第2話
目の前に、家一軒分ほどもある巨大な銀色の狼がいる。
普通なら腰を抜かすか、悲鳴を上げて逃げ出す場面だろう。
この北の大国ヴァルハラ帝国において、魔獣は脅威の象徴だ。特にこれほど強大な魔力を帯びた個体なら、軍の精鋭部隊が出動するレベルの災害案件に違いない。
けれど、今の私には、彼が恐ろしい捕食者には見えなかった。
だって、その口元からはナイアガラの滝のような涎が垂れているし、凶暴そうな金色の瞳は、鍋の中の豚汁に釘付けなのだから。
「……食べる?」
私がもう一度尋ねると、巨大狼は『ワンッ!』と、図体に似合わない元気な声で鳴いた。その衝撃波で、屋台の屋根がガタガタと揺れる。
「わ、分かったから! そんなに吠えないで。近所迷惑になるでしょ」
私は苦笑しながら、寸胴鍋を見下ろした。
記念すべき最初の一杯。私の心と身体を温めるための豚汁だったけれど、最初のお客さんが彼なら仕方がない。
私は屋台の備品の中にあった、水を溜めておくための大きな木桶を取り出した。直径五十センチはある。
そこへ、お玉を使ってなみなみと豚汁を注ぎ込む。
黄金色のスープが、湯気と共に木桶を満たしていく。
クタクタに煮込まれた根菜たち。
熱で透明になったオーク肉の脂身。
そして、かつお節と昆布(海蛇)の出汁の香り。
「はい、熱いから気をつけてね」
私は重たい木桶を、屋台の前の地面に置いた。
その瞬間、銀色の巨体がズズズイッと身を乗り出す。
ハフッ、ハフッ、ジュルッ。
豪快な音が響いた。
狼は熱さをものともせず、長い舌で器用にスープを掬い上げている。
一口飲むたびに、その太い尻尾がバタン、バタンと地面を叩く。まるで犬だ。嬉しい時の犬そのものだ。
『美味い……! なんだこれは! 身体の中を熱い魔力が駆け巡るようだ!』
頭の中に、重低音の渋い声が響いた。
念話だ。高位の魔獣は人語を解するとは聞いていたけれど、まさか食レポまでしてくれるとは。
「お口に合ったようで何よりだわ。それは『豚汁』よ。身体が温まるでしょう?」
『トンジル……。うむ、素晴らしい。我はこの地を数百年守護しているが、これほど滋味深い供物は初めてだ。今まで人間どもが供えてきた、ただ焼いただけの肉とは格が違う』
数百年? 守護?
さらっとすごいことを言っている気がするけれど、私はあえて聞き流した。今は目の前で空になった木桶の方が重要だ。
『娘よ、おかわりはあるか?』
「……あー、ごめんね。今ので全部なくなっちゃったの。私の分もね」
『なんと……』
狼はあからさまにしょんぼりと耳を垂れた。
その姿があまりに哀愁漂っていて、かつ可愛らしいので、私は思わず笑ってしまった。
と、その時だ。
ボフンッ!
突然、白い煙が立ち込めたかと思うと、目の前の巨大な質量が消滅した。
煙が晴れた後に残っていたのは――。
「……え、犬?」
そこにいたのは、柴犬くらいの大きさになった、コロコロとした白い毛玉だった。
つぶらな瞳で私を見上げ、尻尾を振っている。
『この姿なら燃費が良い。腹も減りにくい』
「あ、節約モードってことね」
『うむ。娘よ、我は決めたぞ。お前が次の飯を作るまで、ここで待つことにする』
「え? 待つって……ここで?」
『ここが一番、良い匂いがするからな』
そう言うと、白ワンコ(元巨大魔獣)は屋台の横の、少し風が避けられるスペースに丸くなった。
どうやら、勝手に看板犬になるつもりらしい。
まあ、治安の悪い辺境で、最強のボディーガードがいると思えば悪くないか。
「好きにしていいけど、餌代は働いてもらうからね。シロ」
『シロ? 我が名はフェン……まあよい。その名、悪くない響きだ』
こうして、私の屋台「ひだまり亭」に、最初の従業員(?)が加わった。
◇
翌朝。
私は早朝から仕込みを開始していた。
昨日の豚汁はシロに全滅させられたので、今日はもっと大量に作る必要がある。
だが、それ以上に重要なミッションがあった。
それは「主食」の確保だ。
この国の人々の主食は、硬い黒パンか、ふかしたジャガイモだ。
もちろんそれも美味しいけれど、私の作る「豚汁」の相棒と言えば、一つしかない。
――白米。
日本人(前世)の魂。銀シャリだ。
市場を探し回った結果、私は奇跡的にそれを見つけていた。
現地の言葉で「パールグラスの実」と呼ばれる穀物。見た目は少し細長いが、間違いなく米だ。
ただ、この国では「粘り気があってスープに合わない」という理由で、家畜の餌や糊の材料として使われているらしい。
なんて勿体無い! その粘り気こそが至高なのに!
