ご注文は海老カレーですか?
今日の午前中も新規の契約は取れなかった。午後も外回りが続くから、昼は何かスタミナが付くものを腹に入れておきたい。そう考えながら私は市の郊外へ車を走らせていた。
(確か、この辺でよかったはずだ)
市民病院の向かい側に、目的のその店はあった。入り口脇の看板に、「カレーのお店でピアノの生演奏が聴けるなんて!」と書かれている。ここを通り過ぎるたびに気になっていた店なのだが、カレーのついでに音楽で気分転換ができるのなら願ってもない選択肢だ。
「いらっしゃいませ」
駐車場に車を停め、店に入ると、快活な女性の声が出迎えてくれた。年の頃は30歳前後、といったあたりだろうか。カウンター席だけの狭い店内には私と彼女以外の姿は見えない。この店は彼女一人だけで切り盛りしているようだ。
「ご注文は海老カレーでよろしいですよね?」
私がメニューに目を落とし、注文を決めようとしていると、女店主はいきなりそう訊いてきた。どうしてこの人は、よりにもよって私が一番頼みたくないメニューを押し付けようとするのか。
「あら、海老はお嫌いなんですか?」
逡巡している私を見て、彼女は意外そうな表情になった。確かに海老が嫌いな人物は少ない。しかし私が海老カレーを食べたくないのは、食べ物としての好き嫌いの問題ではないのだ。
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
「じゃあ、ぜひ食べてみてください。うちの海老カレー、一番の人気メニューなんですよ」
女店主の期待に満ちた視線に負けて、結局私は海老カレーを注文してしまっていた。こういう小心なところが営業成績が伸びない理由かもしれない。
10分ほど待って出てきた海老カレーは、確かに美味そうだった。本当はカツカレーにしようと思っていたのだが、カレーの中で存分に自己主張している衣の厚い2本の海老フライを見たとき、これはこれで悪くないかもしれない、と思えてきた。
「じゃあ、ピアノを弾かせていただきますね」
女店主は窓際のピアノの前に腰を下ろし、彼女の指が軽やかに鍵盤の上を滑り始めた。「渚のアデリーヌ」だ。音楽に疎い私でもこの曲くらいは知っている。
(そういえば、霧子もよくこの曲を弾いていたな)
中学生の頃、音楽室でこの曲を弾いていた尼崎霧子を見かけて以来、私は彼女に密かに憧れを抱いていた。私はなんとか彼女に近づきたくて、彼女の一番の親友に霧子の好きな食べ物を訊いてみた。すると、いつもは大人しい彼女が目を輝かせて語り始めたのだ。
「海老カレーって最高だよね!海老ってだけでも最高なのに、分厚い衣で贅沢にコーティングして、しかもカレーと一緒に食べるんだよ?まさにグルメ界のオーケストラだ!……って尼崎さん言ってたよ」
その言葉を真に受けた私は、放課後の音楽室に霧子を訪ね、海老カレーの話題を振ってみた。会話の糸口としては悪くないはずだった。しかし、彼女の反応は最悪だった。
「……私、海老アレルギーなんだけど」
霧子は私に冷たい一瞥をくれると、そのまま音楽室を出ていってしまった。その日から、私は今日に至るまで海老カレーを食べていないのだった。
「いかがでしたか?」
女店主の声に、私は急に現実に引き戻された。気が付いたら演奏が終わっていたのだ。
「あ、ええ、とても良かったと思いますよ。尼崎霧子みたいだ」
「またまたお客さん、私はあんなプロのピアニストとは違いますから」
「それでも十分素晴らしかったですよ。この店を始める前はピアノの講師か何かをされていたんですか?」
「ええ、以前は教室をやっていたんです。でも最近は少子化で生徒も減る一方なので、ピアノは趣味にして昔から好きだったカレーのお店を始めたんです。このお店があれば、お客さんにピアノを聴いてもらえるから」
女店主のピアノの腕は、素人の私から見ても相当のものだったように思える。そんな彼女ですら、もうピアノでは食べていけないらしい。
「でも、もったいないですよね。世の中はどんどんおかしな方向に変わっていくみたいだ」
「貴方は何も変わってないように見えるけど?」
急に女店主の口調が親しげに変わった。何も変わっていない、という言葉の意味をつかみそこねて沈黙している私を前に、彼女は話し続けた。
「今でも霧子のことばっかりで、私のこと全然見てくれてないし。好きな男の子に話しかけられて舞い上がって、うっかり自分の好みのカレーの話ばっかりしちゃった冴えない女の子のことなんて、覚えてないよね」
私は彼女の顔に目を凝らした。必死に記憶の奥を掘り起こすと、中学時代の霧子の親友の面影と、目の前の彼女の表情がようやくひとつに重なった。
「片桐……さん?」
「お久しぶりね」
中学の頃からだいぶ印象は変わっているものの、私の目の前にいるのは確かに片桐祥子だった。
「片桐さんがピアノやってたなんて、知らなかったよ」
「まあ、私目立たない子だったしね。ピアノは霧子に憧れて始めたんだけど、やっぱりあの子と私とじゃ全然違うってすぐ気付いた。これじゃ私の出る幕はないなあって」
祥子は少し寂しそうに笑うと、一旦言葉を区切った。
「海老カレー、今でも苦手?」
私はまだ、海老フライに口をつけていなかった。
「やっぱり、私のせいだよね」
祥子は少しうつむいた。もう過ぎたことだ、と私が笑うと、翔子はかぶりを振った。
「悪気はなかったけど、あなたに自分のこと嫌いにさせてしまったし」
霧子のことがあって以来、私が今一歩踏み込めない人間になってしまったことは否定できない。この性格は確実に今の仕事にも影を落としていた。
「でも、悪いのは私で、カレーは悪くないから。あなたが私を許せなくても、このカレーは食べて欲しくて」
「許すも何もないよ。俺はもともと、霧子に釣り合うような男じゃなかったんだ」
「じゃあ、食べてくれる?」
私は黙ってうなづくと、海老フライを口へ運んだ。柔らかい衣の中から、弾力に富んだ海老が私の歯を押し返してきた。カレールーの香ばしさも加わり、格別な味のように感じる。海老フライってこんなに美味いものだったのか。
「どう、エビ君、美味しい?」
十数年ぶりに聞く仇名だった。海老原という私の苗字は霧子に拒絶された記憶と連結され、私を縛る枷となっていた。ゆっくり噛み締めるように海老フライの感触を味わっているうちに、忌まわしい記憶が溶けていくように感じられた。
「このカレー、最高だね」
私が親指を立てると、祥子は花が咲いたような笑顔になった。
私は少しだけ、自分が好きになれたような気がした。