第11話
バキッ、という乾いた音が、静まり返った広場に響いた。
それは、カイル王子の腕が、グレンさん――ヴァルハラ帝国皇太子によってねじり上げられた音だった。
「ぎゃあああああああっ!!」
カイルの悲鳴が、雪空を引き裂く。
先ほどまでの尊大な態度は消え失せ、彼は涙と鼻水を流しながら地面に膝をついていた。
その腕を掴んでいるグレンさんは、氷のように冷徹な瞳で見下ろしている。
「……汚い悲鳴だ。私の食事の余韻が台無しになる」
グレンさんが手を離すと、カイルは無様に泥の上へ転がった。
豪華な毛皮のコートが汚れ、泥水が染みていく。
「な、な……貴様、無礼だぞ! 俺は王国の第二王子だ! 帝国の皇太子といえど、外交官特権がある俺にこんな真似をして……タダで済むと思っているのか!」
カイルは泥まみれになりながらも、まだ状況を理解していなかった。
痛む腕をさすりながら、必死に虚勢を張って怒鳴り散らす。
後ろにいたミリアも、金切り声を上げた。
「そうよ! カイル様は次期国王になる方なのよ! 野蛮な帝国の料理人ごときを庇って、国際問題になってもいいの!?」
国際問題。
その言葉が出た瞬間、周囲を取り囲んでいた客たち――一般人の振りをしていた騎士や冒険者たちが、一斉に鼻で笑った。
その中の一人、先日「生姜焼き」で餌付けされた騎士団長のガルド様が、ゆっくりと歩み出てきた。
彼は懐から身分証を取り出し、カイルの目の前に突きつけた。
「国際問題、結構ですな。我々は現行犯逮捕の正当な理由を持っています」
「な、なんだと……?」
「貴殿は、我が国の皇太子殿下に対し、煮えたぎる鍋をひっくり返して危害を加えようとした。これは『皇族への暗殺未遂』に当たります」
ガルド団長の低い声が、死刑宣告のように響く。
「あ、暗殺だと!? 馬鹿な、俺はただ、その女の屋台を……」
「それに加えて」
グレンさんが言葉を引き取った。
彼は懐からハンカチを取り出し、カイルに触れた手袋を脱いで、汚いものを捨てるように投げ捨てた。
「貴様は、この国の民の『食』を侮辱し、踏みにじろうとした。……レティのカレーは、ただの料理ではない。我が国の兵士の士気を支え、民の明日への活力を生み出す、国宝級の資源だ」
グレンさんの声に、熱がこもる。
「それを『泥』と呼び、あまつさえ廃棄しようとした。これは我が国の文化と経済に対する、重大な破壊工作とみなす」
「は、破壊工作!? たかが屋台の飯だろうが! 何を大袈裟な!」
カイルが叫んだ。
彼は本気で理解していないのだ。食事が持つ意味を。作り手の想いを。
私は、静かにため息をついた。
そして、カウンターの中からゆっくりと外へ出た。
「……カイル様。貴方は、本当に何も変わっていないのですね」
私は彼を見下ろした。
かつて愛そうとした人の、あまりに無残な姿。
でも、心は痛まなかった。あるのは、凪のように静かな諦めだけ。
「レ、レティシア! そうだ、お前からも言ってやれ! 俺はお前を迎えに来てやったんだぞ! 感謝こそすれ、こんな扱いは……」
「感謝? 何を寝言を仰っているのですか」
私は冷たく切り捨てた。
「貴方は私の料理を『豚の餌』と呼び、私を追放しました。そのおかげで、私はここで本当に美味しいと言ってくれる人たちに出会えました。その点については、感謝していますわ。……二度と私の前に現れないでくれたら、もっと感謝できたのですけれど」
カイルの顔が引きつる。
私は屋台の柱に掛けてあった「請求書」の束を手に取った。
「それより、先ほどの営業妨害と、精神的苦痛に対する慰謝料。それから、王国に置いてきた私の私物の弁償費用。これらも追加で請求させていただきますね」
「き、貴様……!」
カイルが逆上し、懐から短剣を抜こうとした。
懲りない人だ。
しかし、その刃が抜かれることはなかった。
「グルルルルッ……!!」
地響きのような唸り声が、広場全体を振動させた。
私の足元にいたシロ――フェンリルが、ついに我慢の限界を迎えたのだ。
ボフンッ!!