「よし、美味しく炊いてあげるからね」
私は陶器のボウルに米を入れ、冷たい水を注ぐ。
シャカシャカ、と米を研ぐ音が朝の静寂に響く。
最初は白く濁る水。それが、二度、三度と水を変えるうちに、透き通っていく。
研ぎすぎないように、優しく、米に傷をつけないように。
そして、たっぷりの水に浸して吸水させる。夏場なら三十分、この寒さなら一時間は必要だ。
浸水が終わった米は、水を吸って真っ白になり、少し膨らんでいる。
これを、私が魔道具屋で特注した「土鍋」――に似た厚手の鉄鍋に移す。
水の量は指の第一関節くらい。長年の勘だ。
蓋をして、魔導コンロに火を入れる。
最初は強火。
やがて、鍋の中がコトコトと音を立て始める。
沸騰した合図だ。ここからが勝負。
火を弱め、じっくりと加熱する。
シューッ、という音と共に、勢いよく蒸気が吹き出す。
その蒸気に混じって、甘い、どこか懐かしい香りが漂い始めた。
穀物の持つ、優しくて力強い香り。
足元で寝ていたシロが、鼻をヒクつかせて起き上がる。
『む……なんだこの匂いは。昨日の肉汁とは違うが、そそられる』
「ふふ、まだよ。ここから『蒸らし』が大事なの」
パチパチ、という音が鍋底から聞こえ始めたら、水分がなくなった合図。
火を止め、鍋をコンロから下ろして布を被せる。
この余熱の十数分が、米の芯まで熱を通し、ふっくらと仕上げる魔法の時間だ。
「……よし、そろそろね」
私は緊張しながら、鍋の蓋に手をかけた。
いくわよ、と心の中で呟き、一気に開ける。
ボワァッ!!
濃厚な白い湯気が、キノコ雲のように立ち昇った。
その向こうに見えたのは――宝石の原石だ。
一粒一粒が立ち上がり、艶やかに光り輝いている。
表面には「カニ穴」と呼ばれる、蒸気の通り道がポコポコと開いている。完璧な炊き上がりだ。
「炊けたぁ……!」
私はしゃもじで、十字に切り込みを入れるようにして全体を混ぜ返した。
底から持ち上げると、おこげの香ばしい匂いがふわりと混じる。
これだけでご馳走だ。
その時だった。
「……う……ぅ……」
屋台の裏手から、呻くような声が聞こえた。
シロが素早く反応し、『グルル』と喉を鳴らす。
「待ってシロ、誰かいるみたい」
私はしゃもじを持ったまま、屋台の外へ出た。
そこには、一人の青年が倒れていた。
ボロボロの黒いマントを羽織り、泥だらけだ。フードから覗く顔は骸骨のように痩せこけ、肌は病的なほど白い。
死体かと思ったが、微かに胸が上下している。
「ちょっと、大丈夫!?」
駆け寄って肩を揺する。青年は薄く目を開けたが、その瞳は焦点が合っていない。
美しい、氷のような蒼い瞳だった。
「……みず……」
「待ってて、すぐに!」
私は屋台に戻り、コップに水を汲んだ。
戻って青年の上体を抱き起こし、少しずつ飲ませる。彼は砂漠が水を吸うようにそれを飲み干すと、ふぅ、と息をついた。
だが、お腹の虫が盛大に鳴いた。
限界まで空腹なのは明らかだ。
(何か食べさせないと……でも、いきなり重いものは無理ね)
昨日残った豚汁の具材はあるけれど、今の彼の弱り切った胃腸には、脂の乗ったオーク肉は刺激が強すぎるかもしれない。
消化が良く、すぐにエネルギーになり、かつ「美味しい」もの。
――塩むすびだ。
私は急いで屋台に戻った。
炊き立ての熱々の白米を、ボウルによそう。
手水をつけて、手のひらを濡らす。
そして、指先にたっぷりと塩をつける。
この街の市場で手に入れた、ミネラル豊富な岩塩だ。少し粒が粗いが、それがいいアクセントになる。
