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3)ライムンドの家族

 あの頃、ライムンドの手に触れるものは、全て冷たく硬く、ライムンドが生きることを拒絶していた。あの日は晴れていたと思う。突然日が陰り、見上げたライムンドの目に人影が映った。


 柔らかい、冷たい石や土塊とは違うぬくもりある手が、ライムンドの手を包んだ。そっと鉄格子の中に手を押し戻されたけれども、不思議と怖さはなかった。鉄格子が開かれ、穴蔵から引き出され、布で包まれ誰かの背に背負われた。誰一人声を発すること無かった。手際の良さに、どこへ連れて行かれるのかと恐ろしくなったが、抵抗する体力も気力もかった。


 連れて行かれた先は旅芸人の天幕だった。

「よう頑張ったね。えらかったね」

少女の赤いふっくらした唇が、ライムンドをいたわる言葉を紡ぐ。緩やかに波打つ黒髪に縁取られたひいでた額の下にある空色の目は、ライムンドの手の傷を真剣に見つめていた。

「痛いやろうけど、ちょっと頑張ってね」

ぬるま湯に、ライムンドの傷だらけの手を浸し、小さな手でそっと洗ってくれた。清潔な布で、ライムンドの手の水気を優しく拭き取ってくれた。


「これねぇ、山で山羊飼いにもらった膏薬やねんよ。高い山の上でね、山羊と一緒に暮らしてはるから、怪我とかしたら自分で治さんといかんの。そやからねぇ、怪我の手当とか膏薬とかよく知ってはるの」

皇国語の柔らかい響きが耳朶に心地よい。亡くなった母は皇国生まれだった。記憶にない母は、この少女のように話したのだろうか。


 ライムンドの傷だらけの手に膏薬を塗り、布を巻いたあと少女はいつも大地母神に祈りを捧げる。ライムンドはあの時間が好きだった。


 少女は小さな手でライムンドの両手を包み、瞼を閉じる。

「傷が綺麗に治りますように、爪がちゃんと生えてきますように、大地母神様どうかよろしくお願いいたします」

お祈りを終えた少女の瞼がゆっくりと開き、長い睫毛に縁取られた目で輝く空色の瞳がライムンドをみつめる。あの瞬間が好きだった


「大丈夫よ。きっと治るからね。うちが大地母神様にちゃんとお祈りしたからね」

ふっくらとした赤い唇は優しい言葉を紡ぎ、可愛らしい頬に小さなえくぼがあらわれる。


 ライムンドが誰かも知らない少女だ。ライムンドのために私利私欲無く祈ってくれる優しさが嬉しかった。


 懐かしい思い出を石板に紡ぎ、顔を上げたライムンドは、頬を染めたかつての少女、コンスタンサに突然抱きつかれた。

「ライ。愛してるわ」

耳元で囁かれたコンスタンサの言葉に、ライムンドも自分の頬が染まるのを自覚した。


 楽しげに笑う末娘フィデリアを片腕で支え、もう片方の腕でコンスタンサを抱き、頬に口づける。

「ちちうえ」

手を伸ばしてきた小さなフィデリアの頬にも口づけてやる。


「父上」

ルシオと目があった。


「父上は母上が大好きなんですね」

ルシオは言い淀んだが、まだ幼いハビエルは恥じらいも何もない。

『そうだ。とても大好きだ。お前たち子どもたちも全員大好きだ』

そのうちの一人、長女フロレンティナがもうすぐ嫁いでいってしまうのが寂しい。


「父上、夫となる方と一緒にまた帰ってまいりますから、歓迎してくださいな」

『もちろんだ。いつでも帰っておいで』

皇国を訪れるたびに、伯父ハビエルは歓迎してくれた。出迎えてくれた伯父ハビエルのように、ライムンドも娘フロレンティナと家族を歓迎してやりたいと思う。色々と思うことはあるにはあるが。それは伯父ハビエルも同じだったろう。


 ハビエルが用意させた茶に口をつける。ハビエルに少し頷いてやる。幼い末っ子だったが、末娘フィデリアが生まれて、兄としての自覚が出来てからは、成長が目覚ましい。

『あの頃は、手を怪我していたから食器を扱うことも出来なかった。匙で一口ずつコンスタンサが口に運んでくれた。懐かしいね』

今思いだすと少し恥ずかしいが、懐かしい思い出だ。


「母上、父上がおっしゃることは本当ですの」

フロレンティナの言葉に妻が頷く。

「えぇ。手の怪我も酷かったもの。スープをいれた木の椀なんて、熱くて持てないわ。爪も剥がれて傷だらけの指も曲げられなかったから、匙も持てなかったのよね」

コンスタンサがそっとライムンドの手を取る。

「きれいに治って本当に良かったわ。大地母神様のおかげやね」

あの頃と同じ、妻の皇国語が懐かしい。

『懐かしい』

ライムンドの言葉に、妻が微笑む。


「父上は、母上に食べさせてもらっていたのですか」

大きな声で驚いているハビエルの耳元に、ルシオがなにか囁いた。ルシオにいらぬことを吹き込まれたらしいハビエルの頬が、真っ赤に染まる。


『手を怪我していたからね。指が痛くて動かせなかったんだ』

「そんなに痛かったんですね。そうですか」

幼いハビエルは簡単に納得してくれた。ルシオの視線がどうにも突き刺さってくる。ルシオの年齢は、あの頃のライムンドとほぼ同じだ。言い訳は嘘ではないが、少々見破られているような気もする。


 あの頃は、包み込むようなコンスタンサの優しさが嬉しかったから、色々ちょっと甘えてみた。


 手の傷が治ったのは、子どもたちが生まれるよりも前、結婚するよりも、婚約するよりもはるか前だ。あの頃、今日のような未来など予想していなかった。色々あったが、今が幸せだ。


「父上」

ルシオの声に、ライムンドは回想から引き戻された。

「母上が命の恩人だというのは、本当のことだったのですね」

『本当だ』

ルシオの頬が赤い。

「両親の惚気話を聞くのがこれほど恥ずかしいものとは知りませんでした」

『聞いてきたのはお前たちだろうに』

勝手に恥ずかしがられても困る。話す方も恥ずかしかったのに。


「父上からお話いただいたのは初めてですもの。新鮮でしたわ。母上からのお話は、何度も聞いておりましたけれど」

微笑むフロレンティナが可愛らしい。嫁ぐ娘に父母の馴れ初めを聞かせて何になるのかわからないが、フロレンティナは満足しているからよいだろう。

『芝居とかわらないはずだが』

話すのが恥ずかしいから、芝居にするのを許可した。子どもたちの観劇も禁じなかった。結局は、家族全員の前で披露させられているのだから、意味がなかった気がする。

「芝居と、父上のお言葉は違います」

ハビエルが一人前の事を言う。ルシオがその横で頷いている。


 懐かしい思い出だ。辛い記憶もあるからあまり思い出したくはなかったが、口にしてよかったようにも思う。何より、話しただけなのにコンスタンサが喜んでくれたのが嬉しい。


「あねうえ」

ライムンドの膝の上から飛び降りたフィデリアを、フロレンティナが抱き上げた。

「あねうえ、だいすきです」

「えぇ、私も可愛いフィデリアが大好きよ」

抱き合う娘たちに息子たちが加わり妻も加わり、全員まとめてライムンドは抱きしめた。両腕をいっぱい伸ばしても届かない幸せがライムンドの胸を満たした。


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