2月 (シンG)
ふわりふわりと、舞い降りる雪が空を白く染め、吐く息すらも溶けていきそうな純白の季節。
俺は自宅から歩いて10分のところにある、駅前の洋菓子店へと足を運んでいた。
心に安らぎを与えてくれる木目調の店装を肌で感じながら、商品棚に陳列されたお洒落な洋菓子の品々に目を通していく。
やがて俺は「本日のお・ス・ス・メ! 寒い冬に熱い思いを抱く貴女に心強い味方! ブランデーチョコレートは心も身体も温めてくれます♪」という手書きポップが目立っている特設コーナーで立ち止まり、チョコレートの包みを一つ手に取り、レジへと持っていった。
同じ包みを籠に入れている客は、みな女性。
そんな中、男一人がレジ待ちの列に入り込むのは、中々に難易度の高いクエストであった。
産毛一本一本をピンセットで丁寧に摘ままれているような居心地の悪さを感じつつ、ようやくレジへと辿り着く。
会計窓口は全部で3つあり、いずれも若いお姉さんが担当していた。俺に順番が回ってきたレジを受け持つ店員さんも笑顔がとても可愛らしい人で、その事実がなおさら俺の心臓の鼓動を早くさせた。
「お買い上げありがとうございます。…………、当店では包装をサービスで行っておりますが、如何いたしますか?」
包装サービスの案内の前に生まれた間は、気にしないことにしよう。
「あ、それじゃ……お願いします」
「かしこまりました。包装はどちらのデザインにされますか?」
そう言って店員さんが差し出したのは、包装デザインが並んだメニュー。
3つの選択肢の中から、俺はピンク基調でハートマークがやけに自己主張している包装を指さし……「これで」と伝えた。
「こちら……ですね。かしこまりました」
包装デザインと俺の顔を交互に見つつ、店員さんはニコリと笑顔で要望を受け取ってくれた。
別の店員さんが包装してくれている間に会計を済ませる。
その間にもチラチラと感じる視線の数々は、鋼の心でガードする。……いや、すまん。正直に言うと、既に鋼は脂汗でドロドロに溶け、剥きだしになった心に色々なものが突き刺さってきている。
洋菓子店だっていうのに、随分と暖房が効いているじゃないか。へへ、冬だってのに脂汗が止まらないぜ。
「お待たせいたしました。それではこちらをどうぞ――」
「あ、すみませんっ」
「は、はい?」
「あの、一つだけお願いがあるんですが……」
「……? はい、なんでしょうか……」
「えっとですね……え~っと……」
「……?」
ヤバい。早く言わないと、危険人物と間違われてしまう。店員のお姉さんの怪訝そうな顔が、恐怖に転じる前に言い切らなくてはっ!
「あのっ……そのチョコレートを『本命です』と言って俺に渡してくれないでしょうかっ!」
「……」
「……」
「…………」
「…………ぁ」
嫌な間が流れ、思わず「すみませんでしたぁ!」と口にしようとしたところで――店員のお姉さんは、ニコリと微笑み、
「本命です♪」
と明るい声と眩しい笑顔で、ブランデーチョコレートが入ったラッピング済の包みを渡してくれた。
一店舗のレジを任される店員としてのプロ意識を、その覚悟と矜持を見た気がした。その強き心に思わず背筋が震える。俺は背中が垂直に伸びる気持ちで彼女の目を真っ直ぐ捉え、礼を告げた。
「――――ありがとうございます」
「いいえ、色々とあるのかもしれませんが頑張ってくださいね」
まさか……突然のお願いを快く受けてくれただけに留まらず、俺への配慮まで怠らないとは……この女性は女神の化身なのではないだろうか。端正な顔に浮かべる沈痛な面持ちは、きっと俺を慮ってのものなのだろう。本当に奥深いお姉さんである。
俺は数秒前まで溢れかえっていた緊張感がサッと引くのを感じ、逆に尊敬の意を以って恭しくチョコレートを受け取り、小さく会釈をして店を出ていった。
「……お前、なにしてんの?」
帰路の途中、背後から呆れた口調で、やつが話しかけてくる。
「ぎ、疑似バレンタイン……」
「はあ?」
「う、うっさいなぁ……」
「突然どうしたんだ、お前。熱でもあるんじゃないのか?」
「そんなことは――」
と否定しようと思ったが、確かに雪が降り注ぐ中を歩くにしては身体が熱い気がする。
「ん、ちょっと待てよ……ははぁ~ん。お前、そういや昨日……ドラマを食い入るようにして見てたよな。ほれ、お前が毎週楽しみにしてるあのドラマだよ」
ギクリ。
「ちょーどバレンタインの話が中心で、甘々なカップルのシーンが盛沢山だったけど……まさかそいつらを羨ましがって、今日の奇行に繋がったわけじゃないよな?」
「……ばっか、んなわけねーだろ? どんだけ見切り発車の暴走トーマスなんだよ、俺は」
そう言いながら、乾いた唇を舌で舐めた。
「へっ、もう正月のこと忘れたのかよ。思いつきであんだけなげー書き初めを書くような奴が、どの口がって話だよな」
「なんだかんだ言って、あの時はお前もノリノリだったじゃないか」
「お前のレベルに合わせてやってんだよー」
ったく、あんなに初夢について語り合ったというのに、いまさら隠すことか?