私は炊き立てのご飯を両手ですくい取った。
熱い。
指先が焼けそうに熱いが、我慢する。おにぎりは、この熱さこそが命だから。
ギュッ、とは握らない。
ふわり、とまとめるように。
中に空気を含ませるイメージで、優しく、リズミカルに三角形を形作る。
キュッ、キュッ、ポン。
最後にもう一度、表面に塩を馴染ませるように撫でる。
真っ白な三角形。
具もなければ、海苔もない。
けれど、米の一粒一粒が、塩という魔法の粉を纏って、最強の携帯食へと進化した姿。
私はそれを二つ作り、皿に乗せた。ついでに、具材を入れず上澄みだけをすくった出汁スープも添える。
「あの、これ、食べられる?」
私は青年の前に皿を置いた。
彼は虚ろな目で、真っ白な塊を見た。
「……これは……なんだ……?」
「おにぎりよ。この国では家畜の餌にしてる『パールグラス』だけど、毒じゃないわ。私が保証する」
青年は「餌」という単語に自嘲気味に笑った。
「……そうか。私にはお似合いだ……」
彼は震える手で、おにぎりを掴んだ。
まだ温かい。その温もりに、彼の手がピクリと反応した。
彼は諦めたように、それを口へと運んだ。
どうせ味などしない。
幼い頃から、何を食べても砂を噛んでいるようだった。毒を盛られ続けた後遺症で、私の舌は死んでいるのだから。
これはただの、命を繋ぐための作業――。
ガブッ。
彼は無造作に齧り付いた。
その瞬間。
「――っ!?」
青年の蒼い瞳が、カッ! と見開かれた。
口の中に広がったのは、砂の味ではなかった。
甘みだ。
噛み締めるたびに、米の中から溢れ出してくる、豊潤で優しい甘み。
そして、それを引き締める岩塩のキリッとした塩気。
シンプルゆえに、誤魔化しがきかない「素材」の暴力的なまでの旨味が、死んでいたはずの彼の舌を叩き起こした。
ホロホロと、口の中で米が解けていく。
絶妙な握り加減だ。硬すぎず、柔らかすぎず。
喉を通る温かさが、冷え切っていた食道と胃袋を撫でていく。
「……味が、する」
青年は震える声で呟いた。
信じられない、という顔で、二口目を齧る。
今度はもっと大きく。
美味い。
ただの穀物の塊のはずなのに、なぜこんなに美味いんだ?
記憶の中にある、豪華絢爛な宮廷料理のどれよりも、この白い塊は鮮烈だった。
「味が……する……!!」
彼は夢中でむさぼり食べた。
一つ目をあっという間に平らげ、二つ目に手を伸ばす。
喉が詰まりそうになると、添えられた黄金色のスープを啜った。
そのスープがまた、衝撃だった。
具など入っていないのに、深海のような奥深い香りと旨味が、傷ついた内臓に染み渡っていく。
気付けば、皿は空になっていた。
青年の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
「あら、そんなに泣くほど不味かった?」
私が心配して覗き込むと、青年はハッとして顔を上げ、私の手をガシッと掴んだ。
その力は強く、熱っぽかった。
「……頼む」
「え?」
「もう一つ。いや、あるだけくれ。金なら払う。いくらでも払う……!」
その必死な形相は、先ほどの死にかけていた人とは別人のようだった。
まるで、初めて光を見た迷子のように。
私は驚いたけれど、すぐにふわりと笑った。
料理人として、「おかわり」ほど嬉しい言葉はないからだ。
「ええ、喜んで。今度は具入りの特製おにぎりも作るわね」
私は彼の手を優しく解き、再び湯気の立つ鍋へと向かった。
背後で、シロが『我の分も忘れるなよ!』と念を送ってくるのを感じながら。




