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第7話「三田村順次」


冬休みが終わり、三学期が始まった。



演劇部も、活動を開始する。



放課後、洋平が部室に行くと、三田村がにやつきながら話しかけてきた。



「よお、色男」



「なんですか、いきなり?」



「加火島は楽しかったか?」



「げ」洋平はあわてた。「なんで知ってるんですか?」



「川本から聞いたに決まっとろうが。もう、みんな知ってるぞ」



部室を見渡すと、他の部員達もにやつきながらこちらを見つめていた。

当のミツキはひょうひょうとした様子で雑誌を読んでいる。三田村が耳元でささやいた。



「あとでみっちりと結果報告してもらうけんな」



洋平は顔を赤くしてうつむいた。



部員が全員集まって、屋上へ行こうとしたとき、藤沢に呼び止められた。



「麻見君、わたし達は部室に残ろ」



「え?」



「裏方は何もせんけん、屋上にいても寒いだけやろ。部室でゆっくりしようや」



洋平は、寒風吹きすさむ窓の外を見てうなずいた。



「そうですね」



洋平は、藤沢といっしょに部室に残った。



部員達はみんな屋上へあがっていった。



部室には、洋平と藤沢と淵上の三人が残った。淵上はいつものように、ソファに寝転がって天井を見つめていた。



「淵上さん、三月の卒業生送迎会用の台本はもうできてる?」



藤沢が聞くと、淵上は無言でうなずいた。



「そっか」洋平を向く。「麻見君、今度の芝居で、また舞台設計やってみない?」



「え、またですか?」



藤沢にぼろくそ言われたことを思い出して、洋平は眉をひそめた。



「前は厳しいこと言ったけどね。でも、君の舞台設計には、欠点だらけでも、独特のセンスがあっておもしろいって思ったんよ。だから欠点を補えば、いいものができそうな気がするんやけど」



だまりこむ洋平にむかって藤沢はつづけた。



「最低限、これはやったらいかんってことは教えてあげるけん。麻見君には、裏方の仕事を楽しく覚えてもらいたいんよ」



「本当に、おれに描けますかね?」



「大丈夫。描ける」



「わかりました。やってみます」



そのあと藤沢から、舞台設計を描くときの注意点をいろいろと教わった。そしてその注意点を守れば、どれだけ自由な発想をしてもいいと言われた。洋平はその話を集中して聞いていた。だから、藤沢が必要以上に体を近付けていることには気付かなかった。



翌日の放課後、淵上が書いてきた卒業生送迎会用の台本のコピーが部員全員にくばられた。



台本の題名は、『極道の就職』。



話の内容はこうだ。

主人公はヤクザの組長の息子。十八歳になって高校を卒業した彼は、普通の就職をしようとするが、父親がそれを許さない。父親は息子である彼に、組を継いでもらいたいと思っているのだ。それでも彼はヤクザの世界から逃れるために、必死でカタギの仕事につこうとする。そしてそれを、あの手この手を使って邪魔をしようとするヤクザ達。この芝居は、そんな彼等の様子をドタバタ風にして描いた喜劇である。



配役もすでに決められていた。



主人公である組長の息子は、三田村が演じることになった。



「お、ついにおれが主役か」



三田村は、いま初めて知ったふうに笑っていたが、冬休み前に、淵上の肩をもみながら、何度も自分を主役にしてくれとねだっていたことを洋平は知っている。



組長の役は、仁さんがやることになった。



「ヤクザの組長なんて、おれにできるんかな」



本人は心配そうにつぶやいていたが、去年のお好み焼き屋でのぶち切れぶりを見たところ、問題はないと思われる。



登場人物はヤクザばかりなので、出演する役者のほとんどは男子部員だった。今回はミツキの出番はなかった。ミツキは残念がったが、こればかりはしょうがない。



そして、練習が始まった。



洋平は早めに家に帰って、台本を読み返しながら舞台設計の図案を練った。

藤沢に与えられた注意を何度も反芻しながら、大学ノートに少しずつ図案を描いてゆく。



翌日の放課後、できあがった図案を部室で藤沢に見せた。藤沢はゆっくりとそれを見ると、顔付きをけわしくして言った。



「やりなおして」



「え?」



「この図案つまらんわ。これやったら、前にボツにしたやつのほうが、まだましよ」



突き返された図案を手にとりながら、洋平は藤沢をにらんだ。



「どこが、いけないんですか?」つい声が荒くなる。「ちゃんと藤沢先輩の注意にしたがって描いてあるはずです」



「そこがいけないんよ」さらりと言いかえされた。「今度はわたしの注意に縛られすぎてるんよ。麻見君、わたしにOKもらうために、無難にまとめようとしたやろ?それじゃあいかんわ。そんなつまらん図案をもとにした大道具なんて、わたし、作りとうない」



