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バカ舌王子に婚約破棄されたので、辺境で屋台はじめます!  作者: 九葉(くずは)


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9/15

第9話

 その日のノルドの街は、鉛色の空から重たい雪が降り続き、底冷えのする一日だった。

 こんな日は、誰だって外に出たくない。こたつで丸まっていたい。

 けれど、私の屋台「ひだまり亭」の厨房は、真夏のような熱気と、小麦粉の粉塵に包まれていた。


「よいしょっ! よいしょっ!」


 私は厚手のビニール(に似た素材の清潔な袋)に入った生地を、足で踏んでいた。

 行儀が悪い? とんでもない。これは神聖な儀式なのだ。

 今日のメインは「うどん」。

 それも、コシの強さが命の「讃岐さぬき風・手打ちうどん」だ。


 小麦粉と塩水を混ぜ合わせ、そぼろ状になったものを一つにまとめる。それを何度も踏んで、畳んで、また踏む。

 こうすることでグルテンが鍛えられ、あの独特の「ツルッ、モチッ、シコッ」とした食感が生まれるのだ。


「ふぅ……こんなもんかな」


 十分に踏み込んだ生地を、綿棒で薄く伸ばしていく。

 均一な厚さにするのが職人技だ。

 そして、包丁で一定のリズムを刻んで切っていく。


 トントントントン……。


 小気味良い音が響く。

 切り揃えられた白く美しい麺線。表面に打ち粉をまぶすと、まるで雪の女王の髪のようだ。

 これを大釜の熱湯で踊らせるように茹で上げ、冷水でキリッと締める。

 表面は滑らかで艶やか、芯にはしっかりとしたコシ。

 「うどん」の完成だ。


 けれど、今日の主役は麺だけじゃない。

 うどんの相棒といえば、やっぱり「天ぷら」。

 私は市場で、とんでもない掘り出し物を見つけていた。


 「クリスタル・シュリンプ(水晶海老)」。

 帝国の北の海で獲れる、透き通った殻を持つ巨大な海老だ。

 身はプリプリで甘みが強く、加熱すると紅白の美しい色に変わる。

 大きさは私の手のひらサイズ。これを使わない手はない。


「さあ、揚げるわよ!」


     ◇


 天ぷらの命は「衣」だ。

 小麦粉と卵、そして一番重要なのが「冷水」。

 キンキンに冷やした水を使うことで、グルテンの発生を抑え、サクサクの衣になる。

 混ぜすぎないのもコツ。粉が少し残っているくらいでいい。


 殻を剥き、背ワタを取り除いた巨大海老に、打ち粉をする。

 尻尾の先は斜めに切り落とし、中の水分をしごき出す。これをやらないと油が跳ねて大惨事になるからだ。

 衣液に海老をくぐらせ、180度の油へ投入!


