒に差し出した。
「交換をお願いしたくて。要点、書いてきました」
「あ、丁寧ですね。助かります」
男はメモを読みながら箱を開け、靴の内側のタグをレンズ越しに読み取って、購入記録を呼び出しにかかる。二十五の在庫を確かめようと売場の棚へ目をやり、またメモに戻る。透はその横顔を眺めながら、頭の中で秒を数えた。七十、八十。棚の前で男が振り返り、手の中の紙に目を落として、眉を寄せた。
「……これ、どなたの?」
「おれのです」
「ああ、失礼しました」男はすぐに笑顔を作り直した。「では、購入記録から確認させていただきますね」
から、と透は思った。メモはちゃんと男の手の中にあるし、書いてあることも一字も変わっていない。けれどそれは透がそう言っているというだけの紙で、男がさっきどこまで確かめたかは、どこにも書いていない。男はタグを読み直すところから、もう一度始めた。その途中でバックヤードから閉店作業の呼び出しがかかり、男は透にメモを返して、すぐ戻りますので、と奥へ消えた。
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入口の脇に、受付端末が立っている。
画面の「返品・交換」を押し、端末決済の履歴から四日前の一件を選ぶ。交換理由に「サイズ」と入れると、端末が音声で、詳しい内容をお聞かせください、と言った。半サイズ大きかった、と透が答えると、半サイズ大きかったですね、と一語も落とさずに返ってくる。確定を押すと、番号の紙が吐き出された。受付番号、二〇六。画面に「スタッフがお伺いします」と出て、天井から同じ文句を、エージェントの声が少し遅れて読み上げた。
透は番号の紙を指でつまんで、端末の脇のベンチに腰を下ろした。脚の付け根が重い。剥がれた靴底が、床の上でもう一度ぱたりと鳴った。
ベンチの硬さに覚えがあった。四日前も、透はここに座っていた。
あの日は、ちゃんと試し履きをするつもりでいた。さっき「どなたの」と言った眼鏡の男に二十五を頼むと、彼は在庫を見てきますと言って奥へ入り、透はこのベンチで靴下のまま待つことになる。五分ほどして箱を抱えて戻ってきた男は、ベンチの前で立ち止まり、売場を見回して、こう言った。
「二十五をお待ちのお客様、いらっしゃいますか」
透は手を挙げた。男は透を見て、透の足元を見て、愛想よく笑った。「お客様、ご試着ですか。何をお探しでしょう」
奥へ行って戻ってくるだけで、九十秒は過ぎる。サイズ違いを頼むたびに、相手は初対面になる。三回目で透は諦め、棚から二十五・五の箱を取って、セルフレジに通した。セルフレジは何も聞かずに、支払完了と表示した。
合わないのは分かっていた。服だって、だいたいそうやって買っている。袖が少し長いくらいなら折ればいいし、靴は紐を固く締めればいい。そう思って買った靴を、四日間、箱から出せずにいる。
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五分待って、三人目が来た。
腕まくりをした中年の男で、潰した段ボールを小脇に抱えている。片づけの途中で呼ばれたのが、歩き方にそのまま出ていた。男は手元の業務端末を見て、それからベンチの透を見た。
「二〇六番の方?」
「はい」透は立って、番号の紙を見せた。「はじめまして。本日三回目ですけど、そちらには一回目なので」
「……は?」男の眉が寄った。「三回目って、ほかの者がもう対応してるってことですか。誰です」
透は売場の方へ目をやった。レジで釣り銭機の蓋を開けている女の店員と、マネキンの腕の角度を直している眼鏡の男。片方の名前は端末に入っている。言えば男は確かめに行き、二人とも首を傾げて、男はもっと苛立って戻ってくる。
「いえ。交換です」
三回目の説明を、透はもう口の中で組み立て始めていた。四日前、ここで、サイズ、交換。今日だけで同じ文を何度言ったか、数えれば分かるが数えたくない。
男は返事の代わりに長い息をつき、段ボールを壁に立てかけた。閉店作業の真っ最中なんですけどね、とは口に出さなかったが、口元がほとんどそう言っている。透が購入日を言いかけると、男は「番号で出ますんで」と遮って業務端末に目を落とした。客の話を聞くのは余計な手間だ、という手つきだった。そのぶん手は速い。購入記録と箱のタグを照らし合わせ、親指で何か打ち込む。斜めから「レシート確認済」の文字が見えた。
