第14話
カイル王子への断罪が行われた、その日の夜。
ヴァルハラ城の地下深くにある監獄塔は、しん、と静まり返っていた。
地上では星が瞬いている時間だが、ここには陽の光はおろか、外の音さえ届かない。あるのは、冷たい石壁から染み出す冷気と、どこからか聞こえる水滴の音だけだ。
最下層の独房。
そこで、元王国の第二王子、カイル・ロズウェルは膝を抱えて震えていた。
「さ、寒い……腹が……減った……」
カイルは石の床に転がされた粗末な毛布にくるまり、ガタガタと歯を鳴らしていた。
煌びやかだった衣装は剥ぎ取られ、今は薄汚れた灰色の囚人服一枚。
昼間、グレン皇太子から「廃嫡」と「終身刑」を言い渡されてから、数時間が経過していた。
身体が、悲鳴を上げている。
これまで毎日摂取していた大量の砂糖、酸化した油、そして化学的な香料。それらが急に断たれたことによる、強烈な禁断症状だ。
頭が割れるように痛い。胃袋がキリキリと痙攣し、脂っこい肉を求めて暴れている。
「誰か……誰かいないのか! 俺は王子だぞ! ステーキを……せめて甘いケーキを持ってこい!」
叫んでも、返ってくるのは虚しい反響音だけ。
ミリアは別の女牢に入れられたらしく、彼女のヒステリックな泣き声ももう聞こえない。
完全な孤独。
「くそっ……レティシア……あいつのせいだ……」
カイルは恨み言を呟いた。
だが、その脳裏に浮かぶのは、かつて彼女が作ってくれた湯気の立つスープの幻影だった。
あの時は「味がしない」と床にぶちまけた。
だが、今の極限状態の飢餓感の中で思い出すそれは、なぜか輝いて見えた。
(……いや、違う。あんな豚の餌、食いたくなどない。俺が食べたいのは、もっと刺激的な……!)
その時。
カツ、カツ、カツ……と、靴音が近づいてきた。
重厚な鉄扉の小窓が、ガチャンと開く。
「……夕食の時間だ」
看守の事務的な声。
そして、小窓から木のトレーが差し入れられた。
「しょ、食事!?」
カイルは這いずるようにして扉へ向かい、トレーをひったくった。
期待に胸が膨らむ。
腐っても俺は元王子だ。最後の晩餐くらい、まともな肉が出るはずだ。
だが。
トレーの上を見て、カイルは絶句した。
「……な、なんだこれは……?」
そこに載っていたのは、ステーキでもパンでもない。
白い湯気を立てる、ドロドロとした液体の入った椀が一つ。
そして、その横に添えられた、黒っぽい粉末と、赤い梅干しのような果実が一粒だけ。
それは、昼間にグレン皇太子が予告した通り、レティシアが監修した彼への「特別食」。
――『出汁殻ふりかけの白粥』だった。
◇
時間を少し遡る。
夕暮れ時の、屋台「ひだまり亭」。
私は厨房で、静かに土鍋と向き合っていた。
昼間、グレンさんから「カイルには一生、君の監修した食事を与える」と頼まれた時、私は迷わなかった。
毒を入れる? 激辛にする?
いいえ、そんな料理人としてのプライドを捨てるような真似はしない。
私が選んだのは、「究極の減算」だ。
彼が愛した砂糖も、油も、香辛料も一切使わない。素材の味だけを極限まで引き出し、そして彼が最も馬鹿にしていた「出汁の残りかす」を使った、皮肉たっぷりのメニュー。
「まずは、お粥ね」
私は土鍋に、研いだばかりの米を入れる。
水の量は、米の七倍。いわゆる「七分粥」だ。
弱火にかけ、じっくりとコトコト煮込む。
ポク、ポク、ポク……。
土鍋の中で、米が踊る音がする。
かき混ぜてはいけない。混ぜると粘りが出て、口当たりが悪くなるからだ。
米が自然に対流し、花が開くようにふっくらと割れるのを待つ。
味付けは、ほんの少しの天然塩だけ。
余計なものは何もない。純白の、優しい世界。
「そして、これよ」
私はボウルに入った「茶色い物体」を手に取った。
それは、今まで私が豚汁やうどんを作るために使い倒した、「出し殻」だ。
旨味を出し尽くした後の昆布(海蛇)と、鰹節。
普通なら捨てるか、畑の肥料にするもの。
カイル様がかつて「豚の餌」と呼んだものの、その成れの果てだ。
私は昆布を極細の千切りにする。鰹節も包丁で細かく叩いてミンチ状にする。
これを、油を引かないフライパンに入れる。
チリチリチリ……。
弱火でじっくりと乾煎り(からいり)する。
水分を飛ばし、カラカラになるまで。
次第に、キッチンに香ばしい匂いが立ち始める。
そこに、醤油(黒豆の醤)、みりん、酒を回し入れる。
ジュワァァッ……!
