第3話
私の屋台「ひだまり亭」の前に、奇妙な二人連れ(?)が並んで座っていた。
一人は、柴犬サイズの白い毛玉――伝説の魔獣フェンリルの仮初めの姿であるシロ。
もう一人は、黒いマントを纏った蒼い瞳の青年――後に私が「常連さん第一号」と呼ぶことになる、グレンさんだ。
グレンさんは、私が追加で握った二つの「具入りおにぎり」を、まるで聖遺物でも扱うかのような手つきで持っていた。
「……中身が、入っているのか」
「ええ。さっきのは塩むすび。今度のは、私のとっておきよ」
彼はゴクリと喉を鳴らすと、一つ目のおにぎりを口に運んだ。
それは、「紅鱒の塩焼き」を入れたおにぎりだ。
市場で仕入れた、脂の乗った川魚。それを炭火で皮がパリッとなるまで焼き上げ、身を丁寧にほぐしたものをご飯の中心に忍ばせてある。
ガブリ。
彼が一口齧った瞬間、その整った眉が大きく跳ね上がった。
「――ッ!」
口の中に広がるのは、お米の淡白な甘みだけではない。
噛み進めた先で遭遇する、紅鱒の凝縮された塩気と、炭火焼きの香ばしさ。
魚の脂が熱々のご飯に溶け出し、一粒一粒をコーティングしていく。
淡白なご飯と、塩辛い魚。この二つが出会うことで生まれる、爆発的な旨味の相乗効果。
「……すごい。味が、変化していく」
グレンさんは独り言のように呟き、夢中で食べ進める。
塩むすびが「静」の美味しさなら、これは「動」の美味しさだ。
具材に到達した時の喜び。ご飯とのバランスを舌の上で調整する楽しみ。
あっという間に一つ目を完食し、彼はすぐさま二つ目に手を伸ばした。
今度は、真っ黒な佃煮を入れたものだ。
昨日、出汁を取った後の「海蛇(昆布)」を細かく刻み、醤油代わりの調味料と砂糖で甘辛く煮詰めた「再利用・昆布の佃煮」。
彼はそれを口に入れ――そして、動きを止めた。
目を見開き、少し震えている。
「……甘い。いや、辛い? これは……なんだ、この深い味わいは」
「それは出汁を取った後の『出し殻』よ。捨てるなんてもったいないから」
「これが……残りかすだと? バカな……宮廷で食べたどんな高級食材よりも、奥深い味がするぞ」
昆布のグルタミン酸と、甘辛い味付けは、白米にとって最強のパートナーだ。
日本人が「ご飯のお供」と呼ぶ理由が、彼の反応を見ればよく分かる。
彼は最後の一粒まで大切に食べ終えると、深い、本当に深いため息をついた。
その顔には、久しぶりに血の気が戻り、生気が宿っていた。
「……ありがとう。生き返った心地だ」
「お粗末様でした。お代は、出世払いでいいわよ」
「出世払い……か。ふっ、それなら高くつくぞ」
彼は少しだけ口元を緩め、どこか皮肉っぽく、しかし穏やかに笑った。
その笑顔を見て、私はドキリとした。
やつれていて気付かなかったけれど、この人、とんでもない美形だ。栄養が行き渡ったら、傾国の美青年になるんじゃないだろうか。
「また来る。必ずだ」
彼はそう言い残し、まだふらつく足取りながらも、しっかりとした背中で街の闇へと消えていった。
さて、と。
私は視線を足元に戻した。
そこには、空になったおにぎりの皿を悲しそうに見つめる、白い毛玉が一匹。
『……娘よ』
「はいはい、分かってるわよシロ。おにぎりだけじゃ不満なんでしょ?」
『うむ。あの白い穀物も美味いが、我は狼だ。身体がもっと「脂」と「肉」を欲している』
