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自由を手に入れた奴隷剣闘士の成り上がり冒険譚  作者: 九太郎


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1/2

国境

 国境の門は、黒い鉄でできていた。

 その向こうにあるのはオルドレア帝国領。こちら側に伸びる道は、アルヴェリア王国へ続いている。

 グラムは、その境目に立たされていた。


「ここまでだ」


 帝国兵の隊長が、事務的な声で言った。

 腰には剣。背には簡素な旅袋。手には、銀の板でできた証がある。それ以外、グラムには何もなかった。荷馬車もない。案内人もいない。

この帝国兵は、ひとりの男を国境の外へ出すという仕事が済めば速やかに自分の町へ帰るだろう。


「自由民グラム。お前は、オルドレア帝国古法により自由を認められた。よって、今後は好きな土地で生きるがいい」

「好きな土地」

「そうだ」


 隊長は短く答えた。礼儀正しい口調だったが、その目は早く立ち去れと言っていた。


「帝国内には戻れるのか」

「手続き上は不可能ではない」

「手続き上は、か」

「賢いなら聞き返すな。お前のためにもならん」


 背後で門が閉じていく。重い音が、何度か響いた。

 グラムは振り返らなかった。振り返っても、そこに自分の居場所はない。


「路銀は渡した。旅券もある。自由民の証も本物だ」

「宿は」

「自分で探せ」

「仕事は」

「自由民だろう。自分で選べ」

「選ぶ、か」

「それが自由だ」

「そうか……」


戦う相手なら分かる。剣の届く距離、足の運び、呼吸の切れ目。それらなら読める。だが、宿や仕事を自分で選ぶということが、どうにもよく分からなかった。


 兵たちは門の内側へ戻っていく。

 残されたグラムは、手の中の銀板を見た。


 ――グランオルド闘技場、百勝剣闘士グラム。帝国古法に基づき、自由民と認める。


 刻まれた文字は短い。

 だが、そのために何人斬ったのか、もう数える気にもならなかった。

 銀板を握る指には、古い傷がいくつも走っている。剣の傷、爪の傷、火傷、噛み跡。傷の一つを目で追ったとき、耳の奥に歓声が戻ってきた。


 黒冠都市グラン・オルド。

 グランオルド闘技場。

 百戦目の、砂の匂い。


     *


「立て、グラム」


 奴隷監督官の声が、地下控え室に響いた。

 グラムは壁に背を預けていた。足元には、血を吸った砂がうすく散っている。上からは観客の声が降ってきた。人の声というより、巨大な獣のうなりに近かった。


「聞こえなかったか」

「聞こえた」

「なら動け。百戦目だ。お前が死ぬか、古法が動くか。今日は皇宮区からも見物人が来ている」


 監督官は、機嫌の悪い商人のような顔をしていた。

 グラムは立ち上がる。鎖はもう足についていない。逃げ出せるから外されたのではない。ここから逃げる場所などないからだ。

 控え室の奥では、次の試合を待つ剣闘士たちが黙っている。誰も祝福しない。百勝目前の男は、憧れの対象である前に、明日には自分を殺すかもしれない相手だった。


「本当に百まで行く気か」


 誰かが小さく言った。

 グラムは声の方を見ない。


「行く気で行けるなら、もっと前に行っている」

「じゃあ何だ」

「死ななかっただけだ」


 それを聞いて、控え室はまた静かになった。

 若い奴隷が、剣を差し出してきた。いつもの剣だった。柄の革はすり減り、刃には何度も研ぎ直した跡がある。

 奴隷の手は震えていた。グラムが剣を受け取ると、若い奴隷は慌てて視線を下げた。


「百勝すれば自由だ。帝国は約束を守る」

「そう言って死んだ奴を知っている」

「そいつらは百勝していない」

「そうだな」


 グラムは剣を腰に差した。

 オルドレア帝国には古法がある。公式闘技で百勝した剣闘士には自由を与える。観客を熱狂させるための古い決まり。ほとんどの剣闘士は、百に届く前に死ぬ。だから、長いあいだ問題にならなかった。

