3-2
たった二日では慣れることのない転移能力の感覚に引っ張られ梨璃子は昨日穴を掘った場所まで飛ばされると、なんとも言えない気持ちの悪さに着地と同時に足下がフラついた。
(やっぱりこれだけはどうにかして欲しいかも……)
梨璃子が口元を押さえながらフラフラと歩いていると、前方に紫蘭の姿を発見する。
(なんかまたお洒落な恰好で来てるってことは、今日もやる気はないってことね……って、ダメダメ。期待しないって約束なんだからっ)
なんだかんだと言いつつ昨日最後は結局助けてくれた紫蘭に期待していた自分に梨璃子は軽く失望すると、昨日とはまた違う洒落こんだジャージ姿の紫蘭に溜息を零した。その音に反応して梨璃子の姿に気づいた紫蘭は掛けていた鞄からダイスを二つ取り出すと、それを梨璃子の方へ投げてよこした。
(……でも、今日は荷物持ってくれるのね?)
昨日はいらないと梨璃子に渡した鞄を、今日は紫蘭が何も言わずに持っていた。なぜかカスタマイズして斜め掛けにして背負えるようになっていたが、あえてそれには触れないことにした。
「ねえ、早く振ってよ」
(……でも、なんか素直に感謝出来ないのって、多分こういうとこよね)
挨拶を交わしもせず本題に入る紫蘭を先程のウキョウと比べ梨璃子は小さく息を吐くと、だが、紫蘭に言われる通り空中でくるくる回るダイスに触れた。すると今日は四のゾロ目となり、計八マス進むこととなった。
(今日はそんなに悪くないかも!)
「うわ。大分進むじゃん」
両手で小さくガッツポーズをしていた梨璃子とは裏腹に、紫蘭は空中に浮かぶダイスにしかめっ面をすると、はあ、と溜息を吐いた。ダルそうなまま下げた視線を梨璃子へと向けると、なんとも言えない顔をしてみせる。
「な、なに?」
「……ん」
梨璃子はふいに自分の方へ差し出された紫蘭の腕を不思議そうに一瞥すると、意図を伺うべく紫蘭を見る。紫蘭は梨璃子と目が合うと、一度開けて閉じた口をどうにか開く。
「だから、落ちられると困るんだって」
「……」
紫蘭はそういうと、早く、と梨璃子に自分の腕に掴まるように促した。梨璃子はその行為自体に驚きはしたものの、つい先ほど感じたばかりの気持ち悪さを思い出すと、素直にジャージの裾を掴んだ。紫蘭はそれを確認すると梨璃子の肩を抱き、
「オッケー。飛ばしていいよ」
と、誰に向かって言うでもなく空へそう言うと、その号令に合わせてまたもや転移能力が発動した。
「!」
ぐらりと宙に浮く感じがまだなんとも慣れず、梨璃子は思わずしがみつく手に力が籠った。思いの外強く紫蘭の腕を握りしめてしまったことに梨璃子が慌てて紫蘭を仰ぎ見ると、紫蘭は別にそれを気にした様子もなく、嫌な顔一つせず涼しい顔で梨璃子を支えたまま光の渦を抜けた。
(……なんか、優しくされると調子狂うんだけど……)
梨璃子は複雑な気持ちを抱えながらぶわっと生暖かい風が体をすり抜けると、キラキラと日光が降り注ぐ大地に降り立った。梨璃子は眩しさに閉じていた目をゆっくりと開くと、目の前の光景に思わず息を呑みこんだ。
「!!……こ、これっ……」
「うっわ。きもちわるー……どんだけデカいんだよ、このスラッグル」
梨璃子は掴んだままの紫蘭のジャージの裾をぎゅっと握りしめると、ソレから少しでも距離を置こうと反射的に紫蘭の影へ身を隠した。紫蘭が嫌そうに顔を歪めながらスラッグルと呼んだものはナメクジに似た軟体動物で、普通であれば畑などで見かける小さな生き物だ。
「スラッグル? で、でも、これ、大きすぎ、じゃない?」
「確かにデカすぎだけど、でもこのぬめっとした感じとうねうね感ってそれしかなくない?」
先程ちらりと見たソレは、優に二メートルはあるのではないかと思われる程の大きさだった。すぐに頭の中で結びつかないもとい結び付けたくないそれに梨璃子が視線をあさっての方向へ向けると、紫蘭は面倒くさそうに小さく息を吐いた。
「ね、ねえ、これって……きゃあっ! う、動いたっ!!」
(気持ち悪いーーっ!!)
