元娼婦を伯爵夫人にする方法
——神様お願いです。どうか……この男を一発ぶん殴る権利を私にください。
できれば利き手で。思いきり。
鼻につくアルコールの匂いと、頭皮を伝う冷たい感触に顔を顰めながら、私は必死にそんなことを考えていた。
◇◇◇
遡ること三年前。
私——ディアナ・ウィリアムズは、留学を目前に控えた男爵令嬢だった。
ウィリアムズ男爵家は、貴族としての格こそ高くないが、父の事業が大成功を収めたおかげで財政的にはかなり豊かだ。
そして私は、その財力を惜しみなく注いでもらった教育の成果として、女性として初となる、ある国への留学が内定していた。
人生、順風満帆。そのはずだった。
「ディアナ様、あなたのような方が私の妻になってくれたら、これ以上望むことはありません」
カイルに求婚されたことが、すべての始まりだった。
両親は決して口には出さなかったが、この求婚を喜んだ。
やはりレールから外れた人生よりも、世間一般でいう“女の幸せ”を選んでほしかったのだろう。
それでも、あくまで私の意思を尊重しようとしてくれる両親を前に、我を通すことは出来なかった。
まあ仕方ない。
これほど私を愛してくれる人と結婚できるなんて、光栄なことじゃないか——なんて思っていた時期が、私にもありました。
カイル・プレストン伯爵令息。
端整な顔立ち、洗練された物腰、完璧な礼儀作法。
社交界では「理想の婚約者」と名高く、令嬢たちの憧れの的。
その彼が私を選んだと聞いた時、友人たちは口を揃えて言った。
「玉の輿ねえ」
「ラッキーじゃない」
「薬でも盛ったの?」
最後の一言は余計だが、まあそれはそれとして。
結婚式は盛大に執り行われ、私は晴れてプレストン伯爵家に輿入れした。
——そして結婚二日目にして、夫はよその女に走った。
◇◇◇
貞淑な妻である私は、生理的嫌悪を隠すのに精一杯で、いわゆる「床上手」ではなかったらしい。
夫の言い分はこうだ。「男が外に女を作るのは本能だ。お前が俺を満足させられないから悪い」。
だから娼館通いも、馴染みとなった娼婦を身請けして勝手に屋敷に住まわせることも、仕方ないのだとか。
その上、姑は毎日のように部屋に押しかけてきては「まだ懐妊しないのか」「跡取りをもうけることが嫁の義務」と圧をかけてくる。
「子供を産め? 私はあなたと違って人間なので、単為生殖はできません」
内心ではそう返しながら、表では「精進いたします」と頭を下げる毎日。
輿入れして初めて知ったのだが、プレストン伯爵家の家計は火の車だった。
先代が道楽に使い込み、今代も見栄のために散財を続けた結果、内情はかなりひどい状態だ。
「面倒だから」と女主人であるはずの姑に家計管理を丸投げされた私は、帳簿を開いて目眩がした。
私の持参金が、湯水のように消えていく。
節約を提案すれば馬鹿にされ、黙っていれば使われ続ける。夫は愛人と豪遊し、義両親は跡取りを催促し、私は一人で帳簿と格闘する。
それでも私は勉強を続けた。
誰一人味方がいないこの状況で私を助けてくれるのは、知識だけだとわかっていたから。
◇◇◇
我慢のコップから水が溢れたのは、結婚から一年が経った夜のことだ。
夫がエマにまたネックレスを贈ったという話を聞き、帰宅した夫に向かって、私は穏やかに言った。
「カイル様、今月だけでもう三回目です。さすがにもう家計が破綻してしまいます。もう少し慎んでいただけないでしょうか」
「うるさい」
ほとんど酩酊状態の夫は、持っていたワイングラスを私の頭上で傾けた。
真っ赤なワインが、まるで血のように頭を伝って顔に流れてくる。
私は怒りに震えながら目を閉じ、少し考えた。
何か間違えたことを言っただろうか? それとも、私の態度が偉そうだった?
