第9話
その日のノルドの街は、鉛色の空から重たい雪が降り続き、底冷えのする一日だった。
こんな日は、誰だって外に出たくない。こたつで丸まっていたい。
けれど、私の屋台「ひだまり亭」の厨房は、真夏のような熱気と、小麦粉の粉塵に包まれていた。
「よいしょっ! よいしょっ!」
私は厚手のビニール(に似た素材の清潔な袋)に入った生地を、足で踏んでいた。
行儀が悪い? とんでもない。これは神聖な儀式なのだ。
今日のメインは「うどん」。
それも、コシの強さが命の「讃岐風・手打ちうどん」だ。
小麦粉と塩水を混ぜ合わせ、そぼろ状になったものを一つにまとめる。それを何度も踏んで、畳んで、また踏む。
こうすることでグルテンが鍛えられ、あの独特の「ツルッ、モチッ、シコッ」とした食感が生まれるのだ。
「ふぅ……こんなもんかな」
十分に踏み込んだ生地を、綿棒で薄く伸ばしていく。
均一な厚さにするのが職人技だ。
そして、包丁で一定のリズムを刻んで切っていく。
トントントントン……。
小気味良い音が響く。
切り揃えられた白く美しい麺線。表面に打ち粉をまぶすと、まるで雪の女王の髪のようだ。
これを大釜の熱湯で踊らせるように茹で上げ、冷水でキリッと締める。
表面は滑らかで艶やか、芯にはしっかりとしたコシ。
「うどん」の完成だ。
けれど、今日の主役は麺だけじゃない。
うどんの相棒といえば、やっぱり「天ぷら」。
私は市場で、とんでもない掘り出し物を見つけていた。
「クリスタル・シュリンプ(水晶海老)」。
帝国の北の海で獲れる、透き通った殻を持つ巨大な海老だ。
身はプリプリで甘みが強く、加熱すると紅白の美しい色に変わる。
大きさは私の手のひらサイズ。これを使わない手はない。
「さあ、揚げるわよ!」
◇
天ぷらの命は「衣」だ。
小麦粉と卵、そして一番重要なのが「冷水」。
キンキンに冷やした水を使うことで、グルテンの発生を抑え、サクサクの衣になる。
混ぜすぎないのもコツ。粉が少し残っているくらいでいい。
殻を剥き、背ワタを取り除いた巨大海老に、打ち粉をする。
尻尾の先は斜めに切り落とし、中の水分をしごき出す。これをやらないと油が跳ねて大惨事になるからだ。
衣液に海老をくぐらせ、180度の油へ投入!
――シュワァァァァァ……。
繊細な音が広がる。
唐揚げの時の豪快な音とは違う。雨音のような、優しくて心地よい音。
衣が油の中でパッと花を咲かせる。
菜箸で衣を散らし、海老にまとわせていく。これでボリュームとサクサク感が増すのだ。
泡が大きくなり、パチパチという高い音に変わったら揚げ上がりの合図。
網ですくい上げ、油を切る。
黄金色の衣をまとった海老は、ピンと背筋を伸ばし、堂々たる風格だ。
「よし、仕上げ!」
丼に茹でたてのうどんを入れる。
そこに、私の原点にして頂点、「黄金出汁」をたっぷりと注ぐ。
昆布(海蛇)とカツオ(ロックバード)の合わせ出汁に、薄口醤油とみりんで味を調えた、透き通るような関西風のつゆ(スープ)。
仕上げに、揚げたてのエビ天を二本、クロスさせるように乗せる。
彩りに、カマボコ(魚のすり身蒸し)と、青ネギ、そして柚子の皮をひとかけら。
湯気と共に立ち上る、柚子と出汁の上品な香り。
これが、本日の看板メニュー『特大エビ天うどん』だ。
◇
夜の帳が下りる頃。
屋台には、いつものように常連さんたちが集まっていた。
みんな、丼を両手で抱え込み、幸せそうな音を立てて麺を啜っている。
「ズズッ……はぁ、美味い。冷えた体に染みるぜ」
「この透明なスープ、色が薄いのに味がしっかりしてる! 全部飲み干したくなるわ」
「おい見ろよこの海老! 衣ばっかりかと思ったら中身がパンパンに詰まってやがる!」
あちこちから聞こえる「サクッ」「ズゾゾッ」という音が、料理人にとって最高のBGMだ。
そのカウンターの端で、今日も静かに箸を動かす黒マントの青年――グレンさんがいた。
