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1-2

 ああ、息が出来ない。苦しい。苦しい。助けて。 

 暗闇の中梨璃子は手を伸ばすが、それは空しく空中を彷徨った。真っ暗な水の中、自分の口から漏れる水泡の小さな泡だけが、視線の先に銀色に煌めいて見えた。

(?! 苦しい、ほんとにっ、息が、出来ないっ……!!)

「!!」

 梨璃子ははっと目を覚ますと、視線の先の見慣れた天井に、今見たのがやはり一年前の忘れられない出来事の夢だったと知る。未だ心に傷として残る誕生日に迎えた衝撃に小さく息を吐こうとして、梨璃子はまだ息苦しさが拭えぬわが身に違和感を覚える。

(なんで?……て、手っ?!)

「!!」

 夢見の悪さに夢と現実の区別がつき辛く気づくのが遅れたが、誰かの手が、梨璃子の口を塞いでいた。目覚めたばかりで真っ暗な部屋の中、自分の顔の半分をすっぽりと覆う手の先にいる人物を見ることも叶わず、だが、明らかに男のものだと思われる骨ばった指の感触に、梨璃子の背筋にぞくりと恐怖が走った。息を吸うべきか吐くべきかすら分からぬまま突如生まれた緊張に、全身の毛穴がぶわりと開いたような錯覚を覚える。その何とも言えない感触に、まだ寝起きでままならなかった梨璃子の脳が一気に覚醒する。

(なにっ?! 誰っ?! 泥棒っっ?! でも、なんでこんな学生寮に?!)

 急速に働き始めた思考を合図に、心臓が尋常でないくらい激しい鼓動を全身に響き渡らせた。梨璃子の耳が痛くなるほど響くそれが相手に聞こえてしまわないようにと、恐怖に動顛する脳を必死に働かせていると、

罪人(ツミビト)って、見た目は別に変わんないんだ」

 という誰かに話しかける若い男の呑気な声がふいに耳に飛び込んできた。

(!! そんなの当たり前だしっ、ていうか、罪人じゃないからっ!!)

 男の無神経な発言に、カっと体が熱くなった。梨璃子はその瞬間恐怖も忘れて反射的に胸中で反論すると、

「あ。起きた」

 と、上から降ってきた男の声に、梨璃子は瑠璃色の瞳を思わずぱちりと見開いて固まった。

(え?)

 緊張感の欠片もない男の声に梨璃子の思考が停止すると、次の瞬間、その頬にひんやりとした空気が触れた。男の手が離れたことを認識すると、反射的に、梨璃子の口から、はあっと息が漏れた。その瞬間、にゃあ、と猫の鳴き声が耳元で聞こえ、梨璃子は反射的に視線だけそちらの方へやると、暗闇の中、枕元に浮かぶ水色の二つの瞳が梨々子を真っ直ぐに見ていた。

(猫っ?! なんでいるのっ?! て、あ、今ならっ……)

「だっ…………!!」

「……ねえ。叫ぶとかマジでやめてくれない? 別になんにもしないから」

 まとまらない思考の中閃いた考えに、自由になった口でとにかく助けを呼ぼうと梨璃子が言葉にならない声を発しようとした瞬間、少し苛立ちを含んだ声の主の手によって梨璃子の口はまたあっさりと塞がれてしまった。

(本当に何もしない人はそんなこと言わないでしょっ?!)

「ほら。だから口塞いでて正解だっただろ?」

 男はまた誰かに話しかけているように得意げな様子で独り言を吐いた。見えないだけでまだ他に人がいるのか? という新たな不安に、梨璃子は納得がいかないにしても逆らう気など起きず、男の言葉に承諾を示すようにコクコクと首を縦に振った。すると枕元にいた猫の水色の瞳が梨璃子の瞳を確認するように覗き込み、数秒の後、にゃあ、と一鳴きして男がいる方へと踵を返した。

「ふーん。わかった。じゃあ、ほんとに大声あげないでよ」

 男はまるで猫に対して相槌を返すようにそう言うと、意外にも梨璃子の口を塞いでいた手をあっさりと放した。

(あ)

