3-4
あらゆる隙間に入り込んだスラッグルの体液のヌメヌメとした感触をそのままに、紫蘭は王宮の廊下をベチャベチャと音を立てながら歩いていた。紫蘭の歩いた後ろにはスラッグルの体液でできた足跡が続いたが、そんなものはどうでも良かった。
「……」
紫蘭は視線を自分の腕の中で気を失って眠る梨璃子へと落とした。絨毯にできた染みなどとは比べ物にならぬほど、梨璃子の全身はスラッグルの体液でドロドロだった。唯一紫蘭が拭った顔だけは肌色を覗かせていたが、先ほどからずっと自分の胸中に渦巻くものに紫蘭は顔をしかめると、小さな溜息を吐いた。
(こういうの、後悔っていうんだっけ?)
今まで感じたことのない感情に、紫蘭の中に生まれたある種戸惑いのような物を持て余し気味に胸に抱えながら、紫蘭はバスルームを目指して歩いていた。
(こうなることくらい、想像できてたんじゃないの?)
それは、梨璃子にではなく自分自身へと向けた疑問だった。梨璃子が紫蘭に武器となり得るものを頼んだ時点で、何をするかくらい大よその予想はできていたはずだった。止めれば良かった、自分が代わりにやれば良かった、二人で考えれば良かった、黙らせてでもあのまま連れて帰ればよかった。あの時行動に移すつもりもなかった言葉が、紫蘭の胸に今後悔という形に変わってのしかかっていた。
(俺は、何をやってるんだ?)
「……すごい匂いですね、紫蘭。それに、その恰好……あなたが自ら汚れるようなことをするなんて、明日は嵐が来るんでしょうか?」
ふいに後ろからかけられた声に紫蘭がゆっくりと振り返ると、声の主であるレンブラントは紫蘭の腕の中の梨璃子を見つけると、皮肉に笑っていた笑顔をすっと引っ込め、一転して真面目な顔で紫蘭に駆け寄った。
「梨璃子様っ?! 紫蘭、これは一体どうしたんですか? すぐに医療班を手配させます」
「いい」
くるりと踵を返そうとしたレンブラントの腕を紫蘭が咄嗟に掴むと、レンブラントは驚いたような視線を返した。紫蘭は小さく首を横に振ると、
「それより、誰か呼んで。スメラギさん綺麗にしてあげて」
「……わかりました。すぐに手配します」
「あとさ」
既に携帯端末で誰かと会話中だったレンブラントが視線だけ紫蘭の方へ寄越す。
「部屋用意して。どうせ余るくらいあるだろ」
紫蘭が付け加えるように呟くと、レンブラントは短く頷いて会話の相手に追加で依頼をした。
「さて。色々聞きたいことはありますが、まずは梨璃子様が先ですね。紫蘭、代わりましょう。私がバスルームまで運びます」
レンブラントはそう言うと、紫蘭の前で梨璃子を受け入れる為に両手を大きく広げてみせた。紫蘭はそれに首を横に振って答える。
「いい。俺が運ぶから。どうせここまで運んできたんだし、おまえの服も汚れる」
「別に服は洗えばいいことです。それよりも、一応王子のあなたにそのような真似させられませんよ」
「……一応、は余計だろ。いいから。スメラギさんは俺のパートナーなんだから、俺が運んでもおかしくないだろ? おまえはドアでも開けて」
紫蘭はレンブラントを無視して先を歩くと、客用のバスルームのドアの前でレンブラントに顎で指示を出した。
「とりあえず、後で話を聞かせてもらいますからね」
レンブラントが言われた通りドアを開けると、中には既にメイドが数名控えていた。まず紫蘭が入室してきたことに驚いたように皆戸惑いの表情をしてみせたが、すぐに紫蘭の腕の中の梨璃子に気づくと、先ほどのレンブラント同様血相を変えてすぐに用意をし始めた。
「ねえ、ここに座らせるけどいいよね?」
紫蘭はバスルームに備え付けられた真っ白な椅子に梨璃子をそっと座らせると、未だ意識の戻らぬ梨璃子の腕がだらんと空中に垂れた。メイドの一人が慌てて梨璃子の体を支えると、
