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「ダ、ダ、ダークくん。さ、さ、さっきのはちょっと……言いすぎだったんじゃないかなあ。カ、カ、カールくんの飼われている家のお父さんの会社、と、と、倒産しそうだっていうお話だから……」
柴犬のカールが帰ってしまったあと、ムサシくんは小屋の金網ごしに、ダークにそう話しかけました。
「飼い主の父さんの会社が倒産か……ケッ、笑えやしねえ」
ダークはそう言って地面につばを吐くと、日向ぼっこをするために、黒い毛並みの大きな体を丸めようとしました──と、そこへ、
「やあ、今日はいい天気だね」
同じ町内に住んでいる、スパニエルコッカーのジャーヴィスが、白い大きなしっぽをゆらゆらと揺らすように振りながらやってきました。
「や、や、やあ。ジジジ……ジャーヴィスくん。き、き、今日は、本当にいいお天気で、ほ、ほ、本当にいいお散歩日よりだね」
「そうともさ。君たちも御主人さまにおねだりして、お散歩に連れていってもらうといいよ。僕はこれから御主人さまと、それからガールフレンドのジェニファーと三人で、ドライブへ行く予定なんだ。ポルシェとかいう名前の赤い車に乗って海にまで行くんだよ。君たち、海へは行ったことがあるかい?」
ダークは体を丸めてどすん、と自分のみすぼらしい犬小屋の前に寝そべると、「ケッ、ねえよ」と答えました。そして内心、(またはじまったか、この自慢屋め)と思っていました。
「ぼ、ぼ、ぼくもないよ。な、な、なんでも、ご、ご、御主人さまのお話だと、と、と、とても綺麗で、す、す、水晶みたいにきらきら輝いているっていうお話だったけど」
「ザッツ、ライト!(そのとおりさ)」ジャーヴィスは二匹に向かって目くばせしました。「あ、御主人さまが呼んでる。じゃあ君たちまたね。僕は美しい海の見える砂浜で、ジェニファーとたわむれてくるよ」
スパニエルコッカ―のジャーヴィスは、赤いポルシェの後部席にジェニファーと一緒に乗りこむと、車のうしろの窓から、ムサシくんとダークに向かって片方の前足を振っていました。
「いいなあ、いいなあ。ジャーヴィスくんはガールフレンドのジェニファーがいて。ぼ、ぼ、ぼくも、か、か、可愛い犬の女の子と、あ、あ、あんなふうに、デデデ、デートしてみたいなあ」
ムサシくんのこの言い方を聞くと、ダークは馬鹿にしたように、鼻を鳴らしました。
「まあ、できるもんならやってみな。もっともムサシの場合、そのどもり言葉が直らないかぎりは、どんなメスも近寄ってはこねえだろうけどよ……おッ、噂をすれば影ってやつだぜ」
ダークは日向ぼっこをしてすっかり暖かくなった体を起こすと、真向かいの家のチョコレート色をした扉から飛びだしてきた、シーズ―犬のマリリンちゃんに向かって挨拶しました。
「よう、嬢ちゃん。この二、三日ほど姿が見えなかったようだけど、元気にしてたかい?」
「ええ、とっても元気ですわ。ムサシさんもダークさんも御機嫌いかが?」
マリリンちゃんは、まつげの長い、茶色いお目々をぱちぱちさせながら、二匹に向かってにっこりと微笑みかけました。
この可愛いシーズ―犬のマリリンちゃんの前では、普段は口の悪いダークも、少しだけお行儀が良くなるのでした。
「マ、マ、マリリンちゃん。み、み、三日間も会えなくて、ぼ、ぼ、ぼくは……い、いやいや、ぼ、ぼ、ぼくたちはとても……とてもとてもさびしかったよ!」
ムサシくんは緊張のあまり、顔を真っ赤にしながら、息を切らしてそう言いました。
「まあ、わたしもですわ。おふたりのお顔が三日も見られなくて、とてもとてもさびしかった!」
「ほ、ほ、本当かい?」
「本当ですわ。おとつい、大雨が降りましたでしょう? それで御主人さまは路がすっかり乾いてしまうまでは、お外に出てはいけないってお命じになったんですの。わたし、外に出たくて出たくてうずうずしておりましたのに」
そう言って、マリリンちゃんは長いまつげを伏せると、溜息を着いていました。
「嬢ちゃんは俺たち外犬とちがって座敷犬だからよ、汚れた足で家の中をぺたぺた歩きまわられるわけにはいかないってことなんだろ」
「そうなんですの。そんなことをしたら最後、おしりペンペンの刑が待っているってわけなんでございますわ」
マリリンちゃんが、わふふっ、と可愛らしく笑うと、ムサシくんもダークもつられて、わふわふと一緒に笑ってしまいました。
と、そこへ、 「みんな楽しそうだね。僕も仲間に入れておくれよ」
ヨークシャーテリアのランカスターがやってきました。
ランカスターは、何十度となくブラシをかけられた、美しい艶のある茶色いしっぽをふりふりしながら、マリリンちゃんに近寄ると、
「美しいマリリン=サトウ=シーズ―におかれましては、本日もごきげんうるわしく……」
と、うやうやしく頭をたれてマリリンちゃんの前足をとり、その上に接吻したのでした。 (ケッ、相変わらずキザな野郎だぜ)とダークは思い、(いいなあ、いいなあ。ぼくも同じことをしたいなあ)とムサシくんは心密かに思っていました。
「まあ、ランカスターさんたら、相変わらずお上手なのね。でもマリリン=サトウ=シーズ―だなんて、恥かしいからやめてくださいましね。ただのマリリンで結構ですわ……」
マリリンちゃんは、ランカスターに接吻された右の前足を急いで引っこめていましたが、ランカスターは一向に意に介さない様子で、小さな黒いお目々をキラリと光らせていました。
「じゃあ、こういうのはどうでしょうか? プリンセス=マリリン=サトウ=シーズ―です!」
「あら、もっといけませんわ……」
マリリンちゃんが照れくさそうに長いまつげを伏せて、ぽっと赤くなるのを見て、ムサシくんはなんとなく面白くないような気がしていました。 (そうです! みなさんお察しのとおり、ムサシくんはランカスターに嫉妬していたのです!)
