偏愛図書館
私にとって、図書館は完全な場所だ。
それは完全な場所であり、充足した環境だ。全ての歴史、世界そのものがアーカイブ化されている。私にとってそれは、世界のミニチュアというよりはむしろ、世界以上に大切だ。なにしろ、世界は広すぎる。この小さな空間にあらゆる過去、人間、宇宙、動植物、哲学、殺人、道徳、その他色々なものが詰まっている。
私は終日、図書館にいる。ここで、一日を終える。それだけが私の望みだ。他にやりたい事はない。何も目標はないし、望みもない。ただ図書館にいて、アーカイブ化された世界を堪能する。それだけでいい。その他には何もいらない。世界そのものも必要ない。言葉の宇宙があれば、本物の宇宙は必要無い。
ここは忘れられた図書館だ。県立の図書館なのだが、どういうわけか立地が悪く、人はあまり来ない。バカな行政が好景気の時代にたんまり金をかけて作ったらしく、内部は広くて三階建て、一階から三階までの吹き抜けになっていて見た目は壮麗だ。書籍の数もこの国で三番目に多いらしい。
私はその近隣に住んでいた。家はここから歩いて五分の所にある。何もない田舎だけれど、こんな図書館があるという事だけで私には十分だった。それ以外の事なんて、些事にすぎない。私が…特定の場所では、何者としても扱われていなくて、取るに足らない存在だとしても、この図書館では万能の存在でいられた。私は言語の宇宙と一つに溶け合って、世界は私に、私は世界となる事ができたのだった。余計な夾雑物である所の、人間というものをまたぎ越えて、私はそのまま世界になった。日常生活では面倒くさい人間という種も、言葉になりアーカイブ化されてしまえば、それなりに美しいものに見える。
私は図書館で、上方から入ってくる光に包まれながら、次のような想像をした。人々というものがある日、忽然と消えてしまい、地上の建築物もほとんど消えてしまうのだが、たった一つ、巨大な図書館だけが残る。そこには全ての人間の過去・知識がアーカイブ化されていて、私だけがたった一人取り残される。何故か、人類の中で生き残ったのは私一人で、私は図書館の中で生きていた。
そこで、ゆったりと、本を読み始める。私は人々を、人間という種を過去の生物、もう消えてしまった古生物のように眺める。彼らがどのような進化を遂げ、どこで挫折し、何故消えていったかを書物をめくりながら確かめていく。私はそれがしてみたかった。
人間と触れ合うのは嫌いだった。彼らは決まって、自己主張だの、世の中の事を考えろだの、つまらない事を言うから。でも、彼らも活字になってしまえば、安堵できるものとなった。
私には活字になった世界があればそれで十分だった。世界が亡びて図書館だけが残り、ページをめくって時を過ごす。多分、その時、私は永遠と化しているのだろう。「永遠」は時間というものの凍結作用であり、図書館は全てを、空間的な配置ーー「意味」に変換してしまう。意味の堆積の中で、日々、人々の過去と向き合う。死んだ人々は素晴らしい。死んだ世界は素晴らしい。生きている時には騒がしいだけの愚かな人も、死んでしまえば凝結した意味を持つようになる。それなら、人類を愛せるようになる。凍結した人類なら、私は愛せる。
例えば、こんな言葉がある。少し、見てみよう。
「もし出納係が勘定をごまかそうとすれば、支配人はおそらくどこか物陰に身をひそめて、ふとどきな使用人の現場を押さえるのに造作もあるまい。ものを書くとは勘定をごまかすことか? 私にはまったく見当がつかない」
「いちばん目の鋭い読者が私を難詰したとしても私は笑うだけだろう。私が恐怖しているのはこの私自身なのだ。」
(ジュルジュ・バタイユ 「内的体験」)
これはバタイユっていう偏屈な哲学者の書いた文章で、さすがに偏屈さがよく出ている。ちなみに私も偏屈であるから、こういう文章ににじみ出ているある「感覚」というのがとてもよく分かる。でなければ、人類滅亡後の図書館に一人でいたいなんて言い出さないだろう。
別の人はこう書いている。