 梨璃子はふっと自分の顔に触れた空気の冷たさに、はあっ、と大きく息を吐き出すと、また男の手に自由を奪われない内にと慌てて後ろ手に起き上がり壁の方へと身を寄せた。男がベッド脇に座っていたせいでシーツを引っ張ることが出来ず寝間着が露わになってしまうことに抵抗はあったが、背に腹は代えられないと、震える手で後ろずさった。少しでも男と距離を取る為に立てた膝を更に胸に引き寄せると、枕元をまさぐり掴んだリモコンで部屋の照明を点ける。

「!!」

(……え?)

 パっと部屋の照明が点くと、男は眩しそうに顔をしかめて直射を避けるように頭を振った。その度に揺れる金色の猫毛が想像していた強盗とはあまりにもかけ離れた姿で、梨璃子は思わずそれに見入ってしまった。

(光に反射して、キラキラしてる……綺麗……)

「……」

(……って! そんなこと考えてる場合じゃなくってっ!!)

 梨璃子はうっかり見惚れてしまった自分を叱責するように数回大きく頭を横に振ると、改めて視界の中に現れた男の姿をまじまじと見る。

(なんか、想像してた不審者と違うんだけど……)

 触れていた指の感じから小太りの男を想像していた訳ではなかったが、まさかこんな物語の中から出てきた王子のような風貌の男がいるとも思ってはいなかった。男の見事な金髪と鼻筋の通った横顔に梨璃子は思わず置かれた状況を忘れ男の姿を凝視すると、

(わざわざこんな所に忍び込まなくても何にも不自由してなさそうなのに)

 と、なんでこんなことをしているのかわからない目の前の得体の知れない男に少しだけ憐れむような視線を向けた。

(……って、見た目が良くても不審者には変わりないんだからっ!!)

「……ねえ、いきなり電気つけたら眩しいんだけど」

「……え?」

 男はまだ光に慣れないのかパチパチと何度か瞬くと、少しムっとしたような声音と共に長い睫毛を揺らした。それだけでも絵になる男の仕草に梨璃子が反論を忘れ思わずその仕草に目を留めると、不満そうな紫紺の瞳が梨璃子へと向く。梨璃子はその瞳にはっとし王を取り戻すと、今思ったことを取り消すように小さく頭を振った。

(……なに? なんで人の部屋に不法侵入しといて偉そうなの?……それに、よく見るとすごい恰好してるし……でも、この格好って、どこかで……?)

 正面から初めて捉えた男の容貌は確かに目を奪われるほど見目麗しい容姿であったが、それよりも自分の行いを棚に上げた態度の悪さに梨璃子はムっとして眉根を寄せる。おまけに、不法侵入という常識を逸脱した行為をしているにも拘らず、男は闇に隠れるどころか注目しろと言わんばかりの恰好をしていることに驚きを通り越して若干呆れてしまった。男はまるで王家の正装である軍服を模した濃紺の礼服のようなものを身に着けており、そのミスマッチさに先程まで感じていた恐怖や緊張よりも、胡散臭さに意識を持っていかれてしまった。

(コスプレの不審者とか、意味わかんないんだけど……)

 当初とは別の不安を感じ梨璃子が疑心を抱き警戒した瞳のまま壁に寄せた身を更に腕の中に抱き込むように足を引き寄せると、男がその様子になぜか不思議そうに首を傾げた。

「? なんでそんなに離れるわけ? 俺あんまり大声出したくないんだけど」

「え? な、なんでって、自分の部屋にいきなり知らない人がいたら、普通、離れる、でしょ?」

「……」

「?」

(え? なんでそこで不思議そうな顔して止まるの? 私、間違ったこと言ってなくない?)