「足、測りますんで。そこ乗ってください」
床に据えられた計測板に、透は靴下で乗った。板の縁が光って足の輪郭をなぞり、男は表示を読んでまた親指を動かす。足長、足囲。九十秒はとうに過ぎているはずなのに、男の眉間の皺はまだ透に向いていて、目も逸れない。苛立っている相手のほうが、少しだけ長く透を覚えている。透はそれを経験で知っていたが、ありがたいと思ったことは一度もなかった。
「二十五ですね」
男は売場の棚へ歩き、透もついて行った。男は同じモデルの箱を一つずつ引き出しては戻し、最後の一つを戻したところで舌打ちを噛み殺した。
透は男の背中を見ながら、じゃあいいです、と言いかけた。言えば男は段ボールの方へ戻れるし、透は箱を抱えて店を出られる。今日はもう、充分に説明した。口が半分開いたところで、男が振り返った。
「売場には出てないですね。取り寄せになります。三日で入りますけど」
返事を待たずに、男は業務端末に受取予定を入れた。腰のポーチの小さなプリンタが紙を吐き、男はそれをちぎって透に差し出す。受付番号と商品名の下に、三日後の日付が印字されていた。
「これ持って、来てください」
「……それで」
透は控えを受け取って、メモと一緒に上着のポケットに入れた。男はもう段ボールの方へ戻りかけている。
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自動ドアを出て、店先の段差を一つ下りたところで、右の靴底が完全に剥がれた。
段差を踏んだ拍子に、擦り切れかけていたテープが小さな音を立てて切れた。踵から浮いていた底が次の一歩でつま先までめくれ、靴下の裏にアスファルトの冷たさが来る。振り返ると、テープの切れ端をつけたままのゴムの底が、段差の下に舌みたいに丸まって落ちていた。
透は片足立ちのまま、それを拾った。ゴムはまだ少し温かく、思っていたよりずっと薄い。こんなもので、ここまで歩いてきたらしかった。
ガラスの向こうで店内の照明が、奥の列から一列ずつ落ちていく。閉店まで二十分です、とエージェントの声が、ドア越しにくぐもって聞こえた。
腕の中には、二十五・五の箱がある。
この場で開けて、履いて帰ればいい。踵は浮くし、紐を固く締めても指一本ぶん中で滑る。それでも靴底はついているし、歩ける。一度外で履いてしまえば交換はできなくなるが、そのかわり、今夜からは普通に歩ける。袖の長い上着と、裾を折ったズボンと、少し大きい靴。いつもと同じになるだけだ。
透は箱を膝に載せて、店先の植え込みの縁に腰を下ろした。
ガラス越しに、さっきの男が見えた。潰した段ボールの束を抱えて、レジの奥から入口の方へ歩いてくる。ドアの手前で一度立ち止まり、外の植え込みに座っている透の方を見た。目が合った、と透は思った。男は何の引っかかりもない顔で目を逸らし、段ボールを入口脇に積んで、また奥へ戻っていく。もう、さっきの客ではない。
透は箱の蓋の角に指をかけた。
ポケットの中で、控えの紙がかさりと鳴った。三日後の日付が入っている。三日後にこれを持ってきても、カウンターにいるのはさっきの男でも、透のことは知らない。控えを見せて、四日前とさっきと今日の話を、また最初から。それまでの三日間を、底の抜けた靴か、踵の浮く靴で歩く。
どっちでも、たぶん歩ける。いままでも歩いてきた。
透は蓋を少しだけ持ち上げた。薄紙の隙間から、白い踵が見える。四日前の夜に足を入れてみて、踵に指が一本楽に入った、あの靴だった。
蓋を戻すと、角が指の腹に食い込んだ。透はそれを、もう持ち上げなかった。剥がれた靴底を箱の上に載せ、箱ごと抱え直して立ち上がる。右足を地面につくと、靴下の裏がまた冷たい。
さっき、足は測ってもらったのだ。あの男が、苛立ちながら、親指で数字を打つところまでは見た。
透は片足を引きずるようにして、閉まりかけた店の自動ドアの前に立った。
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ドアが開くと、レジの前にいた腕まくりの男がこちらを向いた。