蒸気が上がり、醤油の焦げる匂いが鼻をくすぐる。
水分が飛ぶまで炒め煮にし、最後に白ごまをたっぷりと振る。
パラパラ、サクサクの状態になったら完成だ。
『特製・出汁殻ふりかけ』。
捨てられるはずだった食材が、濃縮された旨味の塊へと生まれ変わった姿。
そしてもう一品。
真っ赤な「梅干し(に似た酸味のある果実の塩漬け)」。
強烈な酸味が、疲れた内臓を癒やし、食欲を刺激する。
「……完成ね」
トレーに乗せたのは、湯気の立つ白粥、黒いふりかけ、赤い梅干し。
色合いは地味だ。豪華さは欠片もない。
けれど、弱りきった胃腸には、これ以上の薬はない。
「カイル様。これが貴方への、私からの最後の手向けです」
私はそのトレーを、城の使いの者に託した。
直接会うつもりはない。料理だけで十分、私の意図は伝わるはずだから。
彼がこれを「餌」と思うか、「食事」と思うか。それが最後の審判だ。
◇
再び、地下牢。
カイルは震える手で、木製の匙を握りしめていた。
「ふ、ふざけるな……! こんな病人食が食えるか! 俺は肉が食いたいんだ!」
彼は怒りに任せて椀をひっくり返そうとした。
だが、できなかった。
本能が、胃袋が、その白い湯気を猛烈に欲していたからだ。
グルルルルッ……と、腹が恥ずかしい音を立てる。
「くっ……!」
背に腹は代えられない。
カイルは屈辱に顔を歪めながら、白粥を一口すくった。
パクッ。
「…………」
口に入れた瞬間。
彼の動きが止まった。
熱い。
ドロドロに煮込まれた米が、舌の上で解けるように広がる。
噛む必要すらない。
喉を通る時、温かい熱が食道を撫で下ろし、冷え切って収縮していた胃袋に優しく染み渡っていく。
「あ……」
味がしない、と思っていた。
だが、違った。
米の甘みだ。
これまで砂糖の甘さしか知らなかった彼の舌に、穀物本来の、淡く、しかし力強い自然の甘みがじんわりと響く。
微かな塩気が、その甘みを極限まで引き立てている。
「なんだ、これは……身体が、熱くなる……」
彼は無意識のうちに二口目を運んでいた。
今度は、添えられた「黒い粉」――出汁殻ふりかけを、パラリとかけてみる。
粥の白に、黒が映える。
ザクッ、トロッ。
「!?!?」
カイルの目がカッと見開かれた。
食感の革命。
とろとろの粥の中に、サクサクとした心地よい歯応えが加わった。
そして何より、味だ。
噛み締めた出し殻から、醤油の香ばしさと、凝縮された魚介の旨味がジュワッと溢れ出す。
かつて彼が「お湯」と馬鹿にした出汁。その出汁を取った後の「残りかす」。
それなのに。
今の彼には、これがこの世で一番美味いものに感じられた。
砂糖も油も入っていないのに、涙が出るほど美味い。
「美味い……なんでだ、なんでこんなゴミが美味いんだ!」
彼は泣きながらかき込んだ。
味覚が正常に戻りつつあるのか、それとも空腹が最高のスパイスなのか。
濃い味のふりかけが、淡白な粥と混ざり合い、絶妙なバランスを生み出している。
そして、赤い果実――梅干しを齧る。
キュウゥッ!!