 梨璃子が訝しげに男を見ると、男の傍にいた黒猫が促すようににゃあと鳴いた。

「……あ、知らない人って俺のことか。まあ、確かに極力表に出ないようにしてたから知らないってのは確かに正解かもしれないけど。でも、なんか面と向かって言われるとちょっと傷つく」

「……え?」

(この人、もしかして有名な不審者なの? 確かに、こんな人が不法侵入してたら目立つだろうけど……でも、そんな人のことなんて知らないし……)

 はあ、と男が溜息を吐いて肩を竦める姿に梨璃子が更に眉間に皺を寄せると、男の紫水晶の瞳がパっと梨璃子を捉えた。

「!」

「ねえ、あんた、梨璃子・スメラギでしょ?」

「え……」

 不審者の口から突然自分の名前が飛び出し、梨璃子ははっと目を留める。

(なに? たまたま忍び込んだんじゃなくて、私の部屋だってわかってたってこと?)

 梨璃子の名前を知っているということはそういうことだ。突き付けられた事実の恐怖に、梨璃子はひゅっと息を呑んだ。男の全てが典型的な強盗と違う為うっかり意識の外に追い払われていたが、知らない男が部屋にいるという事実は何も変わっていないのだ。そのことを瞬時に思い出し、目覚めた時に感じた緊張感がまだ梨璃子を襲う。連動して呼吸と鼓動がの感覚が小刻みになる。

(どうしよう? どうやってここから逃げたらいいの?!)

 どうして? という疑問よりも先に本能によって無意識に動いた梨璃子の右足が、空しくシーツの上をかいた。つるりと滑ったその感覚に梨璃子が絶望にその瞳を染めると、にゃあ、といつのまにか傍に来ていた黒猫が梨璃子の左手にすりと頭を擦り付け、梨璃子はびくりと大きく体を反応させた。その反動で動いた左手が意図せず黒猫の顔をはたいてしまい、にゃ、とくぐもった声がその場に響いた。

「あ。ごめんねっ?!」

 梨璃子は反射的に黒猫に左手を伸ばすと、はたいてしまった顔をそっと撫でた。黒猫は逃げることなく大丈夫だと言わんばかりに梨璃子の手に頭を擦り付けると、梨璃子がほっと息を吐いたのを確認し、水色の瞳を男の方へと向けた。

「あー……えっと、入り口のネームプレートに書いてあったし、他にも色んなものに書いてあったし。ほら、これとか」

 男はそう言うとぴらっと手にしていたカードを梨璃子に向け差し出した。

「それっ、私の学生証っ!!」

 梨璃子は男の手中にある自分の学生証を奪い返そうと瞬時にそれに向け手を伸ばす。釣られて動いた体がベッドの上を男に近づくように動くと、ぐっと距離が縮まってしまった。顔の横だけ顎のラインで切りそろえた梨璃子の灰褐色の髪が、はらりと頬を撫でる。

(しまったっ! なんで自分から近づいていくのよーっ!!)

 だがもう後に引くわけにもいかず梨璃子が伸ばした指先で学生証を掴むと、だがそのまま抜き取れるはずの学生証はびくとも動かなかった。

「……」

(……どうしよう)

 猫に気を取られて自ら男の下へ飛び込むような形になってしまったことに梨璃子はぶわっと体中から汗が噴き出るような緊張を感じた。再度煩く弾み始めた心臓の音を痛い程感じながら、梨璃子はゆっくりと視線を上げる。美人の真顔は怖いとよく言うが、じっと自分を見つめる紫紺の瞳の得体が知れず、梨璃子はその姿勢のまま動けなくなってしまった。

「……」

「にゃあ」

 梨璃子の極限の緊張を察しでもしたかのように、黒猫がこの緊張を破る一鳴きを発した。気づくといつの間にか男の肩に上り、まるで抗議するかのように男に向け更ににゃあにゃあと鳴いている。

「……だから別に俺だって怖がらせたかったわけじゃないって。まあ確かに説明不足なのはそうかもだけどさ。でも俺だって巻き込まれてるんだし、上手くいかなかくったって俺のせいじゃなくない? って、わかったって!」

