第1話
カラン、と乾いた音が、豪華絢爛な大広間に響き渡った。
それは、私の作った「黄金のコンソメスープ」が、銀のスプーンごと床に叩きつけられた音だった。
「――え?」
私は、レティシア・セイファートは、目の前の光景に瞬きをした。
王宮の舞踏会。煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが注目するその中心で、私の婚約者である第二王子カイル様が、顔を真っ赤にして叫んでいた。
「もう我慢ならん! こんな味のしない湯のようなものを、いつまで俺に飲ませるつもりだ!」
カイル様は、口元をナプキンで乱暴に拭った。その口の端には、先ほどまで彼が貪り食っていた「脂身たっぷりのオーク肉の蜂蜜煮」のギトギトした脂がこびりついている。
彼は私のスープを指差し、あろうことかこう言い放った。
「貴様の料理は、豚の餌だ!」
シン、と会場が静まり返る。
豚の餌。
公爵令嬢の私に向けられた、これ以上ない侮辱。
周囲からは「ああ、やはり……」「カイル様のお口には合わなかったのね」「セイファート家の料理は地味だから」というヒソヒソ話が聞こえてくる。
カイル様は隣に侍らせていた、甘ったるい香水の匂いがするピンク髪の男爵令嬢――ミリアさんの腰を抱き寄せ、勝ち誇ったように宣言した。
「ミリアの料理を見習え! 彼女の作るシチューは、砂糖とスパイスと生クリームがたっぷりで、一口食べただけで脳が震えるほどの味がするぞ!」
「いやん、カイル様ぁ。私なんて、ただカイル様に元気になっていただきたくて、お砂糖を袋半分入れただけですぅ」
「おお、なんて健気なんだ! それに引き換えレティシア、貴様の料理はなんだ? 『素材の味』だの『出汁の深み』だの、御託ばかり並べて、ちっとも味がしないじゃないか!」
カイル様は鼻で笑う。
私は、床に散らばったスープを見つめた。
牛の脛肉と香味野菜を三日間煮込み、卵白で濁りを丁寧に取り除いた、琥珀色に透き通るコンソメ。雑味を極限まで削ぎ落とし、旨味の核だけを凝縮させた至高の一皿。
それを、彼は「味のしない湯」と言った。豚の餌だと。
――プツン。
私の中で、何かが切れる音がした。
それは悲しみの糸ではない。
これまで、「未来の王族として、国民と夫の健康を守らねばならない」という義務感だけで繋ぎ止めていた、忍耐の糸だ。
(……あ、もう無理だわ、これ)
前世、日本の定食屋「おふくろ亭」の娘として生まれ、出汁の香りに包まれて育った私にとって、食への冒涜は万死に値する。
この国の料理は酷い。保存食文化が発展しすぎて、塩辛いか、臭みを消すために香辛料まみれにするか、腐りかけの肉を砂糖で煮込むかしかない。
そんな中で、私は必死に食文化を改革しようとしてきた。
けれど、トップに立つ男の舌が、これほどまでに壊滅的だとは。
砂糖と脂の暴力的な味しか「美味しい」と感じられないバカ舌。
そんな男のために、これ以上私の大切な人生と、愛する食材を無駄にする義理なんて、一ミリもない。
「……そうですか」
私は顔を上げた。
涙など一滴も出ていない。むしろ、憑き物が落ちたように晴れやかな顔をしていたと思う。
「レ、レティシア? 泣いて謝るなら今のうちだぞ。側室としてなら置いてやらんことも……」
「謹んで、婚約破棄をお受けいたしますわ、殿下」
「は……?」
私は優雅にカーテシー(膝を折る礼)をした。
そして、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。いつかこんな日が来るかもしれないと思って準備していた、請求書だ。
「こちらは、これまで私が殿下の健康管理のために費やした食材費、および私が監修した宮廷料理のレシピ開発費、そして今回の不当な婚約破棄に対する慰謝料の請求書です。私の実家であるセイファート公爵家経由で請求させていただきますので、一括でお支払いくださいませ」
「な、なんだと!?」
「それから、私の実家が管理している食材の流通ルートですが……これらは全て『セイファート家の個人的なコネクション』によるものですので、私が去ると同時に契約は終了となります。あとは、その素晴らしい味覚をお持ちのミリア様と、どうぞお幸せに」
私は呆気に取られるカイル様と、ニヤニヤ笑うミリアさんに背を向けた。
会場の扉を開けると、夜風が吹き込んでくる。
自由の風だ。
「さようなら、味の分からない哀れな皆様。私はこれから、私の料理を本当に美味しいと言ってくれる人のために生きていきます」
そう言い残し、私は二度と振り返らなかった。
心の中は、すでに次の計画でいっぱいだった。
(さあ、行こう! あそこへ。新鮮な魔物肉と、未知の食材が眠る、北の大国へ!)
