15. 迫り来る厄災と勇者への依頼
冒険者ギルド・フレリア支部の最奥。
普段は一般の冒険者が立ち入ることのない、重厚な扉で閉ざされたギルドマスターの執務室に、重苦しい沈黙が降りていた。
「……単刀直入に言おう。この街に、未曾有の危機が迫っている」
顔に無数の古傷を持つ歴戦のギルドマスターが、巨大な羊皮紙の地図を机に広げ、険しい声で告げた。
地図の一点、フレリアの街から北東に位置する山岳地帯に、赤いインクで大きな×印が付けられている。
「昨日、北東の山脈を調査していた斥候部隊が全滅した。辛うじて逃げ延びた一人の報告によれば……山脈の主である『狂魔の岩竜』が、深い眠りから目覚め、街へ向かって南下を始めている」
「……岩竜、ですか。それはまた、厄介なものが起きましたね」
ゼノが静かに腕を組む。
岩竜。その身を強固な岩石の鱗で覆い、歩くだけで地形を変える巨大な魔獣。
通常の個体でもBランク上位に位置するが、長年の魔力溜まりで狂暴化した『狂魔』の冠がつく個体となれば話は別だ。
「単独で国家の軍隊を壊滅させる災害指定の魔獣……ギルドの規定では、文句なしのAランク討伐案件だな」
ラキシスが顎に手を当てて呟く。
「その通りだ」とギルドマスターは重く頷き、そして、ゼノのサファイアブルーの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「本来なら、王都へ応援の要請を出し、騎士団の到着を待つべき事案だ。だが、岩竜の進軍速度を考えれば間に合わない。街の外壁など、奴の突進の前では紙クズも同然だ」
ギルドマスターは机に両手をつき、深く頭を下げた。
「Sランク剣士、ゼノ。……お前が数日前、魔の森でBランク変異種と数十の群れを、神々しい光の剣圧のみで一掃したという噂は聞いている。街の連中は、お前を『伝説の勇者の再来』だと騒いでいる」
「……」
「街の全戦力を結集し、お前のサポートに回す。頼む、このフレリアを……街の民を救ってくれ!」
悲痛なまでの願い。
しかし、ゼノの表情は微塵も動かなかった。
「……お断りします」
冷徹なまでに静かな声が、執務室に響く。
ギルドマスターが息を呑む中、ゼノは振り返り、自身の背後に控えるセレスティアとアリアを一瞥した。
「僕は現在、このお二人の専属護衛として動いています。ギルドマスター、あなたが提示した敵はAランクの災害指定魔獣だ。どれほど戦力を結集しようと、激戦は免れない」
ゼノは再びギルドマスターに向き直り、一切の揺らぎのない声で告げた。
「僕の最優先事項は、セレスティア様とアリア様の安全です。彼女たちを危険地帯に連れて行くことも、逆に彼女たちを安全な場所に残して僕だけが戦場へ赴くことも、護衛として絶対に容認できない。……他のSランクを探してください」
それは、どこまでもストイックで、プロフェッショナルなSランク護衛としての完璧な回答だった。街の危機よりも、目の前の主の命を重んじる。彼の中の「絶対に手を離してはならない」という本能が、何よりも優先されていた。
「ゼノ様……」
セレスは、扇子で口元を隠したまま、静かに目を伏せた。
(ああ……713回目のあなたも、本当に誠実で、私を第一に想ってくださるのね)
彼女の胸の奥に、深く静かな愛情が満ちていく。
どれほど世界が危機に瀕していようと、彼にとっての優先順位の最上位は常にセレスなのだ。その不器用なまでの忠誠心が、痛いほどに愛おしい。
――しかし。だからこそ、セレスはここで退くわけにはいかなかった。
(Aランクの災害指定魔獣。……これ以上ない、最高の舞台だわ)
セレスティアは静かに決意を固めた。
この圧倒的な脅威を前に、ゼノが街を救えば。彼が放つ剣閃が岩竜を打ち倒せば。
『ゼノ=神話の勇者』という噂は、もはや誰も疑うことのできない『揺るぎない絶対の真実』として、国境を越えて世界中へと響き渡るだろう。
愛する人を、理不尽なシステムから完全に切り離すための、最も巨大で完璧な偽装工作。
セレスはパチンと扇子を閉じ、一歩前へ出た。
「……お受けしましょう、ギルドマスター」
「セレスティア様!?」
ゼノが驚愕に目を見開く。セレスは優雅に微笑み、彼を見上げた。
「ゼノ様。あなたの私への忠誠と配慮には、心から感謝しておりますわ。ですが……もしこの街が滅びてしまえば、私たちの平穏な生活拠点も失われてしまいます。それは困りますの」
「しかし、Aランクの魔獣です! 万が一、あなたに危険が及べば――」
「ですから、あなたに守っていただくのです」
セレスは真っ直ぐに、深い信頼を込めて彼のサファイアブルーの瞳を見つめた。
「私たちは後方の安全な陣地から、あなたを見守ります。……私のために、この街の平穏を守ってくださる? 最高の剣士様」
主からの、絶対的な信頼と願い。
ゼノはギリッと奥歯を噛み締め、やがて深く、長く息を吐き出した。
「……承知いたしました。あなたがそう望まれるのであれば、あなたの平穏を脅かす災厄は、僕がすべて斬り伏せます」
「フハハハ!! そう来なくてはな!」
張り詰めた空気をぶち壊すように、ラキシスが高笑いした。
「岩竜の巨体! そして街を救う大義名分! 俺の改良した特効魔道具『闘気光輝変換環・第二形態』のテストにはこれ以上ない最高のシチュエーションだ!!」
「……また剣が光って音が鳴るのですか。視界の邪魔なのですが」
「馬鹿者、今回はただ光るだけじゃないぞ! 後で驚くがいい!!」
ストイックな剣士が深く頭を抱える横で、アリアは静かにギルドマスターへと向き直った。
「あの、ギルドマスター。確認ですが、街の総力戦とはいえ、最も被害を防ぎ、岩竜の討伐に貢献したパーティーには、それ相応の……例えば、特例の『Bランク昇格』や、莫大な特別報酬が出るという認識でよろしいですよね?」
聖女の抜け目のない交渉術に、歴戦のギルドマスターもタジタジと頷くしかなかった。
(さて。そうと決まれば、準備を始めなければなりませんね)
セレスは静かに、自身の中に眠る『真の勇者』としての規格外の魔力を練り上げ始める。




