プロローグ 713回目の絶望と黄金の烙印
唐突な『熱』に弾かれ、意識が覚醒した。
肌を直接、焼きごてでジュッと押し当てられたような鋭い痛み。
だがそれは決して不快なものではなく、どこか神聖で、脳を溶かすような甘やかな痺れを伴っていた。
痛みの源である左腕を見た瞬間、呼吸が止まる。
脈打つ左手首の内側に、淡い黄金の光を放つ『聖なる剣と双翼の紋章』が浮かび上がっていたのだ。
それは、おとぎ話でしか聞いたことのない絶対的な印。
神に選ばれし『勇者の証』であった。
その黄金の輝きを目にした途端、途方もない記憶の濁流が小さな器に雪崩れ込んだ。
魂の奥底に掛けられていた厳重な封印が強引にこじ開けられる。
燃え上がる虚空と、赤き涙に沈む王都。
絆は白き塵となり、乾いた風に彷徨う、最果ての荒野。
そして、凄惨な砲撃で砕けた木々が虹色に光る、おぞましいほどに美しい、硝子の森。
心が、空へ落ちていくような感覚。
「……713、回目」
血の気を失った震える唇から、自然とその数字がこぼれ落ちた。
そうだ。この世界は初めてじゃない。
魔王軍との戦争の果てに世界が一つの選択を迎えるたび、時間が巻き戻り、歴史は最初からやり直されている。
そして、世界の真実を思い出したと同時に、『勇者』という存在に課せられた、神の定めた究極の理も理解してしまった。
ーー勇者は、魔王を倒し、その『目的』を達成した瞬間――この世界から『消滅』する。
因果の枠組みから完全に切り離され、世界が再びループを迎えても、次の世界には存在できなくなるのだ。
親も、友も、愛する人でさえ、その存在を一片たりとも思い出すことなく、最初からいなかったものとして次の平坦な世界を生きていく。
分厚いベルベットのカーテンが閉ざされた、薄暗く静寂に包まれた部屋の中。
目の前には、絶望に打ちひしがれ、青ざめた顔で立ち尽くす『勇者』が一人、ただ静かに佇んでいる。
乱れた髪。華奢な体躯。小刻みに震える唇。
そして、脈打つ左手首の内側に刻み込まれた、痛々しいほどに鮮烈な黄金の烙印。
この哀れな人間は、世界を救うためにすべてを投げ打った後、誰からも感謝されることなく、忘れ去られたまま永遠の無に帰すのだ。
なんて残酷な運命なのだろう。
もし、この理不尽な烙印が、愛しい『あの人』の腕に刻まれていたなら?
712回の絶望の中で、常に心を支配し、唯一の光だったあの少年が、魔王を倒して因果の外へ消え去ってしまったなら?
勇者のいなくなった次の世界で、残された者は何も知らず、心に空いた穴の理由すら分からないまま、また起伏のない日々を繰り返して生きていくのだろうか。
「そんなの……絶対に、嫌。消えるなら、一緒がいい」
血を吐くような、掠れた声が響く。
あの人が何も知らず、拭いきれない欠落を抱えたまま、別の誰かと笑い合う未来なんて、想像しただけで狂ってしまいそうになる。
神様は間違えたのだ。こんな運命、素直に受け入れるはずがない。
「……なら、世界ごと騙してあげる」
ふつふつと、甘く暗い情念が腹の底から湧き上がる。
すべての起伏が均らされ、平坦に終わるだけの人生の中で、この狂おしいほどの執着だけが、唯一の私の証明だ。
運命が絶対だというのなら、神の目すら欺く完璧な盤面を作り上げればいい。
『この世界の誰もが知る勇者(偽)』と、『本物の力を持つが誰にも知られていない真の勇者』に役割を分かち合えばいい。
誰の目にも疑いようのない、眩いばかりの『偽物の太陽』。完璧な『勇者』を仕立て上げ、この狂った箱庭の法則を根本から歪めてみせる。
私はそっと手を伸ばし、目の前に立つ哀れな勇者の――その左手首の烙印に、優しく触れた。
指先に伝わってきたのは、人間の温もりではない。
ひんやりとした、硬い硝子の感触。
それは、自室に置かれた、アンティーク調の豪奢な姿見の表面。
そこに映っているのは、涙に濡れた狂気的な瞳を持つ侯爵令嬢。
セレスティア・ローゼンブルク。
――すなわち、私自身だ。
ああ、本当に良かった。
世界から消え去る理不尽な生贄に選ばれたのが、愛するあなた――ゼノではなくて。
「待っていてね、ゼノ」
713回目のループの朝。
私は、世界を救うことよりも、ただ最愛の彼と一緒に消え去るために、すべてを騙し抜くことを誓ったのだった。
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