彼はうどんを一本すくい上げ、光にかざして見つめている。
半透明に輝く麺の角。
「……美しい。宝石のようだ」
彼は麺を口に運び、ちゅるり、と吸い込んだ。
モチッ。
彼の目が細められる。
「……ん。滑らかなのに、噛むと押し返してくる弾力。これが『コシ』か」
続いて、つゆに半分浸かったエビ天へ。
サクッ、ジュワッ。
「……っ!」
衣の香ばしさと、海老の甘みが口いっぱいに弾ける。
つゆを吸って少しふやけた衣もまた、たまらない味わいだ。
「サクサクの部分と、トロトロの部分。二つの食感が楽しめる。そしてこの柚子の香り……。脂っこさを消し去り、余韻を爽やかにしてくれる」
彼は無言で食べ進め、最後に丼を持ち上げてスープを一滴残らず飲み干した。
プハァ、と息をつくその顔は、幸福そのものだった。
「ご馳走様。……毎日言っている気がするが、今日が一番美味かった」
「ふふ、更新し続けられて光栄です」
私が食器を片付けようとした、その時だった。
「おい、そこのネエちゃん!」
突然、大声で怒鳴る声が響いた。
ビクッとして振り返ると、屋台の入り口に、酒臭い息を吐く三人の男たちが立っていた。
見たことのない顔だ。粗末な革鎧を着崩し、腰には錆びた剣。
どうやら、街を流れるゴロツキ傭兵らしい。
「いらっしゃいませ。お食事ですか?」
「食事ィ? ケッ、こんなお上品なもん食えるかよ。酒だ酒! 強い酒を出せ!」
「申し訳ありません。うちは食堂ですので、お酒はお一人様一杯までと……」
「あぁん!? 客に指図すんのか!?」
男の一人が、ドカッとカウンターを蹴り上げた。
置いてあった箸入れが倒れ、バラバラと散らばる。
店内が凍りついた。
常連の騎士たちが立ち上がろうとしたが、私はそれを手で制した。お店の中で揉め事は困る。
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので……」
「うるせぇ! だいたい気に入らねぇんだよ、女のくせにチヤホヤされやがって! どうせ体でも売ってんだろ?」
男はニタニタと笑いながら、私の腕をガシッと掴んだ。
痛い。強い力だ。
「離してくださ……」
「へへっ、いい肌してんじゃねぇか。俺たちが相手してやるよ、裏に来い」
下卑た笑い声。酒と脂汗の不快な臭い。
シロが唸り声を上げて飛び出そうとした瞬間。
ヒュッ。
空気が、凍った。
物理的に温度が下がったのではない。
空間そのものが、圧倒的な「殺気」によって塗りつぶされたのだ。
「――ひっ?」
私の腕を掴んでいた男が、悲鳴を上げて手を離した。
男たちの視線が、一点に集中する。
カウンターの端。
ゆっくりと立ち上がった、黒マントの青年へ。
グレンさんは、フードを深く被ったまま、静かに男たちの背後に立っていた。
その手には、武器などない。
ただ、そこから発せられる威圧感が、まるで巨大な氷の刃のように男たちの首元に突きつけられていた。
「……おい。その汚い手を、どこに触れている」
低い、地を這うような声。
普段の穏やかなグレンさんからは想像もできない、絶対零度の冷徹な響き。
フードの下から覗く蒼い瞳が、幽鬼のように光っていた。
「あ、あんだテメェ!? やんのかオラァ!」
男の一人が、虚勢を張ってナイフを抜こうとした。
だが、その手が動くより早く。
グレンさんが一歩踏み出した。
タンッ。
ただの足音。
それなのに、男たちは見えない力に殴られたように、その場に崩れ落ちた。
腰が抜け、歯がガチガチと鳴っている。
生物としての格の違い。本能が「動けば死ぬ」と警鐘を鳴らしているのだ。
「失せろ。……二度と、この店の敷居を跨ぐな」
グレンさんが短く告げた。
それは命令ではない。死刑宣告の一歩手前の慈悲だ。
「ヒッ、ヒイィィッ!!」
「ば、化け物……ッ!!」
男たちは這いつくばるようにして逃げ出した。
転がり、悲鳴を上げながら、闇の向こうへと消えていく。