シロは尻尾をパタパタさせながら、私のエプロンを前足でちょんちょんとつついた。
『ガツンとくるやつだ。こう、噛んだ瞬間に肉汁が溢れるような、野生の本能を呼び覚ますやつを頼む』
「注文が多いわねぇ。でも、ちょうどいいわ。私もそろそろ、アレが食べたかったところなの」
私はニヤリと笑った。
寒い地方には、カロリーが必要だ。
そして何より、屋台料理の王様といえば、やっぱり「揚げ物」しかない。
◇
私は屋台の冷蔵庫(氷魔法石入り)から、とある肉を取り出した。
「コカトリスのモモ肉」。
鶏肉に似ているが、弾力と旨味の濃さは比にならない高級食材だ。この街では「石化の呪いがある」と敬遠されがちだが、ちゃんと血抜きをして毒腺を取り除けば、これほど美味しい肉はない。
「今日のメインは、『コカトリスの拳骨唐揚げ』よ!」
まずは下準備だ。
巨大なモモ肉を、一口大――といっても、私の拳くらいの大きさにぶつ切りにしていく。
ザクッ、ザクッ。
包丁を入れるたびに、プリプリとした肉質の良さが伝わってくる。
切った肉をボウルに入れ、そこに魔法のタレを投入する。
すりおろした「大蒜」と、ピリッとした辛味のある「黄根」。
そこに、醤油によく似た「黒豆の醤」と、少しのお酒。
隠し味に、ごま油のような香りのするナッツオイルをひと回し。
「ここが大事なのよ。美味しくなーれ、美味しくなーれ」
私は手で肉を揉み込む。
グッ、グッ、と力を込めて。
繊維の奥までタレを染み込ませるように、マッサージしていく。
肉がタレを吸い込み、艶やかな飴色に変わっていく。ニンニクと醤油の香りが立ち上り、それだけで白米が食べられそうだ。
このまま十五分ほど寝かせる。
その間に、揚げ油の準備だ。
寸胴鍋とは別の深い鉄鍋に、植物油をたっぷりと注ぎ、火にかける。
タレが十分に染み込んだ肉に、衣をつける。
使うのは小麦粉ではなく、デンプン質の多い芋の粉(片栗粉)だ。
これをまぶすことで、外はカリカリ、中はジューシーな仕上がりになる。
白い粉を纏わせ、余分な粉をはたく。肉の表面がうっすらと白化粧をした状態がベストだ。
「よし、いくわよ!」
油の温度を確認する。菜箸を入れると、シュワシュワと細かい泡が出る。170度くらい、中温だ。
肉を一つずつ、静かに油へ滑り込ませる。
ジュワアアアアァッ!!
広場に、食欲を刺激する重低音が響き渡った。
水分が弾ける音。油が肉を包み込む音。
白い煙と共に、爆発的な香りが拡散される。
ニンニクのパンチの効いた香りと、醤油の焦げる香ばしい匂い。これは凶器だ。空腹の人間(と魔獣)を無差別に攻撃する、匂いのテロリズムだ。
『ヌオオオオッ! なんだこの破壊的な香りは!』
シロが興奮してクルクルと回り始めた。
通行人たちも、何事かと足を止める。「なんだ、すごいいい匂いがするぞ」「あそこの屋台か?」とざわめきが広がる。
私は慎重に肉を返す。
まだだ。まだ揚げてはいけない。
表面が薄くキツネ色になったところで、一度取り出す。
「二度揚げ」。
これが、カリカリ唐揚げの極意だ。
一度肉を休ませることで、予熱で中まで火を通し、肉汁を閉じ込める。
数分後。
油の温度を上げる。高温だ。
休ませていた肉を、再び油の中へダイブさせる。
パチパチパチパチッ!!
