1-3
なんとか遅刻ギリギリに校舎の中へ滑り込む事に成功すると、梨璃子は走ったせいで切れた息を整えながら教室へと向かった。乱れた髪はあまり気にならなかったが、適当に手で撫で付けながら歩く足を速める。
(それにしても、さっきのあれ、なんだったのかしら?)
どうやら本物の王子らしいことですっかり有耶無耶にしてしまったが、王子だろうとなんだろうと紫蘭は梨璃子の部屋に侵入していた不審者なのだ。特に危害を加えられるようなことがなかったせいで半ば許してしまったかのようになってしまったな、と梨璃子は自省に唇を噛む。そもそもあの男は何の為に忍び込んでいたのだろうか? と原点に戻ると、梨璃子の脳裏に呆れた紫蘭の発言が甦った。
(……ゲームのパートナーって、何のことよ)
結局肝心なことは一切聞かないままだった為なぜ紫蘭たちが梨璃子の部屋に侵入までしてそれを告げようとしたのかは分からなかったが、もう二度と会うことはないだろうと頭の隅へ追いやった。
「もう忘れよう」
(そんなことよりも、私には大事なことがあるんだし……)
梨璃子は気持ちを切り替えるように頭を振ると、歩く速度を上げる。
(もう、私にはここしかないんだから)
強い決意を示すように、梨璃子は噛みしめるように胸中でそう呟いた。
梨璃子達が住むイラプセル王国に住む住人は、大きく二つの人種に分かれていた。
一つは、能力という特殊能力を持つ能力保持者。かつては自力で行っていた簡単な基本作業は、今では能力と呼ばれる力を使うことにより不自由なく行えるようになっていた。例えば、重い荷物などは手で持ち上げることなく、能力によって軽々と運ぶことが出来る。昔は魔法とか超能力とか呼ばれていた、イラプセル王国の発展の過程で手に入れたと言われているそれは、神に選ばれし民に与えられた贈り物である、そういう意味も込めて能力と呼ばれている。今では国民のほとんどがこれに当たる為、もはや特殊と呼ぶ方が違和感を覚えるほどそれは国民の体に馴染んでいた。
能力はおよそ十五の年になるまでに開花するのが普通であり、それが開花することにより、自分が能力保持者であると知ることが出来た。また、中には固有の能力を持つ者がいることも確認されているが、それは稀であるとも言われている。
もう一つは、非能力保持者と呼ばれる、いわゆる能力を持たない者達だ。進化の結果能力を手に入れたイラプセル王国において、彼らは能力を持つ前の旧世代の生き残りだとも言われている。能力を持たない為全てのことは手作業で行うしかないのだが、その為か手先の器用な者が多く、昔から伝わる伝統工芸品の細工師等、能力では賄えないような繊細な手仕事を仕事にしている者や芸術に携わる者が多かった。能力が量産型の生産性であるとするならば、非能力保持者は専門型の希少性であった。例えば王族の正装などがまさにそれに当たる。だが、全てを手作業で行う為制作に時間がかかり、彼らはイラプセル王国において義務とされているだけの労働量を供給することが出来ない為、いつしかそれは罪を重ねているとされてしまった。その為現在では彼らは罪人と呼ばれ、その希少性や芸術性は一目を置かれるものの、限定された生活を余儀なくされている。
また、能力の開花は遺伝でも世襲でもなく個人の資質によっており、開花するまで誰が罪人になるかというのが分からないことから、非能力保持者は神に見捨てられた罪人である、という者達もいた。
「……」
梨璃子はAと書かれたプレートの掲げられたドアの前に立つと、扉に手をかけたまま深い溜息を一つ吐いた。落ちた視線の先に映るクリーム色にえんじのラインの入ったセーラー調の制服は見た目の可愛らしさだけであれば大層好ましく思えたが、だがこれこそが梨璃子の現在の立ち位置の象徴であり、憂鬱な気分の最たる原因でもあった。
(罪人候補生……)
