第12話
カイル王子が「豚の餌」発言の罪(と暗殺未遂)で騎士団に連行された、あの騒がしい夜が明けた。
翌朝のノルドの街は、昨夜の雪が嘘のような快晴だった。
朝日が雪化粧をした街並みを照らし、キラキラと輝いている。
けれど、街の空気はいつもより少し浮き足立っていた。
「昨夜、王国の王子が捕まったらしい」「あの屋台で暴れたんだって?」「ざまぁみろだ」なんて噂話が、風に乗って聞こえてくる。
私は屋台「ひだまり亭」の厨房で、いつもより少し静かな朝を迎えていた。
昨夜の騒動で、仕込んでおいた食材のいくつかがダメになってしまったけれど、不思議と心は軽かった。
まるで、長く降り続いた雨が上がったような気分だ。
「さて……今日は開店前から大切なお客様が来るし、甘いものでも作ろうかな」
大切なお客様。
もちろん、グレンさんのことだ。
彼は今日、これから城でカイル王子への尋問と、王国への外交的な制裁措置――いわゆる「後始末」を行うと言っていた。
それはきっと、剣を振るうよりも神経を使う、タフな仕事になるはずだ。
だからこそ、糖分が必要だ。
脳を働かせ、心を落ち着かせるための、極上の甘味。
私が選んだのは、硬くなったパンを蘇らせる魔法の朝食。
――『厚切りフレンチトースト』だ。
◇
使うのは、昨日売れ残ってしまったバゲット(長細い硬焼きパン)。
一晩経って石のようにカチカチになっているけれど、フレンチトーストにするなら、むしろこの状態がベストだ。乾燥している分、卵液をぐんぐん吸い込むからだ。
バゲットを、四センチほどの厚切りにする。
ボウルに、新鮮な卵を三つ割り入れる。
そこにたっぷりの牛乳、砂糖、そして香りの魔法――バニラエッセンスを数滴。
よく混ぜ合わせて、特製の卵液を作る。
バットにパンを並べ、上から卵液をかける。
じゅわっ、とパンが息をするように液体を吸っていく。
でも、これだけじゃ足りない。
私はバットごと、温めておいた魔導レンジ(保温庫)に入れた。少し温めることで、パンの気泡が広がり、中心まで一気に染み込むのだ。
五分後。
カチカチだったパンは、フルフルと震えるほど柔らかく、重たくなっていた。
「焼くわよ!」
フライパンを弱火にかける。
ここでのポイントは「弱火」だ。強火だと、中まで火が通る前に表面が焦げてしまう。
バターをひとかけら落とす。
シュワシュワ……。
バターが溶け、芳醇な香りが広がる。
そこへ、卵液を吸って重くなったパンを並べる。
ジューッ……。
静かな音がする。
焦らず、触らず。じっくりと熱を伝える。
三、四分ほど経って裏返す。
――完璧だ。
表面には、美しい黄金色の焼き目がつき、所々キャラメル色に焦げている。
裏面も同じように焼く。
パンがふっくらと膨らみ、厚みが増していく。
甘い卵とバターの香りが、屋台の外まで漂い始める。これはもう、香りだけで幸せになれる魔法だ。
焼き上がったら皿に盛り付ける。
仕上げに、粉砂糖を雪のように降らせる。
そして、とろ〜りとした琥珀色の「メープルシロップ(カエデの樹液)」を、惜しげもなく回しかける。
熱々のパンの上でバターが溶け出し、シロップと混ざり合う。
横には、酸味のアクセントとして「ベリーのソース」と、ホイップクリームを添えて。
「おはよう、レティ」
タイミングを見計らったかのように、爽やかな声がした。
グレンさんだ。
今日はいつもの黒マントではなく、きっちりとした軍服に身を包んでいる。これから公式な「仕事」があるからだろう。その姿は凛々しく、まさに皇太子という風格だが、目の下に少しだけ疲れが見える。
「おはようございます、グレンさん。……やっぱり、あまり眠れなかったんですか?」
「ああ。昨夜は外交文書の作成で徹夜だ。カイルの愚かさを書き連ねるのに、羊皮紙が何枚あっても足りなくてね」
彼は苦笑しながらカウンターに座った。
足元ではシロが、『我も眠い……昨夜は興奮して夜食を食べ過ぎた』とあくびをしている。
「そんなお疲れの二人に、甘い朝ごはんをご用意しましたよ」