恐る恐る梨璃子が紫蘭の影から顔を覗かせた瞬間、ソレはまるで梨璃子に合わせたかのようにその巨体をねとりと振って梨璃子達の方へ顔を向ける様にその柔らかな体を捻った。梨璃子はその動きとフォルムの何とも言えない気持ち悪さにまたすぐに紫蘭の背中に隠れると、どーすんだこれ、と紫蘭はスラッグルを見上げて途方に暮れた声を上げた。
「ねえ、帰ろっか」
「……え?」
背中に隠れたままの梨璃子を振り返る様に紫蘭は頭だけ後ろに向けると、梨璃子はその言葉に唖然とした表情で見返した。今この場で想像もしていなかった選択肢に驚きで目を丸くすると、紫蘭は体の向きを入れ替えて梨璃子の方へと向き直った。
「だってさあ、こんなの退治するとか無理だし、退きそうもないじゃん。だから今日はもう諦めて帰ってさ。明日来た時にはさすがに居なくなってるでしょ」
「え?……でも、もし次来た時もまだここにいたら? そしたら、進めないってこと?」
「え? んー、どうだろ? まあでも、それならそれでこいつがいなくなるまで待てばよくない?」
「待てば、いい?」
「そ。だって、ゴールがどこかもわかんないんだしさ、別に急ぐ必要もないって」
紫蘭はちらりとスラッグルを振り返りまた嫌そうに顔をしかめると、うええ、と言いながら肩を竦めてみせた。梨璃子はすっかり帰る気になっている紫蘭とその後ろに鎮座するスラッグルを交互に見やると、覚悟を決めてきゅっと唇を結んだ。
「……ダメよ。帰らないわ」
「……はあ? 何言ってんの? あんた。帰っても帰らなくっても一緒だって。ここにいて何するの? こいつが退くまで待ってるんだったら、それこそ時間の無駄だって」
紫蘭は心底呆れた目で梨璃子を見ると、勘弁してよ、と小さく頭を振った。
(なによ。いつもは時間の無駄遣いなんて気にしない生活送ってるくせにっ!!)
梨璃子は喉元までその言葉が上がってきていたがどうにか飲み込むと、心を落ち着ける為にもゆっくりと深呼吸を一つする。後ろに控えるスラッグルはやはりどうしても気持ちが悪いのでどうにか見ないように気を付けながら、紫蘭へと意志の強い瞳を向ける。
「私が退かすわ」
「は? どうやって? あんなにデカいんだよ? あんた、能力保持者でもないくせにどうやるつもり?……俺はできないって言ったよね?」
「!」
(なにその言い方っ!!)
紫蘭は一度自分の背中を振り返ると、顔に、絶対無理、と書いて梨璃子を見た。梨璃子は紫蘭の口から飛び出した、能力保持者でもないくせに、という一言に口許をひくつかせると、キっと紫蘭を睨みつける。
「……別にあなたの能力に期待なんてしてないから」
「……へー。あっそ。そりゃあ良かった」
売り言葉に買い言葉のように梨璃子が思わず憎まれ口を叩くと、紫蘭もムッとしたような視線を返す。梨璃子はそれには無視を決め込み、気持ち悪いのを我慢してもう一度スラッグルへと視線をやる。
「……確かに大きいけど、でももしあれが本当にスラッグルだったら、きっと弱点は同じはずよ。能力なんていらないわ」
「弱点?」
訝し気な瞳を向ける紫蘭に、梨璃子はこくりと頷く。
「前に授業で習ったの。スラッグルは特定の草花が苦手だって。一般のスラッグルは畑や菜園を荒らすから、その防止に一緒にその草花を植えるとスラッグルが寄りつかないし、確か、溶けてなくなるから一緒に植えたりするって……」
梨璃子が腕を組んで思い出すように小首を傾げると、紫蘭は無表情のまま、ふーん、と相槌を打った。
「で? その弱点ってなんなの?」
「え? ああ、確か何個かあった気がするけど、この辺にありそうなのは……」
梨璃子はキョロキョロと視線を周囲へ巡らせると、少し離れた所に小さな紫色の花をいくつも付けた草を見つけた。
「あ、ラヴァンド」
「ラヴァンド?」
「そう。その香りが苦手みたい」
「……ラヴァンドって、どんなんだっけ?」
脳内で想像がつかないのか小難しそうな顔をする紫蘭に梨璃子は小さく息を吐くと、呆れ顔で紫蘭を見上げる。
(あ)
「ラヴァンドって、あなたの瞳みたいな紫色の小さな花をつけた草よ」
「……」
梨璃子はそう言って紫蘭の紫紺の瞳をじっと覗き込んだ。今まで特に興味もなかったのでじっくりと紫蘭の顔を見ることはなかったが、よく見ると、瞳はまるで紫水晶の様な深く美しい色をしていた。
(ほんと、黙ってれば梓の言う通りすごく王子様っぽいのよね)
どうして中身がこんなに残念なのかしら、と梨璃子は紫蘭にバレないように胸中で溜息を吐くと、突然脳内に梓の言葉が蘇った。
(もしこの人が見た目通り優しい王子様だったら、私も梓みたいに考えたのかしら?)