先ほどより高く、乾いた音が響く。
衣の水分が完全に飛び、硬質な殻となっていく音だ。
色は薄いキツネ色から、食欲をそそる濃い黄金色へ。
菜箸で触れると、カッカッ、と硬い感触が返ってくる。
「……今だ!」
私は網で一気に肉を引き上げた。
油を切るためにバットに落とすと、カラコロ、と良い音がする。
完璧だ。
表面は岩のようにゴツゴツしてカリカリ。しかしその内側には、熱々の肉汁の海が閉じ込められているはずだ。
「お待たせ、シロ。特製・コカトリスの唐揚げよ!」
私は揚げたてを、キャベツの千切りを敷いた皿に山盛りにした。
熱気と共に立ち上るスパイシーな香り。
『待っていた! 我はこれを待っていたのだ!』
シロは我慢できない様子で、熱々の唐揚げに飛びついた。
アグッ。
カリリッ、サクッ。
小気味良い音が響く。
その直後、シロの目がカッ! と見開かれた。
『アチッ! ハフッ、ハフッ……んぐっ……う、美味い!!』
衣を噛み砕いた瞬間、中から溢れ出したのは、火傷するほど熱い肉汁。
醤油だれの下味がしっかりついた濃厚なスープが、口いっぱいに広がる。
プリプリとした弾力のある肉を噛み締めれば噛み締めるほど、旨味が湧き出してくる。
『なんだこれは……外側は小枝のように脆く崩れるのに、中身は飲み物のように溢れてくる! ニンニクとかいう薬草の香りが鼻を突き抜け、本能が「もっと食わせろ」と叫んでいるぞ!』
シロは尻尾をプロペラのように回転させながら、次々と唐揚げを吸い込んでいく。
「あ、こら! 全部食べないでよ。私も味見したいんだから」
『早い者勝ちだ!』
と、その時だ。
屋台の前に、影が落ちた。
「……その匂いに引かれて戻ってきてしまったのだが、まだ店はやっているか?」
振り返ると、そこには先ほど帰ったはずのグレンさんが立っていた。
苦笑いをしているが、その視線はシロが食べている唐揚げに釘付けだ。喉仏が動いているのが見える。
どうやら、ニンニク醤油の匂いは、皇太子の自制心すらも破壊してしまったらしい。
「ええ、もちろん! ちょうど揚げたてですよ。ご飯、まだ入ります?」
「……ああ。胃袋が限界を超えて欲している」
彼はカウンター席(ただの木箱)に座り直した。
私は揚げたての唐揚げを三つ、皿に乗せて差し出す。横には、小さめに握った塩むすびと、口直しの千切りキャベツ。
彼はフォークなど使わず、手掴みで唐揚げを持ち上げた。
熱さに眉をひそめながらも、豪快に齧り付く。
ザクゥッ!
いい音だ。CMに使いたいくらい、完璧な咀嚼音。
口の端から、透明な肉汁がじゅわりと溢れる。
「…………っ、はぁ」
彼は熱い息を吐き出し、咀嚼する。
カリカリの衣と、柔らかい肉のコントラスト。
醤油の塩気と焦げた香ばしさが、彼の味蕾を刺激する。
「これは、凶悪だ……」
彼は呟くと、すぐさま左手に持った塩むすびを口に運んだ。
濃い味付けの唐揚げの脂を、白米が受け止め、中和し、そして新たな旨味へと昇華させる。
唐揚げ、ご飯。唐揚げ、ご飯。
この無限ループは、異世界でも通用するらしい。
「脂っこいはずなのに、いくらでも入る。このニンニクという香りが、食欲を強制的に掻き立ててくるんだ」
「ふふ、これぞ『白米泥棒』の異名を持つオカズですから」
「白米泥棒……言い得て妙だ。私の理性が盗まれていくようだ」
彼は夢中で唐揚げを食べ続けた。
その横顔は、最初に会った時の死相が嘘のように、生き生きとしていた。額には汗が滲み、頬は高揚して赤い。
食べ終えた時、彼は満足げに息をつき、私を真っ直ぐに見た。
その蒼い瞳には、強い光が宿っていた。
「……君の料理は、魔法だ」
「魔法じゃありません。ただの料理ですよ」
「いいや。私の凍っていた心を溶かし、死んでいた身体を蘇らせた。これを奇跡と呼ばずになんと言う」
彼は立ち上がると、懐から銀貨を数枚取り出し、カウンターに置いた。屋台の相場からすれば、破格の金額だ。
「お釣りはいらない。……明日も来る。だから、明日も店を開けていてくれ」
「ええ、もちろんです。お客様がいる限り、私はここで作り続けますよ」
彼は頷き、今度こそ帰っていった。
その背中は、最初よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
私は空になった皿を回収しながら、足元のシロを見下ろした。
シロは満腹になったのか、お腹を出して寝転がっている。
『娘よ、ここはいい場所だ。我は決めたぞ。この店の警備主任になってやる』
「あら、頼もしいわね。じゃあお給料は唐揚げでいい?」
『うむ。毎日アレが食えるなら、ドラゴンが来ても追い払ってやる』
こうして、私の辺境での屋台生活は、本格的に幕を開けた。
強力なボディーガード(モフモフ)と、謎の美形常連客(皇太子)。
そして、私の料理を待ってくれる人々のために。
さあ、明日は何を仕込もうか。
この寒い街の人たちが驚くような、温かくて美味しいものを。
私の頭の中には、すでに次のメニューの構想が浮かんでいた。
(豚汁、おにぎり、唐揚げときたら……次はやっぱり『煮込み』よね)
屋台の湯気は、今日も空高く立ち上り、人々を誘い続けるのだった。




