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 けれどもその日、マリリンちゃんはお天気が良かったにも関わらず、二匹のもとへ遊びにはやってきませんでした。

「……マ、マ、マリリンちゃん。も、も、もしかして、ど、ど、どこか具合が悪いのかなあ」

ムサシくんが心配そうに、しょんぼりしながらそう言いました。

「べつに、天気がいいのに外へ出てこないなんてことは、これまでにも何度かあったじゃねえか。おめえはただ、時分の伝えたい言葉を忘れねえように、口の中でもぐもぐ練習してりゃあいいんだよ。緊張のあまり、どもりにどもりまくって、相手にも自分にも何言ってんだかわかんねえようにならねえようにな」

「う、うん。そ、そ、そうするよ」

とムサシくんは素直に答え、大きな広い小屋の中をあっちへうろうろ、こっちへうろうろしながら、プロポーズのイメージトレーニングを再び開始することにしました。

ダークは、(まあせいぜいがんばりな)と心の中でムサシくんにエールを贈ると、鉄の鎖をじゃらじゃらいわせながら、自分のみすぼらしい、ぼろっちい小屋の中へと帰っていきました──物事はこういうことだったのです。

ダークは、マリリンちゃんの家へ遊びにいく途中の、シーズ―犬のレイナを捕まえると、こっそり、あることづけを頼んだのです。『夜になって、人気も犬気もなくなったころに、こっそり家を抜けだして、ムサシの奴に会いにきてほしい』というメッセージを、ダークはレイナちゃんに託したのでした。レイナちゃんはマリリンちゃんと大の仲良しで、ムサシくんのことも前々から知っていますから、すぐにダークの申し出も承知して、何ごともなかったかのようにムサシくんに挨拶し、マリリンちゃんの家へと遊びにゆきました。そしてレイナちゃんは、午後三時のお茶会を御主人さまと一緒にすませて、マリリンちゃんの家の石の段々のある庭先から出てくると、ダークに意味ありげな目くばせをひとつして帰っていった──と、こういうわけなのです。


その夜、マリリンちゃんは足音をひたひたと忍ばせて、ダークの小屋のそばを通っていきましたが、ダークはあえて気づかないふりをし、さらに嘘のいびきまでかきながら、『俺さまは眠っているぞ』とムサシくんにもマリリンちゃんにもアピールしようとしていました。 (俺も我ながらなかなか気の利く犬だ)などと思いながら……。

「ムサシさん、ムサシさん」

マリリンちゃんは、コツコツ、とムサシくんの犬小屋の、薄い鉄板製の出入口をノックしました。

ムサシくんはその時、まだぐるぐると考えごとをしておりましたので、マリリンちゃんの呼び声にすっかり動揺してしまいました。

「だ、だ、だれ?」 「わたしです。マリリンです。中へ入ってもよろしいかしら?」 「う、うん。い、い、いいよ」

 ムサシくんは、心臓が破裂しそうなほど、どきどき、どきどきと脈打つ音を、耳のすぐ裏のほうで聞く思いでした。

 マリリンちゃんは器用な手つきで木製の留め金を上げますと、ドアを開けて、ムサシくんの小屋の中へと入っていきました──そしてマリリンちゃんはとても嬉しそうに、ムサシくんに夜の挨拶をしました。

「こんばんわ、なのですわ」

「コ、コ、コココ、コンバンワ」と、ムサシくんはぎこちなく答え、そして、 (これは月の光が見せている、夢の魔法なのではないかしら)と考えました。 月の光の下で見るマリリンちゃんは、いつもよりもいっそう毛づやが良く、茶色い愛らしい瞳がぬれて見え、頭の上の赤いリボンも、陽の下で見るよりもずっと、美しく輝いているかのようでした。

「ど、ど、ど、どうしたんだい? こ、こ、こんな時刻に?」

 ムサシくんは落ち着かなげに、片方の前足をちょっと上げながら、マリリンちゃんにそう尋ねました。するとマリリンちゃんはどこか悲しげにうつむいて、右の前足で地面の砂をかいていました。

「だってわたし、ムサシさんがお話があるっていうので、それでうかがったんですのよ? レイナが三時のお茶会にきた時、ダークさんがそうおっしゃったって……わたし、とても苦労をして抜けだしてきたんですのに」

 その時、ムサシくんの両耳が、これ以上はないというくらいに、ピン、と張り詰めたように立ちました。

「そ、そ、そうなんだ。ぼ、ぼ、ぼく、マママ、マリリンちゃんに大切なお話があるんだ」──ムサシくんは意を決しました。 「まあ、なんですの?」

 マリリンちゃんは美しい、ぬれた感じのする両の瞳でまばたきしながら、ムサシくんを見上げています。

「マ、マ、マリリンちゃん。ぼ、ぼ、ぼく、マリリンちゃんのことが大好きなんだ! そ、そ、それで、ぼ、ぼ、ぼくと……結婚してほしいんだ!」

 マリリンちゃんは、まあ、という顔をして、驚いたように、黒い唇を半分くらい開いていました。

「だ、だ、だから、ほ、ほ、他の犬とお見合いなんてしないでほしいんだ! ぼ、ぼ、ぼくは、こ、こ、このままここから逃げよう! そ、そ、そして、遠く遥かな海の見える町で、二匹で暮らすんだよ。も、も、もちろん、ぼくが朝のごはんや晩のごはんやおやつをとってくるし、マ、マ、マリリンちゃんは何ひとつ心配しなくていいんだ。おっかない野良犬がやってきたら、ぼくがおっぱらうし、マ、マ、マリリンちゃんのことはぼくが全身全霊をかけて守るから……だから、だから、その……」