 ――シュワァァァァァ……。


 繊細な音が広がる。

 唐揚げの時の豪快な音とは違う。雨音のような、優しくて心地よい音。

 衣が油の中でパッと花を咲かせる。

 菜箸で衣を散らし、海老にまとわせていく。これでボリュームとサクサク感が増すのだ。


 泡が大きくなり、パチパチという高い音に変わったら揚げ上がりの合図。

 網ですくい上げ、油を切る。

 黄金色の衣をまとった海老は、ピンと背筋を伸ばし、堂々たる風格だ。


「よし、仕上げ!」


 丼に茹でたてのうどんを入れる。

 そこに、私の原点にして頂点、「黄金出汁」をたっぷりと注ぐ。

 昆布(海蛇)とカツオ(ロックバード)の合わせ出汁に、薄口醤油とみりんで味を調えた、透き通るような関西風のつゆ(スープ)。

 仕上げに、揚げたてのエビ天を二本、クロスさせるように乗せる。

 彩りに、カマボコ(魚のすり身蒸し)と、青ネギ、そして柚子の皮をひとかけら。


 湯気と共に立ち上る、柚子と出汁の上品な香り。

 これが、本日の看板メニュー『特大エビ天うどん』だ。


     ◇


 夜の帳が下りる頃。

 屋台には、いつものように常連さんたちが集まっていた。

 みんな、丼を両手で抱え込み、幸せそうな音を立てて麺を啜っている。


「ズズッ……はぁ、美味い。冷えた体に染みるぜ」

「この透明なスープ、色が薄いのに味がしっかりしてる! 全部飲み干したくなるわ」

「おい見ろよこの海老! 衣ばっかりかと思ったら中身がパンパンに詰まってやがる!」


 あちこちから聞こえる「サクッ」「ズゾゾッ」という音が、料理人にとって最高のBGMだ。

 そのカウンターの端で、今日も静かに箸を動かす黒マントの青年――グレンさんがいた。


 彼はうどんを一本すくい上げ、光にかざして見つめている。

 半透明に輝く麺のエッジ


「……美しい。宝石のようだ」


 彼は麺を口に運び、ちゅるり、と吸い込んだ。


 モチッ。


 彼の目が細められる。

「……ん。滑らかなのに、噛むと押し返してくる弾力。これが『コシ』か」


 続いて、つゆに半分浸かったエビ天へ。

 サクッ、ジュワッ。


「……っ!」


 衣の香ばしさと、海老の甘みが口いっぱいに弾ける。

 つゆを吸って少しふやけた衣もまた、たまらない味わいだ。


「サクサクの部分と、トロトロの部分。二つの食感が楽しめる。そしてこの柚子の香り……。脂っこさを消し去り、余韻を爽やかにしてくれる」


 彼は無言で食べ進め、最後に丼を持ち上げてスープを一滴残らず飲み干した。

 プハァ、と息をつくその顔は、幸福そのものだった。


「ご馳走様。……毎日言っている気がするが、今日が一番美味かった」

「ふふ、更新し続けられて光栄です」


 私が食器を片付けようとした、その時だった。


「おい、そこのネエちゃん!」


 突然、大声で怒鳴る声が響いた。

 ビクッとして振り返ると、屋台の入り口に、酒臭い息を吐く三人の男たちが立っていた。

 見たことのない顔だ。粗末な革鎧を着崩し、腰には錆びた剣。

 どうやら、街を流れるゴロツキ傭兵らしい。


「いらっしゃいませ。お食事ですか?」

「食事ィ? ケッ、こんなお上品なもん食えるかよ。酒だ酒! 強い酒を出せ!」

「申し訳ありません。うちは食堂ですので、お酒はお一人様一杯までと……」

「あぁん!? 客に指図すんのか!?」


 男の一人が、ドカッとカウンターを蹴り上げた。

 置いてあった箸入れが倒れ、バラバラと散らばる。

 店内が凍りついた。

 常連の騎士たちが立ち上がろうとしたが、私はそれを手で制した。お店の中で揉め事は困る。


「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので……」

「うるせぇ! だいたい気に入らねぇんだよ、女のくせにチヤホヤされやがって! どうせ体でも売ってんだろ?」


 男はニタニタと笑いながら、私の腕をガシッと掴んだ。

 痛い。強い力だ。


「離してくださ……」

「へへっ、いい肌してんじゃねぇか。俺たちが相手してやるよ、裏に来い」


 下卑た笑い声。酒と脂汗の不快な臭い。

 シロが唸り声を上げて飛び出そうとした瞬間。


 ヒュッ。


 空気が、凍った。

 物理的に温度が下がったのではない。

 空間そのものが、圧倒的な「殺気」によって塗りつぶされたのだ。


「――ひっ?」


 私の腕を掴んでいた男が、悲鳴を上げて手を離した。

 男たちの視線が、一点に集中する。

 カウンターの端。

 ゆっくりと立ち上がった、黒マントの青年へ。


 グレンさんは、フードを深く被ったまま、静かに男たちの背後に立っていた。

 その手には、武器などない。

 ただ、そこから発せられる威圧感オーラが、まるで巨大な氷の刃のように男たちの首元に突きつけられていた。


「……おい。その汚い手を、どこに触れている」


 低い、地を這うような声。

 普段の穏やかなグレンさんからは想像もできない、絶対零度の冷徹な響き。

 フードの下から覗く蒼い瞳が、幽鬼のように光っていた。


「あ、あんだテメェ!? やんのかオラァ!」


 男の一人が、虚勢を張ってナイフを抜こうとした。

 だが、その手が動くより早く。

 グレンさんが一歩踏み出した。


 タンッ。


 ただの足音。

 それなのに、男たちは見えない力に殴られたように、その場に崩れ落ちた。

 腰が抜け、歯がガチガチと鳴っている。

 生物としての格の違い。本能が「動けば死ぬ」と警鐘を鳴らしているのだ。


「失せろ。……二度と、この店の敷居を跨ぐな」


 グレンさんが短く告げた。

 それは命令ではない。死刑宣告の一歩手前の慈悲だ。


「ヒッ、ヒイィィッ!!」

「ば、化け物……ッ!!」


 男たちは這いつくばるようにして逃げ出した。

 転がり、悲鳴を上げながら、闇の向こうへと消えていく。


 静寂が戻った屋台。

 私は呆然と立ち尽くしていた。

 強すぎる。

 騎士団長さんたちですら冷や汗をかいて直立不動になっている。

 グレンさんは深く息を吐くと、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 その瞳から、殺気は消えていた。