「いらっしゃいませ。申し訳ありません、まもなく閉店になりますので」
知らない客に向ける顔だった。透は説明の一行目を喉に用意したまま、ポケットから控えを出して差し出した。四日前、ここで、サイズ、交換。言う準備はできている。
男は控えを受け取り、受付番号を業務端末で読んだ。画面をスクロールする親指が、途中で止まる。
「……これ、俺が受けてますね」
男は画面と透の顔を見比べた。もう一度画面を見て、もう一度透を見る。眉の間に、さっきとは違う種類の皺が寄っている。苛立ちではなく、合わない計算を前にしたときのような皺だった。
「失礼ですけど、さっきも、いらっしゃいました?」
「はい」
「……ですよね。ここ、俺が打ってるんで」
男は計測板の方へ歩いていき、板の脇の小さな画面を指で叩いた。直近の計測記録が出る。数字は業務端末の行と同じだった。男はそれを確かめて戻ってきたが、眉の間の皺はほどけていない。数字が合っていることと、自分がこの客の足を測ったことは、男の中ではまだ繋がっていないようだった。
透は黙って待った。四日前、ここで、と言えば、男はたぶん聞いてくれる。苛立ちながら、最初から。透はその一行目を喉に置いたまま、口を開かなかった。
「すみません、ちょっと、もう一回最初から伺っても——」
閉店まで十五分です、と天井が言った。
男は口を閉じて、画面に目を戻した。透の側からは、画面に並んだ行が見える。レシート確認済。足長、足囲の数字。受取予定、三日後。男はしばらくそれを読み、測り直しますとは言わなかった。
「今日がいいってことですか」
「はい」透は箱の上の、剥がれた靴底を少し持ち上げてみせた。「さっき、完全にだめになって」
男はそれを見て、長い息をついた。
「別モデルなら、倉庫に二十五があったかもしれない。値段の帯は一緒なんで、差額なしにできます。うち、そういうのは担当が決めていいことになってるんで」
「それで、お願いします」
男は業務端末に何か打ち足した。それから、誰に聞かせるでもなく言った。
「戻ってきてまた一から聞くの、嫌なんで」
透は画面を覗き込んだ。一番下に、新しい行が増えている。別モデル同サイズ・同価格で交換可(担当判断)。残:試し履き。受付番号と、商品名と、確認済みの項目と、男の担当者番号が並んでいて、客の名前を書く欄は、どこにもない。
男は業務端末をポケットに突っ込み、バックヤードの扉の向こうへ消えた。扉が閉まるまでに、透は頭の中で八十まで数えていた。倉庫から戻ってくるまでには、どう見ても足りない。
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倉庫は遠いらしかった。
ベンチに座って待つ間に、指先が冷えてくる。透は上着のポケットからゼリーを一本出して封を切り、半分を一息に飲んで、残りはポケットに戻した。昼から何も入れていなかった胃が、それで少しだけ黙る。売場の照明が、また一列落ちた。レジの女の店員が釣り銭を数え、眼鏡の男がシャッターの操作盤の前に立っている。どちらもこちらを見ない。
閉店時刻になりました、とエージェントが言い、店内の音楽が止んだ。
バックヤードの扉が開いて、腕まくりの男が箱を抱えて出てきた。袖に、倉庫の埃が白く線になってついている。
ベンチの前で、男の足が止まった。抱えた箱と、座っている透を見比べて、一拍。それから男は箱を脇に挟み、ポケットの業務端末を出して画面を読んだ。
読み終えても、男は動かなかった。
画面を少し戻して、また読む。透には、男がどの行で止まっているのか分かった。担当判断。男が自分の親指で打った四文字で、男はそれを打ったことを覚えていない。閉店時刻を過ぎた売場で、覚えのない客に、覚えのない判断で、差額なしの交換を通す。通せば、それは男の責任になる。男の目が一度、バックヤードの扉の方へ動いた。その向こうに、たぶん、確認を取れる誰かがいる。
「お客様」男は画面から目を上げずに言った。「これ、どういう経緯で」
経緯なら、全部言える。
