偽物聖女として追放されましたが、特に異論はありません。事実ですので。
「聖女を騙る偽物め! この国から出ていけ!」
宮廷で催された夜会。ロンバード王国の王侯貴族たちが一堂に会する中、教会長の怒号がダンスホールに響き渡った。
今宵宮廷では、王太子レオニスと聖女エマの婚約を祝うための祝宴が開かれていた。
数十年に一度、この国には異世界から少女が召喚される。聖女と呼ばれる彼女たちは王国を守護する聖なる力をもつとされ、代々王家へと嫁ぐ慣習だった。
半年ほど前に召喚されたエマもまたその伝統に従って、王太子レオニスと婚約を結び、来春には婚姻の儀を執り行う予定であった。
「エマが偽物? どういうことです?」
レオニスは動揺を隠しきれない様子でそう尋ねた。
「先ほど本物の聖女が見つかったのです。このアリサこそが聖なる力を持つ聖女に他なりません」
教会長はそう言って、自らの傍に立つ可憐な少女を示した。アリサと呼ばれたその少女は大きな瞳を潤ませて、涙ながらに訴えた。
「私……この世界に召喚された直後、誰かに連れ去られて……ずっと閉じ込められていたんです。逃げ出した時には、もう……私の代わりに、エマ様が聖女として宮廷に……」
静まり返ったホールにアリサの嗚咽が響く。
「……ということだが、エマよ、反論はあるか?」
玉座に座し、事態を黙って見守っていた国王がようやく口を開いた。
皆の視線がレオニスの傍に立つ少女――エマへと集まる。
エマは平然とした態度で、短く答えた。
「いいえ、ありません」
その言葉に、周囲の貴族たちがどよめく中、レオニスだけが強い口調で食い下がった。
「そんなはずはない! これは何かの間違いだ!」
そんな彼と目を合わすことすらなく、エマは淡々と続ける。
「先程アリサ様が仰ったことは全て事実ですわ。私は聖女ではありませんし、聖なる力もありません」
それを聞いた国王は目を閉じ、数秒沈黙した後に、よく通る声でゆっくりと告げた。
「エマを、聖女を騙った罪で国外追放とし、それに伴い王太子レオニスとの婚約も破棄する」
※
辺境の地。
王都から遠く離れ、異民族の領地との境界に位置するこの土地は、深い森に覆われていた。背の高い木々が鬱蒼と生い茂り、昼間だというのに薄暗い。周囲に人の気配は無く、遠くで野生動物の鳴き声が聞こえた。
偽聖女として追放となったエマは、二人の見張りの兵士と共に、森の先にある国境を目指して歩いていた。
その途中、一際高くそびえる大樹の前で、エマは立ち止まり、兵士たちに告げた。
「ここまでで良いわよ。ここから先は一人で行くわ」
しかし、兵士たちはうんざりしたように顔を見合わせ、まともに取り合おうとしない。
「駄目だ。この森を越えて国境まで連れていけとの命令だ」
どうせ、うまく丸め込んで一人になった後に逃げ出すつもりだろう。そう決めてかかる兵士たちを、エマは嘲るように笑う。
「あら、あなた達、辺境は初めて? そろそろ引き返さないと魔物に襲われるわよ」
「魔物? そんなの出るわけ……」
その瞬間、茂みを割って一頭の獣が飛び出した。一見すると狼に似ているが、妖しく光る瞳は四つあり、額にはツノが生えている。何より、全身にまとわりつく瘴気が、ただの獣ではないことを物語っていた。
魔物がひとたび吠えると、周囲の草木がびりびりと震える。それを目の当たりにした兵士たちは、声にならない悲鳴をあげて、我先にと逃げ出した。
「だから言ったのに……」
残されたエマはため息をつくと、唸り声を上げてこちらを威嚇する魔物と、一人対峙する。
エマは視線を逸さぬまま、右足で一度、地面を軽く踏み鳴らした。すると魔物の足元に淡く光る魔法陣が浮かび上がる。
「燃えろ」
