第6話
私の屋台「ひだまり亭」が、このノルドの街で「聖地」と呼ばれるようになるまで、そう時間はかからなかった。
先日の騎士団長ガルド様ご一行の来訪が、決定打となったらしい。
「おい、ここだここだ! 噂の屋台は!」
「ここの飯を食えば、剣の腕が上がるって本当か?」
「バカ、剣の腕じゃない。翌日の筋肉痛が消えるんだよ!」
お昼時ともなれば、屋台の前には長蛇の列ができる。
冒険者、非番の兵士、そして近くに住む町人たち。皆、防寒具に身を包みながらも、屋台から漂う湯気と香りに鼻をヒクつかせている。
看板犬(魔獣)のシロは、あまりの客の多さに『むぅ、我がくつろぐスペースがないではないか』と文句を言いつつも、客が落とした唐揚げの欠片をちゃっかり拾い食いしてご機嫌だ。
私は、戦場のような厨房で一人、フライパンを振るっていた。
忙しい。目が回るほど忙しい。
けれど、こんなに充実した「忙しさ」は初めてだ。
だって、誰も私の料理を「豚の餌」なんて呼ばない。みんなが「美味い!」と笑顔で食べてくれるのだから。
「さあ、今日のスペシャルメニュー、いくわよ!」
私は気合を入れ直し、冷蔵庫から挽肉を取り出した。
今日の料理は、子供から大人まで、全人類が愛してやまない洋食の王様。
――『デミグラスソースの煮込みハンバーグ』だ。
◇
使う肉は二種類。
脂の甘みが強い「オーク肉」と、赤身の旨味が濃厚な「ブラッディ・カウ(血牛)」の合挽き肉だ。比率は黄金の6対4。
これを、氷水を入れたボウルに重ねて冷やしながら練っていく。
手の温度で脂が溶け出すと、仕上がりがボソボソになってしまうからだ。
ペタ、ペタ、グッ、グッ。
冷たい肉に指を食い込ませ、粘りが出るまでしっかりと練る。
そこに、飴色になるまでじっくり炒めて冷ましておいた玉ねぎのみじん切りを加える。この甘みが、肉の野性味を中和し、深みを与えるのだ。
つなぎは、牛乳に浸したパン粉と、新鮮な卵。
そして味の決め手となるナツメグ(に似た香辛料)と、黒胡椒、塩。
全体が白っぽくなり、糸を引くような粘りが出たら生地の完成だ。
さあ、ここからが楽しい「成形」の時間。
両手にサラダ油を塗り、肉ダネを手に取る。
そして、右手から左手へ、左手から右手へ。
パンッ! パンッ! パンッ!
軽快な音が響く。キャッチボールをするように、中の空気を抜いていく。これをサボると、焼いている途中で割れて肉汁が逃げてしまう。
綺麗なお饅頭型(小判型)に整え、真ん中を指で少し窪ませる。火の通りを均一にするためのおまじない。
フライパンに牛脂を引き、煙が出るまで熱する。
そこにハンバーグを並べていく。
ジューーーーーッ!!