「我々がその普遍的意志を意識しないという場合はあり得る。人間は或るものが自分の意志であるにかかわらず、それが全く自分の意志に反すると考えることがある。罰せられる犯罪者は無論、刑罰が免じられることを望むだろう。しかし普遍的意志から云えば、犯罪が罰せられるということは當然である。それ故に犯罪者が罰せられるということが犯罪者自身の超越的意志の中に存在するということが承認されなければならない。」
(ヘーゲル 「哲学入門」)
これはヘーゲルという哲学者の言った言葉だ。相変わらず難解で面倒だが、問題は「普遍的意志」という所にある。ルソーからの引き継ぎのなのかもしれないが、どっちにしろ、普遍的意志のごり押しで、例えば「私」という主体の感情や思考が蹴り飛ばされては困るという側面もあるわけだ。もちろん、ヘーゲルもその辺りはわかっていて言っているんだろうが。
ヘーゲルは、文章の末尾で次のような結論に至る。
「(略)しかし彼が當然に罰せられることを承認する以上、彼の普遍的意志は刑罰に賛同するのである。」
ここは非常に微妙な所だ。何故なら、「彼」という主体の奥の底に普遍的意志をヘーゲルは見ているが、「彼」の側は絶えず、そんな普遍的意志などない!と逆らう事ができるから。ヘーゲルはもちろん、決してそんな事では退かないだろう。彼にとっての神は絶対精神であり、普遍的意志なるものは、人間の奥にあって、それが奥から人間を規定していた。でも、私は思う。ヘーゲルという人は果たして普遍的意志に貫かれていたのだろうか、と。普遍的意志を意識する普遍的意志とはどんなものか。
こういう思考のもつれから実存主義なんかが出てきたのだろうけれど、実存主義の事は別にいい。実存…まあ、それはいい。私は今ここで「実存」しているけれど、それを「実存」なんて言いたくない。ただ私は呼吸したり本を手に取って読んだりしている。それだけだ。
別の本にはこうある。
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
(宮沢賢治 「春と修羅」)
これは宮沢賢治だ。私にはヘーゲルよりも、宮沢の方が遥かに身近に感じる。私が日本人だからなのかもしれない。
宮沢賢治が二千年後の考古学的世界を想像するというのは、私の感覚に近いと思う。私もまた、人類が消滅した後の世界を考えるから。その時、人は人でなくなっているのかもしれない。人の意識は三千年前に生まれたと主張した学者もいたし、未来の事はわからない。私のイメージでは、未来の世界は亡びている。でも、宮沢賢治のビジョンの方が遥かに豊かだ。
…私は引用した詩の部分の意味が最初、わからなかった。それで、三日三晩、考えた。月曜が休みだったので、本当に三日三晩考えた。土日と合わせて三日の間を、詩の解読に努めた。
私に飲み込めなかったのは「白堊紀砂岩の層面に透明な人類の巨大な足跡を発見するかもしれません」という言葉が果たして比喩なのか、それとも真実として宮沢が言っているのかという事だった。宮沢賢治は本当に将来の考古学者がそんな発見をすると信じて書いたのか、比喩でそう言っているのか、それがどうしても理解できなかった。
また、そういう発見が一体、どういう事なのか、というのも謎だった。私は三日間、唸るように考えた。本当に唸っていたかもしれない。ベッドの上で一人で唸っていたかもしれない。
二日目の夜、夢を見た。真っ暗な中、すぐ上に夜空があった。巨大な夜空が私の上にあって、下には地面がなかった。頭のすぐ近くに星が光っていて、手に取れそうだった。下を見ても暗闇で、空中に立っているようだった。
私は手を伸ばして、夜空に手を突っ込んだ。私はいつのまにか巨人になっていて、空を手でつかめるほどになっていたのだ。夜空の奥に手を突っ込むと、手は星空を突き破り、奥まで入っていた。空の奥に「何か」があって、その「何か」を私の手が掴んだ。ぐにゃりとした感触が体に染み入った時、ふと目を覚ました。目が開き、そこにはいつもの自分の部屋があった。私は呆然として部屋を見た。夜空はもうどこにもなかった。
その後、私はシャワーを浴びた。夢の印象は生々しいままだった。意味はわからなかったものの、何かを掴んだ感触は手の中にはっきりと残っていた。