エマが短くそう唱えた瞬間、魔方陣から黒い炎が吹き出し、魔物の全身を包み込んだ。業火に焼かれた魔物は断末魔をあげ、やがて黒い塵となって崩れ落ちた。
エマがその様子を黙って見つめていると、空から小さな雫が降り注ぎ、ぽつぽつと地面に染みを作った。
「……雨だわ」
エマは大樹の幹に身を寄せ、雨が止むのを待つことにした。
どれほど時間が経っただろうか。
雨音に混じって微かに人の足音が聞こえてくる。目を凝らせば、西の方角に小さな人影が見え、徐々に近づいてくるではないか。
盗賊か、はたまた人型の魔物か。エマが身構えていると、その影は次第に見慣れた姿へと変わっていった。
「レオニス……?」
現れたのは、この国の王太子であり、エマにとっては元婚約者でもあるレオニスであった。
「……やっと見つけた」
彼は、服も髪も雨に濡れたまま、そう呟くと、まっすぐとエマのもとへと歩み寄ってきた。
王太子である彼が、なぜ護衛もつけずにこのような辺境の地にいるのか。エマが問いかけるより早く、レオニスは低い声で詰め寄った。
「なぜ聖女の名を騙った?」
その問いにエマは一瞬だけ瞳を揺らす。しかし、すぐに取り繕い、平然と答えた。
「決まってるでしょ。聖女になれば、王太子と結婚して宮廷で良い暮らしができるからよ」
それを聞いたレオニスは即座に反発する。
「嘘をつくな」
「嘘じゃないわ」
短い応酬ののち、両者は無言で睨み合った。張りつめた空気が、二人の間に重く横たわる。
やがて、レオニスは呆れたように小さく息を吐くと、懐から赤い表紙の本を取り出した。
「君の部屋から禁書を見つけた。教会の書庫に封印されていたものを、君が盗み出したんだろう?」
エマの瞳に僅かに動揺が走る。
「これを告発すれば今度は追放では済まないぞ」
「……脅迫するつもり?」
「僕はただ真実が知りたいだけだ」
レオニスはそう言ってエマの瞳をまっすぐに見つめた。その真剣な眼差しから逃げるように、エマは目を逸らす。
そして彼に背を向けると、静かに告げた。
「……ちょうど雨が止んだわ。ついてきて」
※
二人は辺境の森を進んだ。
先頭を行くエマは迷うことなく道なき道を進み、レオニスが無言でその背中を追う。
そのまま数時間歩き続け、日も傾きかけた頃、急に森が途切れ、視界が開けた。
「辺境に残る唯一の街、グレイバルよ」
エマは後ろを振り向くことなくそう告げた。
街といっても、人や物が行き交い活気に溢れる王都とはまるで様子が異なる。人影はまばらで、放棄された空き家も目立つ。酷く損傷した建物が並ぶ光景は、まるで嵐が通り過ぎた後のようだった。
「こっちよ」
エマはそう言って街の外れにある古い城塞へと向かった。小高い丘の上に建てられたそれは、石造りの城を高い壁がぐるりと囲っていた。一見すると普通の城のようだが、人が出入りするための門が見当たらない。
エマは慣れた様子で城壁に両手を触れ、左足で軽く二度、地面を踏み鳴らした。すると、鈍い音とともに壁の一部が歪み、門の形へと変わっていく。
驚くレオニスをよそに、エマは涼しい顔で言った。
「結界魔法よ。解除方法を知っている者しか入れないようになっているの」
エマは躊躇なく門を押し開いて中へと足を踏み入れる。レオニスもまた、一瞬躊躇いながらも、その後に続いた。
門をくぐった先には、石畳が敷き詰められた中庭が広がっていた。城の入り口へと続く通路の両脇には大きな木が一本ずつ植えられている。
その木の手入れをしていた男が、エマの顔を見るなり声を上げた。
「エマお嬢様!」
「久しぶりね」
エマがそう言って微笑むと、男はぱっと表情を明るくし、城の方へ向かって叫んだ。
「おーい! エマお嬢様がお帰りになったぞ!」
その言葉に応えるように、城の中から老若男女が続々と姿を現す。
