4-1
ふいに感じた花の香に、梨璃子はぱちりと目を覚ました。ぼんやりとした視界に広がる天井にぶら下がるシャンデリアを見ながら、ああ綺麗だなと、梨璃子は胸中で感想を漏らす。
「………………」
(シャンデリア? そんなもの私の部屋にあったかしら?……って、ここどこっ?!)
見知らぬ天井に梨璃子の脳が一気に覚醒すると、梨璃子は反射的に起き上がろうとし、予想もしていなかった抵抗感に思わずベッドに縫い付けられた。
「?!」
なぜかベッドから起き上がれなかったことに梨璃子の脳内が少しパニックに陥っていると、
「ん……んー」
「!!」
と、他人の声が聞こえ梨璃子は思わず体を硬直させた。既視感を覚える状況に梨璃子がそっと視線を足下の方へと向けると、なぜかそこには梨璃子が寝ているベッドに突っ伏したまま寝ている紫蘭の姿があり、梨璃子は思わずそのままの姿勢で固まってしまった。
「…………この人、なにしてるの?」
理解不能な状況に梨璃子の口から思わず声が零れると、足下の紫蘭がもぞもぞと動いた。梨璃子は反射的にびくりと体を反応させると、紫蘭が動いた隙にシーツから素早く足を抜き取った。いつぞやの時のように梨璃子はベッドの上に膝を抱えて座り込むと、自分が置かれている状況に思考を巡らせる。
(……この部屋の感じ、もしかしなくても、王宮っ?!)
梨璃子は改めてぐるりと視線を部屋の中へと巡らせた。置かれた調度品や壁紙、絨毯やカーテンは、どれをとっても梨璃子にすら一級品であることが分かるものであり、先ほど脳内に浮かんだ疑問には早々に回答が出てしまった。
(でも、どうして私王宮にいるの?)
「……ん……あれ? スメラギさん、起きたの?」
「?!」
梨璃子が自分の置かれている状況に小首を傾げたその時、足下で寝ていた紫蘭がふいに起き上がった。梨璃子は驚いて組んでいた手を思わず放してバランスを崩してしまったが、紫蘭はそんなことには気にせずふわあと欠伸を一つ噛み殺すと、変な寝方をしていたせいで体が痛いのか、肩や首を回しながら梨璃子へと視線を寄越した。
「……ねえ、なんで私、ここにいるの? それに……」
(このパジャマ、一体誰が着せたのっ?!)
梨璃子はふいに自分が着替えさせられていたことに気づくと、不安気な瞳で紫蘭を見た。紫蘭はその様子に呆れた様に溜息を吐いた。
「昨日のゲームの後、疲れて寝ちゃったんだよ、スメラギさん。で、仕方ないから連れて帰って来たんだけど、そのまま寝かすわけにもいかないし、メイドに言って着替えさせたの。わかった?」
「え? 寝ちゃったっ?」
梨璃子が驚いた声をあげると、紫蘭は無言で頷いた。そんな馬鹿なと思いつつ、梨璃子は昨日のゲームのことを思い出そうとしても中々思い出せない記憶に思わず視線を下げる。
(うそ。ほんとにっ?!……確かに、なんかあんまり覚えてないし……でも、なんで、そんなことになっちゃったのよ私っ!!)
