第10話
その日の朝、ノルドの街は奇妙な「熱気」に包まれていた。
気温は氷点下。空からは白い雪が舞い降りているのに、私の屋台「ひだまり亭」を中心とした半径百メートルだけ、雪が溶けているのではないかと思うほどの、灼熱の香りが漂っていたからだ。
原因は、私が仕込んでいる大鍋の中にある。
今日は勝負の日だ。
昨日のグレンさんからの情報で、王国の使者が――つまりカイルたちが近づいていることは分かっている。
だからこそ、私は最強のカードを切ることにした。
日本人のDNAに刻まれた、国民食にして最強のスタミナ源。
――『特製・ロースカツカレー』だ。
◇
カレー作りは「玉ねぎ」との対話から始まる。
私は麻袋いっぱいの玉ねぎを、涙をこらえながら薄切りにした。
それを、大量のバターを溶かした大鍋へ投入する。
ジューーーッ……。
最初は山のようにあった玉ねぎが、炒めるうちに水分を飛ばし、カサが減っていく。
ここからは忍耐だ。
焦がさないように、けれど極限までメイラード反応(褐色化)を引き出すように、木べらで混ぜ続ける。
一時間、二時間。
やがて玉ねぎは、輝くような「飴色のペースト」へと姿を変えた。これがカレーに深みと甘みを与える土台となる。
次は「スパイス」の調合だ。
この世界には「カレー粉」なんて便利なものはない。だから、薬草店を駆けずり回って集めた種や木の実を、石臼で挽くところから始める。
クミン(馬芹)、コリアンダー(香菜の種)、ターメリック(鬱金)、カルダモン、チリペッパー、クローブ、シナモン……。
ゴリ、ゴリ、と挽くたびに、エキゾチックで鮮烈な香りが立ち昇る。
鼻の奥をくすぐり、胃袋を鷲掴みにする、魔性の粉。
これをフライパンで乾煎りし、香りを爆発させてから、小麦粉と油脂と合わせて「ルー」を作る。
スープのベースは、牛すじと香味野菜を三日間煮込んだブイヨンだ。
そこに、飴色玉ねぎと、特製ルーを溶かし込む。
――トロリ。
鍋の中が、艶やかな黒褐色の海へと変わる。
隠し味には、すりおろしたリンゴ、蜂蜜、そしてダークチョコレートと、インスタントコーヒーを少し。
さらに、王国では捨てられてしまう「マンゴーチャツネ(果実の甘酢煮)」を加える。
ボコッ……ボコッ……。
鍋が重たい呼吸を始めた。
スパイシーな刺激の中に、フルーティーな甘みと、底知れないコクが潜んでいる。
これだけでも白米が三合はいける。
けれど、今日の主役はカレーだけではない。
「揚げるわよ!」
まな板の上には、極厚の「キング・オーク」のロース肉。
脂身が雪のように白く、赤身はルビーのように鮮やかだ。
筋切りをし、塩胡椒で下味をつける。
小麦粉、溶き卵、そして粗めに挽いた「生パン粉」をたっぷりと纏わせる。乾燥パン粉ではない。食パンをちぎって作った生パン粉だからこそ、揚げた時に剣のように逆立ち、ザクザクの食感を生むのだ。
170度の油へ、静かに肉を沈める。
シュワワワワワ……パチパチパチパチッ!
最初は静かに。やがて激しく。
油の泡が弾ける音が、食欲へのファンファーレのように響く。
きつね色――いや、黄金色になったところで引き上げる。
包丁を入れる。
ザクッ、ザクッ。
乾いた音が、勝利を確信させた。
断面からは、ほんのりと桜色の肉から透明な肉汁が滲み出している。
丼に熱々の白米をよそい、カットしたカツをドーンと乗せる。
その上から、黒褐色のカレーソースを、とろーりとかける。
カツの半分はソースに溺れ、半分はサクサクのまま残すのが流儀だ。
福神漬け代わりの「赤野菜のピクルス」を添えて、完成!