「何だって!?」
「本当だ、エマお嬢様だ!」
「お嬢様、おかえりなさいませ」
「よくぞご無事で」
あっという間に人だかりができ、エマは次々と差し出される手に、ひとつひとつ丁寧に応えていく。
そのさなか、一人の中年の女性が、エマの傍らに立つレオニスの存在に気づいた。
「お嬢様、こちらの方は……?」
「王都で知り合った私の友人よ。もてなしてあげて。名前はレオ……ナルド」
エマが咄嗟にそう言い繕うと、人々は疑う素振りすら見せず、にこやかにレオニスを迎えた。
「あぁ、そうでしたか。レオナルド様、よくぞいらっしゃいました」
「長旅でお疲れでしょう。どうぞ中へ」
城の中は、良く言えば機能的、悪く言えば質素な造りをしていた。
豪奢な王都の宮廷とは異なり、壁や天井にはほとんど装飾が無く、壁にかけられた松明が照明の役割を果たしている。
城主だけでなく使用人たちの住まいも兼ねているのだろう。あちこちで子供たちが走り回り、笑い声が響いていた。
レオニスとエマは木製の長テーブルが並ぶ大広間へと通され、ほどなくして肉や魚、果物、酒などが次々と運ばれてくる。宮廷とはまったく異なる雰囲気に、レオニスは内心戸惑いながらも、差し出された歓待を受け入れた。
やがて、立派な顎髭を蓄えた初老の男が奥から姿を現し、エマのもとへと歩み寄ってきた。
「エマ、よくぞ無事に帰ってきてくれた」
「お父さま。ただいま戻りました」
エマはそう言って立ち上がり、父の手をとる。
「それで、首尾はどうだ。何かわかったか?」
その言葉に、エマの瞳が鋭く光った。
「その件ですが、とても重要な情報を掴みました。皆を集めてください」
※
エマの求めに従い、大広間に城で暮らす人々が集められた。中心にはエマの父とエマ。レオニスは部屋の隅で壁を背にしながら、無言で成り行きを見守っていた。
エマの父が厳かに口を開く。
「皆も知っての通り、この辺境の地は長年にわたり幾度となく魔物の襲撃を受けてきた。
中でもたった一体で街を滅ぼすほどの力を持つ、正に魔族の王――魔王と呼ぶべき個体は、出現するたびに甚大な被害をもたらしてきた。
だが、我々は決して挫けなかった。城に結界を張り、仲間を集め、魔王討伐のための研究を続けた。
その過程で、我々はあることに気がついた。辺境に魔王が現れる時、王都では必ず聖女が召喚されるのである。少なくとも過去百年間、聖女の召喚と魔王の出現の時期は完全に一致していた。
魔王と聖女には、何か我々の気付いていない関係があるのではないか。その真相を探るため、我が娘エマは聖女を装い宮廷へ潜入した。
非常に危険な任務だったが、エマは見事にやり遂げ、今日、無事に帰還した」
そこで自然と拍手がわき起こる。歓声を背に、エマが一歩前へと進み出た。
「父の命を受け、私は聖女として宮廷へ潜り込み、魔王と聖女の関係を探ったわ。
見張りの目をかいくぐり、教会の書庫へと忍び込んだ時、禁書として封印されていた一冊の歴史書を手に入れた。
そこに記されていたのは、聖女と魔王、そしてこの国の王家の真実よ」
そう言って、エマは禁書に記されていた内容を語り始めた。
記録にある限り、最古の聖女の召喚は、今から約四百年ほど前、この国が建国されて間もなくのことであった。
異世界より突如として現れたその聖女は、東方より攻め込んできた魔王の軍勢に、たった一人で立ち向かい、これを圧倒した。
そして魔王の討伐を果たした時、聖女は元の世界へと帰還したのだという。
以降も、魔王の出現に呼応するように聖女は現れ、その聖なる力をもって魔王を討ち、そして去っていった。
その営みは、幾度となく繰り返された。
ところが、約二百年前、その摂理に異変が起きた。