梨璃子は一瞬だけ頭に浮かんだありえない可能性を打ち消すように頭を振ると、そのままふいと視線を外した。
(そんなことよりも今はラヴァンド集めなきゃ)
すぐに頭を現実に戻しくるりと踵を返してなるべくスラッグルを見ないようにして歩き始めようとしたその時。ふいに視線を感じたような気がして紫蘭の方を振り返る。
「……なに?」
「べつに」
(? なんか今日おかしくない?)
変なものでも食べたのかしら? と梨璃子は小さく首を捻ってラヴァンドの方へ歩き始めると、紫蘭は梨璃子とは反対の方向へと歩いていった。梨璃子はちらりと後ろを振り返ると、木陰へ向かい一直線の紫蘭の背中に小さく溜息を吐いた。
(そんなこともないか……また終わるまで休憩してるのかしら?)
梨璃子は前回同様木にもたれて携帯端末をいじりだした紫蘭を一瞥すると、小さく頭を振ってその考えを振り払った。
(最初からそういう約束なんだから、いちいち責めるようなことを考えるのもよくないわよね。別にこれくらい自分でできるし。前回助けてくれたからって、私もすぐに期待する癖がついちゃったらダメね)
梨璃子はすぐにしゃがみ込むと、見つけたラヴァンドに手を伸ばすし、ぷちり、ぷちり、とその茎を折った。群れで生えている訳ではないそれはすぐに梨璃子によってその辺り一体刈り取られてしまう為、少しずつ場所を変えながら集めていった。
(あの大きさに対して、どれくらいあれば足りるのかしら?)
菜園で使うくらいであればこの量でも十分なはずだけど、と手の中のラヴァンドを見ながら、梨璃子は先ほど一瞬だけ見たスラッグルの形状を思い出した。
(ううっ……気持ち悪かったよねえ、あれ)
本当はああいう生き物はあまり得意ではない為、脳内に想像したスラッグルの姿に梨璃子はぶるりと一度身震いすると、気を引き締める為にパンパンっと両頬を軽く叩いた。
(怖くたってやるしかないんだからっ……とりあえず、一回試してみようかしら?)
梨璃子は膝の上に溜めていたラヴァンドをしっかりと握りしめて立ち上がると、ゆっくりとスラッグルへ振り返った。元から動きの鈍い生物である為先ほど見た時とほぼ変わらない位置にいるソレに梨璃子は生理的嫌悪から無意識に顔をしかめると、それでも、ゆっくりと一歩足を前に出した。
(やっぱり気持ち悪いっっ……)
微動だにしないスラッグルの前まで来ると、正直足が竦んでしまった。突然襲って来ることはないと分かっていても、表面のぬらぬらてらてらした部分を見るだけでもぞわぞわと背筋が寒くなるような気がして、思わず目を逸らす。
(ダメよ。ちゃんとやらなきゃ。ここで逃げたら、罪人免除が遠くなるのよっ?)
梨璃子は下げてしまった視線を奮い立たせるように自分にそう言い聞かせると、ゆっくりとそれをまたスラッグルへと向けた。反射的に逸らしそうになる視線をどうにか拳をギュッと握って耐えると、気合を入れる為に大きく息を吸い込んだ。
「!」
その時、ふと強いラヴァンドの香りを感じ、梨璃子は自分の手の平からではないそれに釣られるように、顔をその香りがする方向へと向けた。
「………………どうしたの? それ」
ラヴァンドの強烈な香りの発信源、もとい大量のラヴァンドを着ていたジャージに包み持った紫蘭の姿に、梨璃子はぱちりと瞳を瞬いた。紫蘭は無表情のまま持っていたジャージを梨璃子の方へと差し出すと、
「あんた待ってる間昼寝でもしようと思ったら、そこに大量にあっただけ。クサいし邪魔だから抜いたんだけど。俺いらないし、使うなら勝手にどうぞ」
と、不機嫌そうな顔でそう言った。
(…………もしかして、手伝ってくれたの? でも、この人のことだからほんとに邪魔だっただけかもしれないけど……)
「ありがとう……多分、これだけあれば、十分なはず」
梨璃子は紫蘭の行動に半信半疑でジャージを受け取ると、それに一杯包まれたラヴァンドを見た。ずしりと手の中に重みを感じるそれに梨璃子は自分が摘んだ分も混ぜると、改めてスラッグルと向き合って立つ。
(これ、投げればいいのかしら?)