洋平は、反論できなかった。

まったく藤沢の言う通りだった。前のボツにされたときのような憂鬱感を味わいたくないがために、こうしておけば大丈夫だろうというような、やや投げやりな描き方をしてしまっていた。



「まだ本番の日まで充分時間あるけん、少し遅くなっても大丈夫やから、ええもん描いてきてな」



「はい」



洋平は、肩を落としながら部室を出た。



それから一週間がたったが、洋平はまったく図案を描けなかった。何度も机にむかって、鉛筆をにぎってはみるのだが、構想がまったくわいてこない。

藤沢は何も言わずにいてくれるが、そろそろ製作に取り掛からなくてはいけない頃だった。あせりが頭を支配して、ますます描けなくなってゆく。



さらに一週間たったが、それでも描けなかった。洋平は逃げだしたくなった。そもそも自分は芝居が好きなわけじゃないのに、なんでこんなことをしているのか。確かミツキに近付きたくて演劇部に入部したのだった。ならば、いまはミツキとつきあっているのだから、もう演劇部にいる必要はないのではないか。



「いっそ、芝居が中止になればええのに」



弱音を吐いた自分に腹がたって、机に額をぶつけた。





土曜日の夜九時頃、自分の部屋で無意味に寝転がっていると、母親に呼ばれた。



「洋平、電話」



「誰?」



「高橋っていう男の子」



仁さんだ。



洋平は起き上がって部屋を出ると、電話を置いてある玄関へむかった。

受話器を耳にあてて、もしもしと言うと、受話器の向こうからため息が聞こえてきた。



「もしもし、仁さん?」



「え、ああ」あわてた声だ。「麻見か?」



「はい、あの、何の用ですか?」



「ああ、実はな、その」



なんだか様子がおかしい。



「どうかしたんですか?」



「その」また、ため息だ。「単刀直入に言うぞ」



「はい」



「単刀直入に言うけん」



「わかりましたから、早く言ってください」



ゆっくりと息を吸ってから、仁さんは言った。



「三田村がなあ、事故ってなあ、死によった」



「はあ、え?」



「死によったんじゃ」重いため息。「夕方いっしょに道歩いとったら、でかいトラック走ってきて、そんで、三田村、ひかれて。救急車呼んで病院に連れてったんやけど、遅くて、手遅れで」



だんだんと仁さんの息が荒くなってゆく。

洋平は頭の中がしびれたような感じになった。仁さんの言葉が嘘や冗談ではないことがわかったが、実感がわいてこない。

もう一度ため息をもらしてから、仁さんはつづけた。



「おれ、いま三田村の両親といっしょに病院におるんやけどな。なんか三田村の親父さんが、おまえに話があるんやと。それで、こんな遅くに悪いんやけど、いまから病院に来てくれんか」