重厚な音が立ち昇る。
すぐには動かさない。我慢だ。表面を焼き固め、旨味の壁を作る。
こんがりと焦げ目がついたら、ひっくり返す。
裏面もサッと焼く。
まだ中は生焼けだが、これでいい。今日は「煮込み」なのだから。
別の深鍋には、特製のソースがグツグツと音を立てている。
赤ワイン、トマトピューレ、炒めた小麦粉とバター、そして野菜くずと牛骨から取った茶色のスープ(フォン)。
隠し味に、少しの味噌とチョコレートを入れてある。これで一晩煮込んだようなコクが出る。
この濃厚な茶色の海へ、焼いたハンバーグをダイブさせる。
ポチャン、ポチャン。
ソースが跳ね、甘酸っぱくも芳醇な香りが広がる。
蓋をして、弱火でコトコト煮込むこと二十分。
肉の中まで火が通り、ふっくらと膨らんでくる。肉汁がソースに溶け出し、ソースの味が肉に染み込む。
相思相愛のマリアージュ。
「……よし、完成!」
蓋を開けた瞬間、ボワァッ! と立ち昇る湯気。
艶やかに輝く茶色のソースを纏った、ふっくらとした肉の塊。
その横に、彩りのブロッコリーと、バターでソテーした人参を添える。
「へいお待ち! 『特製・煮込みハンバーグ定食』だよ!」
「うおぉぉっ! なんだこの艶は!」
「肉の匂いと、焦げたバターの匂いが混ざって……たまらねぇ!」
客たちが歓声を上げ、次々と皿が運ばれていく。
そんな喧騒から少し離れた、いつもの特等席。
そこに、今日もあの人が来ていた。
「……今日はまた、一段とそそられる見た目をしているな」
グレンさんだ。
彼は私の出すハンバーグを、愛おしそうに見つめている。
湯気越しに見る彼の瞳は、氷の皇太子とは思えないほど優しく、そして少年のような期待に満ちている。
「熱いから気をつけてくださいね。スプーンで切れますから」
「スプーンで? 肉をか?」
彼は半信半疑でスプーンを握り、ハンバーグの端に当てた。
少し力を入れる。
すると、スッ……と抵抗なくスプーンが沈んでいった。
「……! 柔らかい」
切れ目から、透明な肉汁が溢れ出し、濃厚なデミグラスソースと混ざり合う。
彼はその断面に見惚れてから、ソースごとたっぷりと掬って口に運んだ。
ハフッ。
熱々の塊を頬張る。
一噛みした瞬間、彼の肩がビクリと跳ねた。
「んんっ……!」
言葉にならない声が漏れる。
粗挽きの肉の食感が残っていながら、全体としてはフワフワと柔らかい。
噛むたびに、肉の旨味が爆発する。
そして、その肉汁を受け止める濃厚なソース。赤ワインの酸味と野菜の甘みが、脂っぽさを消し去り、後味を上品にまとめている。
「美味い……。これは、ダメだ。人を堕落させる味だ」
彼は眉間にシワを寄せているが、その口元は緩みっぱなしだ。
すかさず、左手のパン(今日はソースに合うように、柔らかい白パンを用意した)を千切り、皿に残ったソースを拭って食べる。
「このソースだけで、パンがいくらでも入る。……レティ、君は魔法使いか何かか?」
「ふふ、ただの料理好きですよ。お口に合ってよかった」
グレンさんは幸せそうに食べ進めながら、ふと真面目な顔で私を見た。
「……ここに来ると、ホッとするんだ」
「え?」
「城では、食事はただの作業だ。毒見をされ、冷めきった皿を、監視されながら食べる。味なんて分からない。……だが、君の料理は温かい。作っている君の顔が見える。それが、何よりも美味い調味料なのかもしれないな」
彼の言葉に、私は胸がキュッとなった。
高貴な身分ゆえの孤独。
彼がどれほど冷たい世界で生きてきたのか、私には想像することしかできない。
でも、少なくともここ(屋台)にいる間だけは、温かい気持ちになってほしい。
「なら、いつでも来てください。私はここで、とびきり熱々の料理を作って待っていますから」
「……ああ。約束だ」
彼は優しく微笑むと、最後の一口を惜しむように飲み込んだ。
――その頃。
私の屋台が幸せな湯気に包まれている一方で。
遥か南、私の故郷である王国では、「地獄」のような晩餐会が開かれていた。