いざ直面してみて、梨璃子はそれをどうしたらいいか知らないことに気づいた。授業で聞いた知識は、それに弱い、としかなく、実践方法など教えてくれなかったのだ。
(でも普通それに触れればいいよね?……ああもういいや。投げちゃおう)
梨璃子がそう決心してジャージの中のラヴァンドを少し掴むと、
「ねえ、それどうするつもり?」
と紫蘭の声が上から降ってきた。
「どうするって……とりあえず投げつけてみようかなって……」
「ふーん。投げればいいのね。じゃあ貸して」
「え?」
紫蘭は梨璃子の返事を聞く前に梨璃子の手の中から先ほど渡した自分のジャージを取ると、器用に結び目を作ってラヴァンドがバラけないように袋状に閉じ込めた。
「投げればいいんだよね?」
(え? もしかして)
紫蘭は梨璃子に向け確認するようにそう言うと、直後、手に持っていたラヴァンドの詰まったジャージをスラッグル目がけて投げつけた。
「え? あ、ジャージっ!!」
「別にいいって。他にもあるし」
「でも……」
躊躇いもなくジャージを投げ捨てた紫蘭を、梨璃子は複雑な面持ちで見つめた。
(お気に入りとかじゃなかったのかしら?)
例え梨璃子のようにあまりお洒落に興味がなかったとしても、お気に入りの服を捨てるのは中々踏ん切りがつかないものだ。ましてや、機能性よりも見た目を重視していそうな紫蘭が躊躇いもなく大事な服を台無しにしてしまった行動を、梨璃子はどう解釈したらいいのかわからなかった。
(もしかして、協力してくれてるの?)
梨璃子が今までの紫蘭の言動から素直に認めることのできない結論に辿り着き、更にその真意の分からなさに首を捻ったその時、何かが梨璃子の足に触れ、梨璃子は釣られるように視線を下げた。
「!!」
(こ、これってっ!!)
ドロリとした半透明の液体が、梨璃子の足下を覆うように前方から流れてきていた。梨璃子はその気持ちの悪さに大きく目を見開くと、ゆっくりとその流れの上流へと視線を向ける。
「スラッグル……!!」
先程紫蘭が投げつけたラヴァンドの塊が効いたのか、スラッグルの表面を覆っているスライム状のものが溶け、塊がボトリと音を立てて落ちた。それを合図に溶け出した体がドロドロの液状になって流れ出し、辺りは気持ちの悪い色をした液体の沼が出来上がりつつあった。
(ど、どうしようっ……!!)
梨璃子は想像以上の気持ち悪さに足が竦み、思わず体が固まってしまった。いまこの足下にあるドロドロがスラッグルだと意識した途端、全身がぶわりと粟立った。動こうという心とは裏腹に、地面に縫い止められた足にぬめぬめとした感触がまとわりつき、更に足が硬直してしまう。
(き、気持ち悪いっ!!)
「うっわ。気持ち悪っ。あー、ほら、あんたもっ」
「!」
ぐいっと腕を引かれる感覚に梨璃子が釣られて視線をそちらへやると、呆れた顔をした紫蘭の瞳と目が合った。
「苦手なら苦手って言えばいいじゃん」
「……でも、だって、苦手でも、やらなきゃ、先に進めないわ」
紫蘭の瞳を真っ直ぐに見てそう言うと、紫蘭は何とも言えない顔をして大きな溜息を吐いた。
「だから、そんなに無理して先に進む必要がどこにあんの?」
「それはっ……」
(だって、罪人免除が……)
梨璃子は真っ先に頭に浮かんだ理由を音にしないように口籠ると、紫蘭はまた溜息を吐きだした。
「あのさあ、性格が真面目だと、そんなに手って抜けないわけ?……だからあんたはそんなに頑張るの?」
「え?」
梨璃子は一瞬紫蘭が何を言っているのか分からなかった。だが理解できないものを理解しようとでもいうような真剣な眼差しが、出会った当初に梨璃子が咄嗟に言った言い訳だということに気づき、梨璃子は紫蘭が覚えていたことに驚きで目を見開いた。
(でも、今更罪人免除を狙ってるって、なんだか言い辛いし、それに……)
元々やる気のない紫蘭に知られたらそれだけで更に非協力的になりそうだ、と梨璃子は紫蘭の話に合わせることに決めた。
「……だったらこういう時は俺に言うべきなんじゃない?」
「え?」
紫蘭の口から飛び出した信じられない言葉に、梨璃子は思わず口をぽかんと開ける。紫蘭も自分で言った言葉が自分でも消化しきれていないのか、なんともいえない表情をしてみせた。
(え? それって、どういう意味? やっぱり今日、どこかおかしいんじゃないかしら?)
「……だって、あなたが、最初に期待するなって言ったんじゃない」
「まあ、そうなんだけど。でもあんただって、期待してないって言った癖に昨日即行で俺に頭下げたじゃんか」
「それはっ……そうだけど……」
(でもあれは目的の為に仕方なかったわけだし……)
梨璃子が痛い所を突かれて思わず口籠ると、紫蘭は構わずに口を開く。
「じゃなくてっ! 確かに、あんなのどけてくれとか頼まれても嫌だしやらないけど……でも、気持ち悪いから連れて帰ってっていうくらいなら、やってもいいけど」
「え?」
梨璃子は思わず紫蘭を見上げた。
(やっぱり、今日おかしいんじゃない?)