「……?」

 男は誰かに語り掛けるように言い訳の言葉を並べ鬱陶しそうに小さく息を吐いた。パっと紫紺の瞳が梨璃子の方へ向けられたと同時に、男の指から力が抜け、学生所は梨璃子の下へと戻ってきた。梨璃子は男から視線を外さないまま、ぎゅっとそれを胸に抱き込んだ。

「あんた、梨璃子・スメラギでしょ? わかってて来たから、違うって言われても信じないけど」

「……」

 男はそう言って真剣な眼差しを梨璃子へ向けた。どうして梨璃子の名前を知っているのか、なぜ起きたら知らない男が部屋にいるのか、その謎も恐怖も全く解けていないが、だが、この状況には不思議なことに、確かに男からは梨璃子に危害を加えようという気配は感じなかった。梨璃子が答えるべきかどうか考えあぐねていると、男の傍らにいる黒猫の水色の瞳がじっと梨璃子をみつめていて、梨璃子はそれに唇を噛んだ。

「……梨璃子・スメラギだけど、だったら、何?」

 しばしの沈黙の後、梨璃子は観念して口を開いた。男は投げた言葉をそのままに、それ以上梨璃子にしつこく問うこともしなかったが、梨璃子が答えないとベッドから動きそうもなかった様子に梨璃子のしびれが切れたのだ。梨璃子の声に男が紫紺の瞳をパっと梨璃子へと向けたので、梨璃子は思わず息を呑んだ。

「じゃあ、やっぱりあんたが俺のパートナーなんだ」

「……」

(パートナー?)

 無感情な男の声が静かな室内に響く。男は自分で確認したくせにその事実になぜか傷ついたような表情をしてみせたのが解せなかった。だが想像もしていなかった言葉の出現に梨璃子はぽかんとした表情で小首を傾げた。

「………………って何のっ?!」

 男の言葉に全く理解が及ばず梨璃子は思わず大声を上げてしまった。はっと気づいた時には時すでに遅く、両手で自分の口を塞いだころには紫水晶と藍玉の瞳がじっと梨璃子を見ていた。

「ゲームだって」

 男が呆れたように肩を竦めると、黒猫が肯定するようににゃあと短く鳴いた。

「え? 何言ってるの? ゲームって、何?」

(なんかわけわかんないこと言い出したんだけど……)

 先程とは別の恐怖に梨璃子の表情が曇っていくことに気づきもせず、男は溜息を吐きながら口を開く。

「そんなの俺が聞きたいよ。ていうか、俺だって全然納得してないし」

「……納得してないんだったら、やらなければいいんじゃないの? その、ゲーム?」

(こういう人って、逆撫でないようにした方がいいのよね?)

 見た目より幼い口調で愚痴り始めた男に合わせるように梨璃子がそう言うと、男はなぜだか馬鹿にしたような視線をこちらに向けた。 

(え? なんで私がそんな顔されなきゃいけないの?)

「あんたは蘇芳のこと知らないからそんなこと言えるんだ。俺だってやらなくていいなら最初からそうしてるし。他の兄弟姉妹が言い出したならそもそもこんなとこに来てない」

「こんなとこってっ……」

(自分で勝手に不法侵入しといて何様のつもりよっ)

 ベッドに腰掛けたまま長い足を組み替えて男は肩を竦めて見せた。梨璃子はその態度に恐怖を忘れて怒りを覚えたが、叫び散らさずにぐっと喉奥に飲み込んだ。

(ていうか、蘇芳って誰よ。あなたの知り合いのことなんて知ってるわけないじゃない。じゃあ文句あるならその人のとこに行けばいいでしょっ?! なんか正装みたいな恰好して勝手に人の部屋にあがりこんでおいて、よくもそんな勝手なことが言えるわよねっ!……て、正装?)

 梨璃子は自分で投げたその言葉にはたと意識を止めた。組んだ足の上に肘を立てて頬杖をつきふてくされたように唇を曲げている男の服装をまじまじと見る。

(そうだ。さっき、どこかで見たことあるような気がしたのよね。そっか、王族の正装みたいなんだ……)

「って、蘇芳って蘇芳様のことっ?!」

(いやでもそんなことあるわけないしっ!!)