私の新しい人生は、今、この瞬間から始まったのだ。
◇
王都を出てから二週間。
私は馬車を乗り継ぎ、大陸の北方に位置する軍事国家「ヴァルハラ帝国」の辺境都市、ノルドに辿り着いていた。
――寒い。
想像を絶する寒さだ。
馬車を降りた瞬間、肌を刺すような冷気が全身を包み込んだ。吐く息は真っ白で、まつ毛が凍りつきそうだ。
空は分厚い鉛色の雲に覆われ、今にも雪が降り出しそうだった。
「ここが、ノルド……」
ごつごつした石造りの建物が並ぶ、無骨な街。
すれ違う人々は皆、毛皮のコートを頭まで被り、足早に歩いている。
漂ってくる匂いは、鉄と、土と、そして――獣の匂い。
王国のような華やかさはないけれど、ここには「生」の実感がある。
私は公爵令嬢としてのドレスを捨て、動きやすい厚手のパンツスタイルに、白いボアのついたコートを羽織っていた。長いミルクティー色の髪は、邪魔にならないよう高い位置で結い上げている。
私がここに来た理由は単純だ。
この帝国には、王国にはない「未知の食材」が豊富にあると聞いたから。そして何より、ここなら実家の権力も元婚約者の嫌がらせも届かない。
「さてと、まずは拠点よね」
私は懐を温めている全財産(慰謝料の一部)を確認し、事前に目をつけていた物件――ではなく、広場の一角へ向かった。
そこには、持ち主がいなくなって放置された、一台のボロボロの屋台があった。
屋根は傾き、車輪は泥に埋もれているが、骨組みはしっかりしている。
「おじさん、この屋台、買い取らせて!」
「あぁ? 嬢ちゃん、正気か? こんなガラクタ、薪にするくらいしか使い道がねぇぞ」
管理している強面のおじさんが呆れた顔をするが、私は譲らなかった。
店舗を借りるほどの資金はないし、何より「屋台」という響きに憧れがあった。
夜風に吹かれながら、熱々の料理とお酒で客をもてなす。前世の記憶にある、赤提灯の情緒。あれを再現したいのだ。
格安で屋台を譲り受けた私は、すぐに掃除と修繕に取り掛かった。
【生活魔法】で汚れを吹き飛ばし、緩んだネジを締め直す。
そして、一番重要な作業――「調理器具」のセッティングだ。
マジックバッグから取り出したのは、特注の寸胴鍋、包丁セット、そして七輪に似た魔導コンロ。
「よし、形にはなったわね」
作業を終える頃には、日はすっかり傾き、気温はさらに下がっていた。
お腹が、ぐう、と鳴る。
そういえば、朝から何も食べていない。
周りを見渡すと、道ゆく人々も寒さに肩を震わせ、飢えたような目をしている者が多い。この街の食事情も、決して良くはないようだ。
「……作るか」
私は決意を込めて呟いた。
記念すべき第一作目。私の、私による、私のための料理。
作るものは決めてある。
この極寒の地で、冷え切った身体を芯から温めるもの。そして、私が前世から焦がれ続けた「あの味」の再現だ。
私は市場で手に入れた食材を並べた。
店主には「そんなゴミを買うのか?」と笑われたものばかりだ。
一つは、乾燥した黒くて長い帯状のもの。
現地では「海蛇の干物」と呼ばれ、硬すぎて食べられないため、防具の素材や燃料にされている。
だが、私の【神の舌】は知っている。これが前世の「昆布」に近い成分を持っていることを。
もう一つは、石のように硬い赤褐色の塊。
「ロックバードの燻製肉」。これも硬すぎて噛み切れないため、非常食として携帯されるが、大抵は捨てられる。
だが、これこそが私が追い求めた「鰹節」の代用品なのだ。
「ふふ……誰も知らないのね。このゴミの中に、黄金が眠っていることを」
調理開始。
まずは、雪解け水のように澄んだノルドの水を、寸胴鍋にたっぷりと張る。
そこに、表面の汚れを拭き取った「海蛇の干物(昆布)」を静かに入れる。
火にかけるのはまだだ。じっくりと、水出しで旨味を引き出す。本来なら一晩置きたいところだけど、今日は魔法で時間を短縮する。
水の中で、干物がゆっくりと開き、ふわりと磯の香りが立ち上り始めた。
鍋の底から、小さな気泡がぷつ、ぷつ、と上がり始める。沸騰直前、グラグラと煮立つその一歩手前。ここが勝負だ。