いいや。単純に、この男が理不尽なだけだ。
——私はよく頑張った。もう十分だ。
◇◇◇
翌日から、私は計画を立てはじめた。
問題はシンプルだ。この国では、女から離婚を切り出すことができない。不貞があっても、暴力があっても。離婚を言い渡せるのは夫だけで、妻にできるのは耐えることだけ。
ならば——夫から切り出させればいい。
私はその日、屋敷の廊下を我が物顔で歩くエマをあえて避けずに、ぶつかってみた。
二人きりで話す機会が欲しかったのだ。
「痛っ」
「ちょっと、どこ見て歩いてるのよ! あんたみたいな勉強ばかりしている石頭は、もっと隅を歩きなさいよ!」
仮にも正妻に対して、この態度だ。
思ったよりもエマががっしりしていたせいで吹き飛びかけたが、かろうじて堪えた。
無言でぶつかった肩を押さえていると、エマはますます顔を歪めて私を睨みつけてきた。
「なんとか言ったらどうなのよ。貧相な体の上に陰気な性格だなんて、カイル様はなんでこんな女なんかと結婚してしまったのかしら」
私はぶん殴りたくなるのをこらえて、目に涙を浮かべた。
女優の才能が自分にあるとは思っていなかったが、この一年で随分と磨かれたようだ。
「……知っています」
声を震わせながら、私は続けた。
「カイル様が私ではなくあなたを愛しているのは、わかっています。子を産めない私が離縁されずにいるのは、実家の財力があるからに過ぎない」
「よくわかってるじゃない」
私のしおらしい演技に、エマが面白そうに眉を上げる。
どうせ今のうちだけだ。存分に楽しむがいい。
「でも——義両親は、体面をとても気にされる方で……」
私は躊躇うように、声を落とした。
「どれほどカイル様があなたを愛していても、貴族でない方を正妻として迎えることは、あの方たちが許さない。せいぜい愛人止まりで、跡取りを産んだとしても認知されるかどうか……」
エマの目が、わずかに細くなった。
私はそこに畳み掛けた。
「もちろん、あなたが貴族のご出身なら話は別です。生まれが違っても——没落した貴族家に養子として迎えられた方なら、れっきとした貴族のお嬢様ということになる。さらに跡取りを身籠りでもすれば、義両親も体面上は受け入れざるを得ない。でもそんなことは、きっと不可能ですよね……」
「……何が言いたいの」
エマの声が、低くなった。
「所詮は卑しい女だから、どんなに愛されても伯爵夫人にはなれないって言いたいの? 随分と馬鹿にしてくれるじゃない」
「そんな、違います、私はただ——」
「もういい。あなたの顔なんか見たくないわ」
エマは私を一瞥して、踵を返した。
「……覚えてなさいよ」
吐き捨てるように言い残して、荒々しい足音を廊下に響かせて去っていく。
一人残された私は、彼女の足音が完全に消えてから、そっと息を吐いた。
——うまくいった。
人間、「出来ない」と言われたことほど、やりたくなるものだ。
特にあの女は、なりふり構わずやってのけるだろう。
あとは植えた種が芽吹くのを、じっくりと待てばいい。
◇◇◇
計画は、拍子抜けするほどうまくいった。
彼女は金と娼館時代の客のコネを使い、まんまと没落貴族との養子縁組に成功したらしい。
その上、随分とタイミングのいいことだが、「子ができた」と夫に伝えたそうだ。
金で買った身分とはいえ、建前上は貴族令嬢な上に、跡取りを身籠ったのだ。
義両親は顔を顰めながらも、跡取りのためにエマの存在を認めざるを得なくなった。
それから程なくして、夫は私に離婚を言い渡した。
理由は「子を産めない妻との婚姻は無効」。
私はうつむいて涙を拭うふりをしながら、内心大喜びで書類にサインをした。
——ちなみに、離婚手続きの直前に、私はしっかりと持参金を全額回収しておいた。
帳簿の管理を任されていたのは私だったから、合法的に、粛々と。
私が思う不用品はすべて換金し、彼らが「使い込んだと思っていた持参金」は、ちゃんと私の手元にある。
湯水のように使われていたのは、プレストン家自身のなけなしの資産だったということにした。