 反射的に口から出てしまった言葉を慌てて回収するように梨璃子はまた両手で口を覆うと、男がくるりと梨璃子の方へと顔をやった。なぜかその顔には、やれやれ、と書いてあるように見えた。

「さっきから言ってるじゃん」

「言ってないけどっ?!」

「ん? そうだっけ? まあどっちでもいいや。そう。蘇芳がゲームするって言いだして、あんたが俺のパートナーなんだって」

 思わず突っ込んでしまった梨璃子に男は淡々とそう告げると、頬杖をついたまま小さく頷いた。その度に揺れるゆるく癖のついた金髪を眺めながら、梨璃子は受け止めきれない困惑に首をぶんぶんと横に振った。

(ダメっ! 全然意味わかんないっ! この人が言ってることの意味が一ミリもわかんないっ!! 蘇芳様がゲームするっていうのも、何の? だし、それでパートナーが自分って言われてはいそうですかってなるっ?! ならないでしょっ!! 正装っぽい衣装来てるからって私が勝手に結び付けただけだけど、そもそも不法侵入者と国王代理の蘇芳様が結びつくわけなんてないものっ!! 絶対、ヤバイ人に決まってる!!)

「……無理」

「は?」

 あっという間に許容量を超えてしまった内容に梨璃子の口から無意識に言葉が零れると、その拒絶ともとれる言葉に男の声がさっきより一音下がった。だが今の梨璃子にはそんなことを気にしている余裕もなく、ふるふると首を横に振りながら口を開いた。

「言ってること全然意味わかんないし、突然蘇芳様の名前を出すしっ、そんなのっ、人の部屋に勝手に入っていい理由にならないしっ!! そうだ、だ、誰か、早く人を呼ばなきゃっ!!」

「あ。あー、レンっ、どうにかしてっ!!」

 理解の限界を超え思考を放棄した梨璃子が本日どの瞬間よりも素早く動きベッドからドアへ向かって駆け出すと、男が焦って誰かを呼ぶ声が聞こえた。

(また知らない名前っ‼ やっぱり仲間がまだいたのねっ!!)

 だったら尚更この部屋から早く逃げ出して助けを呼ばなくては、と梨璃子は必死の思いであと数歩で到達するドアノブへと手を伸ばす。

(やった、逃げられるっ‼)

「主人の非礼をお詫びいたします。申し訳ございませんでした、梨璃子様」

(え?)

 結論から言うと、梨璃子が伸ばした右手は外界へと通じるドアノブを掴むことはなかった。代わりに、どこから現れたのか分からない水色の瞳の執事服を着た美しい眼鏡の男にそれはかすめ取られ、あまつさえその指先にキスを落とされた。

「……」

(なに?)

 今自分の身に何が起きたのか分からず、梨璃子がゆっくりと視線を自分の指先へと落とすと、

「あー! おまえなー、ややこしくなるようなことすんなよ」

 と、男がげんなりしたような声を上げた。

「別にややこしいことなんてしていません。挨拶ですよ。それに、どうにかしてくれと頼んだのはあなたじゃないですか。こうして梨璃子様を足止めした私に何か言うことはないんですか?」

「それは……ありがとう。助かった」

「いえいえ。あなたのお役に立てて何よりです」

 男にレンと呼ばれた執事服の男は満足気に微笑むと、胸に手をあて男へ向け小さく頭を下げた。

(なに、これ……)

 梨璃子が目の前で起こることをぽかんと見ていると、レンと呼ばれた男がくるりと梨璃子に向き直った。

「あ、あなた、どこから現れたの?」

 未だ握られたままの右手に視線を落とし、梨璃子はそれをゆっくりと上げレンと呼ばれた男へと焦点を合わせた。目の前の男はそれを受けると一度弾けるように瞬きをし、その頬に綺麗は笑みを浮かべてみせた。

「これは失礼いたしました。ご挨拶が遅れて申し訳ございません。私、紫蘭様のお世話係をしておりますレンブラントと申します」

(レンブラントでレンなんだ……って、そうじゃなくてっ!)