シャワーを浴びて放心状態だったが、しばらくすると私は何かを口ずさんでいた。それはあるドラマのオープニング曲だった。どうしてそのメロディを歌ったのかは自分でもわからなかった。「あ、これはあのドラマのオープニング曲だな」 メロディに思いを巡らした時、突然、宮沢賢治の詩の意味が理解できた。それは夢で見た光景のように、目の前にありありとしたヴィジョンとして現れた。「そうか」 私は呟いた。「そうだったのか」
その意味について語るという事は難しい。宮沢賢治が見たのはある種のビジョンであり、私にとっては、私だけが壮麗な図書館に一人生き残って過去のページを見ているのと同じようなビジョンだった。宮沢が見たのは歴史の意味だった。その断層と言った方がいいだろうか。過去の科学の歴史を振り返れば、例えば、物質の定義は様々に変化していた。ある時は、原子であり、ある時はエネルギー、ある時は量子という幽霊のような塊、そしてある時は、紐の振動によって物質が成り立っているというような…。
人間の認識には限りがないし、その認識に従って世界は絶えず作り変えられていった。だから、未来のある時に、考古学者は、「白堊紀砂岩の層面に透明な人類の巨大な足跡を発見するかもしれ」ないのだ。宇宙の有様が時と共に、人間の認識により作り変えられ、それと共にそこに生きる人々も変化してゆく…。私達は自分の常識にしたがって世界を見ているが、いつか「気圏のいちばんの上層(略)からすてきな化石を発掘したり」するかもしれない。世界は私達と共に変化してゆく。そのダイナミックな認識の変化、歴史の考古学的地層、その断面図が宮沢の脳内にある時訪れたのだ。だから、今、ここでこうして生きている私もまた、未来においては別様の存在となっているだろう。…いや、私がどうであるかなどは大した事ではない。世界はあるべくしてあり、それは、その時々の認識によって変化してゆく。そんな世界を私達は生きていて、この宇宙もやはり、私達人間がそのようなものとして見た宇宙なのだ。宇宙は膨張して変化してゆく。それと共に私達も変化して行き、世界もまた作り変えられていく…。
その幻視をシャワーを浴びている時に感じた。宮沢賢治は自身をそうした因果系列における電燈だとみなしてしていた。彼は時間と空間の中を旅する「有機交流電燈」だった。だとしたら、私もまた過去から来る風を感じている電燈に違いない。私は時間と空間の無数の層の中でチカチカ点滅する電燈の一つだ。電燈はある時消えても、また別の電燈が灯り、時間を旅してゆく…。
過去は無限のものとしてあり、未来も無限のものとしてあってその中で私は永遠だった。それは、私が抱く図書館のイメージとも一致していた。
私は図書館にいて、膨大な過去の蓄積を目の前にしていた。過去は累々として私の目の前にあり、人々の悲惨も栄光も戦争も平和も、全てが図書館の中に収まっていた。一人の人生は一ページ、あるいは一行で集約される事もあり、それがその人の人生そのもの以上に意味を持つ事すらあった。ここは終末の図書館で、未来という時間は私の中にしかない。即ち、全てを読み、考え、理解し、それに対して注釈をつけるこの私という存在。私は時間の集積の到着点なのだ。それが私だった。うず高く積まれた書物の上に、一人私は座っていた。この隔離された県立図書館で。
しかし、やがては私もまたほんの一ページ、一行に集約される時が来るだろう。私もいつか、未来の私ーーもう一人の私、他者としての私、分身としての私に読まれる日が来るだろう。それは有機交流電燈のようなもので、読む「私」は絶えず時間の中でチカチカ光っているのだ。読まれる私は書物の中の一行として、もはや消え去った過去として現れる。
だから、今、私が膨大な過去を読む事は、過去における一断面である私自身を読む事でもあるのだ。歴史は無数の「私」によって織りなされてきた。私もまた過去の積み重なりの部分となり、同時に、それを読むのも私である。その連鎖こそが歴史を成してきた。行動する人々は本となり、過去となった本に触発されて人は行動を起こし……