時の王太子が、聖女に恋をしたのである。聖女との別れを恐れた王太子は、彼女を魔王討伐から遠ざけ、自らの妃にしてしまった。
そして聖なる力で、王都だけを結界で守り、見せかけの平和を演出した。
その結果、魔王は討伐されることなく、辺境の地で破壊の限りを尽くした。
破壊は、それから五十年間、辺境の兵士たちが甚大な犠牲を払いながら魔王を倒すまで続き、辺境の地は衰退していった。
王族の個人的な感情が引き金となり、多くの命が失われた。その責任を追及され、民衆の支持を失うことを恐れた王家は、歴史の改竄を図った。
教会を抱き込み、聖女はその聖なる力で王国を守護する存在であると吹聴した。聖女と王族の婚姻を、正当なものとして広めたのである。
そして長い年月の果てに、聖女の本来の役割は忘れ去られていった。
「これがこの国の真実よ」
エマの話を聞き終えた人々の反応は、様々であった。ある者は怒りに震え、またある者は静かに涙を流した。
だが、その根底にある思いは共通していた。王家への失望である。
この辺境の地に住む人々は、王族の都合で見捨てられ、そして長い間、真実を隠され続けてきたのである。
「……王を倒そう」
誰かの小さな呟きが呼び水となり、人々は瞬く間に同調した。
「そうだ! 王を打倒せよ!」
「王家が倒れれば、聖女の役割も元に戻せる!」
だが、エマは冷静にそれを諫める。
「落ち着いて。敵は魔王であって、王家ではないわ。今内戦など起こせば共倒れよ」
「しかし、エマ様。魔王との長きにわたる戦いで皆、疲弊しきっています。物資も不足がちでこの拠点も長くは保ちません。
一刻も早く聖女の力で魔王を倒さなければ、この地は完全に廃墟となってしまいます」
側近がそう進言すると、エマは眉間に深い皺を寄せ、重々しく表情で頷いた。
「……わかっているわ。準備が整い次第、王都へ使者を送り、聖女の協力を得られないか交渉しましょう」
エマたちの話し合いが続く中、レオニスは一人打ちひしがれていた。今日彼が目にした、辺境の荒廃した街並み、傷ついた人や建物……その原因の一端を、王家が担っていたという事実は、まさに青天の霹靂であった。
にもかかわらず、レオニスの素性を知らない辺境の人々は、レオニスのために風呂の湯を沸かし、清潔な衣服と温かい寝床を用意した。
レオニスは、彼らの善意に後ろめたさを覚えながら、ただ一人、城の窓から辺境の街を眺めていた。
※
レオニスとエマが初めて会ったのは、ちょうど半年ほど前のことだ。
前年の春に成人の儀式を済ませたレオニスのもとには、次から次へと縁談が持ち込まれていた。
妃候補として引き合わされた娘たちは、皆一様に美しく、所作も洗練されていたものの、その背後には後ろ盾となる貴族や他国の王家、有力な商人の影が見え隠れしていた。
政治的な打算でしかない縁談に、レオニスはほとほと嫌気がさしていた。
そんな折、彼のもとに聖女召喚の知らせが舞い込んできた。
「初めまして。エマと申します」
教会長の仲介のもと、引き合わされた彼女は、貴族の娘に比べれば顔立ちも髪型も地味ではあった。
しかし、相手に敬意を払いつつも、決して媚びることのないその態度が、レオニスの目には新鮮に映った。
少なくとも、腹に一物も二物も抱えていそうな貴族の娘よりは、いくらかましだと思ったのである。
そして当事者の意向とは無関係に、古い伝統に則り、縁談は整えられた。晴れて婚約者となったエマに、レオニスは言った。
「欲しいものがあれば遠慮なく言ってくれ。婚約の記念に君に贈ろう」
美しいドレスでも大きな宝石でも、彼女が望む物は何でも与えるつもりだった。そうすることで、夫となる者としての誠意を示すつもりだったのだ。
しかしエマは、その灰色がかった青い瞳でレオニスを真っ直ぐに見据え、答えた。