◇
開店と同時に、屋台の周りは異様な興奮に包まれていた。
「な、なんだこの匂いは!?」
「スパイシー? いや、甘いのか? 分からんが涎が止まらん!」
「俺はもうダメだ、この匂いだけでパンが食える!」
常連の冒険者や騎士たちが、ゾンビのようにふらふらと列を作っている。
その先頭には、当然のように彼がいた。
グレンさんだ。
今日はシロを足元に侍らせ、真剣な表情でカウンターに座っている。
「……レティ。今日の料理は、危険すぎる」
「おや、お気に召しませんか?」
「逆だ。城の執務室にいた私の鼻まで、この香りが届いた気がした。仕事どころではなかった」
彼は目の前に置かれた『カツカレー』を凝視した。
黒光りするソース。黄金の鎧をまとった肉塊。湯気と共に立ち昇る、複雑怪奇なスパイスの香気。
「これが『カレー』か……。私の国にはない料理だ」
彼はスプーンを手に取り、まずはソースのかかったカツをすくい上げた。
スプーンの縁で、カツがサクッと切れる。
パクッ。
グレンさんの動きが停止した。
カッ! と蒼い瞳が見開かれる。
「――ッ!!」
口の中で、いくつもの爆弾が炸裂した。
まずはカツの衣の香ばしさと、ザクザクとした食感。
次に、オーク肉の甘い脂がジュワッと広がる。
そして、全てを飲み込むようなカレーソースの衝撃。
辛い。熱い。
舌がピリピリするほどの刺激なのに、噛み締めると野菜と果実の濃厚な甘みが追いかけてくる。
「……すごい。味が、何層にも重なっている」
彼は呻くように呟き、次は白米と一緒に掬った。
ソースを吸ったご飯。これぞ至高。
「辛さが米の甘みを引き立て、米が辛さを中和する。このソースは、米を美味しく食べるために計算し尽くされた発明品だ!」
彼は止まらなくなった。
汗をかきながら、スプーンを動かす速度が上がっていく。
カツ、ご飯、カレー。カツ、ご飯、カレー。
三角食べの無限ループ。
「身体が熱い! 胃の奥からエネルギーが湧き上がってくるようだ!」
横ではシロが、専用の特大皿に顔を突っ込んでガツガツと食べている。
『辛い! 辛いが止まらぬ! 肉だ、もっと肉を持ってこい!』
屋台は幸せな熱狂に包まれていた。
誰もが笑顔で、汗を拭いながら、ハフハフとカレーを頬張っている。
平和で、温かい、私の大切な場所。
――ガタガタガタッ!!
その空気を切り裂くように、不快な車輪の音が響いた。
広場の入り口から、一台の馬車が入ってきたのだ。
黒塗りの車体に、金の装飾。派手すぎて悪趣味ですらある。
御者台には、尊大な態度をした王国の兵士が座っている。
「おい! 道を開けろ! そこ、邪魔だ!」
馬車の護衛兵たちが、列に並んでいた客たちを乱暴に突き飛ばした。
土煙が上がる。
幸せな食事の時間が、土足で踏みにじられる。
「なんだ、あいつらは……」
「王国の紋章? なんでこんな所に」
客たちがざわめく中、馬車が屋台の目の前で止まった。
扉が開く。
降りてきたのは、豪奢な毛皮のコートを纏った金髪の男。
かつて私が愛そうと努力し、そして私を捨てた男。
カイル・ロズウェルだ。
「……ふん。相変わらず、貧乏くさい場所だな」
カイルはハンカチで鼻を覆いながら、周囲を見回した。
その顔色は悪い。肌は脂ぎっているのにカサカサで、目の下には濃いクマがある。贅沢な服を着ているが、その体型は以前より明らかに崩れ、腹が出ていた。
後ろからは、寒そうに震えるミリアも降りてくる。
「きゃあ、臭い! なにかしらこの刺激臭! 鼻が痛いわ!」
「我慢しろミリア。……おい、そこの店主」
カイルが私を見た。
その目は、私を認識した瞬間、ねっとりとした優越感に歪んだ。
「久しぶりだな、レティシア。……こんな泥のような料理を作って、俺を待っていたのか?」
泥。
彼は私の自慢のカレーを指差し、そう言った。
店内が静まり返る。
騎士たちが、冒険者たちが、殺気立った目でカイルを睨む。
だが、カイルはその殺気に気付かない。気付かないほど、彼は自分の世界に浸っていた。
「見ろ、この行列を。俺が来ると聞いて、俺に認められたいがためにサクラまで用意したのか? 健気なやつめ」
彼は一人で納得し、ニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