「起きたら何もなかったみたいに綺麗にしてあげて」
と、紫蘭はメイドに言い残してバスルームを後にした。
「紫蘭。あなたも隣のバスルームに入ってください、今すぐに」
バスルームを出るとレンブラントはそう言ってすぐ隣のドアを開けた。自分の部屋まで戻るのも面倒だった為特に異論もなく紫蘭はそれに従うと、先ほど梨璃子を座らせたものと同じ椅子にどかりと腰を下ろした。視界に映ったスラッグルの体液まみれのスニーカーを脱いで摘み上げると、躊躇いもなく近くにあったゴミ箱に投げ入れる。
(結構気に入ってたんだけどな)
紫蘭は同様に体液の染み込んだ靴下を言葉通り脱ぎ捨てながら、胸中に浮かんだ感情が少しも自分にダメージを与えていないことに驚いた。普段であればお気に入りのスニーカーをダメにするようなことがあればそれこそ後悔しただろうに、それよりも、まずダメにするような行為なんかしないな、と紫蘭は他人事のように思うと、自分の行動を思い返して思わず自分の心臓の辺りへ視線を落とした。
「……今更聞くことでもありませんが、上着はどうしたんですか? 今朝着ていきましたよね」
「上着? あー……」
レンブラントに言われるまでその存在を忘れていたことに紫蘭は自分のことでありながら物凄く驚いた。ラヴァンドを摘んでジャージに包んだ平和な記憶など、もう随分と昔のことのような気がしていた。
「失くした」
「失くした? 紫蘭が?……今日は本当に珍しいことばかりですね」
お湯張りから戻ると、レンブラントはちらりとスニーカーの捨てられたゴミ箱を一瞥した。紫蘭はそれに構わず来ていたTシャツも脱ぐと、それも床に投げ捨てた。
「それで。何があったんですか? スラッグルとはいえこんな体液まみれになるようなことが、どうして起きたんです?」
レンブラントは壁に背中を預けると、紫蘭に向け複雑な視線を向けた。紫蘭はどう話したものかとしばらく宙を仰いだが、大きな溜息と共に口を開いた。
「今日進んだマス目に巨大なスラッグルがいたんだ。ほんとスゲーデカかったから、俺は明日まで待ったら動いてるかもしんないから帰ろうって言ったんだけど、スメラギさんがそれじゃあ遅いって、退かすって言いだして」
「それで、退治したらああなったと?」
「んー、まあ、端折るとそんな感じ」
紫蘭がそうまとめると、レンブラントは頭が痛いと言わんばかりに眉間を押さえて溜息を吐いた。
「それにしても、やり方ってものがあるでしょう? どうして全身体液まみれになるようなことになったんですか」
「あー、それは……スメラギさんが核を一突きしたから」
紫蘭が事実を淡々と言葉にすると、レンブラントとの間に一瞬妙な沈黙が訪れた。
「はあっ?! なんでそんな危険なこと止めなかったんですか? あなた一緒にいたんでしょう? まさか、この期に及んでめんどくさいとか思ってたわけじゃないでしょうね? 紫蘭」
レンブラントの凍てつくような視線が紫蘭へと向いた。答えによっては許さない、という雰囲気が空気に乗ってビシビシと紫蘭へと伝わる。紫蘭は一度レンブラントへと視線をやると、少し考えるように宙を仰ぎ、また自分の足下へと視線を落とした。
「さすがにそういうつもりはなかったけど……」
「けど?」
「あんなこと、しないと思ったんだよ」
紫蘭はそう口にした時、頭の中で、本当に? と誰かが囁く声が聞こえた気がした。
「どうしてですか?」
「だって、普通に考えたらあんな巨大なスラッグル相手にするなんて気持ち悪くてやりたくないに決まってんじゃん。それにスメラギさん女の子だし。女の子の方がああいう気持ち悪いの嫌いだろ? 実際、スメラギさんも苦手っぽかったし。だから、やっぱり無理って戻ってくると思ったんだよ」
(本当に?)