まあでも、それが"やつ"であり、それがまた心地よい距離感でもあるんだけどな。
人一人分が歩ける程度に除雪された歩道を進んでいく。車や人が踏み均した雪の道は、気温差によってアイスバーンを張ることがある。上空から降ってくる軽い雪がそれを覆い隠してしまうため、気付かずに思いっきり踏み込むと、ツルっと滑ることがあるわけだ。
こういう雪道は、摺り足で進み、踵に重心を置かないようにして歩くのが転ばないコツだ。
等身大の雪の轍の中、俺は白い息を吐きながら雪化粧に包まれた街並みを眺めながら、家へと向かう。
そんな時だった。
「きゃっ!?」
前方をこちらに向かって歩いていた女性が、足元を滑らせて派手に転倒した。
尻餅をつくと同時に、腕に抱えていた買い物袋も落としてしまったようで、袋の中身がそこらに転がってしまっている。
「いったぁ~~……もぅ」
衝撃で崩れた前髪を指で梳き、そこから見えた女性の顔は――はっきり言おう。俺の好みのストライクゾーンど真ん中だった。
頭の中に名作ドラマ「ラブストーリーは忽然に」の主題歌が流れる。
そのバックサウンドに肩を押されるようにして、俺は彼女に手を差し伸べんと小走りで向かう。
人との出会いは一期一会。この出会いはもしかしたら一生に一度しかない、奇跡の巡りあわせなのかもしれない。これをきっかけに、ドラマを準えるように新しい運命の歯車が回り始めるかもしれないのだ。
まあ、それはあまりにも飛躍した願望だけど、それを抜きにしても人助けは悪いことではない。
ちょっと手を貸して、落とした荷物を拾ってあげるだけ。後は笑顔で別れるだけの話でも、俺の気分は上々になることだろう。
今日の俺は思い立ったが吉日。
洋菓子店で培った勇気をここで奮わずして、何処で奮うというのか。
「おいっ、んな急に走るとっ――」
そんなことを考えていたからだろうか。
やつの忠告は確かに耳に届いていたというのに、俺は逸る気持ちが先走り、足元が滑りやすい雪道であることをすっかり失念していた。
「どわっ!?」
踵に重心がかかった瞬間、降り積もった雪の下に隠れていたアイスバーンに足を取られた。
滑り慣れているとはいえ、摩擦係数ほぼゼロとなった足元に踏ん張るための安全地帯は存在しない。両手を振ってバランスを取ろうとするも、あえなく俺は派手に転んでしまった。
しかもそのまま前方へとサッカー選手のスライディングばりに滑り込み、転んだ女性のちょうど真横で止まることとなる。
身体を女性の方へと傾け、後頭部についた雪を体の下にある右手で払っていると――あら不思議。何故か俺は涅槃のポーズを自然と取っていた。
俺は悟りを開いた心境で、唖然とこちらを見ている女性に口を開いた。
「お姉さん、大丈夫ですか? 宜しければお手を――」
「い、いえっ……結構です!」
女性はこの世ならざる何かを垣間見たように焦燥を隠さず、転がった荷物を乱暴に買い物袋に押し込め、速足で去っていった。
「もう一度聞くけど……お前、なにしてんの?」
「言うな。俺は今、悟りを開いている」
まさに脳内BGM通り、ラブストーリーは忽然と消えていった。
そういえば主題歌の歌詞が、まさに恋を謳うバラードだったから失念していたが、あの「ラブストーリーは忽然に」はタイトル通り、忽然と赤い糸が切れるという悲恋モノのドラマだったな。なんでその主題歌を流した、俺。
さめざめと過去を憂う俺は、結局悟りを開くこともできず、トボトボと帰路の続きを辿ることとした。
家に帰って、熱を測ったら39度を回っていた。
あぁ、洋菓子店で背筋が震えたのも、暑くて脂汗が出たのも、今日一日の行動がちょっとおかしかったのも……風邪を引いて熱にうなされ、正常な判断ができていなかった所為なのかもしれない。
布団で横になる俺を見下ろして、やつはくつくつと笑う。
「今日のお前は伝説級にアホだったな。元気になったら心置きなく揶揄ってやるから、さっさと熱を冷ませよ」
「…………うっせー…………」
雪が降り積もる2月は、黒歴史を積む不本意なものとなってしまった。
熱が下がってから開封したブランデーチョコレートは、涅槃ダイブによって輪廻解放しており、崩壊したチョコレートと中から滲み出たブランデーゼリーの様子は、2月14日の俺そのものを具現しているように見えた。