「あの、だから、どこから……?」

 ここはそんなにもセキュリティが甘かったのだろうか? と梨璃子は今まで考えたこともなかった問題に頭を抱えながら、部屋に突然現れたもう一人の不審者にもう一度問う。レンブラントは少しも動じることなくにこりと笑みを返す。

「先程からずっといましたよ」

「え?」

(ずっと、いた?)

 顔いっぱいに疑問を浮かべている梨璃子に構うことなくレンことレンブラントはまだ繋いだままだった梨璃子の手を引いてベッドに座っている男の下へと導くと、

「そしてこちらが、イラプセル王国第十三王子、紫蘭・クジョウ様です」

 と、事も無げにそう言ってのけた。

「…………おうじ?」

「はい。王子です」

 満面の笑みでそう告げたレンブラントに、ベッドに座る男、紫蘭は特に慌てる様子もなくその言葉を享受していた。梨璃子は一度じっと紫蘭を見つめた後、ゆっくりとレンブラントへと視線を戻す。

(王子って、どういうこと?)

「……無理っ! ほんと無理っ!! 私が聞いたのそんなことじゃないしっ、王子とか意味わかんないっ!! だからっ、なんで、あんたはっ、どこからっ……」

 梨璃子はパニックになった勢いのまま掴まれた手を振りほどこうと右手を大きく振ったが、レンブラントの長い指がそれを許すことはなかった。逆にしっかりと握りこまれてしまい、梨璃子はひっと息を呑んだ。

「梨璃子様。大変申し訳ございません。女性を怖がらせることは私の本意ではないのですが、私の主の出来が悪いもので、あなたに不安ばかり抱かせることになってしまいましたこと、お詫び申し上げます」

「おい。俺の悪口を混ぜるな!」

「……あなたがもっと上手くご説明することができたらこんな顔をさせるハメにはならなかったはずですよ」

 レンブラントが小さく肩を竦めると、紫蘭が何かを言いかけてすぐにその口を噤んだ。

「色々と順番がおかしくなってしまい申し訳ございません。ええと、まずは質問にお答えしましょうか。私は最初からずっとこの部屋におりました。この瞳に見覚えはございませんか?」

 レンブラントに圧倒されていた梨璃子に良く見えるようにか、レンブラントは背をかがめて自分の瞳が良く見えるように梨璃子に向き直った。強制的にレンブラントの瞳を見させられっるような形になったが逃げることも叶わず、梨璃子は言われるがままにその瞳を見返した。透き通るようなとても美しい、水色の瞳だ。

「水色の瞳……って、あの黒猫と同じ……って、まさか?!」

 梨璃子は弾かれるように視線を部屋中に投げた。先程まで紫蘭にまとわりつくようにしていた黒猫の姿はどこにもなく、一周回った視線をレンブラントへ戻すと、水色の瞳が梨璃子の思考を肯定するようにそれを受け入れた。

「嘘……」

「嘘ではございませんよ。先程の黒猫は私です。そして、私の存在こそが紫蘭様が王子という証拠となります」

「!」

(人の獣化……)

 レンブラントの言葉の意味に気づき梨璃子が弾かれるようにレンブラントを見上げると、肯定を示すようにレンブラントはにっこりと笑ってみせた。

「人の獣化なんて、本当にできるのね」

 人の獣化は王族だけが持つとされている固有の能力だ。そう伝えられてはいるものの、王族に会う機会など普通に暮らしているだけではあるはずもなく、それはいわば都市伝説のように聞いたことがあるだけだった。

「今やってみせましょうか?」

「え」

 梨璃子が断りを入れるより早く、レンブラントはそう言うとパっと黒猫の姿に変わってみせた。

「!!」

「……これで、この方が王子であることは信じていただけましたでしょうか?」

 レンブラントはすぐにまた人型に戻ると、梨璃子に向け確認するように微笑んだ。現に目の前でそれを見てしまうともはやそれは信じるしかなく、梨璃子はコクコクと首を縦に振る。