「王太子様、私が望むのは唯一、民の安寧ですわ」
それを聞いたレオニスは、いたく感動した。なにせ、レオニスの目にする王都の民は、みな豊かで安らかな日々を過ごしていたのである。何もいらぬなど、なんて清らかで美しい心の持ち主なのだろうか。レオニスは心の底からそう思った。
だからこそ、彼女が実は聖女を騙る偽物であったと知った時の衝撃は計り知れなかった。まさかエマに限ってそんなはずはない。必ず何か理由があるはずだ。その思いだけを胸に、レオニスは王都を遠く離れ、辺境の地までやって来たのだ。
そして、荒れ果てた辺境の現実を目の当たりにして初めて、レオニスは彼女の真意を理解することができたのである。
あの日、彼女がレオニスに求めていたのは、次期国王として、辺境の民に向き合う誠実さに他ならなかった。
それにようやく気づいたレオニスは、一人、深いため息をついた。
※
「眠れないの?」
不意に背後から声をかけられた。振り向くと、そこには寝着姿のエマが立っていた。湯浴みの後なのだろうか。彼女の頬は僅かに上気し、栗色の髪からは微かに石鹸の香りがした。
エマはレオニスの隣に並ぶと、ぽつりと独り言のように呟いた。
「……故郷のためとはいえ、嘘をついて騙したことは悪かったと思っているわ」
「それはもういいんだ」
レオニスは首を横に振り、どこか自嘲気味に言った。
「どうあがいても、君が僕の隣にいてくれる未来は無かった。それがわかっただけで十分さ」
そして、レオニスは何かを決意したかのように、エマと向き合った。
「僕がこの伝統を終わらせる」
それを聞いたエマは、思わず言葉を失った。
「あなた、自分が何を言っているかわかってるの? 王家の……あなたの先祖の名誉を傷つけることになるのよ」
「わかってるさ。それでも、君たちだけに背負わせることはできない。王家の一員として、責任をまっとうさせてほしい」
レオニスの碧眼が、エマの瞳を真っ直ぐに捉えた。その真剣な眼差しに、エマが思わず息を呑んだ、その時だった。
「敵襲だ!」
見張りの怒声と共に、緊急事態を知らせる鐘が城中に鳴り響いた。
エマとレオニスが急いで窓から外を覗くと、城壁が外側から崩され、白いローブを纏った男たちが続々と城内へと侵入してくるのが見えた。
「結界が破られたぞ!」
「教会直属の魔法兵団だ!」
「我々の動きが教会に漏れていたのか……!」
城全体がパニックに陥る中、エマはレオニスを連れて城の地下へと向かった。
暗い階段を駆け降り、鉄製の分厚い門を押し開けると、その先は水路へと続いていた。船着場には一隻の小舟が繋がれており、その傍らで船頭が一人、待機している。
エマはレオニスに言った。
「あなたは逃げて。王太子であるあなたがここにいることが知られたらまずいもの」
「君を置いていけない」
レオニスが即座にそう言い返すと、エマははっと息を呑んだ。そして彼の手を取ると、穏やかに微笑む。
「ありがとう。でも、私は大丈夫よ」
エマの体温に触れ、その予想外の熱さにレオニスは思わずたじろぐ。
「この水路を通って川を下れば、王都の近くまで帰れるはずよ」
そう言って、エマはレオニスを強引に舟へと押し込んだ。
「さあ、行って。早く!」
その言葉を合図に、船頭が無言で舟を漕ぎ出した。
舟が岸を離れ、水流に乗って遠ざかっていくのを見届けると、エマは踵を返し、急いで地上へと戻っていった。
「エマ……」
レオニスは、なすすべもなく、舟の上でただ立ち尽くすばかりであった。
※
レオニスは舟に揺られ、夜通し川を下り続けた。夜明けとともに川沿いの集落で舟を降りる。船頭に別れを告げると、そこからは王都を目指して一人で歩き続けた。
