第4話
北の大国、ヴァルハラ帝国の朝は早い。そして、痛いほど寒い。
吐く息がキラキラとダイヤモンドダストになって舞う中、私は市場の片隅にある解体場へ足を運んでいた。
今日の狙いは、普通の肉屋には並ばない「アレ」だ。
「おや、昨日の屋台の嬢ちゃんじゃないか。また変なものを買いに来たのか?」
毛皮のベストを着た巨漢の解体師、通称「親方」が、呆れたように私を見下ろした。
彼の足元には、たった今解体されたばかりの巨大な「アイアン・バイソン」の残骸が転がっている。
「おはよう、親方! そのバイソンの『中身』、譲ってくれない?」
「中身? ああ、内臓のことか? あんなもん、臭くて食えねぇぞ。いつも通り森に捨てて、魔獣の餌にするつもりだが」
「もったいない! それ、全部買い取るわ。新鮮なうちに処理すれば、極上のご馳走になるんだから」
私が銀貨を一枚差し出すと、親方は「物好きなこった」と肩をすくめ、血塗れのバケツを三つも渡してくれた。
ずっしりと重い。
中には、まだ温かいバイソンの小腸、大腸、そして胃袋がたっぷりと入っている。
一般的にはゴミ扱いされる部位。けれど、私にとってはダイヤモンドの原石だ。
前世の日本では「ホルモン(放るもん=捨てるもの)」と呼ばれ、酒飲みたちを魅了してやまなかったソウルフード。
「よし、急ごう。鮮度が命よ!」
私はバケツを抱え(身体強化の魔法を少しかけて)、足早に屋台へと戻った。
◇
屋台に戻ると、看板犬のシロ(フェンリル)が、尻尾をパタパタさせて出迎えてくれた。
『遅いぞ娘。腹が減って背中の毛が抜けそうだ』
「はいはい、今すごいご馳走を持ってきたからね」
『ん? なんだその血なまぐさい匂いは。獣の腸か? そんなもん、我ですら好んで食わんぞ』
シロが露骨に嫌そうな顔をして鼻を背けた。
魔獣ですら敬遠する、独特の獣臭さ。
確かに、今のままではただの生臭い臓器だ。けれど、ここからが料理人の腕の見せ所なのだ。
「見てなさい。魔法をかけてあげるから」
私は腕まくりをして、気合を入れた。
まずは「下処理」。これが煮込みの味の九割を決めると言っても過言ではない。
大量の小麦粉と粗塩を、バケツの中のホルモンにぶちまける。
そして、ひたすら揉む。揉んで、揉んで、揉みしだく!
グッ、グッ、グッ。
力を込めるたびに、ヌメリと汚れが小麦粉に吸着されていく。
手は冷たいし、重労働だ。けれど、この工程をサボれば全てが台無しになる。
入念に揉み込んだら、たっぷりの水で洗い流す。
水が白く濁らなくなるまで、三回、四回と繰り返す。
するとどうだろう。
あんなにグロテスクだった臓物たちが、透き通るような白ピンク色になり、プリプリと輝き始めた。
「よし、第一段階クリア」
次は「茹でこぼし」だ。
大鍋に湯を沸かし、臭み消しの「青ネギ(に似た野菜の青い部分)」と、「生姜」の薄切りを大量に投入。
そこにホルモンを一気に入れる。
グラグラと沸騰させると、灰色の灰汁がモクモクと浮いてくる。
これが臭みの正体だ。
私は容赦なく湯を捨て、ホルモンを水洗いする。
これを二度繰り返す。
徹底的に。親の仇のように臭みを抜きまくる。
下茹でが終わったホルモンは、余分な脂が落ち、キュッと身が引き締まっていた。
私はそれをまな板に乗せ、ハサミで一口大にチョキチョキと切っていく。
内側にたっぷりと残った脂身は、あえて残す。この脂こそが、煮込みに甘みを与えるからだ。
「さあ、ここからが本番よ」
綺麗になった寸胴鍋に、下処理を終えたホルモンを戻す。