「あ、はい」



仁さんは病院の場所を告げると、すぐに電話を切った。



洋平は受話器を置くと、部屋にもどってジャンパーをはおった。出かける前に、母親に事情を話すと、母親は顔を青くして、早よ行き早よ行き、と急かしてきた。

そこで、ようやく実感がわいてきた。脇の下に汗がにじむ。心臓の鼓動が、唐突に激しくなる。

家を飛びだすと、洋平は自転車に乗ってあわてて病院へむかった。



病院に着くと、正門前で仁さんが待っていた。門にもたれて、額をおさえてうつむいていた。洋平が声をかけると、仁さんは、はっと顔をあげた。



「おう、すまんの、こんな時間に」



「いえ」



ふたりはならんで病院の中にはいった。



「三田村の治療室は三階やけん」



「はい」



病院内は静かだった。

ふたりの足音が、長くはっきりと響きわたる。

三階にあがると、甲高い泣き声が聞こえてきた。



「三田村の母ちゃんよ」



仁さんが小さくつぶやいた。



治療室の前に、三田村の両親がいた。ふたりとも、魚屋の前掛けをつけたままだった。おそらく店の仕事中に病院に呼ばれて、そのままの格好で来てしまったのだろう。

母親が、長椅子にもたれかかり、うめくような声で泣きわめいていた。それを父親と看護婦が必死でなぐさめていた。

洋平達に気付くと、父親はおじぎをした。洋平も無言でおじぎを返した。



「麻見君、よな?」



父親が洋平に聞いた。



「はい」



「ちょっと、ついてきてくれ」



そう言って、父親は背をむけて歩きだした。仁さんにうながされて、洋平はそのあとをついていった。



廊下の奥で立ち止まると、父親はふところから、小冊子をとりだして、洋平にさしだした。



それはエロ本だった。



洋平がけげんな顔をすると、父親は低い声でつぶやいた。



「それ、君の本やろ?」



「え?」



言われてみると、確かにそのエロ本は洋平のものだった。冬休み前に、三田村に貸したものだ。



「順次のバッグの中にはいっとったんよ。今日、君に返すつもりやったんやと」



父親は三田村の死ぬ前の様子を語りはじめた。



三田村の両親が病院に着いた頃、彼等の息子はストレッチャーにのせられて、手術室へ向かうところだった。

三田村の姿を見て、父親は絶句した。母親は足に力がはいらなくなり、その場にひざをついて、そのまま立てなくなった。

三田村は両親の姿を目にすると、歯を喰いしばりながら、笑顔で苦しそうに言った。



「大丈夫、大丈夫。あ、そうだ。親父、おれのバッグん中に、麻見に借りたエロ本がはいってるんよ。おれ、ちょっくら入院することになりそうやけん、代わりに返しとってくれや。バッグはたぶん仁さんが持ってるけん。ああ、大丈夫やけんな。大丈夫」



かすれた声で大丈夫とくりかえしながら、三田村は手術室に運ばれていった。そして、二度ともどってこなくなった。

三田村は、あえてエロ本という、まぬけなものの話をすることで、両親のショックをゆるめようとしたのだ。自分は血まみれなのに、死ぬ寸前だったのに。



語り終えると、父親は泣き叫ぶ母親を指さした。



「あいつ、声でかいやろ。習いごとで、合唱やっとるんよ」



洋平は何も言えなかった。父親は、水っぽい声になってつづけた。



「おれも泣きたいんやけどな。そのエロ本見てると、なかなか泣けんのよ。なんか泣いてしまうと、順次の気遣いを無駄にしてしまうような気がしてな。それで、それを、さっさと君に、返して、思いきり、泣こうと、思て」



それで洋平をこんな夜中に呼び出したわけだ。



父親は目元を手でおおった。

洋平はそれから視線をそらし、手に持ったエロ本をじっと見つめた。

そのとき、階段のほうから、誰かの走る音が聞こえてきた。

ふりかえると、治療室に向かって廊下を走る淵上の姿が目にはいった。

ああ、仁さんが呼んだんやな、と洋平は思った。

淵上は、治療室の前で、仁さんと何かを話した。仁さんは首を横にふった。



そして洋平は、無表情じゃない淵上の顔を、初めて見ることになった。



不意打ちだった。



三田村の死は、演劇部の部員達にとって完全な不意打ちだった。



今回の芝居の主役がいなくなったため、卒業生送迎会に向けての練習は中断された。部活動も、しばらく休止されることになった。

病院に行った日以来、洋平は笑うことができなくなっていた。作り笑いすら浮かべることができない。一度鏡の前でむりやり笑顔を作ってみようとしたが、口元が固くなっていて、動かせなかった。



三田村の葬式が終わってから一週間後、演劇部の活動が再開された。

放課後、洋平は重い気分で部室へむかった。笑えないことがこんなにつらいとは思わなかった。まるで、胸の内側が腐ってゆくような感じだ。たぶん、他の部員達も、同じような思いを味わっているのだろう。今日の部活は暗い雰囲気になりそうだ、と思いながら、洋平は部室のドアをくぐった。



