第5話
ガチャ、ガチャ、と金属が擦れ合う音が近づいてくる。
それは、静かな夜の辺境都市には似つかわしくない、規律正しい軍靴の響きだった。
私の屋台「ひだまり亭」の前に現れたのは、五人の男たち。
全身を分厚いプレートアーマーで固め、腰には長剣を帯びている。ヴァルハラ帝国の正規騎士団だ。
その先頭に立つのは、ひときわ巨漢の男。顔には古傷があり、熊のような髭を蓄えている。
どう見ても堅気ではない。夜道で会ったら財布を差し出して命乞いをするレベルの強面だ。
(……うわぁ、怖そう)
私は内心ビクリとしたが、表面上は営業用スマイルを崩さない。
カウンターの隅では、フードを目深に被ったグレンさんが、気配を完全に消して空気と同化している。足元のシロは、『ふん、雑魚が来たか』と興味なさげにあくびをしている。
「……おい、店主」
熊ひげの隊長らしき男が、ドスの効いた声で言った。
「ここの匂いか。部下の報告通り、妙に美味そうな匂いをさせているのは」
「いらっしゃいませ。温かいお料理、用意していますよ」
「フン。こんな吹きっさらしの屋台でまともな飯が出るとは思えんが……まあいい。演習帰りで腹が減っている。何か食わせろ」
隊長はドカッと木箱の椅子に座った。重みで箱がミシミシと悲鳴を上げる。
他の四人の騎士たちも、警戒心を解かないまま後ろに控えた。
「肉だ。とにかく肉を食わせろ。それも、噛みごたえのあるやつをな」
「かしこまりました。ちょうどいいお肉が入ってますよ」
私はニッコリと笑った。
疲れた男たちには、ガツンとくるスタミナ料理が一番だ。
さっきのホルモン煮込みもいいけれど、彼らの目はもっと「直球の肉」を欲している。
私は冷蔵庫から、分厚い「オークのロース肉」を取り出した。
赤身と脂身のバランスが良い、最高級の部位だ。
この世界では「オーク肉は硬くて臭い」というのが常識だが、適切な処理をすれば、これほど旨味の強い豚肉はない。
今日のメニューは、定食屋の王道にして絶対王者。
――『厚切りオークの生姜焼き』だ。
◇
調理開始。
まずは肉の下ごしらえだ。
厚さ一センチほどのロース肉をまな板に置く。
赤身と脂身の境目にある「筋」に、包丁の先でトントンと切り込みを入れていく。
これをサボると、焼いた時に肉が反り返ってしまうし、食べた時の歯切れが悪くなる。
筋切りを終えたら、肉叩きで軽く叩いて繊維をほぐし、元の形に整える。
次に、肉の両面に薄く小麦粉をまぶす。
パッパッとはたいて、余分な粉を落とす。
この一手間が、肉の旨味を閉じ込め、タレをよく絡ませる秘訣だ。
そして、味の決め手となる「タレ」の調合。
すりおろした「黄根」をたっぷりとボウルに入れる。
そこに、醤油(黒豆の醤)、酒、みりん代わりの甘い果実酒、そして少しの砂糖。
混ぜ合わせると、ツンとした生姜の香りと、醤油の香ばしさが混ざり合う。
「焼くわよ!」
熱した鉄のフライパンに、少しのラードを引く。
白い煙がうっすらと上がったら、肉を並べていく。
ジューーーーーッ!!
激しい音が屋台に響く。
騎士たちがビクッと肩を震わせた。
肉の表面が一気に焼ける匂い。脂が溶け出し、鉄板の上で踊る音。
こんがりと焼き色がついたら、裏返す。
裏面もサッと焼いたら、そこにスライスした玉ねぎを投入する。
肉の脂を吸った玉ねぎが、しんなりと透き通り、甘い香りを放ち始める。
ここだ。
肉に八割がた火が通った、このタイミング。
私は合わせておいた「生姜ダレ」を、フライパンに回し入れた。
ジュワワワワァァァッ!!!!