梨璃子は突然軟化した紫蘭の態度に、はちはちと瞳を数回瞬いた。ラヴァンドの香りはスラッグルだけでなく紫蘭にも効いたのだろうか? と失礼なことを考えていると、紫蘭の瞳がまた梨璃子へと戻る。
「あんたがどう思ってるのか知んないけど、俺だって別に、あんたのことが嫌いってわけじゃないんだけど」
「……」
梨璃子は昨日の自身の言葉をなぞった紫蘭の言葉に思わずぽかんと口を開けると、あまりにも驚いた顔をしていたのか、紫蘭の表情が不満気に歪んだ。
「あんた、俺のことどんだけ酷い奴だって思ってたわけ? まあいいけど。ほら、次来た時にはきっとなくなってるから、今日は帰ろう」
(……え?)
紫蘭に腕を引かれながら、梨璃子は反射的に後ろを振り返った。本当は気持ち悪いので二度と見たくもなかったが、それでも、確認しなければならなかったのだ。
「!」
(まだ、生きてる……)
先程のラヴァンドですっかり溶けきってしまったと思っていたスラッグルは、ほんの一回りだけ小さくした姿でまだそこに鎮座していた。梨璃子は無意識に掴まれている紫蘭の腕を引っ張ると、紫蘭の足が止まる。
「なにっ? いきなりっ」
「……ダメ。まだ帰れないわ」
梨璃子はそういってスラッグルを指さすと、紫蘭もそれに合わせて視線を上げた。あー、とその姿を確認すると渋い顔をしてみせたが、すぐに小さく首を振る。
「まあ、仕方ないんじゃない? 大きさも違えば勝手も違うでしょ。今度来た時にはさすがにいなくなってるって」
「今度じゃダメよっ!」
紫蘭に引かれた腕を踏ん張って止めると、梨璃子は思わず大声を上げた。紫蘭が怪訝そうに眉を顰める。
「だって、もし今帰って次の時にまたここにいたら? そしたらやっぱり退かさなきゃいけなくなるし、そしたら時間の無駄じゃないっ」
「まあそうだけど。でも、いなくなってる可能性だってあるし」
「確かに、それはそうかもしれないけど……でも、そうじゃなかった時に、今日やらなかったことを絶対後悔するわ。だって、その分後れを取ることになるもの……」
「後れを取るって、そんな大げさな……」
梨璃子が真っ直ぐな瞳を紫蘭に向けたが、紫蘭は先程から表情を崩すことはなかった。
「だって、諦めるって簡単だけど、諦めたらそこで終わりでしょ? だったら、今できることは今やるしかないの」
「……」
(だって、まだほぼスタート地点なのに、こんな所で諦めてたら諦める癖がついちゃう。そしたら、このゲームに勝てるわけないわ。だって、諦めたらそこで終わっちゃうんだもの)
梨璃子が生きてくる上で、それは当たり前のことだった。子供だったとはいえ、十五歳までの間に中々開花しない能力に焦ることがなかったかといえば、それは嘘になる。これをやったら良い、これを食べたら良い、言われるもの全て試してきたが、だがその度に、全く効果のないそれらに絶望することも何度もあった。だが、今ここで諦めたら全てが台無しになってしまう、と自分自身に言い聞かせ、可能性があるものは全て試して生きてきたのだ。特に罪人候補生と呼ばれるようになってからはその信条は確固たるものとなり、いつしか梨璃子の行動理念となっていた。だから今目の前にチャンスへつながる道があるのであれば、苦手だとか気持ち悪いだとかそんな理由で諦めることなど、梨璃子の中ではありえなかった。だが、梨璃子にとっては当たり前のことが紫蘭にとっては理解し難いことだったのか、その表情が更に苦々しいものへと変わった。
(なんでも持ってるこの人には、きっとわからないわよね)
紫蘭のことは王子という以外全くもって知らないが、能力保持者で王族に生まれてきた時点で、諦めたらそこで終わりだと思うようなことは今までに一度もなかったのだろうと思った。梨璃子は小さく息を吐きだすと、掴まれた腕はそのままに、もう一度スラッグルを仰ぎ見た。表面が溶け更に気持ち悪い見た目へと変化したそれに反射的に顔を歪めたが、だが視線を逸らすことはしなかった。何か手立てはないかと思考を巡らせると、ふと、体の中央に生々しく蠢く緑色の物体を見つけ、思わず視線をそこで留めた。
(核! そうよ、あそこを狙えば、仕留められるはずっ……)
梨璃子は思いがけず降って湧いた名案に居ても立ってもいられなくなりスラッグル目がけて走り出そうとした瞬間、後ろ手を引かれて思わず後ろに転びそうになった。反射的に振り返ると、複雑そうな表情で眉間に皺を寄せた紫蘭の姿が飛び込んできた。
「ねえ、どこ行くつもり?」
「スラッグルを仕留める方法を思いついたの! だから、やらなきゃっ!」
梨璃子がどこか興奮気味にそう言うと、紫蘭は更に複雑そうに表情を歪める。
「さっき足が竦んで動けなかったのに? またあそこに戻るの?」
「さっきは、突然だったから……でも、今はもう慣れたわ」
厳密にはそれは嘘だった。言われてまた意識しだした足下は相変わらず気持ち悪い感触に足下から震えが上がってきそうだったし、そもそもスラッグルの見た目がもう気持ち悪いのだから向き合いたくもなかった。
(でも、もし今ここでやらなくてそれが最終的な勝敗に影響したら、後悔してもしきれないものっ!!)