私は、お玉を握る手に力を込めた。
怒り? いいえ。
呆れを通り越して、哀れみすら感じる。
「いらっしゃいませ。……お客様、列の最後尾はあちらですが」
私は事務的に対応した。
するとカイルは、きょとんとした顔をして、それから噴き出した。
「ははは! 相変わらず冗談が下手だな。俺が列に並ぶ? 王子であるこの俺が?」
「ええ。ここでは皇帝陛下がいらしても並んでいただきますので」
「口の減らない女だ。……まあいい。そこまで強がるのも、俺への愛情の裏返しだろう」
カイルは勝手にカウンターの席――グレンさんの隣の席へ割り込もうとした。
グレンさんがスプーンを止め、カイルを横目で一瞥する。
その視線の冷たさに、カイルが一瞬ビクリと震えた。だが、相手がフードを被ったただの客だと思い込み、鼻で笑った。
「おい、そこをどけ。俺が座る」
グレンさんは動かない。
無言のまま、カレーを食べ続けている。
「チッ、礼儀知らずな平民め。……レティシア、まあいい。本題に入ろう」
カイルは私の前に立ち、両手を広げた。
まるで、感動の再会を演出するかのように。
「迎えに来てやったぞ」
彼は陶酔した表情で言った。
「お前のその努力に免じて、過去の無礼は水に流してやろう。俺の側室に戻ることを許可する。さあ、今すぐこの汚い屋台を畳んで、俺と一緒に王国へ帰ろう。そして、毎日俺のためにその『黄金のスープ』とやらを作れ」
ミリアが後ろで「えぇー、側室ぅ?」と不満げな声を上げているが、カイルは無視だ。
彼は確信していた。私が泣いて喜び、彼に抱きつくと。
私は、大きくため息をついた。
そして、寸胴鍋の火を弱め、彼を真っ直ぐに見据えた。
「……お断りします」
「ん? なんだ? 嬉しすぎて声が出ないのか?」
「いいえ。日本語、いえ、共通語が通じませんか? 『お断りします』と言ったのです」
私は冷たく言い放った。
「私は今、この場所で、私の料理を愛してくれるお客様のために生きています。貴方のような、味も分からず、食べ物を粗末にする方に作る料理は一皿もありません」
カイルの笑顔が凍りついた。
顔が赤くなり、やがて怒りで青ざめていく。
「き、貴様……! この俺の慈悲を断るというのか!? ただの料理人の分際で!」
「ただの料理人ですが、何か? その料理人の実家が支えていた流通のおかげで、今の今まで贅沢できていたのはどこの誰でしょうね」
私が痛いところを突くと、カイルは図星を突かれたように唸った。
そして、逆上して拳を振り上げた。
「黙れ! 生意気な口を利くな! そんな泥のような料理、俺がひっくり返してやる!」
彼の手が、煮えたぎるカレーの入った大鍋に伸びる。
危ない!
私が身構えた、その瞬間。
ガシッ!!
カイルの腕が、空中で止まった。
鍋に届く寸前で、誰かの手に掴まれていたのだ。
黒い革手袋。
グレンさんだ。
「……食事中だ。騒ぐな」
グレンさんは座ったまま、カイルの腕を軽々と捻り上げた。
ボキボキッ、と嫌な音がする。
「ぎゃあああああっ!!」
カイルの悲鳴が響き渡る。
グレンさんはゆっくりと立ち上がった。
その手には、食べかけのカレーのスプーンを持ったまま。
フードが落ち、その素顔が白日の下に晒される。
銀色の髪。氷のような蒼い瞳。
そして、皇族だけが纏うことを許される、圧倒的な覇気。
「そ、その顔……まさか、ヴァルハラの……皇太子……!?」
カイルが痛みを忘れて絶句した。
グレンさんは冷ややかな瞳でカイルを見下ろし、静かに、しかし絶対的な重圧を込めて告げた。
「私の国で、私の愛する店の、私のカレーに手を出そうとした罪……万死に値すると思え」
その瞬間、屋台を取り囲むように控えていた「一般客」たちが一斉に動いた。
彼らはただの客ではない。
非番の騎士団、お忍びの貴族、そして歴戦の冒険者たちだ。
全員が武器に手をかけ、カイルたちを取り囲む。
「……え?」
カイルとミリアが、顔面蒼白になって震え出した。
シロが『グルルルッ……』と喉を鳴らし、巨大化の予兆を見せる。
私の屋台を守るための、最強の包囲網。
その中心で、私は静かにお玉を置いた。
「さあ、カイル様。お話し合いをしましょうか。……たっぷりとね」