爆発的な蒸気とともに、香りの爆弾が炸裂した。
醤油が焦げる香ばしさ。
生姜の清涼感ある刺激臭。
肉の脂の甘い香り。
それらが混然一体となって、白い湯気の中に凝縮される。
「うおっ!?」
「なんだこの匂いは……!?」
後ろに控えていた騎士たちが、たまらず一歩前へ出た。
隊長の熊ひげがピクリと動く。その喉が、ゴクリと大きく鳴ったのが聞こえた。
タレが煮詰まり、とろみがついて肉に絡みつく。
照り輝く飴色のソース。玉ねぎは茶色く染まり、肉の上でくったりとしている。
盛り付けだ。
千切りキャベツを山盛りにした皿の横に、ドーンと厚切り肉を三枚乗せる。
フライパンに残ったタレを、キャベツにも少しかかるように回しかける。
だが、これだけでは終わらない。
私は小さな壺から、とある「白いソース」を取り出した。
昨夜、私が夜なべして作った秘密兵器。
新鮮な卵の黄身、酢、油、塩、そして少しのマスタードを、腕が千切れるほど攪拌して乳化させた錬金術の結晶。
――マヨネーズだ。
私はその白い悪魔のソースを、キャベツの横にポテッと添えた。
「お待たせしました。『特製・厚切りオークの生姜焼き定食』です。ご飯はおかわり自由ですよ」
丼に山盛りの白米と、熱々の豚汁を添えて差し出す。
隊長は目の前に置かれた料理を、まるで未知の魔物を見るような目で見つめた。
「……これが、オーク肉だと? 俺が知っている、あのゴムのような肉とは見た目が違うが」
彼は疑わしげにフォークとナイフを手に取った。
ナイフを入れる。
スッ――。
抵抗がない。驚くほど滑らかに、刃が肉に沈んでいく。
「なっ……?」
彼は切り取った肉を、玉ねぎと一緒に口へと運んだ。
モグッ。
瞬間、隊長の目がカッ! と見開かれた。
動きが止まる。
そして、ゆっくりと咀嚼を始めたかと思うと、その速度が急激に上がった。
「――なんだこれはッ!!」
ドスの効いた声が、驚愕で裏返った。
「柔らかい! 信じられんほど柔らかいぞ! 噛み切るのに顎の力がいらん! それに、なんだこのタレは!? 塩辛いのに甘く、ピリッとした刺激が鼻を抜け、肉の臭みを完全に消し去っている!」
彼は興奮のあまり、フォークを持つ手を震わせた。
「そして、この脂身だ! 甘い! ジュワッと溶ける! 俺たちが戦場で食べていた硬いオーク肉は、一体なんだったんだ!?」
隊長は叫びながら、左手の丼を持ち上げた。
濃い味付けの肉を飲み込む前に、白米をかっこむ。
タレの染みた肉と、淡白なご飯。口の中で完成する究極のハーモニー。
「美味い……美味すぎる……ッ!」
隊長が我を忘れて食べているのを見て、部下の騎士たちが騒ぎ出した。
「た、隊長だけズルいです!」
「俺たちにも注文させてください!」
「店主! 同じものを四つ! いや、大盛りでくれ!」
「はいはい、すぐに焼きますから待っててね」
私は次々と肉を焼き始めた。
屋台の中は、生姜醤油の香ばしい煙で満たされていく。
やがて、全員に行き渡った瞬間、そこは戦場ではなく天国になった。
「うおおおっ! なんだこの白いソースは!」
一人の騎士が、マヨネーズに気付いて叫んだ。
「酸っぱい? いや、まろやかだ! 濃厚な卵の味がする! これを肉につけると……ぶっ!?」
彼は絶句した。
生姜焼きのタレとマヨネーズ。
その禁断の出会い(マリアージュ)。
醤油の塩気とマヨネーズの酸味とコクが混ざり合い、暴力的なまでの旨味へと進化する。カロリーの味だ。背徳の味だ。
「キャベツが! ただの草だったキャベツが、このソースをつけるとご馳走に変わるぞ!」
「肉汁と白いソースが混ざった部分のキャベツだけで、丼一杯食える!」
「おかわりだ! ご飯をくれ! このタレをご飯にかけて食いたいんだ!」
騎士たちの食欲は凄まじかった。
炊いてあった五升の米が、見る見るうちに消えていく。