目的の為には、手段を選べる立場ではないのだ。梨璃子はそれを自覚しているからこそ、今浮かんだ感情を全て飲み込むと、紫蘭に向け笑って見せた。紫蘭が険しい顔でじっと梨璃子を見つめる。
「……ねえ、だからなんでそんなに頑張るの?」
「え?」
(頑張る?)
紫蘭が不可解だと言わんばかりに紡いだその言葉に、梨璃子はきょとんとした瞳を返す。
「……別に、特に頑張ってるつもりはないけど……今できることをやってるだけよ? だって、できるんだから、やるのが当然でしょ?」
「そういうの、頑張るって言うんじゃないの?」
「?」
(そうなの、かしら?)
梨璃子にとっては当たり前のことなので、梨璃子は紫蘭の言っていることがいまいち理解できないでいた。紫蘭の言葉に不思議そうな瞳を返すと、紫蘭は渋い表情でしばらくの間梨璃子を見つめた後、はあ、と諦めたように大きく溜息を吐いた。
「ねえ。なにがあんたをそうさせるの?」
紫蘭の言葉に、梨璃子は小さく息を呑んだ。全ては罪人免除を願う心だったが、本心を悟られないように視線を逸らすと、口元に笑みを浮かべる。
「なにがって……最初に言ったでしょ? これが私の性格なの。あなたの怠け癖が中々治らないように、私もすぐには直せないだけよ。やれることは自分でやる、そうやって育ったんだもの」
それは本当だけど嘘だった。これが罪人免除さえかかっていなければ、すぐにでも逃げ出してしまいたいくらい、別に好き好んでやりたいことでないのは確かなのだ。現に、先ほどからずっとスラッグルの残骸が触れている足など、その気持ち悪い感触に倒れてしまいそうだった。
(でも、やらなきゃ。そうじゃなきゃ、ダメなんだもの)
「……わかった。そんなに言うなら好きにすれば? 頑固だもんね、スメラギさん」
「!」
紫蘭が呆れたように吐き出した言葉に梨璃子が思わず反応して顔を上げると、紫蘭が驚いた様に目を丸くした。
「なに?」
「名前、初めて呼ばれたな、って思って……」
「そうだっけ?」
「うん……」
(なんか、不思議な感じ)
初めて同じゲームに参加しているパートナーなんだと自覚できたような気がして、梨璃子はその不思議な感覚に思わず微笑むと、紫蘭はどことなく気まずそうに頭を掻いた。
「ふふ。なんか、今ので絶対できる気がしてきたわっ……あ。ねえ、お願いがあるんだけど。これくらいの、金属の棒を出してもらえないかしら? なるべく細長いのがいいんだけど」
梨璃子はそう言うと、自分の両手を大きく広げてみせた。紫蘭が訝し気に首をかしげる。
「なんで?」
「今から使うの。なに? その顔。言えって言ったのはそっちじゃない」
「……別に。俺が言ったことだからいいけど、なんか、割り切りがすごいなって思っただけ。なんか、いちいち気にしてる俺が馬鹿みたいなだなって」
「?」
梨璃子が拗ねたように唇を尖らせると、紫蘭は呆れたように溜息を吐いた。だが、すぐに両手を合わせると、梨璃子が言った通りの細長い金属棒を作りだした。
(やっぱり凄い)
梨璃子が食い入るように見つめていると、紫蘭は何かを言いかけた口を閉じて今作りだした金属棒を梨璃子に渡した。梨璃子は有機物を生み出す能力をやはり凄いなと思いつつそれを受け取ると、紫蘭に向け小さく頷いた。
「じゃあ、すぐに片付けてくるわ」
明るい調子でそう言うと、紫蘭は呆れ顔で手を振っていた。
(……とは言ったものの、やっぱり気持ち悪い)
梨璃子は紫蘭に背中を向けると、すぐにその表情を強張らせた。少しの間忘れていた生暖かいドロドロとした感覚がすぐに足首を覆うと、足を取られた歩きにくさに加えその独特の温もりに背筋にぞわりと悪寒が走る。
(大丈夫。考えちゃダメ。こんなのなんでもないんだからっ)
呪文のように胸中で唱えながら梨璃子は一歩また一歩と足を進めると、最初にラヴァンドを投げつけた辺りに辿り着いた。スラッグルは巨大な上に動きが遅い為先ほどからほとんど動いてはいなかったが、体の表面を覆っていたスライム状の外壁が崩れ、透明な体表にはさきほど確認した核が剥き出しになっていた。
(あれを狙えば……でも、ここからだとまだ少し遠いかも。あの人みたいに遠投できるわけでもないし……)
梨璃子はもう一度スラッグルを見上げると、うええ、と自然に顔をしかめた。それでも、一歩一歩近づくと、なんとか射程距離内へ近づくことに成功する。
(近くで見ると更に気持ち悪い……)
スラッグルの核は、その体の大きさに準じており近くで見ると随分と大きかった。僅かに動くそれを見上げると、梨璃子は手にした金属棒の照準を合わせる。
(でも、やらなきゃ先に進めないんだからっ!!)