そしてダークといえば、(やれやれ。聞いてるこっちの方が恥かしいぜ)と、内心あきれ気味に思っていたのでした。
「じゃあ、ランカスターさんやムサシさんやダークさんのお名前をフルネームでお呼びするとしたら、どんなふうになりますの?」
マリリンちゃんは、みんなで和気あいあいと仲良くお話がしたかったので、そんなふうにランカスターに聞いてみることにしました。
「そうですねえ……僕は御主人さまの名字がコンドウですので、ランカスター=コンドウ=ヨークシャーテリアということになりますね。そしてムサシくんは御主人さまの名字がタカハシですので、ムサシ=タカハシ=シベリアンハスキーということになります。でもダークさんはどうでしょう。ダークさんの御主人さまはなんとおっしゃるんですか? そしてあなたさまの犬種名は?」
ダークは、勘の鋭い、賢い犬でしたので、ランカスターがわざと意地悪をして、こんな質問をしていることに気づいていました。(この野郎、俺が鎖につながれているのをいいことに、調子にのりやがって……もしこの鉄の鎖さえなけりゃあ、奴の小こい体にがっぷりかじりついて、ギャワンと一泡ふかせてやるののを……)「へっ、俺の御主人さまはワダって名字なんだよ。だから俺は、お前の長ったらしい名前の呼び方でいくと、ダーク・輪だっていうことになる。犬種名はねえけど、このほうが呼びやすくていいじゃねえか」
ダークのこの科白を聞くと、ランカスターの小ちゃなお目々が、意地悪そうに、キラリと光りました。
「犬種名がない……ということは、あなたはつまり……」
マリリンちゃんは、ランカスターが何を言おうとしているかに気づくと、とっさに機転を利かせて話題を変えることにしました。(この話はマリリンちゃんがランカスターに聞いたことによって始められたものだったのですが、マリリンちゃんはそこまで深く考えていたわけではなかったのです)
「突然ですけど、わたし、今度お見合いすることになりましたの」
「ええっ!?」
こう叫んだのは、ランカスターとムサシくんが同時でした。いつもなら、どんな話を聞かされても冷静沈着なダークも、この時ばかりは、大きな黒い両の瞳をぱちくりさせて、びっくりしていました。
「隣の隣の隣町に住んでいる、最近引っ越してきたばかりの、リックさんっていうシーズ―犬の方ですわ。ランカスターさん流のお名前の呼び方でいきますと、リック=コバヤシ=シーズ―さんということになるのかしら」
「じじじ、じゃあ、マ、マ、マリリンさんは、そ、そ、そいつのことが好きなんですか!? そのリックとかいう、どこの犬の骨ともわからない、シーズー男のことを……」
ムサシくんの物真似をしよう思っていたわけでもないのに、ランカスターはすっかり気が動転して、どもりながらマリリンちゃんにそう尋ねていました。
「まあ。好きだなんて、そんなこと、あるわけがございませんわ。まだ一度もお話さえしたことがありませんのに……」
「じ、じ、じゃあ、そ、そ、そんな、一度も話すらしたこともないような犬と、け、け、結婚しちゃったりなんかするのかい?」
今後はムサシくんがマリリンちゃんにそう尋ねました。「だって、結婚はわたしたちのように人間に飼われている犬にとっては、自分ひとりで決められるような問題ではありませんもの。いえ、むしろ相手のことを好きかどうかなんてことはおかまいなしに、勝手に飼い主同士で決められてしまうことがほとんどなんですわ」
ランカスターとムサシくんがすっかりショックを受けて、しょんぼりしていると、ダークがマリリンちゃんにこう尋ねました。
「でも、嬢ちゃんは本当にそれでいいのかい? 自分が本当に好いた雄犬と結婚したいと思わねえのかい?」
「そりゃあわたしだって立派なメスのレディですもの。大きくてたくましい、素敵な紳士のような雄犬の方と巡りあって、夢のような結婚をしたいって空想することなんかもしばしばですわ。でも……わたし、その犬の方と結婚するわけにはまいりませんの」
「それはまた何故だね?」
「だってその方とは身分違い……いいえ、犬種違いなんですもの!」
マリリンちゃんはとても悲しそうにそこまで言うと、だだだっ、と御主人さまの佐藤さんが待っている、チョコレート色の扉の向こうまで走り去っていってしまいました。 ランカスターはしょんぼりしたまま、青い髪飾りで綺麗にまとめられた頭をがっくりとたれ、しっぽも引きずるようにしながら、ここから五軒先の緑色の屋根の下までとぼとぼと歩いていきました。
ランカスターは、マリリンちゃんが大きくてたくましい犬の方、と言っているのを聞いて、彼女の想い人が自分ではないということをはっきりと悟っていたのでした。