四日前、奥へ行った眼鏡の店員が戻ってきて初対面になったこと。さっきのメモと、どなたの、と言われたこと。番号の紙。この男が段ボールを抱えて来て、三回目って誰です、と言ったこと。レシート確認済。計測板の光。棚の前の舌打ち。控え。剥がれた靴底。今日がいいってことですか。戻ってきてまた一から聞くの、嫌なんで。一語も落とさずに言える。言えば、たぶん男は納得する。今日一日、透はずっとそうしてきた。
透は、端末を握っている男の親指を見た。
「そこに書いてあるとおりです」
男が顔を上げた。透を見る。それから腕の中の箱を見て、袖についた白い埃を見て、もう一度画面を見た。長い息が、さっきよりも長く出た。
「……自分が通すって書いてんなら、通します」
苛立った声のままだった。男は業務端末をポケットに戻し、箱の蓋を開けた。
「閉店過ぎてるんで、早めにお願いします」
シャッターの操作盤の前から、眼鏡の男がこちらへ声をかけた。
「まだ閉めないんですか。それ、上に通しました?」
「担当判断です」腕まくりの男は振り向きもせずに言った。「二〇六、残ってるんで。閉めといてください、半分まで」
眼鏡の男は肩をすくめて操作盤に戻り、シャッターが軋みながら下り始めた。透はその音を聞きながら、靴の紐をほどいた。
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男は新しい靴を箱から出し、紐をゆるめて、透の足元に揃えて置いた。
透は底の抜けた右の靴と、まだ底のある左の靴を脱ぎ、靴下だけになった足を新しい方へ入れた。紐を締める。男がしゃがんで身を乗り出し、親指でつま先を押した。
ぐ、と押される。
親指の下に、指一本ぶんの余りがあった。
踵は浮かない。立ち上がって、照明の落ちかけた通路を四歩歩くと、靴底が床を押し返してきて、どこも鳴らなかった。もう二歩歩いて、振り返る。爪先を上げて下ろし、踵を上げて下ろしても、靴の中で足が遅れてついてくる感じがない。男は腕時計を見ていた。
「これでいいですね」
男はもう膝を伸ばしかけていた。
「はい」
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精算は、受付端末が半分やってくれた。四日前の二十五・五が戻され、別モデルの二十五が同じ金額で通る。差額なし、と画面に出た。男は業務端末で受取予定を開き、取り寄せ、取り消しときます、とだけ言って親指で消した。
透は空いた箱に古い靴を入れた。底のない右と、まだもっている左。剥がれた底も、その上に載せる。男は怪訝な顔をしたが、何も言わずに袋を一枚くれた。控えの紙は、申告のメモと一緒に、上着のポケットの奥へ押し込んだ。
「ありがとうございました」と透は言った。「閉店前に、測ってくれたのも、倉庫まで行ってくれたのも、通してくれたのも——」
男の目が、変わる。
透は残りを飲み込んだ。袋の持ち手を握り直して、軽く頭を下げる。男は少し戸惑った顔で頭を下げ返し、それから閉店時刻を過ぎた店内に客がいることに気づいたように、シャッターの操作盤の方を振り返った。
半分下りかけたシャッターの下をくぐったところで、背中に声がかかった。
「またお越しくださいませ」
夜の通りに出て、透は数歩歩いた。それからもう数歩、今度は少し速く歩いてみる。新しい靴はまだ硬く、踏むたびに足の裏全体で地面に触れた。ぱたりという音は、どこからもしない。袋の中で、古い靴が箱の角に当たって小さく揺れている。
駅の方へ向かう途中、コンビニの明かりの前で一度立ち止まって、足元を見た。白っぽい新しい靴が、自分の足の形のまま、アスファルトの上にある。紐の結び目が少し左に寄っていたので、しゃがんで結び直した。
信号待ちの間に端末を出して、今日の記録の一番下に打ち込んだ。
【二〇時すぎ 駅北の靴屋。交換した。二十五。測ってもらった。通してもらった】
打ち終えて端末をしまうと、信号が青になった。透は袋を持ち替えて、横断歩道を渡り始めた。
この短編に登場する日野透は、長編『人間未解』にも登場します。AIが正解を示す2049年の街で、九十秒を過ぎても透を忘れない少年と出会う物語です。
AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー
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