 あるのは、痛々しいほどの心配の色。


「……レティ。怪我はないか?」


 彼は私の元へ歩み寄り、赤くなった手首をそっと取った。

 その手は震えていた。怒りで。そして、私を守れなかったかもしれないという恐怖で。


「痛かっただろう。……すまない。もっと早く止めるべきだった」

「い、いえ。大丈夫です。グレンさんこそ……」


 私は彼を見上げた。

 フードがずり落ち、銀色の髪が露わになっている。

 その高貴な顔立ちは、もはやただの「常連客」として隠し通せるものではなかった。

 周囲の客たちが、ハッと息を呑む気配がする。

 「あの方は……まさか」「皇太子殿下……?」という囁きが漏れる。


 グレンさんは周囲の視線に気付いたが、気にする様子もなく、私だけを真っ直ぐに見つめた。


「レティ。……私は、もう我慢の限界だ」

「え……?」

「こんな危険な目に遭わせたくない。君という才能を、こんな吹きっさらしの場所に置いておきたくないんだ」


 彼は私の手を強く握りしめた。

 その蒼い瞳に、熱い光が宿る。


「城に来てくれないか」


 ドキン、と心臓が跳ねた。

 それは、実質的な「お抱え料理人」へのスカウトだ。

 でも、その声音と熱量は、まるで――。


「君の料理は、私にとってなくてはならないものだ。いや、君自身が、私の光なんだ。私の側で、私だけのために料理を作ってほしい。……君を守る権利を、私にくれ」


 それは、ほとんどプロポーズだった。

 周囲の空気が甘く色めき立つ。

 シロが『おお、ついに言ったか!』と尻尾を振っている。


 私は顔が熱くなるのを感じた。

 嬉しい。

 あの「氷の皇太子」と呼ばれる人が、ここまで心を砕いてくれている。

 高待遇、安全な暮らし、そして何より、彼と一緒にいられる未来。

 普通なら、即答で頷く場面だ。


 けれど。

 私は屋台を見渡した。

 使い込まれた寸胴鍋。焦げ付いた鉄板。

 そして、心配そうに、でも温かく見守ってくれている常連さんたちの顔。


 ――私は、ここが好きなんだ。

 地位も名誉も関係なく、「美味い」と言って笑い合えるこの場所が。


 私は深呼吸をして、彼の手を、そっと、でも力強く握り返した。


「……グレンさん。そのお言葉、料理人として最高に幸せです」

「ならば……」

「でも、ごめんなさい。私はまだ、お城には行けません」


 グレンさんの目が少しだけ見開かれる。

 私は微笑んだ。


「私は、『みんなの料理人』でいたいんです。貴方だけのものにはなれません。……でもね」


 私は彼の耳元に顔を寄せ、小さく囁いた。


「貴方は私にとって、『特別なお客様』ですよ。だから……これからも、毎日通ってくださいね?」


 それは精一杯の、私なりの愛の告白のようなものだった。

 グレンさんは一瞬きょとんとして、それから、ふっと肩の力を抜いて笑った。

 それは今まで見た中で、一番優しく、人間味のある笑顔だった。


「……ははっ。振られてしまったか。いや、保留と受け取っておこう」


 彼は私の手首に、そっと口づけを落とした。

 騎士の誓いのように。


「分かった。君がここを愛しているなら、私はここを守ろう。君が『うん』と言うその日まで、毎日通って、君の胃袋ではなく、心を攻略してみせるさ」

「ふふ、強敵ですね。覚悟しておきます」


 私たちは視線を交わし、笑い合った。

 周囲からは「ヒューヒュー!」という冷やかしと、温かい拍手が巻き起こった。

 シロが『茶番は終わりか? ならエビ天の尻尾をくれ』とねだってくる。


 騒動は去った。

 けれど、この一件でグレンさんの正体は公然の秘密となり、私の屋台は「皇太子殿下が愛する店」として、さらに伝説化することになった。

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