部室の中は、笑いに包まれていた。

集まった部員達は、三田村が死ぬ前と変わらぬ気さくな様子で雑談をかわしていた。

暗い表情をしてる者はひとりもいなかった。

自分の予想がはずれたことに面食らって、洋平は目を丸くした。ミツキが駆けよってきた。彼女も、以前と変わらない明るい笑顔をうかべていた。



「やっほ、元気?」



「お、おう」



「ねえねえ、聞いてや聞いてや。あたし昨日ね」



ミツキは自分の家で、文鳥を飼いはじめたのだという話をした。洋平は相槌をうちながら、ぼんやりとそれを聞いていたが、しばらくすると、だんだんと腹がたってきた。



こいつら、三田村先輩が死んでから、まだ一週間くらいしかたってないのに、なんでそんなに笑えるんぞ。



やがて仁さんがやってきて、部活がはじまった。

あの日病院にいた仁さんまでが明るい顔をしているのを見て、なんだか裏切られたような気持ちになった。

部員達を静めてから、仁さんは話しはじめた。



「これからの活動なんやけど、とりあえず『極道の就職』のことはみんな忘れてくれ。あれは三田村以外のやつが主役をやっても、つまらんなる芝居やけん、やめることにする。それで、ちがう芝居の台本を、淵上に書いてもらおうかと思とんのやけど」



部員達はソファに注目した。

いつもはそこに寝転んでいるはずの淵上が、今日は来ていなかった。



「まあ、おれが電話して、そのことを伝えとくわ。とりあえず、今日は普通の練習をしよ。じゃ、みんな、屋上に行くで」



そのとき、突然ドアが開いて、髪の乱れた女生徒がはいってきた。

ドアの近くにいた男子部員が、おどろきの声をあげた。

その女生徒は、すうっと部室の中にはいってきた。



「淵上さん?」



藤沢が、ぼうぜんとつぶやいた。



その女生徒が淵上だと気付くのに、洋平は数秒かかった。

それくらい、淵上の容姿は変わっていた。

髪にはたくさんの寝癖があり、白髪が数本まじっていた。肌はひどく乾いていて、唇にひび割れができていた。そしてその表情を見て、部員達は息を呑んだ。

からっぽだった。



淵上はいつも無表情だったが、目の色にいつも感情の気配をただよわせていた。それはほんの僅かなものだったが、毎日彼女と接してきた部員達には読みとることができるものだった。



いまの淵上にはそれがなかった。



感情の気配がまったくないのだ。



淵上は、テーブルに一枚の紙を置くと、無言で部室から出ていった。誰も止めることができなかった。全員が、彼女の暗い迫力に圧倒されていた。



テーブルの上に置かれた紙は、退部届けだった。



演劇部の活動は行きづまった。淵上がやめてしまうと、台本を書ける者がいなくなる。台本がないと、芝居をすることができない。



仁さんが書いたらどうかという意見が出た。確かに仁さんは一年生の頃に、一人芝居の台本を書いたことがある。しかし仁さんは首を横にふった。



「あかんわ。おれやったら、ゼロから台本を書くのに、最低二週間はかかる。卒業生送迎会には、とても間に合わん」



数日で台本を書きあげるなんて芸当は、淵上にしかできないのだ。



「じゃあ、中止ですか?」



ミツキの一言で、部員達はみんなうつむいた。

とくに二年生は複雑な顔をしていた。彼等には、去年の卒業生送迎会も、淵上が原因で中止になってしまったという過去があるのだ。



結局、これからの予定が決まらぬまま、日々が過ぎていった。



演劇部の雰囲気は悪くなっていった。台本かないから芝居の練習が始められない。しかし卒業生送迎会の発表を中止にはしたくない。部員達は次第にいらだちはじめ、すさんだ空気が部室内にこもる。



