第8話
舞台は変わり、南方の王国。
かつては大陸一の美食と繁栄を誇った王宮のダイニングルームは、今や重苦しい沈黙と、奇妙な異臭に包まれていた。
カチャ、ギギギ……。
銀のナイフが皿を擦る、不快な音が響く。
元婚約者、カイル・ロズウェル第二王子は、目の前の皿を睨みつけたまま、額に脂汗を浮かべていた。
「……ミリア。これは、なんだ?」
「まぁ、カイル様ったら。今日のメインディッシュ、『愛のローズ・ハニー・ステーキ』ですわよぉ」
隣に座るミリアが、ピンク色の扇子をパタパタと仰ぎながら甘ったるい声で答える。
その扇子の風に乗って、強烈な香水の匂いがカイルの鼻を直撃した。
だが、それ以上に酷いのは皿の上だ。
そこには、黒ずんだ赤色の肉塊が鎮座していた。
肉の表面はドロリとしたピンク色のソースで覆われている。バラの花びらを煮詰めたジャムと、大量の蜂蜜、そして臭み消しのための香辛料を無秩序に混ぜ合わせた、地獄のソースだ。
「……そうか、愛か。素晴らしいな」
カイルは引きつった笑みを浮かべ、ナイフを入れた。
硬い。
まるで古タイヤを切っているようだ。
レティシアの実家であるセイファート公爵家が食材流通を停止して以来、王宮に入ってくる肉の質は暴落していた。筋張り、血抜きも不十分で、獣臭さが鼻をつく下等品ばかりだ。
ようやく切り取った肉片を、カイルは口に運んだ。
グチャッ。
噛んだ瞬間、口の中に広がったのは混沌だった。
古い肉特有の酸味と、腐敗臭。
それを無理やり隠そうとする、砂糖と蜂蜜の暴力的な甘さ。
そして、鼻孔を突き抜けるバラの香水のような香り。
「うっ……!」
カイルは思わず口元を押さえた。
胃袋が「それを飲み込むな」と警鐘を鳴らしている。
だが、隣ではミリアがキラキラした目でこちらを見ている。
「美味しいですかぁ? 料理長に『お砂糖とスパイスを倍にして!』ってアドバイスしたんですぅ」
「あ、ああ……最高だ。舌が痺れるほど美味いぞ……」
カイルはワインで無理やり肉を流し込んだ。
腹の中が重い。ここ数日、腹痛と下痢が止まらない。肌は荒れ、鏡を見るのが怖いほど顔色が悪い。
(なぜだ……なぜこんなに不味いんだ……)
カイルは心の中で毒づいた。
レティシアがいた頃は、こんなことはなかった。
出てくる料理は地味だったが、肉は柔らかく、スープは透き通っていた。食べると身体が軽くなった。
あれは「味がしない」と罵ったが、今思えば、あれこそが……。
いや、認めるものか。
あの女は味覚音痴だった。俺の繊細な舌(=激甘・激辛好き)を理解できなかった無能な女だ。
今のこの状況は、単に食材の流通が一時的に悪いだけだ。
その時、食堂の扉がノックされ、一人の密偵が入ってきた。
カイルが帝国に放っていたスパイだ。
「報告します! ヴァルハラ帝国の辺境都市ノルドにて、奇妙な噂を確認しました」
「噂だと? 食料援助の件はどうなった」
「はっ。それに関係するのですが……現在、ノルドの街で『聖女の屋台』と呼ばれる店が大繁盛しておりまして」
密偵は声を潜めた。
「その店主は若い女性。なんでも、『黄金の出汁』と呼ばれる魔法のスープを使い、食べた者の病を治し、皇帝陛下(の息子)すらも虜にしているとか」
――ピクリ。
カイルの眉が動いた。
黄金のスープ。若い女。料理。
「……その女の特徴は?」
「はっ。ミルクティー色の髪に、琥珀色の瞳。元貴族のような佇まいで……」
ガタンッ!
カイルは勢いよく立ち上がり、椅子を倒した。
間違いない。レティシアだ。
彼の中で、全ての点と点が繋がった――ただし、とんでもなく都合の良い形で。
(そうか、そういうことだったのか!)
カイルは歪んだ笑みを浮かべた。
レティシアは、俺に捨てられたことを悔やみ、帝国へ修行に行ったのだ。
かつて俺が「味がしない」と否定したスープを改良し、俺に認めてもらうために、「黄金のスープ」を完成させたに違いない。
あの屋台は、俺への謝罪と求愛のメッセージなのだ!