梨璃子は手に力を籠めると、迷いなくそれをスラッグルの核のある場所に一気に突き立てた。最初、つぷつぷとゼリー状の皮膚を割く感触が棒を伝うと、その直後、別の感触が棒の先に当たった。
(これで、終わりよっ!)
梨璃子は胸中の掛け声に合わせて金属の棒をもう一段階押し込んだ。
「?!」
だが、さすがに核となる部分の為かそんなに簡単に行くはずもなく、梨璃子は核だと思っていたものの周りの筋肉に押し返され、その反動でバシャリと溶けた液体の上に尻もちをついてしまった。
「ひっ!!」
顔に飛んだ飛沫の生温い感触に、梨璃子は背筋を通り抜けた悪寒に声を上げる。
(気持ち悪いっ!! って、これだけじゃダメなんだったら、どうすればいいのっ?!)
『……困っているみたいだね。ボクが助けてあげようか?』
「え?」
(誰っ?!)
急に聞こえた紫蘭ではない声に梨璃子が反射的に振り向くと、その瞬間、梨璃子を取り巻く空間があっという間に真っ暗闇になった。
「!」
(なに? これもゲームの能力なのっ?!)
『半分辺りで半分ハズレかな』
「!! 私の考えてることが、わかるの?」
また声がした方へ梨璃子が視線を投げると、今度はそこにぼんやりと人の形が浮かび上がった。病的に白い肌に、伸ばしっぱなしの黒髪は男の表情を隠し、着ている服はまるで囚人服のそれのようにヨレヨレとしていた。一目見て胡散臭い男に梨璃子は思わず顔をしかめると、それを笑った男の口元に整った歯列が覗いた。
『わかるよ。梨璃子・スメラギさん』
「……」
『さすがだね。名前を知ってるくらいじゃ驚かないか』
男は楽しそうに口元に笑みを浮かべた。
「……ゲームの中にいるってことは、私の名前くらい知っててもおかしくないもの」
『やはりキミは聡明だ。ボクの勘も鈍っていないものだね』
「? どういう意味?」
男は楽しそうに言葉を紡ぐと、ひたひたと静かに梨璃子へと近づいた。細くて長身の身を屈めて梨璃子に視線を合わせると、にっこりと笑ってみせる。長い前髪の隙間から、ガラス玉のような紅い瞳が真っ直ぐに梨璃子を捉える。
「!」
『キミに、特別な力をあげようか?』
男はそう言うと、口元だけ綺麗に笑みを作った。
「特別な、力? それって、能力っ?!」
梨璃子は弾かれるように顔を上げると、男は唇を曲げ、つまらなさそうに肩を竦めた。
『キミ、能力なんか欲しいの?』
「欲しいわよっ!」
梨璃子が即答すると、男は更につまらなそうに溜息を吐いた。そして、なぜか嫌悪するように目を細める。
『これが歪められた歴史の結果か。悲しいものだね』
「え? 何言ってるの?」
(歪められた、歴史?)
男の言葉の意味が分からず梨璃子がそれを問うように眉根を寄せると、男は小さく頭を横に振った。男はギロリと紅い瞳を光らせると、骨ばった手を梨璃子の肩に乗せた。
「!」
突然詰まった距離に梨璃子がひっと息を飲むと、男は梨璃子の耳元でこう囁いた。
『もっと良いモノだよ』
「?!」
男がそう言った瞬間、どこからともなく鉄の棒が現れた。
(あれって……)
それは、梨璃子が頼んで紫蘭の能力で生み出され、先ほどスラッグルの核を仕留め損ねたものだった。その証拠に、鉄の棒にはスラッグルの体液がまとわりついている。
(何をするつもり?)