強烈な酸っぱさに、頬の内側が痛くなる。
だが、その酸味が口の中のベタつきを一掃し、唾液を一気に溢れさせる。
酸っぱい。けれど、その後から来る爽やかな香り。
それがまた、次の一口を誘う。
カチ、カチ、カチ。
匙が器に当たる音が、独房に虚しく響く。
気付けば、椀は空になっていた。
あんなに馬鹿にしていた「豚の餌」を、彼は指についた米粒まで舐めとっていた。
「うぅ……うぅぅ……」
満腹感と共に、どうしようもない絶望感が彼を襲った。
美味しかった。認めたくないけれど、今まで食べたどんな豪華なステーキよりも、身体に染みた。
それが、レティシアの料理だと分かっているからこそ、悔しくてたまらない。
その時、鉄格子の向こうから声がした。
「……完食か。結構」
グレンだった。
彼は公務を終えたその足で、最後の確認に来たのだ。
腕を組み、憐れむような目で見下ろしている。
「ど、どうだ! 俺は全部食ってやったぞ! これで満足か!」
カイルは空の器を突きつけて叫んだ。
グレンは冷ややかに鼻を鳴らした。
「ああ、満足だとも。……そのふりかけの正体が何か、分かるか?」
「正体……? 高級な干し肉か何かだろう?」
「いいや。それは『出し殻』だ。出汁を取った後の、本来なら捨てられるゴミだ」
「な……ッ!?」
カイルの手から器が滑り落ちた。
カラン、と乾いた音がする。
「ご、ゴミ……? 俺は、ゴミを食わされたのか……?」
「そうだ。だが、貴様はそれを『美味い』と言って貪り食った。……皮肉なものだな。貴様がかつてレティの料理を『豚の餌』と罵ったが、今の貴様には、その餌の残りかすがお似合いだということだ」
グレンの言葉が、鋭利な刃物となってカイルのちっぽけなプライドを切り裂く。
「ちなみに、この監獄の食事は毎日それだ。朝も、昼も、夜も。……レティが『彼の健康のために』と考案した、完璧な栄養食だ。感謝して食え」
毎日。
この味のしない粥と、残りかすを。
一生。
「いやだ……いやだぁぁぁッ!! 肉をくれ! 油をくれ! 酒を持ってこい!!」
カイルは鉄格子に掴みかかり、絶叫した。
だが、グレンはもう背を向けていた。
「無駄だ。貴様の舌は、この先一生、その繊細な『素材の味』と向き合い続けることになる。……それが、食を冒涜した貴様への罰だ」
グレンの足音が遠ざかっていく。
カイルはその場に崩れ落ちた。
口の中には、まだ出し殻の旨味と、梅干しの酸味が残っている。
それはとても優しく、懐かしく、そして残酷なほどに「家庭の味」がした。
「レティシア……」
失って初めて気付いた。
彼女が作っていた料理が、どれほどの手間と愛情で作られていたかを。
そして、それを自ら捨てた自分が、どれほど愚かだったかを。
暗い独房で、カイルは空の器を抱きしめて泣いた。
その涙は、少しだけ梅干しのようにしょっぱかった。
◇
地上に戻ったグレンは、城の裏口で待っていた私の元へ歩いてきた。
夜風が彼のマントを揺らす。
その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「……終わったよ、レティ」
「食べましたか?」
「ああ。泣きながら完食していたよ。『ゴミなのに美味い』と絶望しながらな」
私は小さく息を吐いた。
ざまぁ、という暗い喜びよりも、肩の荷が下りたような安堵感の方が強かった。
これで、本当に過去との決別ができた気がする。
「お疲れ様でした、カイル様。……健康に長生きして、一生その味を噛み締めてくださいね」
私は空に向かって呟いた。
雲の切れ間から星が見え始めている。
長い一日が終わろうとしていた。
「さて、レティ。私にも夕食をくれないか?」
「あら、グレンさんもお粥がいいですか? 出し殻ならまだありますよ?」
「まさか! 私はもっと……こう、君の愛が詰まった、ガツンとくるやつがいい。祝勝会なんだからな」
グレンさんが悪戯っぽく笑う。
私は呆れたように、でも嬉しくて笑い返した。
「分かりました。じゃあ、とっておきの裏メニューを作りましょうか」
「期待しているよ。……さあ、帰ろう。『ひだまり亭』へ」
私たちは並んで、屋台への道を戻っていった。
カイル王子との因縁は、この夜をもって完全に断ち切られた。