一緒に煮込むのは、いちょう切りにした大根、手でちぎったコンニャク(芋から作ったプルプルの食材)、そしてささがきにしたゴボウ。
根菜たちの土の香りが、ホルモンの野性味と相性が良い。
水を張り、酒をドボドボと注ぎ、火にかける。
味付けのベースは、もちろん「味噌」だ。
赤味噌と白味噌の合わせ技。そこに、すりおろしたニンニクと生姜を、これでもかと言うほど投入する。
さらに、隠し味に砂糖と、少しの唐辛子。
グツ、グツ、グツ……。
鍋が低く、重い音を立て始めた。
最初は尖っていた味噌の香りが、肉の脂と混ざり合い、徐々にまろやかで芳醇な香りへと変化していく。
ニンニクのパンチの効いた匂いが、冷たい風に乗って周囲へ漂い始める。
これは「暴力的な香り」ではない。「誘惑の香り」だ。
人間の本能に訴えかける、茶色い煮込みの魔力。
一時間、二時間。
弱火でコトコト煮込むうちに、大根は飴色に染まり、ホルモンはトロトロに柔らかくなっていく。
「……んー、いい感じ!」
味見のために、小皿に少し取る。
フーフーと息を吹きかけ、熱々のシロ(小腸)を口に放り込む。
ハフッ。
……溶けた。
噛んだ瞬間、プルプルの脂身がジュワッと溶け出し、濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。
皮の部分は適度な弾力を残しつつも、歯で簡単に噛み切れる柔らかさ。
味噌のコク、ニンニクの風味、ゴボウの香り。全てが一体となって、脳髄を直撃する。
「これは……お酒が欲しくなるわね」
自画自賛しながら頷いていると、背後からゴクリ、と喉を鳴らす音が聞こえた。
『……娘よ、それは本当にさっきの汚い臓物か? 信じられんほど良い匂いがするのだが』
「ふふ、食べてみる?」
『食う! 毒でも食う!』
シロが涎を垂らして飛びついてきたので、私は深皿にたっぷりとよそってやった。
そして、ちょうどその時だった。
「……今日はまた、一段と破壊力のある匂いをさせているな」
いつもの指定席に、あの黒マントの青年――グレンさんが現れた。
三日連続の来店だ。
最初の頃の死相は完全に消え、今は健康的な肌艶をしている。ただ、その蒼い瞳は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く鍋を凝視していた。
「いらっしゃい。今日はちょっと変わったメニューよ。『特製・土手煮込み』」
「ドテ・ニコミ? 嗅いだことのない香りだ。味噌と……ニンニクか? それに、この濃厚な肉の匂いは……」
「バイソンのホルモン、つまり内臓よ」
私がそう告げると、グレンさんは一瞬、眉をひそめた。
「内臓……? 下級兵士ですら食べない廃棄部位じゃないか。臭みが強くて硬いと聞くが……」
「騙されたと思って食べてみて。もし不味かったら、お代はいらないから」
私がニヤリと笑うと、彼は観念したように、しかし期待を含んだ目で頷いた。
「君がそう言うなら、信じよう。君の料理に裏切られたことはないからな」
私は丼鉢を用意した。
熱々の白米を半分ほどよそう。
その上から、鍋の底からすくい上げた煮込みを、汁ごとドバッとかける。
いわゆる「ぶっかけ飯」スタイルだ。上品さのカケラもないが、これが一番美味い。
仕上げに、刻んだネギを山盛りに乗せ、七味唐辛子をパラリと振る。
茶色、白、緑、赤。
食欲をそそる色彩のコントラスト。
「はい、召し上がれ。『ホルモン煮込み丼』よ!」
グレンさんは丼を受け取ると、立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……香りが、濃い。嫌な獣臭さは微塵もない。あるのは、食欲を刺激する濃厚な旨味の予感だけだ」