宙に浮いた鉄の棒を注視していると、男は梨璃子のその様子に楽しそうに笑いながら右手をそれへと伸ばした。
「!」
男の指先がそれに触れると、ただの鉄の棒だったそれは、あっという間に切っ先の鋭い槍に変化した。
(え? どいうこと?)
梨璃子が今目の前で起こったことを信じられないと言わんばかりに翡翠の瞳を大きく見開くと、男は梨璃子の肩を抱き、空いている手でスっと前方を指さした。
『これがツミビトの力だよ』
梨璃子が指先に釣られ視線をそちらへやると、男の歌うような声が耳に残った。
「スメラギさんっ、逃げてっ!!」
紫蘭の声が聞こえたと思った瞬間、バシャンっと何かが梨璃子の全身にぶつかる衝撃を受けて、梨璃子は思わずその場にへたり込んだ。頭の天辺から降り注ぐ生暖かい感触にすぐに視界が真緑に塗りつぶされると、充満する独特の生臭い匂いに梨璃子は思わずえずきそうになって咄嗟に手で口を覆う。
(これって、スラッグル?)
どこか他人事のようにぼんやりとそう思うと、梨璃子は自身へと視線を走らせた。自慢の灰褐色の髪も、腕も、体も、ドロリとした緑色の体液にまみれており、地面に出来上がっていく緑の水たまりの中に梨璃子は座っていた。事実確認をするようにゆっくりと前方のスラッグルを見上げると、体液のほとんどを流し切った為その形態が保てなくなったのか、あの気持ち悪い物体はもうどこにもなかった。もちろんもう先ほどのように梨璃子たちの行く手を阻んではおらず、その先には向こうへ抜ける道が見えていた。
(あれって、本当だったのね)
ただ先程と唯一違うのは、スラッグルの核があった場所に、一本の槍が真っ直ぐに刺さっていたことだ。梨璃子は呆然としたまま自分の両掌をじっと見つめる。どちらも緑色にまみれていて、自分の素肌は見えなかった。
(ああでも、目的は達成できたのね)
「……」
「スメラギさんっっ!!」
呆然としてその場にへたり込んだままの梨璃子の耳に、バシャバシャと水面を乱暴に走る音と共に聞こえた自分を呼ぶ声に梨璃子が視線をそちらへやると、悲痛な顔をした紫蘭がこちらへ向かって走ってきていた。梨璃子は不思議と冷静な思考でそれを見やる。
(ねえ、そんなに走るから、体液がジャージに跳ねてるわよ? そういうの気にしそうなのに、どうしたの?)
「ねえ、あんた何してんのっ?!」
紫蘭は梨璃子の下へたどり着くと、躊躇う事なく体液の水たまりに膝をついた。その勢いのまま梨璃子を力任せに抱き寄せると、紫蘭が背中に回した腕にぐっと力が籠った。
(ねえ。だから、そんなにくっついたら服が汚れちゃうって言ってるじゃない)
梨璃子は自分から紫蘭を離そうと両腕に力を入れて紫蘭の胸を押し返したつもりだったが、なぜか紫蘭はびくともしなかった。
「……ねえ、だからなんでそんなに頑張るの?」
(さっきも言ったけど、別に頑張ってるわけじゃないわ。できるからやってるだけよ。まあ、今回は、私の力じゃなかったけど……)
梨璃子はぼにゃりと先程暗闇の中で出会った男のことを思い浮かべる。
「ねえ。俺ほんと良くわかんないんだけど、こんなわけわかんないゲームに、あんたがこんなに頑張る必要あるの?」
(あるわよ。だって、どうしたって罪人免除が欲しいんだもの)
「!」
梨璃子がゆるりと顔を上げると、紫蘭の顔が今にも泣き出しそうな程悲痛に歪んだ。紫蘭は両手で梨璃子の頬を包むと、梨璃子の顔についた体液を親指で丁寧に拭い始めた。
(ねえ、どうしてあなたがそんなに泣きそうな顔をしてるの?)
梨璃子は薄い水の膜の張った紫蘭の紫紺の瞳を、場違いにも綺麗だなと思って見つめた。紫蘭は一瞬驚いたように目を丸くすると、すぐにまた困ったようにうつろな瞳を返す。
「……ねえ、俺もちゃんと考えるから。泣かないでよ、スメラギさん」
紫蘭は懇願するように頭を垂れると、梨璃子の額に自分の額を摺り寄せた。
(何言ってるの? 泣きそうなのはそっちでしょ?)
梨璃子は呆れたようにそう思ったが、梨璃子の頬を伝った熱い涙は紫蘭のものではなく、まぎれもなく梨璃子のものだった。