「じゃあ、この人は本当に王子様なのね」

 レンブラントの存在を受け入れざるをえなかったことで、梨璃子の中にあった恐怖や不安の感情は、キャパオーバーしてしまった驚きの前にかき消されてしまった。突如現れたとはいえ王族の前から逃げることはできず、逃走の意欲もそがれてしまい体中に入れていた力が抜けたのが分かったのか、レンブラントは捕まえていた梨璃子の手をそっと離した。

「はい。こちらは正真正銘第十三王子、紫蘭・クジョウ様になります」

「……」

 クジョウという王家のみが使用することを許されている名前に、梨璃子がベッドへ座る男へと視線をやる。

(確かに、そう言われると見た目だけ見れば完璧な王子様だし、恰好も、コスプレじゃなくて本物なのね……)

 長い手足を持て余し気味にベッドに座っている金髪の男、もとい紫蘭は梨璃子の視線を気にした様子もなく、真っ直ぐに視線を返してきた。

(確かに、王子様だったら自分のこと知らない人がいるなんて思いもしないわよね。私は別に王族にそんなに興味があるわけじゃないから知らなかったけど、梓とかだったらすぐにわかったかもしれないし……さっきは胡散臭いって思ってたからあんまりちゃんと見てなかったけど、言われてみると気品のある顔立ちしているような気がするし、王族の人なんて生で見るの初めてだけど、みんなこんなに綺麗なの?)

「……なに?」

 梨璃子がまじまじと紫蘭の顔を見つめていると、紫蘭がその様子に不思議そうに首を傾げた。梨璃子ははっと我に返ると、慌てて視線を外した。

「あなたが王子様だってことはわかりました。でも、どうして王子様が私の部屋にいるんですか?」

 王族とわかったことで梨璃子が言葉遣いを改めると、紫蘭とレンブラントが顔を見合わせた。

「敬語とか使わないでいいよ。めんどくさいし」

「でもっ……」

(そんなわけにはいかないでしょっ?!)

 不法侵入の怪しい男ならいざ知らず、不法侵入とはいえ王子と分かった今、無礼を働くわけにはいかないくらいの常識は持ち合わせている。梨璃子が言い淀んでいると、突然側にあった梨璃子の携帯端末がけたたましい音をたてた。

「なにっ?! また蘇芳っ?!」

「! いけないっ、遅刻しちゃうっ!!」

 梨璃子よりも先に紫蘭が過敏に反応していたが、梨璃子にはそんなことに構っている余裕はなかった。鳴ったのは、梨璃子がセットした通学アラームなのだ。

(この人たちに付き合ってたらもうこんな時間?!)

 素早く時計へ視線をやると、もう支度をし始める時間になっていた。梨璃子は一度紫蘭の方をちらりと見てまだ何もこの場の謎が解けていないことにモヤっとした気分になったが、その迷いを断ち切るように頭をブンブンと振る。

(今日学園で学ぶことが能力の開花に繋がるかもしれないしっ!)

 なぜ王子が部屋に現れたのか? や、先ほどから紫蘭が口走っている良くわからないゲームとやらのことが気にならないと言えば嘘になるが、それよりも学園へ行くことの方が梨璃子にとっては重要なのだ。もし今日の授業で習うことがに能力の開花に繋がったらと思うと、それはいつだって梨璃子の最優先事項で、目の前の不可解なことの為に休むなんてことは考えられないのだ。

「遅刻?」

「梨璃子様は学生ですので」

 制服を取りに梨璃子が部屋を横切った時、間延びした紫蘭の声とそれに答えるレンブラントの声が聞こえた。梨璃子はその呑気なやり取りに無視を決め込み制服を持ってバスルームへと移動する。

「ああ、そういやさっき学生証に書いてあったっけ。えーっと、グリーンベル学園?」

 紫蘭の口から出た自分の通う学園の名前に梨璃子はぴくりと反応したが、構うことなく寝間着を脱ぎ、素早くクリーム色のセーラー調の制服へ袖を通した。

「ええ。そうだと思います」

 えんじ色のリボンを胸元できゅっと結ぶと、水道の蛇口を捻り冷たい水でパシャパシャと顔を洗う。その間も紫蘭とレンブラントの会話は続いているようで、気になりつつも梨璃子は黙々と支度を進める。

「グリーンベル学園って本当にあるんだ。確か罪人(ツミビト)だけが通う学校だっけ?」

(!)