彼はスプーンで、ホルモンとご飯を一緒にすくい上げた。
ネギが汁に浸り、しんなりとしている。
彼はそれを、大きな口でパクりと頬張った。
モグ、モグ……。
彼の動きが止まる。
次の瞬間、カッ! と目を見開いた。
「――なんだこれはッ!?」
彼は叫ばずにはいられなかったようだ。
「溶けたぞ!? 肉が、舌の上でバターのように溶けた! それなのに、噛めば噛むほど濃厚なスープが溢れ出してくる!」
彼は猛然とスプーンを動かし始めた。
もはや優雅な皇太子の食事ではない。ただの空腹な男の、本能の食事だ。
「この茶色いソース(味噌)が凄い。塩気と甘みのバランスが絶妙で、米と絡み合うと最強の味になる。それに、この根菜……大根か? 味が芯まで染みていて、噛むとジュワッと熱い汁が迸る!」
ハフハフ、と熱い息を吐きながら、彼は止まらない。
途中で七味唐辛子のピリッとした辛さがアクセントになり、汗が滲んでくる。
極寒の屋外だというのに、彼の身体はカッカと燃えるように熱くなっているはずだ。
「美味い……美味いぞ……っ! 内臓がこれほど美味いものだったとは……私は今まで人生を損していた気分だ」
彼は一心不乱にかきこみ、最後の一粒、最後の一滴まで綺麗に平らげた。
そして、空になった丼を置いて、深く息を吐いた。
「ふぅ……。身体中がポカポカする。魔法薬を飲んだ時よりも、力が漲ってくるようだ」
「ホルモンは精がつくからね。明日もお仕事頑張れるわよ」
「ああ。……正直、仕事の山積みに絶望していたところだったが、これなら徹夜で書類を片付けられそうだ」
彼は苦笑しながら、財布を取り出した。
そして、またしても銀貨を数枚置こうとしたので、私は慌てて止めた。
「多いってば! こんなの貰ったら、屋台ごと買い取れちゃうわよ」
「構わない。それだけの価値がある。……それに、これは『口止め料』も含んでいる」
「口止め?」
「ああ。この店がこれ以上有名になると、私が行列に並ばなければならなくなる。それは困るんだ」
彼は冗談めかして言ったが、その目は半分本気だった。
確かに、最近は遠くから屋台の様子を伺う視線が増えている。騎士風の男たちや、冒険者のグループが、匂いにつられてヒソヒソと話しているのをよく見かけるのだ。
『ワンッ! 娘よ、おかわり! 今度は大盛りで!』
足元では、シロが空になった皿を鼻で押して催促している。
どうやら、魔獣も人間も、美味しいものの前では等しく奴隷になるらしい。
「はいはい。いっぱい食べて、しっかり働きなさいよ」
私は鍋をかき混ぜながら、幸せな湯気の中にいた。
カイル殿下に「豚の餌」と罵られた、茶色い料理たち。
けれど、ここではそれが「宝物」として受け入れられている。
グレンさんの満足そうな顔と、シロの無心な食いっぷりが、何よりの証明だ。
(ざまぁみろ、カイル。あんたには一生味わえない、最高の味がここにあるのよ)
私は心の中で元婚約者に舌を出し、大鍋の底から一番大きなホルモンをすくい上げた。
屋台の明かりは、寒空の下で暖かく灯り続けている。
その光が、やがて国中を巻き込む大騒動の震源地になるとも知らずに。
と、その時。
広場の向こうから、カシャカシャと鎧の音をさせた一団が近づいてくるのが見えた。
「おい、いい匂いがするのはここか?」
「隊長、間違いないです。あの匂い、腹が鳴って仕方ありません!」
帝国の騎士団だ。
グレンさんがサッとフードを深く被り直す。