私は出来立てのフレンチトーストを差し出した。
甘い香り。
黄金色に輝くパン。
それを見た瞬間、グレンさんの瞳がふわりと和らいだ。
「これは……美しいな。朝日をそのまま皿に乗せたようだ」
「フレンチトーストです。頭を使う前には、糖分が必要ですから」
彼はナイフを入れた。
サクッ。
表面の焼けた部分が心地よい音を立てる。
しかし、中はまるでプリンのように柔らかい。ナイフが重みだけで沈んでいく。
切り分けた一切れを、たっぷりのシロップとクリームに絡めて口に運ぶ。
ハムッ。
「…………っ」
グレンさんが目を見開き、そしてゆっくりと閉じた。
口元から、ふぅーっと甘い吐息が漏れる。
「……溶けた」
「硬いパンだったんですよ、それ」
「信じられない。口に入れた瞬間、ジュワッと甘い卵液が溢れ出して、舌の上で消えてしまった。パンというより、温かいクリームを食べているようだ」
彼は幸せそうに頬を緩めた。
バターの塩気と、シロップの濃厚な甘さ。
卵の優しいコク。
それらが渾然一体となって、疲れた脳髄に直接染み渡っていく。
「美味しい……。徹夜明けの体に、この甘さは救いだ」
「ベリーのソースもつけてみてください。さっぱりしますよ」
彼は言われた通り、赤いソースをつけて食べた。
「んっ! 酸味が効いて、味が引き締まる。……いくらでも食べられそうだ」
厳格な皇太子モードだった彼が、今はただの甘党の青年になっている。
そのギャップが微笑ましくて、私はコーヒーを淹れながら彼を見つめた。
「……あの、グレンさん」
「ん?」
「カイル様の処遇、どうなさるおつもりですか?」
私が尋ねると、彼はフォークを置き、ナプキンで口を拭った。
その瞬間、瞳の色が変わる。
甘い朝食を楽しむ青年から、冷徹な統治者の目へ。
「……彼には、相応の報いを受けてもらう。王国の食料事情を崩壊させ、我が国の食文化を侮辱した罪だ。廃嫡はもちろん、一生涯、自由を奪うつもりだ」
「そうですか」
「同情するか?」
「いいえ。……ただ、彼が本当に反省するのかどうか、それだけが疑問で」
カイル様はプライドの塊だ。
ただ牢屋に入れるだけでは、「俺は被害者だ」と思い込み続けるだろう。
彼に必要なのは、本当の意味での「喪失」を知ること。
グレンさんは少し考えてから、ニヤリと笑った。
「なら、食事で分からせてやればいい。……レティ、君に頼みがある」
「頼み?」
「ああ。これから彼を地下牢に幽閉するわけだが……彼に与える食事のメニューを、君に決めてほしいんだ」
私は目を丸くした。
私が、カイル様の食事を?
「彼が『豚の餌』と呼んだ君の料理。その真価を、あるいは彼が捨てたものの大きさを、毎日毎食、死ぬまで突きつけてやるのが、一番の罰になると思わないか?」
グレンさんの提案に、私は思わず吹き出しそうになった。
なんて意地悪で、なんて粋な復讐だろう。
「……分かりました。謹んでお引き受けします」
私の脳裏に、一つのメニューが浮かんだ。
健康的で、栄養満点で、そしてカイル様が一番嫌がりそうな、でも本当は一番美味しいもの。
出汁を取った後の「出し殻」。
あれを使おう。
「最高の『粗食』をプロデュースさせていただきます」
「ははっ、それは楽しみだ。カイルの絶望する顔が目に浮かぶよ」
グレンさんは最後の一切れを口に放り込み、満足げに立ち上がった。
「さて、エネルギーは充填された。行ってくるよ、レティ。……君の名誉と、私たちの未来のために」
「行ってらっしゃいませ。お昼には、また美味しいものを作って待っていますから」
彼は軍服の裾を翻し、颯爽と城の方へと歩き出した。
シロも『やれやれ、我も付き合うか』と、護衛のために後を追う。
残された私は、空になったお皿を洗いながら、窓の外を見上げた。
太陽が高く昇っている。
決戦の朝だ。
でも、ちっとも怖くない。
この甘いフレンチトーストの余韻がある限り、今日という日はきっと、最高の一日になるはずだから。