そして夕暮れ前、ようやく王都へと辿り着いたレオニスの目に映ったのは、魔法兵に捕えられたエマの姿だった。
城の謁見の間で、両手を後ろに縛られ、膝をつくエマの傍には、得意げな顔をした教会長が立っていた。そして、朗々とエマの罪状を語る。
「この者は、聖女の名を騙るに飽き足らず、教会の禁書を盗み、挙げ句の果てには、王家に対する反乱を企てておりました。国王様、どうか厳正なる裁定を」
反論の時間は与えられなかった。
裁定を求められた王は眉間に深い皺を寄せ、低い声で告げた。
「……エマを反逆罪により死刑とする」
※
処刑までの間、エマは城の地下にある牢獄へと幽閉されることになった。
レオニスが人目を盗み、地下へと続く扉に手を伸ばしたその時、背後から不意に声をかけられた。
「どちらに行かれるのです? レオニス様」
振り向いた先には聖女アリサが立っていた。優しげな微笑みを浮かべたまま、彼女はゆっくりとレオニスに歩み寄る。
「そんなにあの偽物が気になるのですか? あなたの婚約者は私ですのよ」
そう言って腕を絡めようとするアリサを、レオニスは振り払う。
「あなたの聖なる力は、民衆を苦しめる魔王に打ち勝つためのものだ」
レオニスがそう言うと、アリサは一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐにまたいつもの柔和な表情へと戻る。
「ええ、そうらしいですわね」
そのあまりに軽い口ぶりに、レオニスは思わず目を見開いた。
「……知っていたのか?」
「私はこの世界のことは、何でも知っているのです。前の世界にいた時から、大好きでしたから」
「知っていたのなら、なぜ……」
「だって、そんなことをして私に何の得がありますの?」
そう言ってアリサは可愛らしく小首を傾げる。それに合わせて、彼女のよく手入れされた黒髪がさらりと揺れた。
「元の世界に帰れなくても良いのか?」
「帰る、ですって? なぜわざわざ、あんな冴えない生活に戻らなければなりませんの? ここにいれば聖女として崇められ、王太子妃という地位まで手に入りますのに」
アリサの艶っぽい唇から紡がれる冷淡な言葉に、レオニスは絶句した。
お前なんか聖女じゃない。そう言えたらどんなに良かっただろうか。だが、このアリサこそが本物の聖女であるという現実に、ただ唇を噛み締めるしかなかった。
※
そして迎えた処刑の日。
鈍色の雲が重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな曇天の下、王都中心部にある広場には、数え切れないほどの民衆が集まっていた。
人だかりの中心には断頭台が置かれ、黒い服を着た処刑人が無言で待ち構えている。その傍には白いローブ姿の聖女アリサの姿もあった。
人々が処刑を今か今かと待ち侘びる異様な雰囲気の中、粗末な馬車が広場に乗り入れ、中から両手を拘束されたエマが引きずり下ろされる。
「神はあなたの罪をお許しになることでしょう」
アリサは形ばかりの祈りを捧げ、エマに問いかける。
「何か言い残すことはありますか?」
エマはアリサ、そして周囲の野次馬たちを無言で一瞥する。そして、何かを言おうと口を開いた、その時だった。
「待ってくれ!」
人だかりを割るように、馬に乗ったレオニスが広場へと駆け込んできた。
「王太子様だ!」
「なぜ、王太子様がこんなところに……?」
周囲のざわめきを押し切るように、レオニスは声を張り上げた。
「皆、聞いてくれ! 聖女の真の役割は、魔王の討伐だ! 幾度となく魔王の襲撃を受け、辺境の街は荒れ果てている! エマは、辺境の人々を救うために、宮廷へ助けを求めに来ただけなんだ!」
レオニスはなりふり構わず必死に訴えかけた。