罪人(ツミビト)じゃないからっ!!」

 紫蘭の言葉に梨璃子は手に持っていたブラシを投げ捨てると、反射的にドアを開けて否定の言葉を投げた。勢いに大きく鳴ったドアの音に驚いたように紫蘭の瞳がこちらへ向き、その悪意も何もない瞳を梨璃子はムっとして睨みつける。

「紫蘭様、違いますよ。グリーンベル学園は罪人(ツミビト)の為の学校ではなく、罪人候補生(ギフテットワナビーズ)の為の学校です」

「その呼び方もやめてっ!!」

 二度も連続で地雷を踏みぬかれ、梨璃子は訂正したレンブラントへも強い言葉を投げる。レンブラントは状況を理解したのか、きっちりとセットされたダークブラウンの頭を梨璃子へ向け下げた。

「失礼いたしました」

「なんでいきなり怒ってんの? 今そんなに怒れることあった?」

「紫蘭様っ」

 空気を読まない紫蘭の声に梨璃子の表情が曇る。

(そりゃあ、なんでも持ってる人にはわからないでしょうね)

 梨璃子はデリカシーのない紫蘭の言葉に対する文句をぐっと飲み込むと、無視を決め込んで先程取り返した学生証と鞄を取りに紫蘭の前を無言で通り過ぎる。

(獣化の能力(ギフト)。転移の能力(ギフト)能力保持者(ギフテット)

「ねえ、まだ全然話終わってないんだけど」

 未だ梨璃子のベッドに座ったまま、紫蘭が不満気な声を上げた。傍らでレンブラントが額を押さえて小さく首を振る。その発言があまりにも梨璃子の神経を逆なでし、無視して部屋を出ていくつもりだったが梨璃子は紫蘭の真正面に立つ。

「あなたが王子様だとかそんなのは知らないし、よくわからないゲームの話だって私にはどうだっていいの。私は今から学校があって、そっちの方がずっと大事。なんであなたが勝手に人の部屋に入ってたこととかはもうどうでもいいから、学校に行ってる間に出て行って。それで、二度と私に関わらないでっ!!」

(って、王子様にこんなこと言ったらもしかして罰せられるっ?!)

 勢いで感情に任せるままに言葉を発してしまったが、ふと冷静になってみると、いくら目の前の男がデリカシーのない不審者であったとしても、王子なのだ。王子だとしたら無礼を働くことは褒められたものではなく、梨璃子がそのことを思い出しうっと少しだけ怯むと、紫蘭は別段怒った様子もなく不思議そうにじっと梨璃子を見つめる。

「学校行って、何かいいことある? 話聞いて、それで使えるようになるの?」

「!! そんなのあなたに関係ないでしょっ?! ここであなたと話しているよりずっと有意義よっ!!」

(王子だろうがこの人が失礼だから不敬罪を問われたって私のせいじゃないっ!!) 

 紫蘭の言葉に、梨璃子はカっと顔が熱くなるのを感じた。まるで知識だけを身につけても仕方ないのに、と言われているような気がして余計に腹が立ったのだ。

(そんなこと、あなたに言われなくてもわかってるわよっ!!)

 梨璃子はこれ以上紫蘭と話していてもムカついてくるだけだと睨みたい気持ちの代わりに唇をきゅっと噛むと、くるりと踵を返す。紫蘭を無視し部屋のドアへと手をかける。

「え? ほんとに学校行くの?」

 まさか自分が無視されるなどと思わなかったのか、勢いよくドアを閉め切る直前、紫蘭の呑気な声が背中越しに聞こえ、梨璃子はまたぶり返したその怒りを足に乗せて学校へと急いだ。


一時間ごとに数話ずつ更新します。

よろしくお願いいたします。

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