 だがグラムは九十九勝していた。

 今日勝てば、百になる。


「喜ばないのか」


 隅にいた老いた治療師が言った。グラムの傷を何度も縫った男だ。


「まだ勝っていない」

「勝ったら?」

「その時に考える」

「お前らしいな」


 治療師は苦く笑い、乾いた布を差し出した。


「血止めだ。試合前に倒れられると、俺が怒られる」

「助かる」

「礼を言う相手を間違えるな。俺はお前を治して、また砂の上に戻してきただけだ」


 グラムは布を受け取った。

 その時、控え室の向こう側で扉が開く音がした。

 次の対戦相手が通ったのだろう。


 足音が一つ。

 軽い。だが、軽すぎる。

 人間の剣士が鎧を着て歩く音ではない。かといって、獣人の重い爪音でもない。


「相手は誰だ」

「異国の処刑剣士だそうだ」


 監督官が答えた。


「無名だが腕は立つ。顔は隠している。貴族どもの趣向だ」

「顔を?」

「怖いか」

「いや」

「なら、何を気にしている」

「足音だ」

「足音?」

「人間の重さではない」


 監督官は顔をしかめた。


「試合前に余計なことを考えるな。お前は勝てばいい」

「ああ、それしか教わっていない」


 グラムは短く答えた。

 怖いかどうかではない。妙だった。

 相手は姿を隠すために、歩き方まで抑えている。だが、完全には隠せていない。


 鉄格子が上がった。

 砂の上へ続く通路が開く。


「行け、百勝剣闘士」

 監督官が言った。

「まだ九十九勝だ」

「では、百にしてこい」


 グラムは返事をせず、光の方へ歩いた。


 闘技場に出た瞬間、歓声が叩きつけてきた。

 何千もの視線が、砂の上の二人に集まる。観客にとって、今日は祭りだった。奴隷が百勝するか、死ぬか。どちらに転んでも、見世物としては十分だった。

 円形の客席は人で埋まっている。貴族席には白い衣の役人たちが並び、その奥に黒い旗が垂れていた。帝国の旗だ。


「九十九勝、無敗!」


 司会役の声が響く。


「グランオルド闘技場が生んだ、鎖の剣鬼! 奴隷剣闘士、グラム!」


 歓声が上がる。

 グラムは応えなかった。

 反対側の門が開く。


 そこから現れたのは、黒い帽子を深くかぶった剣士だった。顔の上半分は半仮面。首元は高い襟で隠し、手には厚い革手袋をはめている。外套の裾が、砂の上をかすめた。


 無口な処刑剣士。そういう演出なら、分かりやすい。

 だがグラムは、相手の重心に違和感を覚えた。

 剣を持っている。なのに、剣で仕留める構えではない。足が、跳ぶ準備をしている。


「始め!」


 鐘が鳴った。

 相手が踏み込む。

 速い。人間の剣士としては、速すぎる。

 観客席からは称賛の声が上がった。彼らには、よく鍛えられた剣士の踏み込みに見えたのだろう。


 グラムは一撃目を受け流した。金属が鳴る。相手はすぐに二撃目を出す。剣の型は整っている。だが、目が違う。剣先の届くところではなく、ずっと喉を見ている。


「……」


 グラムは半歩退き、相手の一撃を誘った。

 敵の剣が横に流れる。その瞬間、グラムは下から刃を返した。

 殺すための一撃ではない。まず隠しているものを剥がす。そう決めていた。

 狙ったのは首ではない。帽子を留めている金具だった。


 刃が金具を断つ。

 黒い帽子が砂に落ちた。

 続いて、頭を覆っていた布がずれる。


 現れたのは、人間の頭にはない、灰色の獣耳だった。


 歓声が消えた。

 誰かが、かすれた声で言った。


「人獣だ」


  人獣。人を食うために人のように進化したモンスターの総称


 観客席の空気が変わる。

 半仮面の下で、相手の口元がゆがんだ。

 グラムは剣を構え直す。


 相手はもう、人間のふりをやめていた。


最後まで読んでいただき誠にありがとうございます。

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