◇
カチャ、カチャ……。
王国、王城のダイニングルーム。
豪華な銀食器が並んでいるが、そこには重苦しい空気が漂っていた。
「……なんだこれは」
元婚約者、カイル王子は、目の前の皿を睨みつけていた。
そこに乗っているのは、メインディッシュの「特上サーロインステーキ」――のはずだった。
だが、その肉は紫色に変色し、その上からドロドロとした甘いシロップのようなソースがかけられている。
「カイル様ぁ、召し上がってくださいな。私が料理長に指示して作らせた、特製の『愛のスイートステーキ』ですわ!」
隣には、新しい婚約者のミリアが媚びた笑顔で座っている。
カイルは引きつった笑顔で頷いた。
「あ、ああ……ミリアの愛が詰まっているんだな。素晴らしい香りだ……うっ」
鼻を近づけた瞬間、強烈なスパイスの匂いと、その奥にある「腐敗臭」が鼻を突いた。
レティシアの実家であるセイファート公爵家が食材の供給を止めてから、一週間。
王国の食材庫は、急速に枯渇しつつあった。
特に鮮度が命の肉や魚は、まともなものが入ってこない。
料理人たちは、腐りかけの肉の臭いを消すために、大量の香辛料と、砂糖と、香水のようなハーブを使わざるを得なかったのだ。
カイルは震える手でナイフを入れた。
ギコ、ギコ。
硬い。まるで革靴を切っているようだ。
ようやく切り取った肉片を、意を決して口に放り込む。
グチャ。
嫌な食感がした。
筋張った肉。噛むと染み出してくるのは、肉汁ではなく、酸化した油と砂糖シロップの不協和音。
甘いのに、苦い。
そして、喉の奥から込み上げてくる吐き気。
(なんだこれは……! ゴミか!? 俺は王子だぞ、なぜこんなゴミを食べさせられている!?)
カイルの脳裏に、かつてレティシアが作っていた料理が過ぎった。
澄んだスープ。柔らかな肉。素材の味がした。
あの時は「味がしない」と罵ったが、今思えば、あれは……。
「いかがですかぁ? 美味しいですよね?」
「っ!! あ、ああ! 最高だ! 世界一美味いぞ!」
カイルは叫んだ。認めるわけにはいかなかった。
レティシアを追放した自分が間違っていたなどと。
彼は無理やり肉を飲み込んだ。胃袋が拒絶して痙攣するのを感じながら、ワインで流し込む。
「そ、そういえばミリア。最近、国民の間で不穏な噂があるのだが」
「えぇー? なんですかぁ?」
「北の帝国に、『聖女の食堂』と呼ばれる店があるらしい。そこで出される料理は、どんな病も治し、食べた者を虜にする『神の味』がするとか……」
カイルの目がギラリと光った。
神の味。
今の彼が最も渇望しているもの。
そして、その料理人の特徴――「若くて美しい女」で、「変わった調理法を使う」という点。
(まさか……レティシアか?)
いや、ありえない。
あんな味覚音痴の女に、神の料理など作れるはずがない。
だが、もし本当にそんな店があるのなら。
「……ふん。帝国の野蛮人どもに、美食など分かるはずがない。その『聖女』とやらは、きっと俺のような高貴な人間に料理を振る舞いたくて震えているに違いない」
カイルはナプキンで口元の脂を拭った。
脂汗が止まらない。腹が痛い。
一刻も早く、まともな飯が食いたい。
「決めたぞ。俺自らが帝国へ赴き、その料理人をスカウトしてやる。俺の側室にして、毎日料理を作らせてやるのだ。光栄に思うだろうな」
カイルは歪んだ笑みを浮かべた。
自分の腹が下っているのは、料理のせいではなく「体調が少し悪いだけ」だと自分に言い聞かせながら。
そして彼は、自らの破滅への片道切符となる「帝国訪問」の準備を命じた。
◇
一方、帝国。
屋台の片付けを終えた私は、くしゃみをした。
「っくしゅ! ……うう、寒くなってきたかな」
『娘よ、誰かが噂しているのではないか?』
満腹になったシロが、丸くなりながら言った。
「まさか。私なんて、ただの屋台のお姉さんよ」
私は笑い飛ばし、明日の仕込みのことを考えた。
ハンバーグの次は、何にしよう。