梨璃子達が通うグリーンベル学園の生徒は、世間でそう呼ばれている。能力開花の目安時期である十五歳までの間に能力が開花せず、国の協力の下能力を探している者、というのがその意味だ。その言葉の意味通り、梨璃子も十五までの間に能力が開花せず、この学園に迎え入れられた一人だった。十六歳の誕生日当日に開けたドアの向こうにいた国からの使者にそのまま連れてこられ、開花しないままあっという間に一年近くが過ぎていた。本来一年の内で一番嬉しいはずのその日は、植え付けられたトラウマを思い起こす日になり、近づきつつあるその日を思うとただただ憂鬱な気分になるしかなかった。
(それに……)
猶予期間は最長二年と決められた学園生活の間に能力を開花できなかった場合は、今後一生開花の余地なし、とみなされ、問答無用で罪人として認定されるのだ。だから、梨璃子にとって罪人候補生と呼ばれることは、罪人に最も近い者である、と言われているようで、それは蔑称に近かった。
(そうよ。私には時間がないんだから、ゲームになんて付き合ってる暇なんてないのよ)
「……」
「お-い、スメラギ。始まるぞー、中入れー」
ドアの前で立ち尽くしていた梨璃子に担任の教師がそう声を掛けた。梨璃子ははっと意識を取り戻すと、すぐ横で顎で中に入るよう催促する教師に促されるまま、慌ててドアの向こうへとすり抜けた。
「席つけー」
梨璃子が教室の中へ入ると同時に、教師がそう言いながら教壇へ向かう。二十名弱ほどの生徒達はその声に促されるように各々の席へ戻ると、梨璃子もその動きに紛れて自分の席へ着席した。
「めっずらしーい。ギリギリだったねー」
くい、と梨璃子の制服の裾を後ろから引っ張って、友人の梓・ゴトウがそう言って笑った。
「……ちょっと色々あって」
梨璃子は梓に曖昧な笑みを返すと、今朝の出来事を思い出して、はあ、と大きな溜息を吐いた。
(もうあれは忘れるんだから)
「えー、今日は君たちに大事な連絡があります」
備え付けの机に両手を付いて少し前傾姿勢になりながら教師は教室中に一度ぐるりと視線を巡らすと、かしこまった声でそう言った。普段とは違い真剣な口調の教師に、ざわついていた教室内がしんとなる。妙な違和感に二十名程の生徒の瞳が一斉に教壇へと向けられると、梨璃子もそれに釣られるように教師へと視線を合わせた。
「えー、もしかしたらこの中にもう通知を貰っている者もいるかもしれないが、次期国王を決める為の試験を、君達にも手伝ってほしい、と今朝正式に王政府から学校へ通達が来た」
「!」
(それって……)
担任が告げた突拍子もない内容に、教室内が一斉にざわめき始めた。蘇芳様がいるのに次期国王ってどういうこと? と最もな疑問が飛び交う中、たった今忘れようとしていたどこかで聞いた事のある話に梨璃子はぴくりと瞼を上げると、気づかれない様に周囲の様子を伺う。
(まさか、あの紫蘭って王子様、このことを言おうとしてたの?……じゃあ、この中にも、今朝王族の誰かに出会った人がいるってこと?)
一部の者にはまるで既知の情報であるかの様な担任の口調に、もしかして同じ気持ちでこの話を聞いている者がいるのだろうか? と梨璃子は自分の席から見える、怪しいと思われない範囲へ視線を走らせた。
「……」
梨璃子は探るように注意深く視線を巡らせたが、ぱっと見る限りでは皆突然湧いた話題にただただ驚きを隠せないといった表情をしているだけで、事情を知っている者がいるかどうかを見極めることは出来なかった。
(やっぱり普通はあんな非常識なことしないわよね? でも、先生の口調だともう既にこのことを知ってる人がいるみたいな感じだったけど……)
「そうは言っても、学園に通う生徒全員という訳ではなく、次期王候補のパートナーとして選ばれた者だけだけどな」
「しつもーん。パートナーって、どうやって選ばれるんですかー?」
手中にある便箋に困惑気な表情を浮かべる教師の言葉を遮るように投げられた男子生徒の声に、教室中が好奇心の籠る瞳を男子生徒からまた教師へと戻す。
(そうよ。紫蘭って王子様が言ってたゲームがこれだとしたら、なんで私が選ばれたの?)