頭の中でまた声がした。紫蘭はその声を鬱陶しそうに追いやると、レンブラントが小さく息を吐いた。
「本当に?」
「!!」
紫蘭は自分の頭の中の声が外に零れだしたのかと思い、弾かれるように顔を上げた。レンブラントの水色の瞳が、静かに紫蘭を見下ろしていた。
「本当にそう思ったのですか? 紫蘭。初日の日、きっぱりと言い切った彼女を、忘れたんですか? あなた」
「……」
責めるようなレンブラントの視線を避けるように自分の視線を下げると、スラッグルの体液でドロドロになった自分のジャージを見た。
「……普通、諦めるでしょ。こんな関係ないゲームに巻き込まれて、こんなドロドロになって頑張って、何になるっていうんだ? 性格とか言ってるけど、こんなになるまで曲げれないってなんなわけ? 全然理解できない」
紫蘭はずっと自身の中に渦巻く疑問と葛藤をぶちまけるように言葉を吐き出した。レンブラントは少し考えるように言葉を探していたが、
「あなたは諦めることしかしてきませんでしたもんね、紫蘭」
「!!」
と、無表情のまま紫蘭を見た。
「……今更、そんなこと言うのかよっ」
紫蘭はまるで憎悪のような感情の籠った目でレンブラントを睨みつけると、地を這うような声で吐き捨てた。レンブラントは紫蘭の様子にはっとしたように目を見開くと、
「そういう意味で言ったわけではありません。申し訳ございませんでした」
と、深く頭を下げた。
「……じゃあどういう意味だよ?」
「……多分、梨璃子様は、今まで諦めることができなかったんではないでしょうか?」
「は? それってどういう意味?」
紫蘭は言葉遊びのようなレンブラントの言い回しに訝し気に眉を顰めると、レンブラントは、推測ですが、と口を開いた。
「先ほどの私の発言ですが、あなたは諦めても別に支障がない生活を送れる環境で生きて来た、という意味です。ですので、今回のように別に今日やらなくてもいいことは諦めることができた。だからあなたは無理にそれをしようとせず、諦めてきましたよね。ですが、梨璃子様はきっとそうではなかったのかと」
「……」
まるで自分が何も考えずに諦めることを選択してきたかのようなレンブラントの言葉に紫蘭は思うところがあったが、今は口を挟むのをやめておいた。
(別に今更言うことでもないし)
思うところはあれど、結果レンブラントの言葉通りに生きてきたのは事実であることは間違っていないのだ。
「なんで? それって俺が王子だから? でも、王子じゃなきゃ諦めても支障がある生活ってわけでもないじゃん」
紫蘭が呆れたようにそう言うと、レンブラントは否定するように首を横に振った。
「いいえ。そういう意味ではありません。もっと大きな意味です」
「大きな意味?」
「ええ。能力保持者か、そうでないか、ですよ」
「え?」
思いもよらぬ回答に、紫蘭は続きを問うべくレンブラントを反射的に見る。
「現在のイラプセル王国に住む者にとって、それが最大で最重要な問題です。能力保持者でありさえすれば、もちろん事の大きさにはよりますが、何かを諦めても普通に生きてくには支障はありません。ですが、そうでないもの……というよりも、罪人候補生だからこそ、全てを諦めきれないんじゃないでしょうか?」
「罪人候補生だから?」
紫蘭がレンブラントの意見に納得してなさげにその言葉を繰り返した。
「ええ。罪人になってしまえば、今度はきっと逆に諦めしかないんじゃないでしょうかね。あなたも知識としてくらい知ってはいますよね? 罪人は能力がないことを罪とされ、限定された生き方を強いられることを」
詳しくは知らなかったが、知識としてはそう呼ばれる者達がいることは知っていた。紫蘭が頷くと、レンブラントは先を続ける。
「だから梨璃子さんは、罪人にならない為に、今までの人生、全てを諦めるわけにはいかなかったんじゃないでしょうか? 能力開花の条件は、まだ解明されていませんからね。能力が開花していない者にとって、何かに直面した時の取捨選択は難しいんでしょう」
「……だから能力開花の為にあんなに頑張ってるって?」
紫蘭がそう聞くと、だがレンブラントは首を横に振って見せた。
「はあっ?! 今おまえがそう言ったんだろっ?!」
「今梨璃子さんが頑張っている理由は、あなたを王にする為ですよ、紫蘭」
「なっ?! なんだよそれ……そんなこと頼んでないっ!!」
全く予想もしていなかった答えに紫蘭が驚きで声を荒げると、レンブラントは小さく肩を竦めてみせた。
「まあ、梨璃子さんにとってそれはオマケみたいなものでしょうし、考えてすらいないかもしれませんが……おそらく梨璃子さんは、今は能力開花ではなく、罪人免除の為に諦められないんだと思います」
