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聞こえる  作者: 戸沢一平
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 その時、鹿山猪四郎かやまいのしろうは厩で掃除をしながら、陰険でこうるさい上役である三浦良富みうらよしとみの顔色を気にしていた。


 猪四郎は背丈が低いうえにカエルのようにのっぺりした顔立ちの典型的な醜男で、元服前で成長が止まったような自分の容姿について引け目を感じていた。他人が自分をどう見ているかも、態度には出すまいと努めていたが内心は過剰なほどに気にしている。


 その猪四郎に、周囲の同僚たちなどは陰でこそ噂しているのだろうが面と向かっては何も言わないものの、唯一、三浦だけは口が悪く、二人になった時には必ず嘲笑した。


 この日、庶務役組頭武藤義之助むとうよしのすけの指示で助役の三浦と二人で厩の掃除を担当していた。長雨で滞っていた外回りの掃除を、久々の晴れ間に手分けして一気にしようというのが、武藤の思い付きだった。


「組頭にも困ったものよ、何も急いで我らが掃除などする必要があるのか。こんなことは、日を改めて奉公人に任せておけば良いものよ。自分は言うだけで良いが、こき使われるこっちはいい迷惑だ」


 三浦は大柄なでっぷりした体を入口の柱にもたれかけ全く動かず、薄ら笑いを浮かべながら小柄な猪四郎の動きを目だけで追っている。猪四郎は、厩から馬を出して、土間に散らばった汚れた干し草を竹箒で掻き出していたが、チラリチラリと三浦の表情を見ながら、口撃の矛先が自分に向くのを警戒していた。先ほどからその気配は十分感じられた。


「長雨が止んだといっても、また降りだすかも知れんぞ」

 三浦はチラリと外を見たが直ぐに視線を猪四郎に戻した。

「まあ、それはそうと、お前、相変わらずだなぁ、大きくなるどころか、前よりも縮んでいないか」


 来たな、と猪四郎は身構えた。聞き慣れているとはいえ極度に不愉快になる前に、相手をせずに聞き流しながら、急いで掃除を終えるしかない。


「お前、こまい割に動きが鈍いなぁ。そういう貧弱な体の者はちょこまかしているものだぞ、普通は。ああ、まだ馬糞が残っているだろう。違う、そっちだ。もたもたするな。日が暮れるぞ」


 厩の地面の汚れ具合を見ながら気を散らして、どうにかして聞くまいとしても、耳にこびりつく三浦の一言一言に、猪四郎の手はつい止まりがちだ。


「こうして見ると、まるでガキの体だな。一人前に飯は食っているだろう。食ったものは何処に溜まっているのだ。クソで出てしまうのかぁ」


 猪四郎も、もう嫁をもらっても良い年齢である。人並み以上に女にも興味を持っていた。年頃の女達が自分をどう見ているかはおおよそ想像出来た。従って、彼女らの噂にのぼる男らへの嫉妬心も半端では無い。こうした決して癒されることのない傷に塩を塗られるような言葉には、つい我慢が出来なくなることもあった。


「顔も貧相そのものだし。知らない者が見たら、何で子供がここで馬の世話をしているのかと思うだろうよ」

 猪四郎はたまらず手を止めて三浦を睨んだ。

「これらを掃き出しますゆえ、そこを退いていただけませんか」


 三浦がのっそりと動きだしたが、退き切らないうちに、猪四郎は勢いをつけて汚れた草を三浦に目掛けて掃き出した。

「うわ、馬糞がかかったでは無いか。気をつけろ、馬鹿野郎」


 猪四郎としては溜飲を下げるつもりだったが、三浦が着物に付いた汚れた草を払い除けている様子を見ていると、湧き上がって来たのは虚しさだった。結局、このような憂さ晴らしをしても、女にもてるほど背丈が伸びて容姿端麗になることは無いのだ。


「申し訳ございません、手が滑ったようで」

 猪四郎が力なく頭を下げた、と同時だった。


 地を這うような不気味な雷鳴が響いたのだ。


 三浦が腰を落とした身構える格好で空を見上げた。

「あぁ、ほらほら、言わないことじゃない。雲行きがどうもおかしいぞ。一雨来るかもしれない。しょうがない、もう終われ。早く馬を入れて引き上げようぜ」


 猪四郎も厩を出て周囲の空を見回した。黒い雲が西にそびえる葉山をすっぽりと覆っている。その中で稲妻が光った。


 猪四郎は慌てて厩の周囲にいた馬十数頭の手綱を引きながら一頭ずつ厩に入れた。雷鳴がまた響いた。

「せっかく長雨が止んだと思ったのにこれだ。あぁ、ほぅらもうすぐ来るぞ、急げ。どうだ、皆入れたか」


 猪四郎は馬の数を数えたが一頭足りない。

「星雲号がいない」


 バリバリという凄まじい音が地面を揺らした。

「あの老馬めぇ、面倒をかけやがって」

「探してきます」

「ああ、老馬とはいえ先代の愛馬だったからなぁ、さすがに放ってはおけまい」

「星雲号は岩沼周辺によく行きますのであの辺を見てきます」

「頼んだぞ、俺は先に帰っているから」


 三浦が駆け足で去っていくと、一気に暗くなった草原に雨が落ちてきた。猪四郎は小さな体を転がすように岩沼に向かった。沼は厩から半里ほど南の平地林にあり、澄んでいることで底に大きな岩が見えることからこう呼ばれている。