そんな中、淵上が登校拒否をしていることを、洋平は女子部員のひとりから聞いた。

やりきれなくなり、その日、洋平は初めて部活をさぼった。



日曜日の昼、田んぼ道を歩いていると、偶然仁さんに会った。



「おう、麻見」



「ちわっす」



「散歩か?」



「買い物です。ひまなんで本屋にでも行こうかと思って。仁さんは?」



「おれか?おれはちょっと淵上の家にの」声が低くなる。「殴り込みにの」



洋平が固くなると、仁さんは、冗談よ、と言って笑った。だが、目が笑っていなかった。



「淵上の見舞いに行くだけよ」



「そうなんですか。あ、そうだ。じゃあ、おれも連れていってくださいよ」



「え?」



「おれも淵上先輩のことが気になりますから」



「んん」仁さんは頭をかきながら、しゃあないな、というふうにうなずいた。「わかった。じゃあ、いっしょに行こか」



ふたりはならんで淵上の家に向かった。



淵上の家は、海の側の住宅地にあった。塗装がまだ新しい、洋風の家だ。玄関前に立つと、かすかにペンキの臭いがした。



呼び鈴を鳴らすと、ひとりのお婆さんがドアから顔をのぞかせた。仁さんを見ると、お婆さんはやさしい笑みをうかべた。



「おお、高橋さんとこの、仁ちゃんやないかい」



「ご無沙汰してます」



仁さんは頭をさげた。



「恭子に用かね?」



「はい」



「ああ、ごめんね。いまあの娘、体調が悪いって言って部屋で寝てるんよ」



「仮病ですね」



仁さんはさらりと言った。お婆さんは、苦笑してあっさりとうなずく。



「そうなんよね。お医者さんは何ともないって言うとるのに、気分が悪い、学校休む言うて聞かんのよ」



「彼女と話をしたいんですけど、あがってもいいですか?」



お婆さんは少し考えてから言った。



「ええけど、あの娘、いまぴりぴりしてるけん、部屋に入ったら、本とかぶつけられるかもしれんで」



「気をつけます」



「そっちの子は?」



お婆さんは洋平を見た。洋平はていねいに自己紹介をした。



淵上の両親は家にいなかった。共働きで、ふたりとも休日出勤で仕事にでかけているのだそうだ。



家にはいった洋平と仁さんは、淵上の部屋の前まで来た。仁さんがドアをノックした。返事はない。



「はいるで」



仁さんはドアを開けて、部屋の中に足を踏み入れた。洋平もそれにつづく。



ふたりは同時に本を踏んだ。



絨毯の上に、たくさんの本がちらばっていた。机やベッド、テレビやタンスの上にも、本が積まれていた。インクと紙の匂いが、部屋に充満していた。



淵上は、ちらばった本の真ん中に立って、ふたりを見つめていた。あの時と同じ、からっぽな表情だ。



仁さんが、軽い口調で声をかけた。



「よう」



「わたしいま気分悪いんよ。帰って」



抑揚のない声で淵上は答えた。



「ほうか?元気そうに見えるけどな」



「気分悪いんよ。帰って」



「わかった。じゃあ、さっさと本題にはいるわ」仁さんは一歩つめよった。「淵上、おまえいますぐ泣け」



洋平は目を丸くして仁さんを見た。



淵上は、少しの間だまってから聞いた。



「あんた何言ってんの?」



「これはおれの推測なんやけどな。おまえ、三田村が死んでから、まだ一度も泣いてないやろ?」



洋平は、いぶかしげにふたりを見比べた。



おどろいたことに、淵上は無言でうなずいた。




「やっぱりな」



「なんでわかるん?」



「おまえ、逃げてるやろ?」



淵上は仁さんをにらんだ。



「どういうこと?」



「演劇部をやめたんも、学校に行かんなったんも、三田村が死んだ事実から逃げるためやろ?泣かないんも、三田村の死を認めたくないからやろ?」



淵上は何も答えなかった。



「ふざけんなよ、てめえ」仁さんは声を荒げた。「おまえは三田村の死から目をそむけとる。それは三田村から目をそむけとることと同じじゃ。おまえはいま三田村をシカトしとるんぞ」



「うるさい」



淵上はふるえる声でつぶやいた。



「ええか?三田村は死んだんじゃ。演劇部のみんなはそれを受け入れた。めっちゃ苦しかったけど受け入れた。だからいま笑っとる。おまえも、ええ加減受け入れんと、ほんまにだめになるぞ」