私がつけた帳簿を解読できる者が、あの家に一人でもいれば、すぐに気づけたかもしれない。
でも彼らは、勉強が好きな嫁を馬鹿にしていたから。
気づくのは、きっと破産寸前になってからだろう。
◇◇◇
離婚から二ヶ月後。
私は社交界に復帰した。離婚された哀れな女と嘲笑する声が聞こえても、顔には微笑みを貼り付けて会場を歩く。
そして——見つけた。
元夫のカイルが、今や正妻となったエマとともに歓談している。エマは妊婦らしいドレスをまとい、腹部を強調するように立っている。
元義母が過保護なほどにエマの体を気遣い、元義父が誇らしげに孫の話をしている。
随分と幸せそうで、何よりだ。
私はカイルが一人離れた隙にゆっくりと近づいて、声をかけた。
「ご機嫌よう、カイル様。お久しぶりですね」
カイルが振り返る。一瞬だけ、不快そうに表情が歪んだ。
「……ディアナか。元気そうで何よりだ」
「ええ、おかげさまで。——ねえ、カイル様。一つだけ教えて差し上げましょうか」
「なんだ、どうせくだらないことだろう」
私は微笑んだまま、一歩だけ近づいた。
そして、彼の耳元に唇を寄せて、小声で言った。
これが私の、最後の贈り物だ。
「奥様のお腹の膨らみ方、少し不自然だと思いませんでした? 妊娠三ヶ月で、あんなに膨らむわけがないのに」
カイルの表情が、一瞬で変わった。
彼は知っていたから。私が何を学ぶために留学する予定だったのかを。
その私が言うのなら、でたらめではない。そう直感したのだろう。
私は火の粉が降り掛からぬよう、そっとカイルから離れた。
そして、扉に向かって歩きながら、心の中でカウントダウンをしてみた。
三、二、一——
「誰の子だ!!」
その怒号に、会場が凍りついたのを肌で感じた。
◇◇◇
後から聞いた話によると、その後の顛末はこうらしい。
怒り狂ったカイルがエマを殴りつけたはずみに、エマが倒れてテーブルに腹をぶつけた。その衝撃で詰め物がずれて、妊婦らしい膨らみの正体が露わになったらしい。
跡取りフィーバーで過保護になっていた元義母は慌てて駆け寄ったそうだが、変形した腹部をみて当然激怒。
「まさか妊娠を偽装するだなんて、なんて卑しい女なの!? 大事な跡取りを産むと思ったから、仕方なく娼婦なんかとの結婚を許してやったのに!!」
夜会の会場で、随分と醜く罵り合っていたそうだ。
それまで「完璧な伯爵家」として築き上げてきた彼らのイメージは、その夜のうちに崩壊した。
紳士なはずの伯爵令息によるDV、元娼婦の偽装妊娠に、醜い嫁いびり。
スキャンダルは、翌日には社交界中に広まった。
唯一あった名誉すら失った彼らには、何一つ残っていなかった。
湯水のように使えるお金がないと気づいた時、プレストン家は初めて自分たちの本当の状況を知ったらしい。
どうやら、あんなに執着していた跡取りの顔を見ることなく、伯爵家は終わりを迎えそうだ。
彼女がなかなか本当の子を身籠れなかったのは、あるいは男の側に原因があったのかもしれないが——それはもう、私の知ったことではない。
◇◇◇
私はその頃、すでに国境を越えていた。
留学が決まっていた国の女性医師——マリサ先生とは、結婚後も手紙のやり取りを続けていた。「いつでも来なさい」と言ってくれていた先生は、私の事情を聞いて、すぐに受け入れてくれた。
医学校の硬い椅子は、伯爵家のどの椅子よりも居心地がいい。
窓の外には母国と違って、眩しいほどに青い空が広がっているし、教科書は新しい知識でいっぱい。夜には気の合う学友たちと他愛もない話をする。
誰も私に跡取りを求めないし、女だからというだけで私を馬鹿にしない。
——神様は、あのスカした男の顔面を陥没させる権利はくれなかったけれども。
代わりに、もっといいものをもらった気がする。
私は講義用のノートを開きながら、ひとりごちた。
まあ、悪くない人生じゃないか。
今日も、青い空がある。叶えたい夢がある。それで十分だ。




