3. セレスティアは有能な親友により『推し』の概念を理解する
辺境都市フレリアにある、冒険者向けの清潔な宿屋の一室。
王都から長旅を経て到着したばかりのセレスティアは、すっかり日が落ちた窓辺の椅子に深く腰掛け、両手で包み込んだティーカップの湯気をただ呆然と見つめていた。
「はい、セレスちゃん。カモミールティーのお代わり。あと、甘いクッキーあるよ」
沈黙する彼女の隣に、ふわりと温かい気配が寄り添う。
聖女アリア・フェアブルーム。
セレスティアより2つ年上である彼女は、王都にいた頃から頼れる姉のような存在だった。
コトリ、とサイドテーブルに温かいお茶と焼き菓子が置かれる。
セレスティアはゆっくりと瞬きをして、親友を見上げた。
「……ごめんなさい、アリア。私としたことが、取り乱してしまって」
「ううん、気にしないで。王都を出る前からずっと気を張ってたし、疲れが出たんだよ」
「違うの。私は今日、完璧な淑女として、彼らと対等な交渉をするはずだったわ。それなのに……」
セレスティアは悔しげに唇を噛み、ティーカップの縁を指でなぞった。
713回のループ。彼岸の果てまで追い求めた愛執。
どんなゼノであっても受け入れ、完璧に手綱を握る自信があった。だが、今日ギルドで対峙した『今のループの彼』は、セレスティアの想定をはるかに超えて、新しく、美しかった。
「……彼の顔を見た瞬間、頭が真っ白になったの。私の知っている彼なのに、全く知らない眩しさがあった。鼓動がうるさくて、息ができなくて……自分がひどくちっぽけな存在に思えて、言葉が一つも出てこなかったわ」
膝の上で、ぎゅっとドレスの布地を握りしめる。
そんなセレスティアの頭を、アリアは「よしよし」と優しく撫でた。
「なるほどねえ。712回も一緒にいたから全部知ってるつもりだったけど、いざ713回目の彼を目の前にしたら、尊すぎてバグっちゃったってことだ」
「と、尊い……? バグ……?」
「うん。王城の侍女たちがよく読んでる恋愛小説でね、そういうの『推し』って言うらしいよ。ちなみに、私の推しは女神様!」
えっへん、と胸を張る聖女に、セレスティアは目をパチクリとさせた。
「……推し? アリアの女神様への祈りって、聖女としての篤い信仰心じゃなかったの?」
「信仰心イコール、推しへの愛でしょ! この前の御神託なんて、女神様の声が尊すぎて私、祭壇の前で気絶しちゃったもん! いやー、あれはファンサービス神がかってたなぁ。毎日のお祈りは実質ファンミーティングだよ!」
「(……この国の聖女、駄目かもしれないわ)」
セレスティアはそっと遠い目をした。
しかし、アリアは気にした様子もなく、うんうんと頷きながら人差し指を立てる。
「つまりね、擦り切れるほど読んだ大好きな本に、今まで見たこともないくらい最高の書き下ろし絵姿が載ってたら、誰だって叫んで倒れるでしょ? セレスちゃんにとってのゼノさんは、もはや単なる愛する人を超えた、神聖な『推し』の領域に達しちゃってるんだよ」
ーー推し。
究極の情動と、圧倒的な美に対する信仰。
アリアの俗っぽくも、自身の経験に基づいた的確な例えに、セレスティアの目がわずかに見開かれた。
(ああ……なるほど。私は彼を、今の彼を『推して』しまったのね……)
腑に落ちた瞬間、胸の奥で燻っていた得体の知れない熱が、スッと明確な形を持った気がした。
自分は決しておかしくなったわけではない。ただ、目の前の圧倒的な「良さ」に、魂が正常な反応を示しただけなのだ。
「アリア。私、なんだかすごく納得したわ」
「でしょ? だから、今日ギルドで固まっちゃったのは仕方ないの! いきなり推し本人を目の前にして、すらすら喋れるオタクなんていないんだから」
「……ええ、そうね。アリアの言う通りだわ。……でも、明日はどうしよう。このままでは、私はただの不審な女として彼に追い返されてしまう」
セレスティアが不安げに目を伏せると、アリアはパンッ! と両手を勢いよく叩いた。
ビクッと肩を揺らしたセレスティアに向かって、アリアは力強い笑顔を向ける。