「くくっ、健気なやつめ。そこまでして俺の愛を取り戻したいか」
カイルはナプキンを投げ捨てた。
もう、このゴミのようなステーキを我慢して食べる必要はない。
帝国へ行けば、彼女が泣いて謝りながら、俺のために進化した料理を差し出すはずだ。それを食べて、「まあまあだな」と褒めてやれば、彼女は感涙して側室に戻るだろう。そうすれば、食材の流通も復活する。完璧なシナリオだ。
「準備をしろ! これより帝国へ向かう!」
「えぇー? カイル様ぁ、私も行きますぅ!」
「ああ、来るがいい。本物の『豚の餌』とはどういうものか、レティシアに教えてやる必要があるからな」
カイルは自信満々に鼻を鳴らした。
自分の腹がグルグルと悲鳴を上げていることなど、無視して。
◇
一方、ヴァルハラ帝国、辺境都市ノルド。
王国のドロドロとした食卓とは対照的に、私の屋台「ひだまり亭」は、今日も白く輝く湯気と、幸せな香りに包まれていた。
今日の寒さは一段と厳しい。
空からは大粒の雪が舞い降り、吐く息どころか、外に出している指先まで凍りつきそうだ。
こんな日は、「アレ」しかない。
心も体もトロトロに溶かす、冬の家庭料理の女王。
――『丸ごとパンのクリームシチュー』だ。
私は早朝から、大鍋と格闘していた。
シチューの命は「ルー」作りにある。市販の固形ルーなんてないから、小麦粉とバターから手作りだ。
フライパンにたっぷりのバターを溶かす。
溶けたバターがフツフツと泡立ち、甘い乳製品の香りが立ち上る。
そこに小麦粉を一気に入れる。
焦がさないように、弱火でじっくり、木べらで練るように炒めていく。
サッサッ、という音がする。
粉っぽさが消え、滑らかなクリーム状になり、クッキーのような香ばしい匂いがしてくるまで。
ここが我慢のしどころだ。炒め足りないと粉臭いし、炒めすぎると茶色くなってホワイトシチューにならない。
「よし、綺麗なアイボリー色!」
次は牛乳だ。
この近くの牧場で取れた、濃厚な「ムーウ牛」のミルク。脂肪分が高く、生クリームに近いコクがある。
これを少しずつ、ルーに加えていく。
一度に入れるとダマになる。少し入れては混ぜ、滑らかになったらまた少し入れる。
この工程が、絹のような舌触りを生む魔法だ。
とろりとしたホワイトソースができたら、いよいよ具材の準備だ。
今日の主役は「コカトリスの胸肉」。
一口大に切り、塩胡椒をして、別のフライパンで表面だけサッと焼く。
野菜は、ゴロゴロと大きめに切った人参、玉ねぎ、そしてホクホクの「男爵イモ(に似た北国イモ)」。彩りにブロッコリーも茹でておく。
大鍋でバターを熱し、玉ねぎを透き通るまで炒める。
そこへ他の野菜と鶏肉を投入し、水をひたひたに入れて煮込む。
野菜が柔らかくなり、スープに甘みが溶け出したところで、先ほどのホワイトソースを投入!
――トロォォ……リ。
鍋の中が、一瞬で乳白色の世界に変わる。
かき混ぜると、重たい感触が手に伝わる。
煮立つ音も変わる。
グツグツ、ではなく、ボクッ、ボクッ、という、濃厚で優しい音へ。
仕上げに、塩、胡椒、少しの白ワイン。そして隠し味に、白味噌を小さじ一杯。
これでコクが段違いに深くなる。
「味見……んっ!」
スプーンで一口啜る。
優しい。
牛乳の甘みとバターのコクが、口いっぱいに広がる。
野菜の角は取れ、口の中でホロホロと崩れる。
これは「飲む毛布」だ。凍えた身体を内側から抱きしめてくれる味だ。
でも、今日はこれだけじゃない。
私は屋台のオーブン(火魔法石内蔵)で、パンを焼いていた。
大人の拳二つ分くらいの、丸いハードパン(ブール)。
外側はパリッと硬く、中はモチモチ。
このパンの上部をナイフで水平に切り取り(蓋にする)、中身の白い部分をくり抜く。
そう、パンを「器」にするのだ。
「完成! 『丸ごとパンのポットシチュー』!」
くり抜いたパンの中に、熱々のシチューをなみなみと注ぐ。
溢れそうになる寸前で止める。
最後に、とろけるチーズをパラリと散らし、バーナー代わりの火魔法で軽く炙る。
チーズが溶けて焦げ目がつき、香ばしい匂いがシチューの甘い香りに混ざる。
◇
ちょうどその時、雪を踏みしめる音が近づいてきた。
白い景色の中、黒いコートを着た長身の影。
グレンさんだ。