「罪人免除?」
(……そういえば、前にレンが言ってたような……)
最初のルール説明の時にそんなことを言っていたようなことを紫蘭はぼんやりと思い出した。レンブラントは深く頷いて見せる。
「ええ。このゲームに勝って王になった者のパートナーは、能力開花の有無を問わず、罪人免除とする。初日にそう伝えた時、梨璃子さんの表情が僅かに変わりましたから。だから彼女は、全身体液まみれになって気を失っても、先に進むことを諦められないんじゃないんでしょうか」
「……」
あくまで仮説ですが、と付け加えたレンブラントの言葉は、これまでの梨璃子の行動を振り返ってみると、納得できないこともなかった。だが紫蘭には、その考え方自体に理解できない部分があり、口を開く。
「……罪人になるのって、そんなに嫌なものなの? だって、別に能力がなくてもやれることはやれるじゃんか。スメラギさんだって大抵のことは自分でできるって言ってたし、それに、日常生活に能力を使わないでも生きられるのは俺で実証済みじゃん。それなのに、そんなことの為に、あんなことをしてまで罪人免除が欲しいって言うの?」
(こんな何の役にも立たない能力なんて、あっても何も変わんないのに……)
紫蘭は自嘲気味に笑うと、自分の右手をじっと見つめた。金属しか出せない能力は、兄弟姉妹達からはいつだって嘲笑の的だった。その為紫蘭は自分の能力と向き合うこともなく、基礎能力ですら使わずに生きてきた為、今では使い方も分からなくなってしまった。罪人がただそれだけの違いだというのなら、それをそこまで嫌がる気持ちが紫蘭には分からなかった。
(ああでも、スメラギさんだけは、こんなのでも凄いって言ってくれたっけ)
紫蘭はゲームの中での梨璃子の言葉を思い出すと、無意識に右手を見つめた。
「紫蘭、あなたの言うそれは、持つ者だから言えることですよ。それに、あなたは能力がないわけではありません。使ってこなかっただけです」
「どっちでも一緒だろ。使わないことには変わりないんだからさ」
レンブラントは何かを言いかけた口を閉じると、はあ、と大きな溜息を吐いた。
「……私は今、自分の犯した罪の大きさを初めて知りました。蘇芳様がお嘆きになる気持ちも良くわかります」
「はあ? 急に何言いだしてんの?」
レンブラントは真剣な顔で紫蘭に向き直る。
「能力があるかないか、その違いの大きさはあなたが想像しているよりずっと大きいのですよ、紫蘭。それは、“どんな” 能力であるか、ではありません」
「?」
「……紫蘭。明日は休日ですね。ゲームもお休みだそうですよ。蘇芳様からご連絡がありました」
レンブラントは紫蘭の不思議そうな表情には応対せず、代わりに伝達事項を口にした。紫蘭は素直にそれを受けると、内心時間ができたことをありがたく思った。
「ふーん。まあ、丁度いいんじゃない? スメラギさんも疲れてるだろうしね」
「ええ、そうですね。丁度いい機会ですから、梨璃子様と一度ちゃんと話し合われたらいかがですか?」
「話し合う? 何を?」
「とぼけているのですか? 紫蘭。それとも、本気で言っているのだとしたら、武力行使に出なければなりませんね……紫蘭、そろそろあなたも覚悟を決めるべき時が来たんですよ。これが遊びじゃないことくらい、あなたももう分かっているはずですよね? 梨璃子様の覚悟はとっくに決まっています。後はあなたが、きちんとゲームと向き合う番です。これは、あなたのゲームなんですからね」
「……」
「それに、あなたも今日のことでわかったはずですよ。あなたがはっきりしないと、浴びるのはスラッグルの体液じゃすまないだろうことを」
「……」
レンブラントの言わんとしていることを察すると、紫蘭は口を噤んでしまった。レンブラントはその様子に小さく溜息を零すと、もたれていた壁からゆっくりと体を起こした。
「……まあ、あなたも今日は疲れているでしょうから、風呂に入ってさっさと寝ることですね」
レンブラントはそう言うとバスルームのドアを開け、
「お疲れ様でした」
と一礼すると、パタンとドアを閉めて出て行った。
「……わかってるよ、それくらい」
(なんだよ。どいつもこいつも今更そんなこと言いだしてっ……でも)
紫蘭はレンブラントの去ったドアを忌々し気に睨みつけた後、ふと、隣の部屋にいるであろう梨璃子のことを思い浮かべた。全身ドロドロになった、小さな体を思い出す。
「…………ああーっ、くそっ!! どうしろっていうんだよっ!!」
紫蘭は目いっぱい大声でそう叫ぶと、勢いよく椅子から立ち上がってバスタブの方へと歩いて行った。