白い煙と共に、愛らしい柴犬サイズだった姿が膨れ上がる。
現れたのは、屋台を見下ろすほどの巨躯。
銀色の毛並みは月光を浴びて輝き、金色の瞳は明確な殺意を持ってカイルたちを射抜いていた。
『……我が主の聖域を荒らす小虫ども。これ以上騒ぐなら、その頭蓋を噛み砕いて肥料にしてくれる』
脳内に直接響く念話。
伝説の魔獣の覇気に、カイルとミリアは白目を剥いて腰を抜かした。護衛の兵士たちも、剣を取り落として震えている。
「で、伝説の……魔獣……フェンリル……!?」
「いやぁぁぁっ! 食べられるぅぅぅ!」
ミリアが悲鳴を上げてカイルにしがみつくが、カイル自身が失禁して動けない状態だ。
グレンさんが、シロの背中をポンと叩いてなだめた。
「シロ、抑えろ。肉が不味くなる。……ガルド、連れて行け」
「ハッ!」
ガルド団長の合図で、周囲の騎士たちが一斉にカイルたちを取り押さえた。
抵抗する力すら残っていない彼らは、ずるずると引きずられていく。
「は、離せ! 俺は王子だぞ! レティシア、助けてくれ! やり直そう! な!?」
「いやぁぁ! 私は関係ないの! カイル様が無理やり連れてきたのよぉ!」
往生際の悪い叫び声が、遠ざかっていく。
私はその背中を、最後まで冷めた目で見送った。
……終わった。
ずっと胸につかえていた何かが、スッと消えていくのを感じた。
ふと気付くと、広場には静寂が戻っていた。
けれど、空気は重い。
私の大切な常連さんたちが、心配そうに私を見ている。
せっかくのカレーパーティーが、台無しになってしまった。
みんな、興奮と緊張で食事の手が止まってしまっている。
(……これじゃダメだわ)
料理人の私が、しんみりしてちゃいけない。
嫌な空気を払拭するには、美味しい料理しかないのだ。
私はパンッ! と両手を叩いた。
「さあ皆さん! お騒がせしました! 変な虫は追い払いましたから、仕切り直しです!」
私は無理やりにでも明るい声を出した。
「お詫びと言ってはなんですが……今から、シメの一品を作ります! カレーで疲れた胃袋を癒やす、とびきり優しいやつを!」
私の言葉に、グレンさんがハッとして顔を上げた。
常連さんたちの目にも、光が戻る。
私はエプロンの紐を締め直し、再び厨房へと立った。
◇
作るのは、殺伐とした空気を中和する「究極の家庭料理」。
黄金の出汁と、ふわふわの卵。
母の愛のような優しさ。
――『とろとろ卵の親子丼』だ。
使うのは、先日の「エビ天うどん」でも活躍した、私の原点である「黄金出汁」。
昆布(海蛇)と鰹節から引いた、透き通ったスープだ。
これを、一人用の小さな手鍋――親子鍋に入れる。
調味料は、醤油(黒豆の醤)、みりん、砂糖少々。
火にかけると、甘辛い、懐かしい香りが立ち昇る。日本人のDNAに刻まれた、定食屋の香りだ。
具材は、一口大に切った「コカトリスのモモ肉」。
そして、薄切りにした玉ねぎ。
煮立った割り下の中に、それらを投入する。
グツグツ……。
玉ねぎが透き通り、鶏肉が白く変わっていく。
鶏の脂が割り下に溶け出し、キラキラと輝く。
ここだ。鶏肉に火が通った、この瞬間。
私はボウルに、新鮮な「コカトリスの卵」を二つ割り入れた。
黄身が濃いオレンジ色をしていて、箸で持ち上げられるほど弾力がある。
これを、溶く。
ただし、混ぜすぎないこと。白身と黄身がマーブル状に残るくらいが、食感に変化が出て美味しいのだ。
「いくわよ!」
溶き卵の三分の二を、鍋の中心から「の」の字を書くように回し入れる。
ジュワッ……。
卵が熱いスープを吸い込み、ふわりと膨らむ。
ここで蓋をして、十秒待つ。
この十秒が、鶏肉と卵を一体化させる。
蓋を開けると、卵は半熟に固まっている。
そこに、残しておいた三文の一の卵を、追い討ちのようにかける!