肩にうっすらと雪を積もらせ、寒さで頬を赤くしている。
「……寒いな。鼻の感覚がなくなりそうだ」
「いらっしゃいませ。今日は一番乗りですね」
「ああ。君の料理で暖まりたくて、公務を早回しで片付けてきた」
彼は白い息を吐きながら、カウンターに座った。
足元ではシロが『遅いぞ、我が凍死するところだった』と文句を言いながら、グレンさんの足に身体を擦り付けて暖を取っている。
「今日は、とびきり温かいものを用意しましたよ」
私は出来立ての「パンシチュー」を彼の前に置いた。
丸いパンの器から、白い湯気がモクモクと上がっている。
チーズの焦げた匂いと、ミルクの甘い香り。
見た目のインパクトと可愛らしさに、グレンさんは目を丸くした。
「これは……パンの中にスープが入っているのか? 器ごと食べるということか?」
「はい。パンをちぎって、シチューにつけながら食べてください」
彼は頷き、パンの「蓋」の部分を手に取った。
裏側にはシチューが染み込み、トロトロになっている。
それを口へと運ぶ。
サクッ。ジュワッ。
「……!」
硬いパンの皮が砕ける音。
その直後、染み込んだシチューが口の中に溢れ出す。
「熱ッ! ……あぁ、美味い……」
彼は目を細め、ため息をついた。
「甘いな。砂糖の甘さじゃない。ミルクと野菜の、どこまでも優しい甘さだ。冷え切った内臓が、お湯に浸かったように解れていく」
次は本体だ。
スプーンで中身をすくう。
とろりと糸を引くチーズ。大きな人参と鶏肉。
フーフー、と息を吹きかけ、パクり。
ハフハフ、と口を動かす。
クリームソースを纏った鶏肉は、驚くほど柔らかい。人参は甘く、口の中でペースト状に溶ける。
「身体の芯まで染みる……。子供の頃、風邪を引いた時に母が作ってくれたミルク粥を思い出す。いや、それよりもずっと濃厚で、贅沢な味だ」
彼はスプーンを置き、今度はパンの縁を指でちぎった。
シチューの水分を吸って、少しふやけたパン。
これがまた絶品なのだ。
「パンがソースを吸って、モチモチになっている。硬いパンとシチューがこれほど合うとは……。この器自体が、最高のご馳走だな」
彼は夢中でパンをちぎり、シチューを拭い、食べ進めた。
指先についたソースまで舐め取りたいような、そんな没頭ぶりだ。
見ているだけで、こちらまでお腹が空いてくる。
完食する頃には、彼の額にはうっすらと汗が浮かび、顔色は健康そのものになっていた。
「ふぅ……。生き返った」
彼は満足げに、空になった(食べ尽くされた)パンの残骸――と言っても、パン屑一つ残っていない皿を見つめた。
「レティ。君は本当に、冬の魔女だな」
「魔女ですか?」
「ああ。こんなに人を骨抜きにする料理を作るんだからな」
彼は笑って、温かい紅茶を啜った。
そして、ふと真剣な眼差しになり、声を潜めた。
「……その魔女に、一つ忠告がある」
「忠告?」
「国境の警備隊から報告があった。王国の使節団らしき馬車が、こちらへ向かっているそうだ。……しかも、王族専用の紋章をつけた馬車も確認されている」
私は息を呑んだ。
王族。つまり、カイル王子。
ついに、来るのか。
「狙いは十中八九、食料援助の直談判だ。だが……嫌な予感がする。奴らがただ頭を下げに来るとは思えない」
「……そう、ですね」
私はカイル王子の性格を熟知している。
彼は、自分が間違っているとは絶対に認めない。
きっと、とんでもない理屈をこねて、私を連れ戻しに来るはずだ。
でも、不思議と恐怖はなかった。
目の前には、私を心配してくれるグレンさんがいる。
足元には、最強の魔獣シロがいる。
そして何より、私にはこの「ひだまり亭」で培った自信がある。
「大丈夫です。誰が来ても、私はここを動きませんから」
「そうか。……なら安心だ」
グレンさんは優しく微笑むと、私の手にそっと自分の手を重ねた。
その手は、シチューのおかげか、とても温かかった。
「私が必ず守る。君と、君の料理と、この幸せな場所を」
その言葉は、どんな甘い言葉よりも私の心に響いた。
雪はまだ降り続いている。
けれど、屋台の中は春のように暖かかった。
嵐の前の静けさ。
ホワイトシチューの優しさは、来るべき対決に向けた、最後の安らぎの時間だったのかもしれない。