梨璃子の胸中を読み取ったような質問に梨璃子も注ぐ視線に力を籠めると、教師は大きな溜息を吐く。
「……さあ? わからんな。それについては何も言及されていないんだ。ただ、自薦も問わない、とあるから、我こそは、と思うものは参加してみるのも一興かもしれないな。君達の端末にもエントリーフォームが送られてるはずだ。後で確認してみてくれ」
教師の言葉に早速自分の端末を取り出して確認した者から、おおこれか、という声が漏れる。
(自薦って……誰がそんなバカなことするの? そうじゃなくてもそんなことやってる暇なんて私達にはないはずなのに)
梨璃子にとってみれば、誰が国のトップに立つかよりも、自分が罪人になるかならないかの方が比べようもない程重要だった。それなのに、次期国王を決める試験を手伝えなどと、そんな浮かれた話を聞かされても、どこか遠くのお祭りの話を聞かされているようで、まるで現実味がなかった。
(しかも、あの人試験じゃなくてゲームって言ってなかった? 王族にとってみれば、お祭りみたいなものなのかしら?)
「パートナーに選ばれた者は、王族の方々と共に試験に挑むことになる。くれぐれも粗相のないように。選ばれた生徒はその試験を最優先とし、その間もし休むことがあっても出席日数や授業は免除とする、というお達しが出ているから、まあ選ばれた者はくれぐれもそっちを優先でやってくれよ、っていう、そういう話だ。あ、選ばれてない奴は普段通りだからサボるなよー」
教師はそう言うとその話題はもう終わったと言わんばかりにそそくさと出席簿を取り出した。
(なんで先生もそっちを手伝えって言うのかしら? 私たちにはもっと重要なことがあるからここにいるのに……上からの命令だから?)
梨璃子が教師の態度に胸中で不満を漏らしていると、教室内がまた少しザワついた。何事かと視線を上げると、教室の真ん中最前列に座る背筋のぴんと伸びた男子生徒がすっと左手を挙げた姿に、教師が複雑な顔をして小さく息を吐いた。
「……なんだ? ウキョウ。もしかして、質問か?」
(ウキョウ君?……)
教師に名を呼ばれると、威・ウキョウはそれを承諾と取ったのか静かに挙げた手を下した。教師はなんとも言えない表情をしてもう一度溜息を吐いた。
「はい。質問があります。まず、自薦も問わない、ということは、そうでない場合もあるということでしょうか? それと、僕たちがそれに参加するメリットとデメリットはなんでしょううか?」
「!」
(メリット?)
ウキョウの質問に、教室内は更にザワつきが大きくなった。梨璃子も後半の言葉にパっと顔を上げる。教師は真剣な顔つきをして、口を開く。
「まず最初の質問な。そうだ。既に王政府から何名かの名前はリストで届いている。そこに名がある者は、今日中に直接王政府から連絡が行くそうだ」
「……」
教師の回答に、今までザワついていた教室内がしんと静まり返った。
(……じゃあやっぱり、今朝のあれがそうだったのかしら? だから私の名前を知ってたのね)
今朝の不可解な出来事が、教師の言葉でパズルのピースがはまっていくように梨璃子の中で腹落ちしていく。
(それにしても、王政府の仕事雑すぎじゃない? あんなの、話聞く気にならないし……って、もしかしてウキョウ君のところにも誰か来たの?)