「星雲号、星雲号、何処だ。頼むから出てきてくれ」


 雨足が早くなった。大粒の雨が猪四郎の体を容赦無く叩いてくる。稲光が二度三度と暗い空を照らし、その度に雷鳴が響きわたる。やがて、沼の水に降り注ぐ豪雨の音が聞こえて来た。見ると、木の影に隠れるように馬の黒い姿があった。猪四郎は安堵した。息を整えながら星雲号に近づいた。


「星雲号、さあ帰るぞ。こんなに雨に濡れてしまって、厩で体を拭いてやるからな」


 猪四郎は星雲号の首を数回撫でて、手綱に手を掛けて引いた。しかし星雲号は動こうとしない。雨は容赦無く猪四郎と星雲号を叩いている。


「大丈夫だ、安心しろ。俺と一緒に帰ろう、さあ」


 猪四郎は手綱を強く引いた。すると星雲号が後退りして抵抗した。いつもと様子が違う。雷雨に怯えているのだろうが、ここは何としてでも連れて帰らねばならない。力任せに綱を引いた瞬間に、馬が前足を大きくあげた。


「ウワッ」


 その前足が猪四郎の頭を直撃した。


 どれほどの時刻が経過したのか。


 気付くと、仰向けに寝ていて、頭がズキズキしている。顔に落ちてくる雨は無く、既に止んでいる。眼を開けると目の前に馬の顔があった。


「おい、勘弁してくれよ」


 痛む頭に手を当てながらゆっくりと起き上がると、星雲号が猪四郎の顔をペロペロと舐めた。

「わかった、わかった。もう雨も止んだことだ。皆が心配しているだろうから、さあ厩に帰ろう」


 星雲号がサッと後退りしてブヒヒと鳴いた。


「・・それはならぬ・・厩の裏山が崩れてくる・・」


 猪四郎はハッとして周囲を見回した。確かに人の声がしたのだ。耳に入って来たのは馬の鳴き声だったが、心に届いたのは人の声だった。無論、周囲に人は居なかった。であれば、気のせいかも知れない。また、星雲号がブヒヒと鳴いた。


「・・長雨で裏山はゆるくなっている・・」


 猪四郎は背筋を伸ばして、緊張しながら星雲号の顔を注視した。にわかには信じ難いことだが、心に届いたのは星雲号が発した言葉なのかも知れないと思った。つまり、馬が人の言葉を話しているのか。


「お、お前・・人の言葉が話せるのか」


 星雲号がブヒヒと鳴きながら横を向いた。


「・・早く厩の仲間を外に出してくれ、このままでは、皆死んでしまう・・」


 馬が喋るというほどに突拍子もないことでは無いが、裏山が崩れるということも有り得ない話だった。自然災害とは無縁のこの藩においては誰もが考えさせしないだろう。猪四郎もまさかという思いが強かった。星雲号が首を振った。


「・・信じていないようだな。人は鈍感過ぎるから気付かないが、鳥や獣はもう逃げ出す準備をしている。奴らが逃げた時では遅い・・」

「しかし、山が崩れるなど、この国では聞いたことがない」

「・・人はそうやって頭で考え、思考に頼りすぎるから感性が衰えるのだ。自然相手に理屈では対応出来ない。もっと己の感覚に頼り感性を磨け。我らのように・・」


 これが高名な識者の言葉であれば素直に信じていたのだろうが、馬が言っているのだ。その前に、馬が言葉を話すというこの状況をどう理解して良いのやら。猪四郎はこの現実を受け入れることが出来ず、堪らず頭を手で押さえた。


 星雲号が大きく首を上下に振った。

「・・またそうやって考えようとする。もう時間がない。仲間を助けてくれ・・」


 これを素直に信じたら、それこそ御伽話に夢中になる子供だと思った。


 しかし、仮に本当に裏山が崩れたら、位置関係からして厩は押し潰されるだろう。その場合には馬は皆死んでしまうに違いない。知っていながら何もしなかったとなれば、それこそ一生後悔するだろう。何事も起こらなかったら、いつものように嘲笑されるだけで済む。猪四郎は覚悟を決めた。


「わかった。お前の言う事を信じた訳ではないが、とにかく馬達は逃す」

「・・理屈はよい。早く行け・・」


 猪四郎は星雲号を残して急ぎ厩に向かった。


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