彼らの顔からは険しさが消え、ただひたすらに「美味しい」という幸福感だけが浮かんでいる。
その様子を、カウンターの端でグレンさんが静かに見つめていた。
彼は自分の分の生姜焼き(もちろん確保済みだ)を噛み締めながら、小さく呟いた。
「……やはり、ただ美味いだけではないな」
グレンさんの視線の先には、食事を終えた隊長がいた。
隊長は満足げに腹をさすりながら、不思議そうに自分の肩を回している。
「……おい、どうなっている? さっきまで古傷が痛んで腕が上がらなかったんだが……痛みが消えているぞ?」
「俺もです、隊長。演習の疲れで足が鉛のようだったのに、今は走り出せそうです」
「身体の芯から魔力が湧いてくるようだ……」
騎士たちが顔を見合わせている。
そう。私の料理には、本人が無自覚のうちに付与している【浄化】と【身体強化(小)】のバフ効果があるらしいのだ。
前世の「美味いものを食えば元気が出る」という精神論が、この世界では魔法効果として具現化してしまっているようなのだけれど。
「店主。あんた、一体何者だ?」
隊長が真剣な眼差しで私を見た。
そこにはもう、最初の威圧感はない。あるのは敬意と、少しの畏怖だ。
「ただの通りすがりの料理人ですよ。美味しく食べていただけたなら、それが一番です」
「……そうか。詮索は無粋だな」
隊長は立ち上がり、懐から金貨を一枚取り出した。
「釣りはいらん。これだけの飯、宮廷の晩餐会でも食えん。……我々は明日から北の砦へ遠征に出るが、帰ってきたら必ずまた寄らせてもらう」
「ええ、お待ちしています。気をつけて」
騎士たちは「ご馳走様でした!」と軍隊式の敬礼をして、足取り軽く去っていった。
その背中は、来た時よりも一回り大きく、頼もしく見えた。
嵐のような時間が過ぎ、屋台に静寂が戻る。
残ったのは、空っぽになった寸胴鍋と、炊飯器(土鍋)。
そして、フードを外したグレンさんだ。
「……参ったな」
彼は呆れたように、しかしどこか嬉しそうに笑った。
「私の隠れ家だったはずなんだが、まさか『黒鉄の騎士団』ガルド隊長に見つかるとは」
「あの方、有名な方なんですか?」
「ああ。帝国の武神と呼ばれる男だ。普段は『飯など栄養補給の錠剤でいい』と言っている堅物が、あんなに顔を緩めるとはな」
グレンさんは、最後の一切れの肉を名残惜しそうに口に運んだ。
「レティ。君の料理は、もはや一つの『兵器』だ」
「兵器だなんて、物騒な」
「いいや、事実だ。疲労困憊の兵士を一瞬で回復させ、士気を極限まで高める。君がもし敵国にいたら、私は全軍を差し向けてでも君を奪いに行くだろうな」
彼は冗談めかして言ったが、その蒼い瞳は笑っていなかった。
皇太子としての冷徹な計算と、一人の男としての独占欲が、複雑に混ざり合っているように見えた。
「……だから、気をつけろ。君の価値に気付く者が、これからもっと増える」
「大丈夫ですよ。私には最強のボディーガードがいますから」
私が足元を指差すと、シロが『ふん、任せておけ。唐揚げ十個分の働きはしてやる』と胸を張った。
「ははっ、違いねぇ」
グレンさんは声を上げて笑った。その笑顔は、年相応の青年のもので、とても魅力的だった。
「さて、私も帰らなければ。……城の食事が、ますます味気なく感じそうだ」
「またいつでも来てください。明日はもっと美味しいものを作って待ってますから」
グレンさんが去った後、私は片付けをしながら夜空を見上げた。
星が綺麗だ。
王国にいた頃は、こんなふうに空を見上げる余裕なんてなかった。
毎日、カイル様の機嫌を伺い、「味がしない」と罵られる恐怖に怯えていた。
でも今は違う。
「美味い」と言って完食してくれる人がいる。
空になった皿を見るのが、こんなに幸せだなんて。
「……ふふっ。ざまぁみなさい、カイル」
私は小さく呟いた。
私がここで幸せになればなるほど、それが彼への最高の復讐になる気がした。