 ムサシくんはそれ以上何を言ったらよいかわからず、自分の小屋の金網に頭を打ちつけて死ぬか、この場から五百メートルほども一気につっぱしって、逃げだしたいような衝動にすらかられました。

 マリリンちゃんは長いまつげを伏せたまま、おし黙っています。

「マ、マ、マリリンちゃん……」

 ムサシくんが情けない声でそう呼びかけると、マリリンちゃんは涙にうるんだ瞳で、ムサシくんの顔を見上げました。

「ムサシさん。そうすることができたとしたら、どんなにか幸福なことでしょうね。二匹で自由に野原を駆けまわり、一緒になって蝶々を追いかけ、海辺の砂浜でたわむれることなどができたとしたら、どんなにか素敵なことでしょう。でも、それはとてもできないことなのですわ。実はわたし、今日はムサシさんにお別れを言うためにここへやってきたんですの。だってムサシさん、考えてもごらんなになって? あなたが今日、もしここからいなくなってしまったとしたら、おばあさんに先立たれてひとりぼっちになった、あなたの御主人さまはどうなりますの? おじいさんはムサシさんとおばあさんの思い出話をしたり、ムサシさんと一緒にお散歩にいったり、ムサシさんのお世話をあれやこれやと焼いたりすることなどが、大きな生きる張りあいとなっている方ですもの。ムサシさんがいなくなったとしたら、きっととてもお悲しみになられるわ。それに……わたしだって、わたしの御主人さまを裏切るような真似は決してできませんもの。それがわたしたち飼い犬の運命……いえ、宿命なのですわ」

 マリリンちゃんにこういわれてしまうと、ムサシくんはもう何も言うことができませんでした。もちろんムサシくんだって、マリリンちゃんと駆け落ちすることが、一体どういうことを意味しているかということは、なんべんもなんべんも考えぬいたことだったのです。でも一時的な気の迷いや錯覚などでは決してなく、ムサシくんはマリリンちゃんのことをとてもとても愛していました。そして飼い主のおじいさんよりもマリリンちゃんのことを愛しているということに、気づいてしまったのです。そのことはムサシくんにとって、ある意味とても悲しいことではありましたが、かといって自分自身ではどうすることもできない気持ちでもありました──それで、マリリンちゃんに決めてもらいたいと、そう思ったのかもしれないと、ムサシくんはこの時になって初めて、マリリンちゃんの言葉によって気づかされたのでした。

「ムサシさん。どうかこれからもわたしと、仲の良いお友達でいてくださいね。わたしは明日、隣の隣の隣町にある、小林さんのおうちに預けられにいってしまいますけれど、元気な赤ん坊を産んで、きっとわたし自身も元気にまたここへ戻ってまいりますから……ムサシさん、わたし、時々甲思うんですのよ。お友達ってなんて素晴らしいんでしょうって。もしかしてわたしたちが結婚して一緒になるより、ずっとお友達のままでいられることのほうが、はるかに尊くて素晴らしいことなのかもしれませんわ」

 ムサシくんにはもう、マリリンちゃんの可愛らしい、涙にうるんだ瞳を見続けることは、とてもできませんでした。

 それで、まったく心にもないことなのに、「うん、そうだね」とうなづくことくらいしかできなかったのです。

 ムサシくんは、自分の犬としての人生の幕がおろされてしまったかのような、そんなみじめな気持ちでいっぱいでした。

「その、リックとかいう小林さんちの犬が、とても優しい、いい犬だといいね」

 ムサシくんは失望のあまり、さらにそんな心にもない言葉をマリリンちゃんに告げると、マリリンちゃんから顔をそむけて、月を見上げました。涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死の思いでこらえるためでした。

 するとその時、ふうわりと、とてもいい匂いがしました──それと同時に、ふさふさした気のやわらかい感触が、ムサシくんの胸のあたりにはありました。 マリリンちゃんは前足を立てて、ムサシくんのほっぺにキスをひとつすると、そのまま鉄板の扉を押し開けて、駆け去ってゆきました──あとには、ムサシくんを見下ろす満月の光と星々の輝き、夢のような思いだけが、ムサシくんに残されたすべてのものとなったのです。


 ムサシくんはその夜から、よくこういう夢を見るようになりました。マリリンちゃんと二匹で、野原をどこまでも笑いながら駆けていったり、その途中の小川で一緒に水を飲んだり、色とりどりの綺麗な花々の上をたわむれてゆく蝶々たちを追いかけたりする夢です。夢の中では二匹とも、とてもとても幸福でした。そしてその夢はいうtも、ムサシくんとマリリンちゃんが青い海の砂浜をどこまでもどこまでも駆けてゆくというところで終わるのです。  

ムサシくんはマリリンちゃんの夢を見たあとは、いつも決まって月に向かって遠吠えしました。何故かというと、その夢を見るのはいつも決まって満月の夜だったからなのです。

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