それを聞いて、洋平の胸が痛んだ。自分も淵上と同じだ。三田村の死を完全に受け入れていない。だからまだ笑えない。そう思った。



淵上の表情が、わずかにくずれた。



「うるさい」



「知るかぼけ。何度でも言うぞ。三田村は死んだ。トラックにひかれて死んだ。おまえが演劇部をやめようが、登校拒否をしようが、この事実は絶対に変わらんのじゃ」



「うるさい」



「三田村は死んだんじゃ。もうどこにもおらんのじゃ」



「うるさい」



「ええ加減、意地はるんはやめえ。おまえがどれだけ意地はっても、三田村は帰ってこんのやぞ」



「うるさいっつってんだろ、この糞があ」



そう叫ぶと同時に、淵上は床の上の本を一冊拾い、それを仁さんの顔面に思いきりたたきつけた。



仁さんはだまってそれを受けた。



本が落ちた直後、淵上はその場に座りこんで、息を殺しながら泣きだした。

落ちた涙が、彼女の膝を濡らした。



仁さんと洋平は、何も言わずにそれを見つめた。



しばらくすると、仁さんは、ぼうぜんとする洋平にむかって、



「帰ろか」



とつぶやいた。洋平はぼうぜんとしたまま、うなずいた。



部屋を出る前に、仁さんはこう言い残した。



「おれは、退部を取り消せとか、早よ学校に来いとか、そんなことは言わん」ため息をつく。「ただ、頼むけん、いつもの淵上にもどってくれ」



外はまだ明るかった。

寒さの中に、時折日差しのぬくもりを感じた。春が少しずつ近付いている。

淵上の家を出たあと、洋平と仁さんは海沿いの道路をゆっくりと歩いていった。互いに何もしゃべらずに、まっすぐ歩きつづけた。



灯台のそばまで来たところで、仁さんが口をひらいた。



「何か食おうや」



「はい」



ふたりは近くのうどん屋にはいった。

うどん屋はすいていた。

テレビの音が、店内にひびいている。

洋平はわかめうどんを、仁さんは月見うどんを注文した。

注文したうどんはすぐにきた。

ふたりは無言でうどんをすすった。会話がないから、あっという間に食べ終えてしまった。

洋平はちびちびと水を飲んだ。仁さんは、テレビのワイドショーをぼんやりとながめていた。

唐突に仁さんは、テーブルに拳をたたきつけた。頭をかかえて、くそ、とつぶやく。

洋平はあわてて身をのりだした。



「どうしたんですか?」



「言い過ぎた」



「え?」



「淵上にきつく言い過ぎた。もっとやさしく話すべきやった」



仁さんはうめくように言った。洋平は初めて見る仁さんの弱気な姿にとまどいながらも、なんとか言葉をしぼりだした。



「でも、仁さんの言ったことは、正しいことやったと思います」



「けど、あんな言い方やと、淵上の傷をえぐることになるんやないやろか」顔をあげた。

「なあ、麻見。淵上、まさか自殺したりとかせえへんよな」



洋平は眉間にしわをよせた。



「仁さん、そんなこと考えるんは、淵上先輩に対してすごく失礼です」



「ああ、そうか。うん、そうよな」仁さんはため息をついた。「悪い。ちょっと取り乱した」



「仁さんでも、取り乱すことがあるんですね」



「何やそれ?」



「いや、完璧なひとだな、とか思ってたもんで」



「そんなことあるかいや」水を飲む。「まあ、おれは部長やけんな。多少は完璧っぽいふりしとるかもしれんけど」



「大変ですね」



「まあな」



仁さんは笑った。



しかし洋平は、笑い返すことができなかった。



うどん屋を出たあと、仁さんと別れたあと、洋平は公園を散歩した。



陰鬱な気分に包まれていた。仁さんの淵上への言葉が、さっきからずっと胸の中に刺さったままになっていた。顔を前に向けることすら億劫で、うつむいたまま歩いてしまう。



自分が情けなかった。



洋平は、演劇部の部員達が笑っているのを見て、彼等は三田村の死をあまり悲しんでないのだと思っていた。



とんだ勘違いだった。



彼等は三田村の死を苦しみながら受け入れて、悲しみをのりこえていたのだ。だからああいうふうに笑うことができたのだ。



それにくらべて、自分はまだ三田村の死をぐずぐずとひきずっている。淵上と同じで、まだ一度も泣いていなかった。三田村が死んだことが信じられなくて、いや、信じたくなくて、浮かびそうになる涙を必死で無視していた。



仁さんは三田村の死を受け入れていた。

事故の現場を目の前で見てしまって、どれほどつらかっただろうか。どれほど苦しかっただろうか。それでも仁さんは三田村の死を受け入れていた。そして、淵上のこともちゃんと考えていた。立派だ。自分とはぜんぜんちがう。



淵上も三田村の死を受け入れていた。

演劇部の中で、一番三田村と親しかったのは彼女だ。その悲しみがどれほどのものだったかは、とても計り知れない。洋平と同じく泣くことができなかったが、今日、どうにか涙を流すことができた。苦しみながら、三田村の死を認めたのだ。立派だ。自分とはぜんぜんちがう。