静寂が戻った屋台。
私は呆然と立ち尽くしていた。
強すぎる。
騎士団長さんたちですら冷や汗をかいて直立不動になっている。
グレンさんは深く息を吐くと、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞳から、殺気は消えていた。
あるのは、痛々しいほどの心配の色。
「……レティ。怪我はないか?」
彼は私の元へ歩み寄り、赤くなった手首をそっと取った。
その手は震えていた。怒りで。そして、私を守れなかったかもしれないという恐怖で。
「痛かっただろう。……すまない。もっと早く止めるべきだった」
「い、いえ。大丈夫です。グレンさんこそ……」
私は彼を見上げた。
フードがずり落ち、銀色の髪が露わになっている。
その高貴な顔立ちは、もはやただの「常連客」として隠し通せるものではなかった。
周囲の客たちが、ハッと息を呑む気配がする。
「あの方は……まさか」「皇太子殿下……?」という囁きが漏れる。
グレンさんは周囲の視線に気付いたが、気にする様子もなく、私だけを真っ直ぐに見つめた。
「レティ。……私は、もう我慢の限界だ」
「え……?」
「こんな危険な目に遭わせたくない。君という才能を、こんな吹きっさらしの場所に置いておきたくないんだ」
彼は私の手を強く握りしめた。
その蒼い瞳に、熱い光が宿る。
「城に来てくれないか」
ドキン、と心臓が跳ねた。
それは、実質的な「お抱え料理人」へのスカウトだ。
でも、その声音と熱量は、まるで――。
「君の料理は、私にとってなくてはならないものだ。いや、君自身が、私の光なんだ。私の側で、私だけのために料理を作ってほしい。……君を守る権利を、私にくれ」
それは、ほとんどプロポーズだった。
周囲の空気が甘く色めき立つ。
シロが『おお、ついに言ったか!』と尻尾を振っている。
私は顔が熱くなるのを感じた。
嬉しい。
あの「氷の皇太子」と呼ばれる人が、ここまで心を砕いてくれている。
高待遇、安全な暮らし、そして何より、彼と一緒にいられる未来。
普通なら、即答で頷く場面だ。
けれど。
私は屋台を見渡した。
使い込まれた寸胴鍋。焦げ付いた鉄板。
そして、心配そうに、でも温かく見守ってくれている常連さんたちの顔。
――私は、ここが好きなんだ。
地位も名誉も関係なく、「美味い」と言って笑い合えるこの場所が。
私は深呼吸をして、彼の手を、そっと、でも力強く握り返した。
「……グレンさん。そのお言葉、料理人として最高に幸せです」
「ならば……」
「でも、ごめんなさい。私はまだ、お城には行けません」
グレンさんの目が少しだけ見開かれる。
私は微笑んだ。
「私は、『みんなの料理人』でいたいんです。貴方だけのものにはなれません。……でもね」
私は彼の耳元に顔を寄せ、小さく囁いた。
「貴方は私にとって、『特別なお客様』ですよ。だから……これからも、毎日通ってくださいね?」
それは精一杯の、私なりの愛の告白だった。
グレンさんは一瞬きょとんとして、それから、ふっと肩の力を抜いて笑った。
それは今まで見た中で、一番優しく、人間味のある笑顔だった。
「……ははっ。振られてしまったか。いや、保留と受け取っておこう」
彼は私の手首に、そっと口づけを落とした。
騎士の誓いのように。
「分かった。君がここを愛しているなら、私はここを守ろう。君が『うん』と言うその日まで、毎日通って、君の胃袋ではなく、心を攻略してみせるさ」
「ふふ、強敵ですね。覚悟しておきます」
私たちは視線を交わし、笑い合った。
周囲からは「ヒューヒュー!」という冷やかしと、温かい拍手が巻き起こった。
シロが『茶番は終わりか? ならエビ天の尻尾をくれ』とねだってくる。
騒動は去った。
けれど、この一件でグレンさんの正体は公然の秘密となり、私の屋台は「皇太子殿下が愛する店」として、さらに伝説化することになった。