教室中の生徒がそっと息を呑み誰もが隣の生徒を伺うように視線を巡らせる中、梨璃子はそっと視線をウキョウへと向ける。だが、艶のある黒いサラサラの髪の隙間から除く銀縁眼鏡の横顔は普段通り冷静で、そこからウキョウが何を考えているか読み取る事は出来なかった。
「メリットとデメリットなあ……」
教師が頭を掻きながら独り言のようにぽつりとそう言った。その言葉に、今までヒソヒソと教室中で上がっていた声が、ピタリと止んだ。教師は全生徒の視線を感じたのか、小さく息を吐いた。
「……これはあくまでも俺の憶測だ。全く根拠はない。今回の件、もちろんメインは王族の方々であったとしても、その方々と一緒に試験に参加し勝利した者に、さすがになにもないとは考え辛いと思っている。何か恩賞があるかもしれん、とな。辛辣な言い方になるが、君達もここに来て短くない時間を過ごしているが、未だ能力が開花していない。そのまま過ごして期間終了を迎えるなら、この機会を活かしてもいいんじゃないかと、そう思ったんだよ」
教師はそう言って視線をぐるりと室内へ巡らせた。ウキョウはそれに対して特に意見を述べることもなく、また教室内でヒソヒソと囁く声が聞こえ始めた。
「……」
(残された時間で、能力が開花しなかったら……)
教師の言葉は、梨璃子の胸にズシリと深く突き刺さった。二年しか猶予のない時間のおよそ一年を結果から言えば無駄に過ごしてしまっていた、というのは、考えないようにしているだけでいつも梨璃子の胸の奥底にある不安だ。この先一年で開花する確約などあるはずもなく、だとすれば突然発生したイレギュラー事項に乗っかってみろと提案する教師の言葉は、一見無責任にも聞こえるが、ある意味合理的とも取れた。
(でも、だからって突然降って湧いた話に飛びつけって、そんなの、無責任すぎない? じゃあ私たちが今までここでやってきたことって何になるのよっ……)
梨璃子は苦々し気に唇を噛む。能力の開花の援助をしてきた教師であるならば、そんなことよりも堅実に目の前のことに取り組むべきだ、と言ってほしかった。
(でも、色々わかってる先生がそう言うってことは、もしかしたら、本当に、何か恩賞があるかもしれないの?)
梨璃子は自分の中に生まれたご都合主義の考えに戸惑いを感じながらも、真意を問うように教師を見た。だが教師はザワつく教室内をいつものように見守っているだけで、その表情で何かを語ることも、追加情報を告げる事もなかった。梨璃子はしばらく教師の顔を眺めていたが、ふいと視線を外して思考に潜る。
(私は多分、選ばれてる。ううん、多分じゃなくて絶対。だって、本物の王子様が私の前に現れたんだもの。じゃあ……)
梨璃子は脳裏に浮かんだ考えに、わずかに緊張して小さく深呼吸をした。
(あの人が王様になったら、私を罪人にしないことも、簡単にできるかもしれないってこと?)
「……」
王の権利がどんなものかは知らないが、国で一番の権力者であればそんなことも可能かもしれない。梨璃子は今自分の脳内に浮かんだ、とてもご都合主義な“罪人にならない方法”を言葉にすると、自分の心臓が早鐘を打ち始めたのが分かった。高揚してくる気持ちを悟られないように顔を伏せると、無関心を装うことに努める。
(能力保持者になるのを諦めたわけじゃないけど……でも、勝ったら、もし万が一開花しなかったらどうしようって、考えなくてもよくなるの?)
それは、政府関係者が迎えに来た十六の誕生日からずっと梨璃子に付きまとっている不安だ。後一年。十八の誕生日までに能力が開花しなかったら、梨璃子は罪人になってしまう。
「……」
気が付くと、教室内が奇妙な静寂に包まれていた。先ほどまで隣の生徒と何かを話していた者も、今では手に端末機を握りしめ教師を見つめていた。
「……まあ、突然のことで良くわからんだろうけど、少しは考えてみてくれ。相談に乗れるかどうかは分からんが、必要なら端末に連絡をくれ。誰もが選ばれるわけじゃないが、俺はこれをチャンスだって考えるのも、悪くないんじゃないかって思ってるよ……じゃあ今度こそこの話はここまで。出席取るぞー……」
それから教師はその他の連絡事項を話していたが、梨璃子の耳には何も入ってこなかった。