しかし、民衆の反応は冷ややかであった。
「魔王? 王太子様は何を言ってるんだ?」
「気でも触れたんじゃないか」
ついには彼を指さして嘲笑する者まで現れる。それでもレオニスは諦めず、喉が潰れんばかりに叫び続けた。
「嘘じゃない! 僕はこの目ではっきりと見た! 信じてくれ!」
だが、その必死の訴えに業を煮やした群衆の誰かが、ついに声を上げた。
「いいから早く罪人の首を切れ!」
「そうだ! 早くしろ!」
処刑を求める人々の声に押されるように、エマは処刑台へと上げられる。それを見たレオニスはもはや悲鳴のように叫ぶ。
「頼む! やめてくれ!」
その叫びは、突如として鳴り響いた地鳴りにかき消された。同時に、東の空が黒く染まり、巨大な影がゆっくりと姿を現す。
「……何だ、あれは?」
人々の視線の先には、黒く光沢のない球形の物体が浮かんでいた。その中心には、ぎょろりとした大きな目玉が一つだけついており、こちらをじっと見つめている。
「……魔王だわ」
エマが静かに呟いた。
魔王と呼ばれたその異形が街の上空を通過すると、まるで竜巻が通り過ぎたかのように、木々や家屋が次々となぎ倒されていく。後には草一本残らず、街中に人々の悲鳴がこだました。
「二百年の時を経て、王都に張られた結界の力が弱まっていたところに、辺境の街が潰されたことで、魔王を抑える者がいなくなったのね」
エマは処刑台の上から、呆然と立ち尽くすアリサに向かって声を張り上げた。
「アリサ様! あなたなら魔王を倒せるはずです! どうか力を貸して!」
それを皮切りに、人々は一斉に聖女へと縋りついた。
「聖女様、どうか助けてください!」
「お願いします、聖女様!」
しかしアリサは、救いを求め伸ばされた手を乱暴に振り払い、甲高い声で叫んだ。
「嫌よ! 魔王と戦うですって? 冗談じゃないわ!
そんなことをしたら、帰らなきゃいけなくなるじゃない!」
広場にアリサの拒絶が響きわたり、人々の間にじわじわと絶望の色が広がっていく。
「もう駄目だ! みんな逃げろ!」
誰かがそう叫び、人々は蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。
レオニスは逃げ惑う人の波に逆らいながら、処刑台のエマのもとへと駆け寄ると、彼女の両腕の拘束を解いた。
「エマ、君も逃げるんだ」
その言葉に、エマは即座に首を横に振った。
「私たち辺境の民は、この二百年間ずっと、魔王に対抗する手段を模索してきたのよ。私がここで逃げるわけにはいかないわ」
それを聞いたレオニスは一瞬泣き出しそうな顔をしたが、すぐに表情を引き締める。そしてエマの手を取り、言った。
「僕も一緒に戦わせてくれ」
その時、豪奢な白い馬車が広場へと乗り入れ、中から教会長が姿を現した。彼はアリサのもとへ歩み寄ると、居丈高に言い放つ。
「聖女アリサ。このままでは、この国は滅びてしまう。お前の聖なる力で、魔王を討て」
その振る舞いに、アリサは露骨に顔を歪めて首を横に振った。
「知らないわよ! 何もしなくていい、適当に祈って、王太子と結婚すればいいって、あなた達が言ったんじゃない! 今更裏切るつもり!?」
それを聞いた教会長は、深いため息をついた。そして静かに右手を挙げる。
「……仕方がない。やれ」
それを合図に、どこからともなく十数人の魔法兵が現れ、アリサを取り囲んだ。兵士たちが一糸乱れぬ動きで右足を三度踏み鳴らす。すると、アリサの足元に魔方陣が浮かび上がった。
「捕えろ」
その言葉と同時に、魔方陣から錬成された黒い輪がまるでロープのように彼女の体へと絡みついた。輪はぎゅうぎゅうと締め上げ、アリサは思わず膝をつく。
その様子を見下ろしながら、教会長が低く問いかけた。