私は素早く干物を取り出す。煮立たせればエグみが出る。このタイミングが命。
「次は、これよ!」
私は「ロックバードの燻製肉(鰹節)」と、愛用の「削り器」を取り出した。
シュッ、シュッ、シュッ――。
リズミカルな音が、静かな広場に響く。
硬い肉塊が、カンナに削られ、薄紅色の花びらのように舞い落ちていく。
その瞬間、鼻孔をくすぐるのは、濃厚なスモークの香りと、凝縮された動物性の旨味の予感。
「いっけぇぇぇ!」
沸騰した鍋の火を止め、削りたての節を一気に投入する。
ジュワッ、という音と共に、節が湯の中で踊る。
黄金色の湯が、さらに色濃く、琥珀色へと変わっていく。
立ち上る湯気は、もはやただの水蒸気ではない。それは「暴力」だ。
香りの暴力。
冷たい風に乗って、出汁の香りが広場全体へ拡散されていく。
一分、二分。
節が鍋底に沈んだのを見計らい、私は晒し布で静かにスープを濾した。
鍋に残ったのは、不純物の一切ない、透き通った黄金の液体。
これだけでも十分美味しい。
けれど、今日はさらに手を加える。
具材は、市場の隅で安売りされていた根菜たち。大根に似た「ホワイトルート」、人参のような「キャロット芋」。それらを乱切りにして放り込む。
そして、丁寧に下処理をして臭みを抜いた、脂の乗ったオークのバラ肉。
コトコト、コトコト。
鍋が歌うような音を立てる。
根菜が柔らかくなり、オークの脂がスープに溶け出し、表面にキラキラと輝く油膜を作る。
仕上げは、この世界には存在しない調味料――味噌。
……といきたいところだが、まだ味噌は仕込めていない。
代わりに、大豆に似た豆を発酵させて作ったペーストと、岩塩、そして隠し味に少しの魚醤を加える。
「できた……」
『特製・黄金出汁の豚汁』の完成だ。
私はお玉ですくい、小さな椀に注いだ。
湯気が、私の顔を優しく撫でる。
ゴロゴロとした野菜と肉が、黄金色の海に浮かんでいる。
私は震える手で、その椀に口をつけた。
ズズッ――。
「…………っ」
熱い液体が、喉を通り、食道を滑り落ち、胃袋に到達する。
その瞬間、カッと身体の内側に火が灯ったようだった。
五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのこと。
昆布(海蛇)のグルタミン酸と、鰹節のイノシン酸が、口の中で手を取り合ってダンスを踊っている。そこにオーク肉の甘い脂が加わり、コクという名の重厚なハーモニーを奏でる。
優しい。けれど、力強い。
王宮で出されていた、見かけ倒しのスープとは次元が違う。
素材一つ一つが「私はここにいる!」と主張しつつ、全体として完璧に調和している。
「あぁ……美味しい……」
思わず、涙が出そうになった。
これが食べたかった。
前世の記憶にある、お母ちゃんの味。
寒空の下、一人ぼっちの異国の地で、私はようやく「自分の味」を取り戻したのだ。
と、その時だった。
ピチャッ。
何かが地面に落ちる音がした。雨粒ではない。もっと粘度のある音だ。
ふと視線を感じて、私は屋台の前を見た。
「……え?」
そこには、巨大な影があった。
屋台の屋根よりも高い位置にある、二つの光る眼。
月明かりに照らされたのは、美しい銀色の毛並みを持つ、巨大な狼――いや、どう見ても魔獣だ。
そのサイズは、ゆうに馬車二台分はある。
鋭い牙、鋼のような爪。一振りで人間なんてミンチにできそうな、伝説級のプレッシャー。
けれど、私の目は釘付けになった。
その凶悪な口元から、ダラダラと滝のように涎が垂れ流されていたからだ。
ピチャッ、ピチャッ、と地面に水たまりができている。
巨大な狼は、鍋の方をじーっと見つめ、鼻をヒクヒクさせていた。
そして、私の顔と鍋を交互に見ると、情けないほど甘えた声を出した。
『……クゥーン』
……え、食べる?
もしかして、食べたいの?
伝説の魔獣が?
私の新しい人生、最初のお客様は、どうやら人間ではなかったようだ。
私はお玉を握り直し、苦笑しながらその巨大な鼻先に声をかけた。
「一杯、食べていく?」