「大丈夫! 今日はただの『予行演習』。顔合わせの事前偵察だったと思えばいいの!」
「予行、演習……」
「そう! 本番は明日! 私たちがやるべきことは、Sランク冒険者っていう気難しいクライアントに、無尽蔵の予算と最高の環境を提示する『大型商談』だよ!」
アリアはクッキーを一つ齧りながら、セレスティアの背中をバンバンと叩いた。
「計画は、セレスちゃんの頭の中に完璧に揃ってる。あとは、明日自信を持ってそれを伝えるだけ! 今日失敗したからって落ち込んでたら、明日の本番まで引きずっちゃうよ?」
「今日は温かいお茶を飲んで、お風呂に入って、ゆっくり寝る! そして明日の朝、鏡の前で世界一美しい令嬢の顔を作って、堂々とギルドの扉を開けるの。セレスちゃんなら、絶対にやれる!」
親友の、裏表のない真っ直ぐな励まし。
セレスティアはゆっくりと顔を上げ、カップに残っていたカモミールティーを飲み干した。
胸の奥の重苦しい靄が晴れ、代わりに、令嬢としての誇りと、713回分の研ぎ澄まされた愛情が静かに燃え上がり始める。
「……ありがとう、アリア。あなたのおかげで、目が覚めたわ」
「ふふっ、いつものセレスちゃんの顔に戻ったね! ――あ、そういえばさ」
空になったカップを受け取りながら、アリアはふと思い出したように首を傾げた。
「セレスちゃん、『実家を追放されて行く当てがない』って言ってたけど、お母様たちから直接そう言われたの?」
「え? いいえ、お母様たちには何も言わずに学園から直行したわ。でも、公衆の面前で王太子殿下に婚約破棄されたのよ? しかも聖女であるあなたをいじめたという大罪付きで。当然、実家も勘当されるに決まっているじゃない」
セレスティアは「完璧な悪役令嬢を演じきった」という誇りから、ふふっと自信満々に胸を張った。
「殿下が我が家に処分を下す前に、飛び級で稼いだ私個人の資金だけを持って自ら姿を消す。それがローゼンブルク侯爵家の名誉を守るための、私の最後の恩返しよ」
「……そっかぁ」
清々しい顔で言い切るセレスティアを見て、アリアは曖昧な笑みを浮かべた。
(あれ……? セレスちゃんのご家族って、セレスちゃんのこと異常なくらい溺愛してたよね? 私にまで毎月『娘と仲良くしてくれてありがとう』って高級なお茶葉送ってきてたし……
王太子が勝手に暴走しただけなら、今頃、愛娘を公衆の面前で傷つけられた侯爵家は総出でブチギレて、王城に乗り込んでいるのではないだろうか。
……追放されてるの、セレスちゃんじゃなくて王太子殿下の方では? 絶対、今頃血眼になってセレスちゃんを探してるよね……)
アリア自身も人のことは言えなかった。
「推し活の旅に出ます!」という置き手紙を一枚残し、王宮の警備をすり抜けて勝手に家出をしてきた身なのだ。王都は大混乱に陥っているに違いない。
(……家出令嬢と、家出聖女。女二人で護衛もなし)
アリアは内心で冷や汗をかいた。
いくらセレスティアが勇者の力を持っているとはいえ、アリアはまだ彼女の本当の強さを知らない。実家からの護衛も、侍女もいない今の状況は、辺境ではあまりにも無防備で危険すぎるのだ。
(だからこそ、明日は絶対にあの二人を護衛として引き入れなきゃダメだ。もし断られたら……その時は、セレスちゃんを説得して、お母様たちにこっそり手紙を書かせないと)
アリアは、親友の身の安全と、今頃心配で泣いているであろう侯爵家の面々の顔を思い浮かべ、密かに拳を握りしめた。
「明日は絶対に、ゼノ・ノックスヴァインと契約を結んでみせるわ!」
窓の外の夜空に向かって、力強く宣言する親友の横顔を見つめながら、アリアは力強く頷いた。
「うん! 何がなんでも、最高の護衛(推し)をゲットしようね!」
かくして。
有能で少しズレている親友の励ましにより見事にメンタルを立て直した(そして重大な勘違いを抱えたままの)セレスティアと、極めて現実的な危機感を抱くアリアは、明日への決意を胸に、静かに闘志を燃やすのだった。
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