梨璃子は思わず両手で顔を覆ってしばらく猛省すると、ちらりと隙間から瞳を覗かせもう一つの疑問を口にする。
「……それで、あなたはどうしてこんな所で寝てたの?」
「…………さあ? 俺も良くわかんないんだけど。でも、別に自分の家だしどこで寝ててもよくない?」
「……」
(そりゃあそうかもしれないけどっ……)
梨璃子はなんとなく腑に落ちない気持ちでその言葉を受け止めると、抱えた膝をぎゅと自分へと引き寄せた。
(別に意識してるわけじゃないけど、でも、一緒の部屋で寝なくてもいいと思うんだけど……一応、男と女なんだし)
胸中に渦巻いたもやもやとしたものに梨璃子が唇を尖らせると、紫蘭が、あ、と声を漏らした。梨璃子は釣られて視線をそちらへとやる。
「ねえ、お腹すかない?」
「え?」
紫蘭は梨璃子の戸惑いなど気にもせず自分の腹に手を置きながらそう言うと、梨璃子も思わず自分のお腹へと視線を落とした。今が何時か分からないが、そう言われるとそんな気がしてきてしまうのが人間だ。
「なんか、気にしたら急に減った気がする。おーい、レン」
紫蘭は梨璃子の返事を待たず一人でそう完結すると、どこからともなく銀色の小さなベルを取り出した。細かな細工の入ったそれは遠目から見ても美しく、梨璃子が思わず視線を留めると、それは、チリン、と見た目通りの澄んだ音色を奏でた。するとどこからともなく現れた黒猫が、
「……まだそんなもの持っていたんですね、紫蘭。とっくに捨てたもんだと思っていましたよ」
と、呆れた声を出しながらレンブラントの姿へと変わった。
「おはようございます、梨璃子さん。昨夜は良く眠れましたか?」
レンブラントはそう言って梨璃子へ優しい笑みを浮かべてみせた。梨璃子は紫蘭だけでなくレンブラントとも寝間着のままの二度目ましてに、諦めたように視線を返す。
「あ、はい。おはようございます」
「それは良かったです」
「……あの、それ、どこにいても聞こえるんですか?」
初めて出会った日と同じようなシチュエーションに少しだけ気まずさを覚えた梨璃子は、別に今聞かなくても、と思いつつ紫蘭の持つベルを指さした。
「ああ、これですか? 聞こえますよ。主人の危機に駆け付けられるように、というのが本来の目的なんですよ。まあ、この人はいつもその辺にいますから、そんな用途もありませんけどね」
「……おまえほんと一言多いよな。平和なのはいいことだろ?」
「おや。では、危機でもないのに呼ばれたと?」
レンブラントはわざとらしく目を丸くすると、紫蘭が思い出したように声をあげる。
「そうだった。腹減ったから外に食べに行ってくる。だから支度手伝ってよ」
「……あなた一体いくつになったんですか。それくらい自分でやってくださいよ」
「はあ? 俺じゃなくてスメラギさんのなんだけど。なんか適当に服用意してあげて」
「ああ、そういうことですか。それと、食事なら何か用意させましょうか?」
「いい。どうしてもあっこのカフェのパンケーキ食べたいから、王宮都市行ってくる」
レンブラントは呆れた顔で何かを言いかけて、ふとそのまま言葉を飲み込んだ。代わりに、仕方ないですね、と紫蘭に向け肩を竦めてみせた後、梨璃子へと向き直った。
「梨璃子様、どういった感じの服装がお好みですか? 何着か用意いたしますのでおっしゃってください」
「え?……えっと……」
急に話の矛先が自分へ向いたことに驚いて梨璃子は思わず口籠った。
(そうじゃなくても、最近の洋服とか良くわからないし……)
梨璃子も昔は普通の女子が興味のありそうなものが好きだった。だが、罪人候補生だと言われるようになってから、すっかり興味を失ってしまったのだ。正確には失ったというよりは、ただ単純にそんなことを考えている余裕はなくなってしまったのだ。
「あ、じゃあ制服にしよ。グリーンベルの。だってスメラギさんそんなにこだわりなさそうだもんね。それに、俺ちょっと着てみたかったんだよね、あれ」
梨璃子が答えあぐねていると、紫蘭がまるで名案を思い付いたと言わんばかりに瞳を輝かせた。レンブラントは何も言わず冷めた視線を紫蘭へ送っていたが、本人は大して気にしていない様子で期待した目をレンブラントへ向けていた。
「……紫蘭。あなたいくつになったんですか? まだ制服が着られると?」
「まだ十九だし、俺は何着ても似合うから大丈夫でしょ」
(年上だったんだ……)
梨璃子が思わぬところで知った紫蘭の実年齢に複雑な感情を抱いていると、レンブラントがふいに梨璃子の方へと向き直った。
「梨璃子様はそれでよろしいんですか?」
「え? あ、えっと……休みの日に、制服で出かけるのは、あんまり……」
(だって。罪人候補生だってバレちゃうもの……)
グリーンベル学園は、生徒達の感情に配慮して街から少し離れたある意味隔離された場所に建っている。普段は寮生活の為学園都市の中だけで過ごしているのであまり気にはならないが、あの制服こそ自分が罪人候補生であると証明しており、好奇の目に晒されることが分かっている為梨璃子はそれを着て王宮都市を歩く気になどなれなかった。
「さすが梨璃子様は常識をお持ちですね。わかりましたか? 紫蘭」
「わかったわかった。じゃあ俺が適当に決めるけど、文句言わないでよね」
梨璃子は紫蘭の提案に、素直に頷いた。