ミツキも三田村の死を受け入れていた。

葬式のとき、ミツキは部員の中で一番大きな泣き声をあげていた。洋平は、一週間後に笑っていたミツキを見て、腹を立てたことを後悔した。そういえば、彼女は何度も自分の様子がおかしいことを気づかってくれていた。立派だ。自分とはぜんぜんちがう。



藤沢も三田村の死を受け入れていた。

三田村の葬式から一週間後、演劇部の活動を再開しようと持ちかけたのは藤沢だ。洋平は心の中でそれに反発していた。まだ一週間しかたっていないのに、と思っていた。しかし、いま思えば藤沢の行動は正しかった。部活動を再開することで、藤沢は悲しみに暮れていた部員達の心を前に向かわせようとしたのだ。立派だ。自分とはぜんぜんちがう。



他の部員達も三田村の死を受け入れていた。

彼等には彼等なりの、様々な葛藤があったのだろう。それをのりこえて、みんなはいま笑っている。そして卒業生送迎会の発表をどうにかしようとがんばっている。立派だ。自分とはぜんぜんちがう。



みんな立派だ。自分とはぜんぜんちがう。



「だっせえ」洋平は吐き捨てた。「おれ、だっせえ」







無駄に歩きまわっているうちに夕方になった。あたりは薄闇に包まれて、街灯の明かりがともりはじめる。



洋平は古本屋に寄った。目をつけていた小説をいくつか立ち読みしてみたが、陰鬱な気分のせいで活字が頭にはいってこなかった。はいって五分もたたないうちに出口へ向かった。出口の近くに、成人向けのコーナーがあった。洋平は、ふとその前で立ち止まった。気になる本が目にはいったのだ。その本は、成人向けのコーナーの右隅に置かれていた。



『美少女園獄』。



それは、演劇部に入ってから、初めて三田村から借りたエロ本と同じものだった。



それを見た瞬間、洋平は三田村のことをたくさん思いだした。



『極道の就職』の主役に選ばれてよろこぶ三田村。お好み焼き屋で酔っぱらいと喧嘩した三田村。淵上に家に侵入されたとき、変な誤解をして、翌日洋平の胸ぐらをつかんできた三田村。そして、洋平に『美少女園獄』を貸してくれた三田村。



様々な三田村の姿が、頭の中を一瞬で駆けめぐった。



熱いものがこみあげてきた。こみあげてきて、たまらなくなった。



洋平は絶叫した。長く長く絶叫した。絶叫しながら走りだした。古本屋を飛びだして、山へ向かって走りだした。

周囲のひとが皆、こちらを見た。それでもかまわずに、洋平は叫びつづけた。叫ぶことでしか、こみあげてくるものを吐きだすことができなかった。叫ばないと、こみあげてくるものに押しつぶされてしまいそうだった。

商店街を抜け、田んぼ道を過ぎ、山のふもとにある野原まで来ると、洋平は叫びながら目についた雑草を次々とひっこぬいていった。



「ちくしょう。ちくしょう。なんなんで、ちくしょう。何で死ぬんで?ちくしょう。死ぬなやボケえ。ちくしょう、ちくしょう」



喉が痛み、声がかすれる。はねた土が目にはいる。あわてて目をこすったとき、自分の頬が涙で濡れていることに気がついた。泣けた、と思った途端に、体から力がぬけた。その場に尻もちをつき、洋平はせきこみながら、しばらくの間泣きつづけた。



日が沈み、夜空に星が見えはじめた。涙がおさまると、洋平は自分の服が土まみれになっているのを見て苦笑した。



まったく、おれはこんな馬鹿なことをせんと、泣くこともろくにできんのか。ああ、格好悪い。めちゃくちゃ格好悪い。



「まあ、ええわ」立ちあがった。「これがおれや」



陰鬱な気分はきれいさっぱりなくなっていた。



ズボンの尻についた土をはらいながら、洋平は歩いて家に帰った。







翌日の放課後、早めに部室に行くと、ソファに淵上がいつものように寝転がっていて、天井を見つめていた。



洋平が目を丸くすると、淵上は顔を動かさずに、テーブルの上を指さした。



そこには、入部届けの用紙が一枚置かれていた。








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