第一章
どうやら最近、この村に引っ越してきた家族がいるらしい。
私は不思議に思った。はっきり言ってこの村には何もない。高い建物もないし、歴史的な名所もない。電車だって通ってないし、娯楽なんてありはしない。
たしかに、豊かな自然はある。ただ、私はこの村で生活しているから分かる。ふとした時に自然の美しさを認識することはたしかにある。田んぼに向かうまでの道を歩いている時に、足元に咲いているたんぽぽを眺めることがある。どこかで鳴いているコオロギの鳴き声に、耳を傾けることもある。ふと顔を上げた時に、季節によって山の表情が変わっていることに気付く。しかし、その感動も、瞬きを二、三回した頃には忘れている。豊かな自然といっても、生活の一部となればそんなものなのだ。
それなのに、どうしてこの村に引っ越してきたのだろうか。なんの特徴もないこの村に。私は、その家族について興味を持った。というより、娯楽が他になかったのだ。
村人たちも、私と同じように興味を持ったようで、その家族についての情報が一瞬で村中に駆け巡った。
誰から聞いたのか分からないが、夕食後のリビングで母が言うには、「引っ越してきたのは三人家族」で、「家族構成は父、母、娘」であるらしい。他にもその家族に関して、母は色々なことを喋っていたが、「彼らの車はホンダのN-BOX」だの、「美男美女の夫婦で娘さんもかわいらしい」だの、どうでも良いことばかりであった。
しかし、肝心の「越してきた理由」については、まだ確実な情報が出ていないという。その代わり、様々な噂が流れていた。「都会の生活に疲れたのではないか」といった他愛もない噂もあれば、「父親が国のお役人さんで、この村の開発を行うために視察をしにきた」という現実味を帯びていない、突飛な噂もあった。
私は、根拠のない噂話で人のことをあれこれと言うことが苦手だったため、聞き手役を父親に任せて散歩にでた。
こうして散歩にでて、この村唯一のブランコがある公園に向かう。そして、ブランコかベンチに座って、ただ時間が過ぎるのを待つ。これが暇な時の私のルーティーンである。昼間は村にいる小学生たちが占領している公園であるが、夏でまだ陽が沈んでいなくても、ちびっ子たちは律儀に十八時には家に帰り始める。そのため、陽が沈みかけているこの時間は、公園には誰もいないのだ。
しかし、今日はいつもとは様子が違う。先客がいたのだ。ブランコには、自分と同い年くらいであろう少女が座っていた。この村には高校がない。分校はあるが、小学生と中学生しか在籍していない。若者は、高校への進学をきっかけに、みんな村を出ていた。高校生の年齢の若者は、この村にはもう自分しかいなかったのだ。そのため、まだ遠目であったため顔は見えてはいないが、おそらくその少女はこの村の人間ではないのだろうと推測できた。
もしかすると噂の家族の娘さんなのではないか。そう思い至り、自分の好奇心に支配されるままに、私はその少女に近付いた。
少しずつ近付いていくと、私の目は少しずつその少女を捉え出した。
風にさらされて靡く、わずかにぼさっとしたロングヘアー。指先から足首までほっそりとした華奢な体。少女が持つ、ベールを纏っているかのような静かで繊細な空気。そして、その整った顔はまだ幼さを残しており、年相応のかわいらしさを夕日と共に辺り一面に放っていた。
私は、何か経験したことのない感覚に陥った。私が少女の姿をはっきりと認識した瞬間、身体を動かすことができなくなった。時が止まってしまったような気がした。しかし、五感の全てが研ぎ澄まされていた。余計な思考の声がなくなっていたためか、いつもはBGMとなっている蝉の鳴き声も、今はその声しか聞こえなかった。風もいつもよりも涼しく感じた。
私はなんとか足を動かして少女の前を通り、隣のブランコへ向かった。なぜそうしたのかは、私にもわからなかった。とにかく、そうしたかったのだ。
彼女の前を通り過ぎる時、横目でチラッとその姿を見た。彼女の視線は遠くの山の方へ向いていた。私には、彼女が何を見ているのか分からなかった。半袖で無地の白いTシャツとゆったりとしたジーンズというシンプルな服装は、彼女が周りの目を気にして着飾るような性格ではないことを想像させる。そのシミひとつない、真新しい衣を纏った彼女の装いは、どこか都会的な空気があり、この村では少し浮いているように感じた。ただ、その華奢な体に似合っていると私は思った。そんな彼女の視線を遮るように、私はその子の前を通る。しかし、彼女は私を気にする様子もなかった。
ブランコに座ってからも、私は彼女に話しかけるでもなく、ブランコを漕ぐでもなく、ただ蝉の声を聞いていた。いや、蝉の声だけではない。風で草木が揺れる音、名前もわからない鳥の鳴き声、近くの用水路を流れる水の音など、この村のすべての音が聞こえてくる気がした。
風が吹いているおかげか、彼女の香りがほんのりと漂ってきた。柔軟剤であろうか、その香りは農作業で汗のニオイを染み込ませた自分にとっては甘すぎる匂いだ。その匂いが私の体に染み渡る。次第に自分の鼓動の音がはっきりと聞こえてきた。音が大きくなるとともに、自分の体に流れる血が生々しく感じられた。
どれくらいの時間、こうしていたのだろうか。いつの間にか辺りは真っ暗になっていた。隣のブランコは誰も乗せていない。吹いてくる風には、もう甘い香りがなくなっていた。ただ、熱を持った私の顔を冷ますのみであった。