私は宮沢賢治の詩に触発されて、そんなイメージを自分の中に織りなしていた。図書館の閉館時間は迫っていた。この図書館は決して永遠ではない。ただの県立図書館。永遠としての図書館は、私の中にあるただのイメージにすぎない。時間は迫ってきている……
私は本を読んでいた
永遠の中で
永遠の一部となる日が来るのを待ちながら
私自身が読まれる日が来るのを待ちながら
※※※
私は本を読んでいた。近くの県立図書館での事だ。閉館時間は近づいていた。
私が読んでいたのは宮沢賢治の「春と修羅」という詩集だ。読みながら、様々な事を考えていた。館内には人はまばらで、私のいる三階の座席には私一人しかいない。
本を読んでいると、ツカツカと誰かが階段を上がる音がした。その音だけで、誰なのかわかった。体重の軽い人間が立てる足音。それでいてかなりせわしない。まだ、十代の子供。それが誰か、私にはわかっていた。
その誰かは三階に上がるなり、まっすぐ私の元にやってきた。私のお気に入りの席がどこかも知っているのだ。
「お姉ちゃん!」
我が弟は大きな声を出した。…いつもの事だ。
「どうしたの? 翔太?」
返答する。本から顔を上げずに。これもまた見慣れた光景だ。
「お母さんがご飯だから、もう帰ってきてだって! …ってか、もう何度目だよ! 時間見て、自分で帰ってこいよ! バカ姉!」
私はまだ顔を上げない。「春と修羅」を読み続けている。
「バカじゃないわ。私はね、翔太。未来の事を考えていたの。宮沢賢治も言っているわ。『諸君の未来圏から吹いて来る 透明な清潔な風を感じないのか』って。翔太、私は未来からの風を感じていたのよ。そして、宮沢賢治という過去からの遠い声を聞いていたのよ…」
「バカ姉のそんなポエムはどうだっていいんだよ。明日、球技大会で、早く家を出るんでしょ? またこんなに遅くまでここにいて! 母さんがとっとと呼んでこいだって! もう、毎回毎回、姉さんを呼んでくるのに疲れたよ。ほら、行くよ!」
弟は私の腕を引っ張った。仕方なく立ち上がった。
「バカ姉! それ借りるなら早く借りなよ! もう閉館でしょ?」
「もうこの本は持っているわ。だから、借りなくても大丈夫よ」
私はすぐ近くの書棚に「春と修羅」を戻した。そう、「春と修羅」は部屋の本棚に置いてある。
「どうして、持っている本をわざわざ図書館で読むんだよ! バカな姉さんだな! ほんとに! ほら、行くよ、早く!」
「行くわよ。帰るわよ…」
物憂そうな私は弟に引きずられて歩いて行く。二人で階段を降りる。
私は制服を着ていた。紫ケ丘高校。学校の帰りに直接、図書館に来たのだった。弟に引っ張られて、図書館を出る。家まで歩いて行く。
私の夢想はあっさりと破られた。永遠の図書館はあっさりと、暫時のものとなった。私は何の変哲もない歩道を歩いていった。そこには過去も未来も存在せず、宮沢賢治の声も、ヘーゲルもバタイユも、その他大勢の声も、歴史も何もなかった。ただいつもの道があるだけだった。
「バカな姉さんだな!」
翔太はまだ言っていた。翔太はぐんぐん歩いて行く。私は遅れないようにとついていく。
「そんなに本ばっかり読んで、一体、何になるんだよ! 学校の勉強もそんなにできるわけじゃないだろ! 何のために本読んでるんだよ! 何がしたいのかわかりゃしないよ!」
弟はそんな風に愚痴っていった。私は、ただぼんやりと歩いていった。背後には図書館があった。ただの県立図書館。そこには永遠はなかった。ただ私の心の中にあるだけでーーでも、いつか、あの夜空を掴めるだろうか。夜空の奥にあるものを掴めるだろうか。私が見た夢、あれは幻影ではない。夢は幻影じゃない。
私は考える。また、あの図書館に戻って来れるだろうか。
歩きながら、考えた。「明日、球技大会が終わったら、その足でここに来よう」と。泥だらけ、汗だらけになっても別に構わない。明日すぐ来よう。
それまでしばしの別れだ。私の図書館。過去の集積。私自身が載っている本の一ページ。それまでの別れだ。
私は歩いて行った。弟に導かれ、家についた。家の窓からは夕飯の香りが漂っていた。
扉を開けた時、翔太が「ほんとにバカ姉なんだから」と小さな声でまた言った。私は聞かない振りをして、敷居をまたいだ。