これが「とろとろ」の秘訣だ。
火を止め、余熱だけで仕上げる。
丼には、炊きたての熱々ご飯をよそってある。
その上に、鍋の中身を滑らせるように乗せる。
――トゥルンッ。
完璧な着地。
半熟の卵が、ご飯の山を黄金色に覆い尽くす。
一番上はまだ生に近いとろとろ。中はふわふわ。下は出汁を吸ったご飯。
仕上げに、刻んだ三つ葉(に似た香草)を散らす。
緑色が、黄金色に映える。
「お待たせしました。『特製・とろとろ親子丼』です!」
◇
私は一番最初の一杯を、グレンさんの前に置いた。
彼はまだ、少し怒ったような、悲しいような顔をしていたけれど、丼から立ち昇る湯気に包まれると、ふっと表情を緩めた。
「……これが、親子丼?」
「はい。鶏肉と卵を使うから、親子。単純な名前でしょう?」
「なるほど。……命を繋ぐ料理、か」
彼はスプーンを手に取り、そっと卵の海へ差し入れた。
半熟の卵が決壊し、濃いオレンジ色の黄身がご飯に絡みつく。
パクッ。
口に含んだ瞬間、グレンさんの目が大きく見開かれ、そしてゆっくりと細められた。
「…………んんっ」
ため息とも、感嘆ともつかない声が漏れる。
噛む必要がないほど柔らかい。
出汁の効いた甘辛い割り下が、卵の優しさと共に口いっぱいに広がる。
鶏肉はプリプリとしていて、噛むとジュワッと肉汁が溢れる。
「優しい……。さっきのカツカレーが『情熱』なら、これは『慈愛』だ」
彼は一口食べるごとに、先ほどの殺気立っていた空気を纏った肩の力を抜いていった。
「甘い味付けなのに、しつこくない。出汁の香りが鼻に抜けて、心が落ち着く。……なんだか、泣きたくなるような味だ」
彼は黙々と、けれど大切そうにスプーンを動かした。
とろとろの卵とご飯が混ざり合った「飲み物」のような部分をすする。
三つ葉の香りが、後味を爽やかに引き締める。
周りの常連さんたちも、同じように親子丼を食べていた。
「うめぇ……」「なんかホッとするなぁ」と、あちこちから安堵の声が漏れる。
シロも、大きな器に入った親子丼をペロペロと舐め、満足げに喉を鳴らしている。
『うむ。戦いの後の飯は格別だ。この卵のトロトロ加減、天才的だな娘よ』
私はその光景を見て、ようやく本当に安堵した。
よかった。
みんなの笑顔が戻った。
グレンさんは最後の一粒まで綺麗に食べ終えると、丼を置き、私を真っ直ぐに見つめた。
「レティ。……守らせてくれて、ありがとう」
「え?」
「君があの男に傷つけられなくて、本当によかった。……君が悲しむ顔など、見たくないんだ」
彼の蒼い瞳は、熱く、真剣だった。
皇太子としての立場ではなく、一人の男性としての言葉。
私は胸が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます、グレンさん。貴方がいてくれて、本当に心強かったです」
「なら、もっと頼ってくれ。私は君のためなら、国一つ動かす覚悟がある」
彼は少し照れくさそうに笑い、私の手を取った。
「……さて。邪魔者は消えた。これで心置きなく、君の料理に通えるな」
「ふふ、そうですね。明日は何を作りましょうか?」
「なんでもいい。君が作るものなら、毒でも食べるさ」
「もう、冗談ばっかり」
私たちは笑い合った。
屋台の明かりが、雪の夜を温かく照らしている。
カイル王子という最大の懸念事項は、強制退場となった。
これにて一件落着――。
と、思いきや。
この「カイル王子逮捕劇」が、帝国の宮廷、そして王国の政治に激震を走らせることは、まだ誰も知らなかった。
そして何より。
牢屋に入れられたカイル王子への「ざまぁ」の本番は、まだ始まったばかりなのだ。
「さて……明日の仕込みをしなくちゃ」
私は片付けをしながら、ふと思いついた。
牢屋のカイル様にも、差し入れをしてあげようかしら。
彼が「豚の餌」と呼んだ、究極の粗食を。