「どうだ? 我々の要求を飲む気にはなったかね?」
それに応えるように、アリサはゆっくりと顔を上げた。その口元は、まるで三日月のように弧を描いていた。
「……もう終わり?」
その瞬間、アリサの全身から白い光が放射状に放たれ、魔法兵たちを弾き飛ばす。
「聖女の力は、あの化け物を倒せるくらい強力なのよ? あなた達ごときが敵うわけないじゃない」
「待て! 儂が悪かった! 話し合おうじゃないか!」
腰を抜かした教会長のもとへ、アリサはゆっくりと近づいていく。
「待ちなさい」
そこに割って入ったのはエマだった。アリサは目の前に立ちはだかるエマを睨みつけ、冷たく言い放つ。
「邪魔をするならあなたも容赦しないわよ」
「望むところよ。できるものならやってみなさい」
エマの挑発するような物言いに、アリサの額に青筋が浮かぶ。
「お望みどおり、やってあげる!」
アリサはエマに向かって無数の白い光の弾を放った。その瞬間、エマの足元に魔方陣が浮かび上がり、黒く半透明な壁が彼女を守るように展開される。
壁は、アリサの放つ光の弾を次々と吸い込んでいった。
驚き、言葉を失うアリサに、エマは冷静な口調で語り出す。
「私たちはこの二百年間ずっと、魔王に対抗する手段を探し続けていた。そして一つの結論に辿り着いたの。
魔王を倒す有効な手段は、ただ一つ。聖女のもつ、聖なる力のみである、と」
淡々と語るエマの頭上に、白く光る球が浮かび上がる。
「だから、私たちは血の滲むような努力を重ねて編み出したのよ。聖女の力を吸収し、増幅する方法を、ね」
それを聞いたアリサは、エマの真意を悟り、思わず声を上げた。
「やめて!」
その叫びも虚しく、エマの頭上の球は、目の眩むような強い光を放ちながら、さらに大きく膨れ上がっていく。
「行け」
エマの静かな合図と共に、光の球は魔王へと放たれた。聖女の白い光と魔王の黒い光。大地が裂けるかのような轟音とともに、二つの力が激しくせめぎ合い、やがて白い光が黒い光を飲み込んだ。
白い光に包まれた魔王の身体は徐々に小さく萎んでいき、やがて完全に消えていった。
「……勝ったわ」
エマが、かすれるような声で呟いた。
しかし、その余韻に浸る間も無く、アリサの体が白い光に包まれる。
「嫌! 帰りたくない!」
エマは、取り乱すアリサの手をそっと握り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私たちの世界のために、あなたを利用してしまってごめんなさい……さようなら」
その声が届いたかどうかも分からぬうちに、アリサは小さな光の粒となって消えていった。
魔王、そして聖女が去った王都は静けさに包まれた。人々は目の前で起きた出来事を呑み込めず、皆、呆然と立ち尽くしている。
やがてレオニスがはっと我に返り、民衆の前へと進み出た。
「聖女様は、その聖なる力をもって魔王を討ち、元の世界へとお帰りになったのだ!」
それを聞いた人々は一斉に歓声を上げる。
「聖女様がこの国を救ってくださった!」
「聖女様、万歳!」
歓喜の声を背に、レオニスは教会長の肩に手を置き、低い声で言った。
「”伝統”は終わりだ。異論はあるまいな?」
教会長は、もはや抵抗する気力も無く、観念したようにがっくりと項垂れた。
そしてレオニスはエマのもとへと駆け寄ると、彼女の前で片膝をつく。
「エマ、ここからは僕の仕事だ。この国を変え、必ず辺境の地を復興してみせる。王家の一員として、君に誓うよ」
彼はそう言ってエマの手を取り、そっと口付けた。
「この国が変わるところを、君に一番近くで見ていてほしい」
君さえよければだが。
そう自信無さげに付け足すレオニスの様子に、エマは思わず笑みを浮かべた。




